第39話 Dと書かれた冒険者証
新しい冒険者証に、Dと書いてあった。
10層のボスの大狼を倒した日の夕方、協会の買い取り窓口に、手のひらいっぱいの大きさの魔石と冒険者証を出した。新しいカードがその場で返ってくる。
あんなに大きな狼の魔石でも、手続きは拍子抜けするほど短い。
次の朝、台所のテーブルで、そのカードを両親の前に置いた。
写真の僕はいつもの前髪で目が隠れている。写真の横に、D。
自分の顔より、Dの字ばかり見てしまう。
結衣ねえからは、最後に脚が折れたのはりっちゃんが刺した所でしょ、という1行が届いている。返事は打ちかけたまま止まっていて、文字にすると、どれも違う気がした。
父がカードを手に取った。
「……上がったな」
父はそれだけ言ってカードを母に回し、また新聞を広げた。
母はDの字を指でなぞった。一度なぞって、もう一度なぞる。
叱られるより、ずっと落ち着かない。
中層へ行くのは、冒険者証がDになって、協会の巡回員の久我さんに認めてもらってから。両親とは、そう約束している。
「えっと……これで、中層の約束の、半分、だよね。Dのほうは、取れたから」
自分で言い出した約束なのに、指を折って数えると思ったより照れる。
(指折り数えて、耳まで赤い。お可愛いことだ、少年)
両親の前で、ピエロに言い返すわけにはいかない。
母がカードをテーブルに戻した。
「ゆうべね、久我さんに電話したの」
知らなかった。僕が先に寝たあとだ。
「Dは、おめでとうございます、って。でも、中層の許可は、まだ出せないって」
そう言われる気は、どこかでしていた。
母の話はそこで終わらなかった。
「きのう、協会で、あなたを見かけたんだって」
「『坊主は、脇腹をかばって歩いてた』って。……治るまでは、中層へ行けるかどうか、見てもくれないそうよ」
息が止まった。
協会で久我さんの顔は見ていない。見られていたことにも気づかなかった。
「脇腹って、なに」
母の声は怒っていなかった。怒鳴られるより、そのほうがずっと逃げ場がない。
転んだ、と言えば、たぶん済む。
僕はシャツの裾を持ち上げた。
左の脇腹は、手のひらより広く、紫だった。
父の新聞がテーブルまで下りる。
母は何も言わずに、脇腹の紫を見ている。
隠したつもりはなかった。聞かれなかったから、言わなかっただけだ。
それなのに母は、僕の脇腹のことを久我さんの口から先に聞いた。
母は冷蔵庫の扉へ目をやった。
扉には、ボス部屋へ行く朝に僕が書いた約束の紙が、まだ貼ってある。書いたのは、行き先の10層と帰る時刻だけだ。
「……紙に書いてないことも、言って」
母が言ったのは、それだけだった。
「……ごめん」
ほかの言葉はひとつも出てこなかった。
テーブルの上で、Dのカードがまだこっちを向いている。
脇腹が治るまで、約束は半分のまま動かない。
◇
昼過ぎの店では、店長が帳場でスマートフォンを横にして、大狼の戦いの切り抜きを見ていた。
戸の音に顔を上げると、店長は画面より先に僕の顔を見た。
「倒れなかったんだね」
「……はい」
店長がいちばん先に聞くのは、いつもそこだ。
「ほう。じゃあ、手袋を見せてごらん」
手袋を帳場に出して、帳面の手袋のページを開く。すぐ上の行には、前に潜った日の僕の字で、撒いた撒き菱は拾えずにボス部屋に置いてきた、とある。
その下に、店長の鉛筆を借りて書く。
短剣は、前脚の付け根まで入った。
鉛筆は一度も止まらなかった。
店長は何も言わずに、その行を見ている。目尻のしわがいつもより深い。
大狼に入れた短剣は、店長が自分の手で試してから棚に出した1本だ。
店長が減った分の撒き菱を2袋、棚から下ろしてくれた。これでポーチの中は、だいたい3袋ぶんに戻る。
やっと、いつもの重さだ。
店の戸が開いた。
だいだい色のジャージの結衣ねえが、肩のシューズ袋を揺らして入ってくる。頭の上の結び髪は汗で少し湿っていて、練習帰りの顔だ。
「店長さん、こんにちは。……りっちゃんも、いたの」
「日曜も、練習なの?」
「自主練。大会、来月なの」
結衣ねえは帳場の前の丸椅子に、どさっと腰を下ろした。眉のあいだに、部活の顔が残っている。
言うなら、今だ。
「結衣ねえ。……きのうの、あれ」
「なに」
「あの、1行。……ありがとう」
結衣ねえは口を開けたまま固まった。
耳から先に赤くなっていく。
「……急に、言わないで」
「え」
「りっちゃんのありがとうは、調子が狂うの。ごめんなら、聞き慣れてるのに」
礼を言って怒られる相手は、たぶん世界で結衣ねえだけだ。
ごめんのほうは、今朝、台所で言ってきたばかりだ。
帳場の奥で、店長が咳みたいな声で笑った。
結衣ねえは顔をそらしたまま、しばらく黙っていた。
それから、こっちへ向き直る。真顔だった。
「中層も、ちゃんと見てるから。危ないと思ったら、言うからね」
やめなさい、とは言わなかった。前に言われたその言葉が取り消されていないことは、知っている。
シャツの下の紫のことは、結衣ねえにもまだ言えていない。
「結衣ちゃんも見るかい。きのうの、律くん」
店長がスマートフォンを、帳場の上でこっちへ向けた。画面には切り抜きが縦にいくつも並んでいる。
いちばん上は、ピエロが大狼にとどめを刺した所だ。そのすぐ下に、僕が自分で短剣を入れた所の切り抜きがある。
下の1本の再生数は、上の何分の一かしかない。
でも、回っている。
店長が指で下の1本を押した。
画面の中の僕は、降りてきた大狼の胸の下へ踏み込んで、前脚の付け根に短剣を入れていた。
『ヘラルドが入れた』
『地味にすごい』
『最後に脚が折れたのここだろ』
『ここ何回も見てる』
外から見る自分の背中は、思っていたより丸い。
画面から目をそらしかけた。
棚の脇のピエロは、この切り抜きの間だけ、何も言わない。
終わると、上の1本が勝手に流れ始めた。三日月のほうだ。
降りてきた大狼の左の前脚が、がくんと沈む。下がってきた首の付け根の横へ、ピエロが僕の体で鎌を振り抜く。画面の僕の顔には、白粉と目張りが出ている。
銀の弧が一度だけ光って、大狼が粒になってほどけた。
ボス部屋で僕が頭の中で、大狼が降りてくる所にいて、とピエロに頼んだ。そのあとの一振りだ。
(これだ)
(少年、小道具係に言え。もう一度、頭からだ)
小道具係は、ピエロが店長を呼ぶときの名前だ。店長にもう一度流してもらえ、と言っている。
言えるわけがない。
店長は言われもしないのに、もう一度再生した。
『一瞬で終わった』
『きれい』
『三日月』
『え、もう終わり?』
『何回見ても一瞬』
再生のたびに、コメントが増えていく。
耳の奥で、別の声が鳴った。
前に夢で見た、処刑の広場の歓声だ。刑が瞬きひとつの間に終わったとたん、何百という口が1つになった、あの声。
画面の文字と、あの声が、重なる。
一瞬で終わったから、みんな沸いたんだ。
……今、僕は、そう思った。
首の後ろが、冷たくなっていく。
棚の脇のピエロはずっと機嫌がよく、画面に映る自分の鎌の弧から目を離さない。
結衣ねえは画面でなく、僕の顔を見ていた。
「りっちゃん、顔、青いよ」
「……なんでもない」
結衣ねえはそれ以上聞かなかった。でも、目は僕の顔から離れなかった。
◇
夜、ベッドの縁に座って、ステータス、と念じる。
今夜は画面の全部を開く。
名前:白瀬律
Lv:22
職業:軽業師
称号:孤軍/番狂わせ
HP:141/141
MP:39/39
筋力:14 耐久:18 敏捷:32 器用:27 魔力:9
スキル:《挑発》 Lv2/《気配察知》 Lv2/《隠密》 Lv1/《投擲》 Lv2/《鎌術》 Lv3
スキルpt:20
取得可能なスキル:0件
僕はLv22。処刑人の配信の画面に出ていたLvは、41。
処刑人とのLvの差は19。処刑人に負けた次の夜は29あったから、10縮んだ。
称号の行はなるべく見ないようにした。孤軍も番狂わせも、大狼を倒して付いた。でも、とどめの鎌はピエロのものだ。
息を吸うと、脇腹の奥が引っかかる。
Dはもう取った。
脇腹が治ったら、久我さんは僕の何を見て、中層へ行っていいと言うんだろう。
窓枠のピエロが画面をのぞきこんでいる。
視線は軽業師の行で止まったまま、動かない。
顎が機嫌よく上がっていた。
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次回から第3章 第2節「短剣」が始まります。




