第38話 三日月
「失礼、客人方。席を替える」
ピエロが鎌の柄を横へ滑らせた。押しつけていた大狼の額が、さっきまで僕の胸があった所で壁の石を打つ。
石の鳴る音より先に、ピエロは僕の足で壁を蹴っていた。石を二歩駆け上がって、後ろへ反る。
逆さになった視界を灰色の背中が流れていく。
ピエロは大狼の頭の上を越えて、尻尾の側の床に降りた。押しつけられていた壁ぎわから、席を替えたのだ。
この足で壁を走ったことなんて、一度もない。
降りた拍子に、脇腹が焼けたように鳴った。開いていた傷がもう一段開いた。
『壁走った!?』
『とんぼ返り』
『狼の頭越えたぞ』
灰色の大きな体は、一度空になった壁を振り返ってから、ゆっくりこちらへ向き直った。
何が起きたのか、大狼にも分かっていないらしい。僕にも分かっていない。
ピエロが石突きで床を鳴らすと、《挑発》がもう一度広間に広がった。
ピエロは柄の中ほどを握ったまま前へ出た。
銀の刃が灰色の鼻先で弧を描いてみせると、大狼が一歩下がった。
もう一度、弧。もう一歩。
さっきまで押されていたのに、力は少しも使っていない。
大狼が横へ逃げかけても、その先にはもう弧がある。
逃げる先にはいつも、刃のほうが先に着いていた。
刃を見せては下がらせて、ピエロは大狼を壁沿いに広間の奥へ運んでいく。光る石のまばらな、壁が丸く囲んだいちばん奥まで。
灰色の尻尾が石の壁に触れた。
『追いつめてる』
『さっきと逆』
『黒手袋押し返した』
『狼、後ろないぞ』
逃げ場をなくした大狼が次に何をするかは、知っている。
撒き菱の帯の上を越えてきた、あの跳び方だ。
ピエロが2週間ねだり通した《鎌術》と一緒に、僕が覚えた技がある。鎌を三日月の形に、大きく振り抜く技だ。ピエロはまだ一度も、それを視聴者の前で振っていない。
初めて振るなら、ここだ。高い天井の下で、跳んだ狼の真下で。
ピエロは背筋を少しも崩さずに、大狼が跳ぶのを待っている。
灰色の前足がそろった。
『来るぞ』
『跳ぶ』
『黒手袋動かねえ』
大狼が、跳んだ。
灰色の腹が高い天井の下を渡ってくる。
大きな影が僕の体ごと床を覆った。
ピエロはちょうど、その真下にいた。
石突きで床を突き、体を斜めに立てる。一拍、何も動かない。
刃が床すれすれまで下がる。ピエロは技の名前を唱えない。構えて、念じるだけだ。
銀の弧が床から天井へ振り抜かれた。
……届かない。
弧の先は灰色の腹の毛を払っただけだった。
大狼は僕の頭の上を渡りきって、背中の後ろへ降りた。向き直る爪の音が石を引っかく。
『外れた!?』
『え、今の何』
『腹かすっただけ』
『黒手袋が外すの初めて見た』
『今のでかい技じゃなかった?』
振り抜いた腕に、何の手ごたえも残っていない。
ピエロが僕の体で振り返るのが、いつもより半拍遅い。踏んばった左脚に、もう力が入っていなかった。
ピエロが僕の体を動かしていられる時間には、限りがある。その残りが、体の芯でもう底をこすっている。
今ここで僕に戻ったら、脇腹の開いたこの体が大狼の前に残る。
膝の笑う脚と短剣1本で、さっき壁で押しつぶされかけた重さを、今度は僕が受ける。
ピエロがカメラへ目を上げた。口の端は上がったままだ。
「客人方。今のは、素振りだ」
『素振りw』
『言い訳が優雅』
『いや今の普通に外したろ』
コメント欄は笑っている。
いつものピエロなら、ここに物騒な一言を足す。今日は足さなかった。
大狼はすぐには来なかった。灰色の頭を低くして、こっちの左脚を見ている。
また壁まで押されたら、今度は抜けられない。
大狼が一歩踏み出す。傷んだ前脚が床について、肩ががくりと落ちた。
暗がりの縁で、何度も見た沈み方だ。
降りたあとの一拍に、首の後ろが下りる。メモ帳に、自分で書いた行だ。
僕はまだ、そのことをピエロに言っていない。
(左の前脚。僕が刺した所。降りるとき、沈む)
(降りる所に、いて)
返事はなかった。
ピエロは大狼の顔から目を離さない。聞こえたのかどうかも分からなかった。
ピエロが大狼の鼻先へ歩きだす。半歩。止まって、また半歩。
跳べば届いて、肩で押すには遠い所で、止まる。
大狼が跳んだら、降りてくるのはここだ。牙と一緒に。
見ているだけなのに、僕のほうが先に喉が干上がっていく。
『近い近い』
『正面はやばいって』
『さっき外したのに行くのかよ』
『黒手袋、足ふらついてない?』
ピエロは僕が言ったとおりに動いている。
体を貸している間に、そんなことは一度もなかった。
灰色の頭が低く下がる。
跳んだ。
牙が、上から来る。
ピエロは動かない。
最後の半歩で、横へ抜けた。
牙はさっきまで僕の顔があった所で鳴った。
大狼が、降りた。
左の前脚が、がくりと沈む。
頭と一緒に、首の後ろの付け根が僕の胸の高さまで下りてきた。
ピエロが石突きで床を突く。一拍。
銀の弧が、横から首の付け根を抜けた。
大狼の体が降りた形のまま、光の粒にほどけていく。
魔石が1つ、石の床に落ちて跳ねた。
『は?』
『三日月』
『一瞬で終わった』
『今度は入った』
『鳥肌やばい』
ピエロが腕の画面へ目を落とした。
画面の中で、白粉と目張りの僕が、振り抜いた鎌を横に止めている。三日月の形に残った弧の跡に沿って、光の粒が天井へ昇っていく。
あれが僕の体だとは、とても思えない。
『スローで見たい』
『切り抜き班はよ』
『外したの込みで演出だろこれ』
コメントの流れがひと呼吸ぶん止まって、それから倍の速さで動きだした。ピエロが初めに告げた演目の題は、『シャンデリアの影』だった。
『シャンデリアって落ちてくる狼か』
『影って、降りてくる所か』
『暗がりじゃなかったのかよ』
『だから降りる所に立ったのか』
『題まで回収すんな』
同時接続数は2万6千。今日いちばんの数だ。
ピエロもその数を見ている。金のよろいの剣士がいつも出す10万4千には、まだ届かない。
「幕だ、客人方」
ピエロが鎌を宙へ放った。
【レベルアップ。Lv19からLv22になりました】
【称号、孤軍を得ました】
【称号、番狂わせを得ました】
【職業が進化できます】
天の声が鳴りおわっても、刃はまだ宙で回っていた。
背中が丸く落ちて前髪が目の上へ帰り、体が僕に戻った。
落ちてきた柄を、右手1本で受けた。膝は笑っているのに、手だけはこの形を覚えていた。
『受け止めた』
『あの体で片手』
遅れて、腰と左脚がきしみだす。明日の朝が今から怖い。
「あ、あの……ご、ごめんなさい。また、騒がせて」
『中ボス倒して謝る人』
称号、とも天の声は言った。孤軍と、番狂わせ。
でも、狼を倒した鎌を振ったのは僕じゃない。名前だけが僕のほうに付いた。
配信では言わないでおこう、と決めた。
レベルが一度に3つ上がって、Lv22になった。20を越えたから、職業が進化できるらしい。
ステータス、と念じる。画面は僕にしか見えないから、配信には映らない。
職業:斥候(進化できます)
職業の行を念じると、その下に1行だけ表示が開いた。
進化の候補:軽業師
バイト先の道具屋の店長が話していた職業だ。跳んだり転がったりを重ねると出る、と言っていた。
たいてい宙で回っていたのは、ピエロのほうだ。さっきの壁もそうだ。この体が、ピエロの芸のほうへ寄っていく気がする。
軽業師、と念じかけて、やめた。
すぐ横から、ピエロが画面をのぞきこんだ。口は開かなかった。
狼の腹の下を転がった、僕の転がり方も入ってる。
冒険者を襲って配信する処刑人のLv41までは、まだ遠い。強くなれる道があるなら、断る理由はない。
選ぶのは、僕だ。
軽業師、と念じる。確かめの表示に、はい、と念じた。
【職業が、斥候から軽業師になりました】
『ヘラルド固まってる』
『魔石拾わんの?』
ヘラルドは、僕の配信の名前だ。
「あ、ま、魔石、拾います」
拾った魔石は手のひらいっぱいの大きさで、その重さで、やっと倒したんだと分かった。
職業が変わったことは、配信では言わなかった。
顔を上げると、ピエロが壁ぎわで黒い杖に片手を預けて、斜めに立っていた。
その白い顔は笑っていない。唇が動いた。僕にしか聞こえない声だ。
(次の舞台にも、少年が立て)
ボス部屋に入る前、入口の外でピエロが言ったのは、先に舞台に立て、だった。
僕の猫背を叱る「顎」「肩」と同じ短さなのに、顎とも肩とも言わなかった。
冗談の声でも、出番をねだる声でもない。何か返そうとして、言葉が1つも出てこなかった。
首から下げたメモ帳の端に、うれしいときにだけ付ける小さな丸を、鉛筆で1つ付けた。
ピエロは何も言わずに、丸の上で一度だけ目を止めた。
「き、今日は、ここまでです」
配信を閉じてから、踏まれずに残った撒き菱を、拾えるだけ拾った。
袋1つ分ほどにしかならない。とがった粒をつまむ指がまだ少し震えている。
歩いて戻るなら、上の層を10層ぶん上がらなきゃいけない。息を吸うたび、脇腹の奥が引っかかる。
倒れたら、帰れない。
壁に手をついて、広間の奥の暗がりへ歩いた。
中層へ下りる階段の口の脇に、大きな円が床に刻んである。講習の冊子に載っていた、転移陣だ。ここの中間ボスを倒した人だけが、入口の近くにある同じ円まで、一瞬で戻れる。
片足を載せると、足の下で線が白く光った。
この体はもう、倒した人に数えられている。
◇
光が足もとから引くと、そこはもう入口の近くの転移陣だった。階段を1段も上がらずに済んだ。
脇腹だけがまだ文句を言っている。
閉じる前のコメント欄は、最後まで三日月の話で埋まっていた。
三日月より前に僕が刺した短剣は、きっと誰の目にも残らない。それでかまわない、と思っていた。
腕のスマートフォンが短く震えた。結衣ねえからだ。1つ上の幼なじみで、今も僕をりっちゃんと呼ぶ。
最後に狼の脚が折れたの、りっちゃんが刺した所でしょ、と書いてある。
返事を打とうとして、ごめん、の3文字で親指が止まった。
消した。
ほかの言葉は、まだ見つからない。




