第46話 もう一度、この店で
久我さんと10層から戻った夜は、家に入って、ただいま、としか言えなかった。
次の朝の台所では、父が新聞を広げていて、母は流しで弁当箱のふたを閉めている。
「あの……きのう、久我さんが、大丈夫って」
中層へ下りるには、巡回の久我さんの大丈夫がいる。両親とそう決めていた。
母は弁当箱のふたに手を置いたまま止まった。
父の新聞が少しだけ下がる。
言うことはもう1つある。冷蔵庫に貼った約束の紙には、潜る日に行く層と帰る時刻だけを書く。紙に書いてないことも言って、と母に言われてから、ずっと考えていた。
「それと……店の短剣、折った。10層で」
言ってしまうと、喉の奥が軽くなった。
「イレギュラーが出て、倒したけど。手首を、少し痛めた」
母が僕の右の手首を見た。袖の下から湿布の端がのぞいている。
母は袖を指で少しめくって、何も言わずに戻す。
叱られはしなかった。母はその代わり、しばらく湿布から目を離さなかった。
父は新聞をたたんで、椅子の脇に置いた講習の冊子を取る。開いたのはしおりの所じゃなく、ずっと後ろの中層のページだ。
父がそこを開くのを見たのは初めてだった。
しばらく読んでから、父は冷蔵庫の扉へ顎を向けた。
「書いていけ」
扉から約束の紙を外して、新しい紙に書く。
11層。7時。
10より大きい数字をこの紙に書くのは、初めてだ。
(下か。いい。客人の顔ぶれも変わる)
ピエロの声が頭の中でした。下の層なら配信を見る人も変わる、と言っている。
今日は配信しない日だ、と言い返すのは家を出てからにした。
◇
放課後、店の戸に手をかけたところで、スマートフォンが震えた。
前の配信の切り抜きが回っている、という知らせだった。題は、〔黒手袋〕木曜の負けを取り返した男。ピエロが鎌を杖にして、アリの群れの背を渡っていく所だ。
木曜の負けは、6層で PK の処刑人の前に膝をついたことだ。膝をついたのは、ピエロじゃなくて僕だ。
10層で久我さんと戦ったことは、どこにも回っていない。画面を閉じて戸を開ける。
帳場の奥で店長が顔を上げた。
潜った日の帰りは、この店で手袋を見せる約束だ。手袋を見せてから、ポーチから布の包みを出し、帳場に置いてほどく。
中にあるのは、柄と刃先の2つに分かれた店の短剣だ。
ここまで持ってくる間、ずっとポーチが重かった。
店長は柄のほうを取った。
店長は太い指を刃の腹から先へ、ゆっくり滑らせていく。研いだばかりの刃に、指は一度も引っかからない。
指は割れ口で止まった。
目尻の笑いじわが消える。
瞬きひとつのあいだ、そこにあったのは道具屋の目じゃなかった。
店長は刃先も取って、割れた面どうしを合わせた。さびも古いひびもない。
割れ口が、新しい。
「……10層で、受けました」
言えたのはそれだけだった。
店長は割れ口に指を置いたまま動かない。
いつもならここで、ほう、と道具の話が始まる。
今日はその声が来なかった。
店の中が急に広くなった気がした。
「……おじさんの短剣で、律くんが」
続きはなかった。
太い指の間で、柄の先が小さく揺れている。
店長は割れ口から目を上げないまま、ひとりごとみたいに言った。
「律くんに刃物を渡すのは、これで2度目だったなあ」
2度目。
1度目がいつだったか、僕は覚えている。
中学1年。この店の、この棚。
帳場の脇にある刃物の棚には、小さなナイフが今も同じ所に並んでいる。
あの日、僕はそこから1本を取って、ポケットに入れた。持ってこいと言ったのは、同じクラスの、僕より大きな手だ。持ってこなかったらどうなるかも、先に聞かされていた。
ポケットの中の重さは、ナイフ1本ぶんよりずっと重かった。
店を出るところで、肩をつかまれた。
警察は呼ばれなかった。
店長は僕のポケットからナイフを出させると、そのまま僕の手のひらに置いた。
「刃の手入れを、覚えてごらん」
店長が僕に刃物を渡したのは、それが1度目だった。
放課後は毎日、この店を手伝う。損は数週間で返し終わる。
返し終わった次の日も、僕は来た。
戸を開けてから、もう返す物がないことに気づいた。気づいたのに、手は棚の刃物の油を拭いている。
帳場の奥で、店長は何も言わなかった。
今、その帳場で店長がふっと息を吐いた。目尻にしわが戻ってくる。
店長は脇の棚から同じ長さの短剣を1本取って、刃を一度だけ光にかざし、それから棚に戻した。
「替えは、もっと重いのを受けても折れないか、おじさんのこの手で試してから渡す。……少し、待ってごらん」
喉まで来ていたのは、ごめんなさい、のほうだった。
「ありがとうございます」
店長の帳面の、手袋で試したことを日ごとに書くページを開く。
いちばん下の行は、前に僕が書いた字だ。9層。大蛇を2匹。
その下は空いている。そのあとの配信の日は手袋を見せただけで急いで帰ったし、10層へ行った日は寄らなかった。
店長は空いた所に一度だけ目を落として、何も聞かずに戻した。
その行のすぐ下に、店長の鉛筆を借りて書く。
受けた所で、短剣が折れた。
鉛筆は、止まらなかった。
店長は何も言わずに、僕の字を目でなぞっている。目尻のしわがひとつずつ深くなる。
帳場の上に、2つに分かれた短剣と、2行の並んだ帳面。
腰のさやは、替えが来るまで、この店では空のままにしておく。
戸が開く。
ブレザーのまま、結衣ねえが入ってくる。今日は部の練習がない日だ。
「店長さん、こんにちは。……りっちゃんも、いたの」
結衣ねえは帳場の上の折れた短剣を見て、それから僕を見た。
聞かれる、と思った。
でも、結衣ねえは何も聞かない。代わりに、僕の足もとから頭まで、ゆっくり目を上げていく。人の立ち方を見るときの、ダンス部の目だ。
「今日のりっちゃん、重心が前にある」
ごめん、と言いかけた。
それを飲みこんで言い直す。
「……うん」
前に結衣ねえに言われたのは、後ろに残る、だった。
10層の隅で前へ出た一歩を、結衣ねえは見ていない。
「なに、その返事」
結衣ねえは顔をそらして、丸椅子に腰を下ろした。耳が少し赤かった。
◇
夕方の協会の建物では、ゲートの前に短い列ができていた。
受付の人が、入っていく冒険者に同じことを繰り返している。
「10層で、中層のモンスターのイレギュラーが出ています。それと、おととい上層で、PKの被害がありました。気をつけて入ってください」
10層のほうは、僕と久我さんが出くわした件だ。あの動く鎧は、本当なら12層から15層にいる。
上層でいるはずのないものを見るのは、これで2度目だ。
1度目は、最初の配信の日に4層で出たリーパーだった。
上層のPKのほうは、知らなかった。
ロビーの端で D-Tube を開く。
僕が膝をついた回を流したアカウントは、もう止められていた。同じ「公開処刑」の名前の別のアカウントに、おとといの回が残っている。
題は、〔公開処刑〕本日の出演者さん。
映っていたのは、立川の上層の通路と、知らない人だった。
警棒の鈍い音が何度か続いて、その人は膝をつき、カメラの前で謝らされた。
見ているうちに、僕の左の肩が勝手に固くなる。
「先日は、主演さんにご出演いただきまして。おかげさまで、たくさんの皆さんに見ていただきました」
赤いヘルメットの処刑人が、カメラへ少し寄った。
「主演さん、ご覧になってますよね。次は、どちらでお待ちしましょうか」
『主演さんの回、よかった』
『今日の人だれ』
最後まで見た。閉じようとした指が、一度画面の上で滑った。
ゲートの近くの転移陣に乗る。
足の下で線が白く光る。
次の瞬間には、10層の広間の奥にいた。中層へ下りる階段のすぐ脇だ。
奥の暗がりに灰色の背が伏せている。
狼は起きない。一度倒した者しかいない所では、あの狼は立たない。今日は挑んでいる組もいなかった。
階段の下に何がいるのかは、メモ帳に写した資料の字でしか知らない。
1段ずつ下りる。
最後の段から足を下ろした。
11層。
空気が冷たい。上の層より、肌のすぐ近くまで寄ってくる冷たさだ。
肩のケースから黒い短剣を出す。
空のさやに差すと、長さも形も同じだから、音もなく収まった。
(新しい舞台だ、少年)
(……腰のは、まだ私の鎌を縮めたままだがな)
黒い短剣は、ピエロの大鎌が形を変えた物だ。
僕は Lv22。処刑人の画面に出ていたのは Lv41。まだ19ある。
上層にいないはずのものが、2度出た。何のしるしなんだろう。
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次回から第3章 第3節「中層」が始まります。




