第37話 押し返される道化
「……いいよ。あの狼だけ」
体はもうピエロのものだ。僕の左手が勝手に動いて、右手の手袋の白い折り返しを引き直す。
次の瞬間には重心が片脚へ流れていた。脇腹の痛みはそのままなのに、背筋だけが上へ伸びていく。
顎が持ち上がる。
ピエロが前髪を後ろへなでつけると、よろめいている灰色の大狼が視界に丸ごと入ってきた。
ピエロは背から鎌を下ろして、撒き菱の散らばった床に石突きを突いた。
柄頭に両手を重ねて、手袋をはめた右手を上に置く。
胸が開いて、さっきまで脇腹で引っかかっていた息が奥まで入ってくる。僕の肺なのに、吸っているのは僕じゃない。
膝が笑っていた体で、よくここまで斜めに立てるものだと思う。
『一幕来た』
『顔がいい』
『さっきまでボロボロだったのに』
『立ち方が別人』
ピエロは僕の目で、腕の画面を一度だけ見下ろした。同時接続数は2万5千に届いている。視聴者がどれだけ集まったかを確かめる目つきだった。
「客人方。先触れの仕事は、ここまでだ」
「相手は、奥で寝そべっていた灰色の大きいの」
「演目は、『シャンデリアの影』」
ピエロより先に出て場を温めるのが、僕の役だった。ここからはピエロの出番で、ピエロは見せる戦いにいつも題を付ける。
最後の一語と一緒に、ピエロは《挑発》を使った。モンスターの注意を、自分へ引きつけるスキルだ。
大狼がこっちへ顔を回す。その動きはさっきより、ずっと遅い。
僕が短剣を入れた前脚は、まだ床をちゃんと踏めていなかった。
『シャンデリアどこ』
『奥は真っ暗だぞ』
『演目きた』
『題だけ豪華』
ピエロが石突きを床から離した。
柄を指の間で回しながら、ピエロは僕の体で大狼へ歩いていく。どこで止まるのか、中にいる僕にも分からない歩き方だ。
大狼が跳びかかってくれば、首の後ろが上を向く。ピエロが待っているのは、たぶんそれだ。
大狼は跳ばなかった。
頭を低くしたまま、傷んだ前脚をかばって、肩からぶつかってくる。
ピエロは黒い柄で灰色の額を受けた。
受けたのに、止まらない。
押される。
靴の裏が石の床を後ろへ滑り、かかとが撒き菱の粒を蹴散らした。
ピエロは滑りながら半歩だけ横へ抜けて、柄の先で大狼の鼻先を軽くたたく。跳びかかってこい、と言っているような手つきだった。
大狼は乗らなかった。たたかれた鼻を床へ下げたまま向き直り、また肩から来る。
ピエロが柄を斜めに倒して、重さを横へ流そうとする。大狼は流された先でもこっちへ向き直り、もう一度肩をぶつけてきた。
今度はさっきより大きく滑った。いつも一振りで終わらせてきたピエロが、床の上を後ろへ運ばれていく。
「見たか、客人方。礼儀を知る狼だ。先に一歩、譲ってやった」
また、後ろへ運ばれる。
「……二歩だな」
『黒手袋が押されてる』
『え、押されてる?』
『わざと?』
『譲ったってw』
『演出だろ』
わざとじゃない。
柄を受ける腕より先に、踏んばった左脚が負けている。床を滑らされるたびに、脇腹の奥が鳴る。コメントが笑っている冗談の裏で、柄はずっと震えていた。
この体じゃ、勝てない。
大狼がまた低く沈む。
次の体当たりが来るより先に、ピエロは手袋の右手を柄の中ほどまで滑らせて、握り直した。刃が頭の後ろへ回り、石突きが前に来る。
ふだん僕にだけ見えているピエロは、いつも黒い杖を手にしている。今の握り方は、あの杖と同じだ。
『持ち方変えた』
『杖みたい』
牙が来る。ピエロはそれを柄で横へ流した。
重さをまともに受けなければ、この体でも持つ。
ピエロが石突きで床を突き、その反動で半歩横へ抜ける。踏みこんできた大狼の頭は、さっきまで僕の胸があった所を空振りした。
正面からぶつからなければ、あの重さは届かない。
『棒術かよ』
『杖さばき慣れすぎ』
『やっぱ押されたのわざとだろ』
大狼のうなり声が一段高くなった。ぶつかれば下がった相手が、急に重さを受けてくれなくなったのだから、怒りもするだろう。
銀の刃は一度も振られない。弧が鼻先をかすめるたびに、大狼の目がそっちへ引かれるだけだ。ピエロは刃を見せて、誘っている。
石突きも、僕の短剣が入った前脚には一度も向かなかった。すぐ横の床を突くだけだ。
打てば、もう一度崩れるはずなのに。
大狼は空振りのたびに向き直ってくる。遅いけど、倒れない。
そこでピエロは僕の体ごと向きを変えた。
大狼の鼻先を横切って、広間の奥へ歩いていく。光る石がまばらな、さっきまで大狼が伏せていた暗がりへ。
(ちょ、ちょっと待って。そっち、あの狼の寝床……)
返事の代わりに、足音が消えた。
ピエロはかかとを床に下ろさない。つま先だけで、踊るみたいに滑っていく。
『黒手袋が奥行った』
『自分から暗い所に』
『こわいこわい』
『ドローン追いつけてない』
ドローンは明かりの側に浮いたままで、暗がりのピエロを映せていない。
大狼が前脚を引きずりながら、自分の寝床へ追ってくる。
追わせているのは《挑発》なのに、追われているピエロのほうが楽しそうなのが、いちばんおかしい。
ピエロは明かりと暗がりの境で、くるりと回った。
一歩だけ明かりへ出て、《挑発》をもう一度かける。大狼がこっちを向いたときには、ピエロはもう暗がりへ戻っている。
足音は1つもしない。自分の体なのに、どこにいるのか僕まで見失いそうになる。
大狼が誰もいない明かりへ跳びかかった。
何もない所で、牙が鳴る。
『消えた』
『どこだ』
『狼が誰もいない所向いてる』
『画面暗くて見えん』
「どこを見ている」
暗がりの別の所から、声だけが出た。僕の口からだ。
大狼は遅れて、声のほうへ首を回す。そのころには、ピエロはもう反対の縁にいた。
柄を杖みたいに斜めに持って、ピエロが明かりへ一歩だけ出る。
その向こうで、大狼がまた誰もいない明かりへ跳んで、空をかんだ。
さっきまで床を滑らされていたのが、うそみたいだ。
『声だけする』
『ホラーかよ』
『狼が遊ばれてる』
『シャンデリアって暗がりのことか』
大狼が床へ降りたとき、その頭が一瞬だけ、がくりと下がった。
降りるたびに、左の前脚が沈む。
僕が入れた所だ。
ピエロは何も言わない。僕の目で、暗がりの縁を見たままだ。
気づいているのかどうかも、中にいる僕には分からなかった。
次の一回は、近すぎた。
向き直った大狼の鼻先が、暗がりから出かけた僕の肩のすぐ前を通る。生ぐさい息が頬にかかる。
ピエロはその息の中で、ほんの一瞬だけ止まってみせた。今度は、わざとだ。
大狼が口を開けたときには、もうそこにいない。空を切った牙の音が、背中の後ろで鳴った。
見ている僕のほうが、先に心臓がもたなくなりそうだ。
『今かすった?』
『ギリギリで遊ぶな』
『黒手袋性格悪いw』
【《挑発》がLv2になりました】
半年、1だったのに。
暗がりの縁で何度も《挑発》をかけたのは、ピエロだ。僕はスキルptを払っていないし、半年使っても上がらなかった。それを一度の戦いで上げられて、背中の奥が少しだけ冷えた。
腕の画面のコメントは、まだ笑っている。
次に《挑発》をかけたとき、大狼は追ってこなかった。
暗がりの縁まで来て、そこで頭を低くして伏せる。灰色の目だけが、明かりの側を向いていた。
同じ手を、もう覚えたのだ。
暗がりの奥から、ピエロがもう一度、《挑発》をかける。大狼は耳だけをぴくりと動かして、伏せたまま動かなかった。
顔はこっちを向いている。《挑発》は効いているのに、追ってこない。
『狼が動かなくなった』
『待ち伏せしてる』
『黒手袋出てこれないじゃん』
ピエロが僕の体を動かしていられる時間が、体の芯で細りはじめている。
ピエロが明かりへ出た。
大狼が床からはがれるように前へ出る。跳ばない。低いまま、まっすぐに来る。
大狼の肩が僕の胸に入った。
足が床を離れる。転がろうとした体ごと、灰色の重さに運ばれていく。
壁まで、押しこまれた。
さっき体当たりを受けた脇腹に、また重さが入った。肩と腰に、新しい打ち身が増えていく。
息が吸えない。
「……客人方。少々、近すぎる席だ」
大狼の額と僕の胸のあいだに、黒い柄が1本だけ挟まっている。大狼が額を寄せるたびに、その柄ごと胸が壁へめりこんでいく。
今度は、コメントが笑わなかった。
『やばい』
『黒手袋が追い詰められてる』
『壁際』
『押しつぶされる』
『逃げて』
背中に石の壁がある。
息のかかる近さで、灰色の顔が低くうなっている。
ピエロが僕の体を使っていられる残りの時間が、体の芯でまた細くなった。




