第45話 短剣
鎧のさびた剣が頭の上から落ちてくる。
柄だけになった短剣では受けられない。
横へ転がった。
膝はつかない。肩から丸まって、石の床をひと転がりする。
すぐ後ろで剣が床を打った。さっきまで僕の頭があった所だ。
石の割れる音が背骨まで響いてくる。あそこにいたら、と考えるのはやめておく。
転がった拍子に、指から柄が抜けた。
折れた店の短剣が、石の上を滑って遠ざかっていく。拾いに行ける距離じゃない。
起き上がったときには背中に壁があった。転がった肩と腰が遅れてじんと痛む。
右手を開く。何もない。
撒き菱は、さっき鎧の鉄の足に踏み砕かれたばかりだ。
鎧は空振りした剣を引きずって、こっちへ向き直るのに数歩かかる。重い物ほど、向きを変えるのも遅いらしい。
おかげで、息を1つだけつけた。
空っぽの手で壁にもたれている。冒険者として、いちばん情けない格好だと思う。
その一瞬に、体の中からピエロの声が届いた。
鎧に追われている間は、何も聞こえなかったのに。
(少年)
(代われ)
(少年のその手では、次は受けられない。分かっているだろう)
指の震えが止まらない。
気づいたときには、もう声が出かけていた。
「……代わっ」
言いかけて、ピエロを見た。
壁際に、背の高いピエロが斜めにもたれている。手袋の右手に、細い黒い杖を持っていた。
杖の先は鎧でなく、出入り口に立つ久我さんを指している。
ちょうど、首の高さだ。
背中の壁が急に冷たくなった。
代わったら、この体が次に斬るのは鎧じゃない。
「代わらない」
思ったより、声は震えなかった。
久我さんまで届いたかは分からない。久我さんは鎧の背中だけを見ていた。
ピエロは同じ誘いを、それ以上くり返さなかった。
杖の先をゆっくり床へ下ろしても、ピエロは僕から目をそらさない。
それきり、体の中は静かになった。
鎧がかぶとを僕のほうへ向けきる前に、出入り口で剣の抜ける音がする。
久我さんが踏み出していた。
鎧の背中へ、まっすぐ斬りかかる。
やっと来てくれた。
最後の一歩の手前で、久我さんがちらりと僕のほうを見た。
その分だけ、久我さんの踏み込みが半歩鈍る。剣の届く所まで、その半歩が足りない。
その間に、鎧は向き直りながら、剣を横なぎに振っていた。
重さは本物だった。
金属どうしがぶつかって、耳の奥まで鳴る。
久我さんが短くうめいた。
久我さんの剣が、はじかれた。
大きな体が横へ流れて、背嚢の重さに引っぱられる。踏みとどまれない。
久我さんが、膝をつく。
膝をつくと、次に立つのが一拍遅れる。
僕にそう教えたのは久我さんだ。
鎧は僕に背を向けて、膝をついた久我さんのほうを向いている。かぶとの中は空っぽのままだ。
さびた剣が久我さんの上で振り上げられる。
あれが落ちるまでに、久我さんは立てない。
僕の手の届く所に、刃物は1つしかない。
背中の、鎌だ。
ピエロに使えとねだられるたびに、背負うだけで使わない、と断ってきた鎌だ。
握れば、その約束を破るのは僕のほうになる。ピエロじゃない。
それに、あの長さは僕の腕では振れない。胸まである柄に、肩幅の刃だ。
僕に振れるのは、毎日腰に下げてきた、あの短剣の長さだけだ。
背中へ手を伸ばす。
壁際のピエロが僕の手もとへ目を移した。
何も言わない。
握る。
留め具を外して、背中から引き抜いた。長い柄が肩の上を滑っていく。
その途中で、重さが変わった。
短くなる。
手の中で。
胸まであった黒い柄が、握った指の中へ縮んでいく。銀の弧は細く伸びて、まっすぐな刃に変わっていく。
抜ききったとき、手の中にあったのは、折れた店の短剣と同じ長さの1本だった。
刃の背にだけ、鎌の弧の名残みたいな小さな反りが残っている。
痛めた右の手首でも握れる重さだった。
【道化の七変化が、大鎌から短剣になりました】
道化の七変化は、あの大鎌の名前だ。その声に、膝をついた久我さんのかすれた声が重なった。
「……何だ、それは」
膝をついたまま、久我さんは僕の手を見ていた。
僕も、答えられる言葉を持っていない。
「こっちだよ」
《挑発》が部屋に広がる。考えるより先に、声のほうが出ていた。
鎧は久我さんから離れて、かぶとごと僕のほうへ向き直る。
鎧が、腕を上げる。
さっき店の短剣を折った振り下ろしと、同じ形だ。
今度は受けない。
鎧の脇が、開く。
前と後ろの板の合わせ目が、上がった腕に引かれて開いていた。どこもぴったり閉じていた継ぎ目の奥に、暗い中がのぞいている。
あそこなら、刃が入る。
剣が落ちる前に。
重心を、つま先へ。
踏み込む。
開いた脇へ、黒い短剣を通した。
刃は合わせ目を抜けて、胸の奥の核まで届く。
鎧が、剣を上げた形のまま、光の粒にほどけた。
さびた剣が落ちて、石の床で鳴った。
魔石が1つ、僕の靴のそばまで転がってくる。
部屋の中に、もう金属の足音はしない。
出入り口のそばで、久我さんは膝をついたまま、さっきまで鎧のいた所を見上げている。
僕は黒い短剣を握ったまま立っていた。
膝の震えが止まらない。痛めた右の手首も、今になって脈を打ち始める。
倒れない。
(今のは、少年の一突きだ)
返事は出てこなかった。
何か言えば、膝のほうが先に崩れそうだった。
(……私の鎌を、ずいぶん短く仕立ててくれたものだ)
こっちはいつもの小言の声だ。
立ち上がった久我さんが、剣をさやに戻して、僕の前まで歩いてくる。
「名前と、今日の日付」
「白瀬律、です。……今日は、月曜で」
頭を打っていないかを確かめる、久我さんのいつもの聞き方だ。
久我さんは太い指を僕の目の前で左右に振った。僕が目で追い終えると、指を下ろす。
そのあと久我さんが見たのは、僕の顔でなく、右手の黒い短剣だった。
それ以上は何も聞かれなかった。
「手首は」
「えっと……右、です。受けたときに、少し」
「動かしてみろ」
言われたとおりに回すと、奥のほうが鈍く鳴った。顔に出たらしい。
久我さんはそれ以上は触らずにうなずいた。
鎧に斬りかかる前に僕のほうを振り向いたことを、久我さんは言わない。
足音に肩が一度動いたのを見ていたことを、僕も言わない。
久我さんが腰の無線を取った。
「巡回の久我だ。10層、通路脇の部屋で、中層の種のイレギュラーが1体。片付いた」
「新人が1名。手首を痛めた程度だ」
無線の向こうで、誰かが短く何か聞き返している。
「それと……」
声がそこで止まった。
久我さんはもう一度、僕の手の短剣を見下ろした。
「……いや、以上だ」
無線が切れた。
無線で言いかけた「それと」の先を、僕は知らないままだ。
床に落ちていた柄と刃先を拾って、ポーチにしまう。店長が自分の手で試してから、棚に出してくれた1本だった。
店長に、何て言おう。
久我さんが無精ひげを太い指でこすって、それから僕を見た。
「自分の前に、出たな。考えるより先に」
膝をついた久我さんの前に、僕が出たことを言っている。そう言ってから、久我さんは短く息を吐いた。
「大丈夫だ、坊主」
言われた言葉が、すぐには耳の奥まで入ってこなかった。
久我さんはそれ以上何も足さずに、背嚢を背負い直している。
その肩ごしに、出入り口の先の通路を見た。あの先のどこかに、11層へ下りる階段がある。
肩に力を入れて待っていた、久我さんの決まり文句の「新人が前に出るな」は、来なかった。




