第6話 先触れ
ピエロが一言もしゃべらない。
翌日の放課後、立川ダンジョンの6層。5層を過ぎたあたりから、ずっとこうだ。
僕が立ち止まるたびに、ピエロは通路の壁にもたれて、僕だけを見ている。
いつもなら、僕が点検を始めたとたんに罵ってくるのに。
昨日、ピエロは言った。少年が倒れるのを待つ、と。
僕が倒れれば、僕が許していなくても、体はピエロと入れ替わってしまう。
黙っているピエロは、しゃべっているときよりずっと怖い。
背中が軽い。
鎌はケースに入れたまま、自分の部屋に置いてきた。殺しの道具は僕が使う物じゃないし、背負って歩けば、配信者のヘラルドだと一目で分かる目印になる。
ドローンもポーチの底にしまったままだ。カメラがないだけで、ずいぶん息がしやすい。
6層は僕がコボルトに負けた層で、今日はその下見に来た。
腰のポーチには、入る前に協会の売店で買った撒き菱が入っている。昨日の反動がまだ少し腰に残っていても、準備だけは手を抜かずに済ませてきた。
ピエロに体を貸さなくても、人の前に立てるようになりたい。
誰にも言ったことはない。
後ろから、大人の冒険者が2人、話しながら広い通路を奥へ向かってきた。
僕は壁際に寄って頭を下げた。人とすれ違うときは、いつもこうなる。
「おう、一人か。この先コボルト出るから、気をつけてな」
「あ、はい……すみません」
何を謝ったのか、自分でも分からない。
2人は、鎌もドローンもない猫背を、ただの新人として通り過ぎていった。
ピエロが初めて僕から目を外した。
遠ざかる2つの背中を、ゆっくり追っていく。
今日初めて聞く声には、笑いがどこにもなかった。
(前を歩く男は、首に何も巻いていない。後ろの男は、剣を背に負っている。あれでは、抜くまでに一拍かかる)
(つえは部屋だが、構わない。あの2人を相手にするなら、私には少年の短剣で足りる)
つえ、とピエロが呼ぶのは、僕が置いてきた鎌のことだ。
僕が倒れたら、ピエロはこの体で、あの2人の声のする所まで歩いていける。
今日はここまでにして帰る。
来た道へ向き直ったとき、広い通路の脇に開いた狭い通路の奥から、硬い音がした。
爪が石をかく音で、奥からこっちへ近づいてくる。
この音は知っている。
コボルトだ。
あれが狭い通路から広い通路へ出れば、その奥に、さっきの2人の背中がある。
息が詰まった。
初めて会った日にたたきつけられた壁の冷たさを、背中がまだ覚えている。後ろ頭が石を打った音まで、耳の奥によみがえる。
指先が勝手に震えだした。止めようとすると、余計に震える。
それなのに、僕はもう狭い通路の入り口に立っていた。
考えるより先に、足がいちばん怖い所へ出ていた。
あの2人は呼ばない。呼べば、あの人たちはこっちへ戻ってきてしまう。
ピエロは僕のすぐ横で狭い通路の壁にもたれ、黙って僕を見ている。
体を貸せ、とも言わない。
手袋をはめる。指が震えて、なかなか奥まで入らない。
腰のポーチから撒き菱をつかんで、数歩先の床へ撒いた。とがった先が壁の明かりを拾って光る。
負けたあの日から、協会の資料でコボルトの所は何度も読み返した。ゴブリンより速い相手だ。追いかけっこになったら、僕に勝ち目はない。
でも、ここは横へ回る幅のない狭い通路だ。僕がここに立てば、コボルトはまっすぐ僕に来るしかない。
「……こっち。こっち、見て」
2人に届かないように、声はうんと小さくした。《挑発》と念じる。
暗がりの奥で、犬の顔がくるりと僕へ向いた。
もう、あれは僕しか見ない。
背中のほうの広い通路の奥から、2人の話し声がかすかに届く。誰かが笑っている。
あの声のほうへは行かせない。
爪の音が速くなった。
犬の頭の人型が、暗がりから飛び出してくる。資料のとおり、速い。
開いた口に、黄ばんだ牙が並んでいた。あれを近くで見るのは2回目だ。
前のときは、どこから来るのかも分からなかった。今日は来る道だけは分かっている。
短剣を構えた。切っ先が細かく震えている。
止まらない震えなら、震えたまま構えるしかない。
足だけは下げない。
あと3歩で、撒き菱だ。
じゃり、と鉄が鳴った。
甲高い声が狭い通路に跳ねた。
踏んだ足を跳ね上げたコボルトが、もう片方の足も撒き菱の上に落とす。
コボルトは前へがくんと傾いた。
振り回された爪が僕の左の前腕をかすめる。
コボルトが、頭から僕の上へ落ちてくる。
僕は震える切っ先のまま低く沈んで、落ちてきた喉を突いた。
手に返ってきた重さがふっと消えた。
コボルトが光の粒になってほどけていく。粒は撒き菱の上に降って、床に届く前に消えた。
石の床に、魔石が1つ転がる。
【レベルアップ。Lv9からLv10になりました】
通路が静かになった。
背中のほうからは、2人の話し声が変わらずに届いてくる。
壁際のピエロが、はじかれたように壁から離れた。
気づいたときには、ピエロの顔が僕の左腕のすぐ上にあった。
さっきの犬より速い。
(少年、腕だ。……腕を見せろ)
「か、かすっただけ。かすり傷、だよ」
ピエロは僕の腕と顔を2回見比べた。
それから、いつもの斜めの立ち方に戻る。
素手の左手で、狭い通路の床でまだ光っている撒き菱を指した。
また罵られる、と思って肩がすくんだ。
(臆病者の備えだ。呼び方は改めない)
(だが、見事な備えだった。相手が来る前に、相手の踏む床に撒いておいた。主役より先に出て場を整えるのが、先触れの仕事だ)
(それに、あの震える手で、よくあそこまで低く沈んだ。毎晩の柔軟で手入れしてきた体だ)
ピエロが、手袋の右手と素手の左手を僕に向けて打ち合わせた。
こもった音と乾いた音が、半拍ずれて重なる。1人分の拍手だった。
何か返そうとして、声にならなかった。
首から下げたメモ帳の端には、うれしかったときに言葉の代わりに付けてきた丸が、もう3つ並んでいる。その横へ、鉛筆で小さな丸を1つ足す。
少し迷って、鉛筆をもう一度動かした。
今日付けた丸は2つになった。
魔石を拾って、広い通路へ戻る。親指の先ほどの、くすんだ石だ。
もう2人の声は聞こえない。
あの人たちは何も知らないままだ。
(それにしても、少年。つえを部屋に置いてくる先触れがどこにいる)
「だって、今日は、誰も見てないから」
(まあいい。明日は配信をする日だ。明日の一幕の舞台は、私が組む)
さっき僕を褒めた口と同じ口なのに、声がすっかり弾んでいる。
「……人の、いない所なら」
(承った)
人のいない所で、という僕の条件を、ピエロはあっさりのんだ。
ピエロの口の端はもう上がっていた。




