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弱虫ダンジョン配信者の僕、宿った本物の殺人ピエロに体を貸したら『演技うますぎ』とバズった  作者: 月見まっちゃ
第3章

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第47話 氾濫の予兆

 朝のテレビが、立川ダンジョンは氾濫の予兆の期間に入ったと言った。


 11層に初めて下りた、次の朝だ。

 僕は湿布を貼った右の手首でみそ汁を持ったまま、居間の画面から目を離せずにいる。

 食卓の向かいで父が箸を止めた。母は流しの前で弁当箱を布で包んでいる。


 モンスターがダンジョンの外へあふれる氾濫は、海外や地方では起きたことがあるけど、東京ではまだ一度もない。

 初めての1回が、僕の住む町のダンジョンで起きかけている。


 父は何も言わずに、スマートフォンをこっちへ向けた。

 協会の公式サイトに『立川ダンジョンにおける氾濫の予兆について』という題が出ている。

 読めということらしい。


 最初の段には『予兆の期間は、モンスターが再び現れるまでの時間が通常の半分ほどに、部屋ごとの数が通常の1.5倍ほどになる見込みです』とあった。

 売れた棚が倍の速さで、前より多く埋まるようなものだ。


「協会は、予兆の期間に討伐を重ねることで、氾濫の際にあふれる数を減らせるとして、冒険者に協力を呼びかけています」


 アナウンサーは天気予報と同じ声で続けた。


「現在の規模であれば、氾濫が起きても、初期の段階で抑えられる見込みだということです」


 初めのうちに抑えるには、初めのうちに誰かが行かなきゃいけない。


 画面を下へ送ると、次の段には、おととい10層で見つかった中層のモンスターも、予兆の期間に出たものと見られる、とあった。

 その中層のモンスターは、店の短剣を折られた日に、僕と巡回員の久我さんが出くわした動く鎧だ。


 湿布の上から、反対の手で手首を押さえた。

 あの鎧の剣を受けたとき、氾濫はもう始まりかけていたことになる。

 発表は、予兆の始まりを鎧が見つかった日にしている。最初の配信の日に、4層で僕に大鎌を振り上げたリーパーのことは、どこにも書いていない。


「……討伐、行く」


 言ってから、自分の声だと気づいた。

 危ない所へ考えるより先に足が出る癖は、口にもあったらしい。

 母が振り向く。


「討伐は、明日から。今日は、11層に行く日だから」


 母は弁当箱の結び目を作る途中で、手を止めた。

 布の端が指から垂れている。


 母は今まで、一度も行かないでとは言わなかった。


「……明日だけは、行かないで」


 母は僕を見ずに言った。


「7時には、いつも帰ってきてくれる。それは、分かってるの」


 叱る声じゃない。頼む声だった。


「でも、テレビが氾濫って言ったでしょう。その言葉だけで、怖いの」


 まだ分からない、という答えが喉の手前まで来ていた。

 そう言えば、母は今朝だけは安心できる。

 でもそれは嘘だ。


「行く」


 母は結び目の途中から、手を動かさなかった。

 父が箸を置く。


「何時に帰る」

「今日は、7時」


 父はそれだけ聞いて席を立った。

 居間へ出ていく背中は、一度もこっちを向かない。


 父は止めもしないし、行っていいとも言わなかった。

 今になって、膝から下が冷えてきた。


 冷蔵庫の扉から、台所に貼った約束の紙をはがす。

 潜る日は、行く層と帰る時刻を新しい紙に書くことになっている。


 11層。7時。

 この紙に11層と書くのは、きのうに続いて2度目だ。


(斬っていい相手が、向こうから増えてくれるのか。いい朝だ、少年)


 頭の中でピエロの声が弾んでいた。

 何がいい朝だ。

 両親の前で、ピエロに返事はできなかった。


 ◇


 放課後の協会の建物では、受付の前に列ができていた。

 並んでいるのは、剣や盾を背負った大人ばかりだ。

 いちばん若くて、いちばん背中が丸いのは、たぶん僕だった。


 受付の脇の壁には、朝の発表と同じ掲示が貼ってある。

 その下に足された1枚には『討伐隊はDランク以上の方に限ります。加わる方は、受付でお名前をお書きください』とあった。

 10層のボス部屋で大狼を倒して D に上がったのは、つい最近だ。

 ここに名前を書く日が、こんなに早く来るとは思っていなかった。


「冒険者証を拝見しますね」


 受付の人はランクの欄を確かめてから、名前を書く紙をこっちへ回した。

 紙に白瀬律と書く。

 前の人たちの字より、ひと回り小さい。


 誰かが行かなきゃいけないから、だけじゃない。

 メモ帳のいちばん上には、処刑人の Lv41 が書いてある。冒険者を襲う所を配信していて、僕が前にその配信の中で膝をつかされた相手だ。その41と僕の Lv22 の差は、まだ19ある。

 予兆で部屋ごとの数が増えているなら、隊で倒す数もそのぶん増えて、僕のレベルが早く上がるから、その差も早く縮む。

 41に届けば、次は膝をつかずにいられる。


「隊は、10層の広間の奥、中層へ下りる階段の脇で待機します。明日から交代で入っていただきますので、時間はこちらから連絡しますね。中層には、もう入られました?」

「あ、はい……きのう、11層に。少しだけ」


 隣でカウンターに手帳を広げていた男の人が、こっちを向いた。


「11層、ですか」


 協会の紺の作業ジャンパーに調査員の腕章をして、首から紐でルーペを下げている。

 手帳は角がすり切れていた。


「失礼。協会の調査員の、ルーペと申します。立川の予兆を調べに来ております」


 首から下げている物と、名前が同じだ。

 本名じゃないことくらいは、僕にも分かる。


(首に下げた拡大鏡が、そのまま名乗りか。宮廷なら、手品師の装いだな)


 ピエロは人の身なりを、いつも自分がもといた所の物差しで測る。

 手品師じゃない。調査員だって、本人が今言ったばかりだ。

 ルーペさんは受付の台の冒険者証に目を落とした。


「白瀬さん。順番にまいります。1つ目、予兆というのは、モンスターがまた現れるまでの時間に出ます。

 協会はダンジョンごとに、その時間を記録しておりまして……」


 順番の1つ目で、もうこの長さだ。

 2つ目に着くまでに、討伐隊の交代が一回りしそうだった。


 受付の人が顔も上げずに言った。


「ルーペ、後ろの人が待ってる」


「……失礼しました。では改めて、中層の――」

「あの」


 ルーペさんの言葉の途中で、僕は口を挟んでいた。


「11層の、階段の下の通路に面した、最初の部屋です。骸骨の兵はふだん多くて5体だから、1.5倍でも7体くらいのはずで……」


 ルーペさんが口を閉じて、僕を見た。


「9体、いました」


 ルーペさんは、手帳に置いた手を止めた。


 上層にいないはずのものを、僕は2度見ている。


「それと、10月の20日に、4層でリーパーを見ました。……あれも、10層の鎧と同じ予兆では」


 ルーペさんは首のルーペを手に取ると、腕をいっぱいに伸ばして、手帳の上にかざした。

 細かい字は、それを通さないと見えないらしい。

 古い手帳の余白に、小さな字が並んでいく。11層、9体。10月20日、4層、リーパー。

 その横に、10層の鎧と同じ、と僕の言ったとおりに足した。

 高校生の話を、聞き流さずに書いている。


 書き終えると、ルーペさんはルーペを胸に下ろして、壁の掲示を見上げた。

 部屋ごとの数が1.5倍ほど、とある行を、しばらく黙って見ている。


「協会の目安と、合いませんね」


 ルーペさんは手帳を閉じて、僕に頭を下げる。


「ありがとうございました、白瀬さん」


 大きなリュックの背中が、列の脇を抜けて、建物の奥の廊下へ消えていく。


 僕が初めて配信した日から、もう50日以上たっている。


 そのあいだ、協会はなぜ気づかなかったんだろう。

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