第47話 氾濫の予兆
朝のテレビが、立川ダンジョンは氾濫の予兆の期間に入ったと言った。
11層に初めて下りた、次の朝だ。
僕は湿布を貼った右の手首でみそ汁を持ったまま、居間の画面から目を離せずにいる。
食卓の向かいで父が箸を止めた。母は流しの前で弁当箱を布で包んでいる。
モンスターがダンジョンの外へあふれる氾濫は、海外や地方では起きたことがあるけど、東京ではまだ一度もない。
初めての1回が、僕の住む町のダンジョンで起きかけている。
父は何も言わずに、スマートフォンをこっちへ向けた。
協会の公式サイトに『立川ダンジョンにおける氾濫の予兆について』という題が出ている。
読めということらしい。
最初の段には『予兆の期間は、モンスターが再び現れるまでの時間が通常の半分ほどに、部屋ごとの数が通常の1.5倍ほどになる見込みです』とあった。
売れた棚が倍の速さで、前より多く埋まるようなものだ。
「協会は、予兆の期間に討伐を重ねることで、氾濫の際にあふれる数を減らせるとして、冒険者に協力を呼びかけています」
アナウンサーは天気予報と同じ声で続けた。
「現在の規模であれば、氾濫が起きても、初期の段階で抑えられる見込みだということです」
初めのうちに抑えるには、初めのうちに誰かが行かなきゃいけない。
画面を下へ送ると、次の段には、おととい10層で見つかった中層のモンスターも、予兆の期間に出たものと見られる、とあった。
その中層のモンスターは、店の短剣を折られた日に、僕と巡回員の久我さんが出くわした動く鎧だ。
湿布の上から、反対の手で手首を押さえた。
あの鎧の剣を受けたとき、氾濫はもう始まりかけていたことになる。
発表は、予兆の始まりを鎧が見つかった日にしている。最初の配信の日に、4層で僕に大鎌を振り上げたリーパーのことは、どこにも書いていない。
「……討伐、行く」
言ってから、自分の声だと気づいた。
危ない所へ考えるより先に足が出る癖は、口にもあったらしい。
母が振り向く。
「討伐は、明日から。今日は、11層に行く日だから」
母は弁当箱の結び目を作る途中で、手を止めた。
布の端が指から垂れている。
母は今まで、一度も行かないでとは言わなかった。
「……明日だけは、行かないで」
母は僕を見ずに言った。
「7時には、いつも帰ってきてくれる。それは、分かってるの」
叱る声じゃない。頼む声だった。
「でも、テレビが氾濫って言ったでしょう。その言葉だけで、怖いの」
まだ分からない、という答えが喉の手前まで来ていた。
そう言えば、母は今朝だけは安心できる。
でもそれは嘘だ。
「行く」
母は結び目の途中から、手を動かさなかった。
父が箸を置く。
「何時に帰る」
「今日は、7時」
父はそれだけ聞いて席を立った。
居間へ出ていく背中は、一度もこっちを向かない。
父は止めもしないし、行っていいとも言わなかった。
今になって、膝から下が冷えてきた。
冷蔵庫の扉から、台所に貼った約束の紙をはがす。
潜る日は、行く層と帰る時刻を新しい紙に書くことになっている。
11層。7時。
この紙に11層と書くのは、きのうに続いて2度目だ。
(斬っていい相手が、向こうから増えてくれるのか。いい朝だ、少年)
頭の中でピエロの声が弾んでいた。
何がいい朝だ。
両親の前で、ピエロに返事はできなかった。
◇
放課後の協会の建物では、受付の前に列ができていた。
並んでいるのは、剣や盾を背負った大人ばかりだ。
いちばん若くて、いちばん背中が丸いのは、たぶん僕だった。
受付の脇の壁には、朝の発表と同じ掲示が貼ってある。
その下に足された1枚には『討伐隊はDランク以上の方に限ります。加わる方は、受付でお名前をお書きください』とあった。
10層のボス部屋で大狼を倒して D に上がったのは、つい最近だ。
ここに名前を書く日が、こんなに早く来るとは思っていなかった。
「冒険者証を拝見しますね」
受付の人はランクの欄を確かめてから、名前を書く紙をこっちへ回した。
紙に白瀬律と書く。
前の人たちの字より、ひと回り小さい。
誰かが行かなきゃいけないから、だけじゃない。
メモ帳のいちばん上には、処刑人の Lv41 が書いてある。冒険者を襲う所を配信していて、僕が前にその配信の中で膝をつかされた相手だ。その41と僕の Lv22 の差は、まだ19ある。
予兆で部屋ごとの数が増えているなら、隊で倒す数もそのぶん増えて、僕のレベルが早く上がるから、その差も早く縮む。
41に届けば、次は膝をつかずにいられる。
「隊は、10層の広間の奥、中層へ下りる階段の脇で待機します。明日から交代で入っていただきますので、時間はこちらから連絡しますね。中層には、もう入られました?」
「あ、はい……きのう、11層に。少しだけ」
隣でカウンターに手帳を広げていた男の人が、こっちを向いた。
「11層、ですか」
協会の紺の作業ジャンパーに調査員の腕章をして、首から紐でルーペを下げている。
手帳は角がすり切れていた。
「失礼。協会の調査員の、ルーペと申します。立川の予兆を調べに来ております」
首から下げている物と、名前が同じだ。
本名じゃないことくらいは、僕にも分かる。
(首に下げた拡大鏡が、そのまま名乗りか。宮廷なら、手品師の装いだな)
ピエロは人の身なりを、いつも自分がもといた所の物差しで測る。
手品師じゃない。調査員だって、本人が今言ったばかりだ。
ルーペさんは受付の台の冒険者証に目を落とした。
「白瀬さん。順番にまいります。1つ目、予兆というのは、モンスターがまた現れるまでの時間に出ます。
協会はダンジョンごとに、その時間を記録しておりまして……」
順番の1つ目で、もうこの長さだ。
2つ目に着くまでに、討伐隊の交代が一回りしそうだった。
受付の人が顔も上げずに言った。
「ルーペ、後ろの人が待ってる」
「……失礼しました。では改めて、中層の――」
「あの」
ルーペさんの言葉の途中で、僕は口を挟んでいた。
「11層の、階段の下の通路に面した、最初の部屋です。骸骨の兵はふだん多くて5体だから、1.5倍でも7体くらいのはずで……」
ルーペさんが口を閉じて、僕を見た。
「9体、いました」
ルーペさんは、手帳に置いた手を止めた。
上層にいないはずのものを、僕は2度見ている。
「それと、10月の20日に、4層でリーパーを見ました。……あれも、10層の鎧と同じ予兆では」
ルーペさんは首のルーペを手に取ると、腕をいっぱいに伸ばして、手帳の上にかざした。
細かい字は、それを通さないと見えないらしい。
古い手帳の余白に、小さな字が並んでいく。11層、9体。10月20日、4層、リーパー。
その横に、10層の鎧と同じ、と僕の言ったとおりに足した。
高校生の話を、聞き流さずに書いている。
書き終えると、ルーペさんはルーペを胸に下ろして、壁の掲示を見上げた。
部屋ごとの数が1.5倍ほど、とある行を、しばらく黙って見ている。
「協会の目安と、合いませんね」
ルーペさんは手帳を閉じて、僕に頭を下げる。
「ありがとうございました、白瀬さん」
大きなリュックの背中が、列の脇を抜けて、建物の奥の廊下へ消えていく。
僕が初めて配信した日から、もう50日以上たっている。
そのあいだ、協会はなぜ気づかなかったんだろう。




