第35話 引き返す
10層の中間ボスの大狼は、ボス部屋のどこで目を覚ますんだろう。
月曜の放課後、僕は10層のいちばん奥、ボス部屋の入口に1人で立っていた。配信はしない日だ。ドローンも鎌も、自分の部屋に置いてきた。
入口の外で順番を待つ組も、今日はいない。
台所の紙には『10層』と『7時』と書いて貼ってきた。帰りが7時を過ぎて連絡もなければ、母が協会に電話する。父が決めた約束だ。
ここまでの道で天の声が1度だけ鳴った。
【レベルアップ。Lv15からLv16になりました】
コボルトのも、さっき走ったのも、りっちゃんだね。結衣ねえから届いたその1行に、僕はまだ返事をしていない。
返す言葉を探すより先に、自分で確かめられるほうを片づけたかった。
このボス部屋に4人組が挑んだ日、リーダーは「中ほどより前で起きたぞ」と叫んだ。協会の資料では、中ほどまで踏みこまれるまで起きないはずだった。
なのに僕が見たことを伝えかけると、同じ口で「資料どおりだ」と遮った。
リーダーの「資料どおりだ」は嘘だった。
大狼がどこで起きるのか、あの人は配信の子に教える気がない。だったら自分の目で見る。
ボス部屋の奥は今日も暗い。
《気配察知》を伸ばすと、暗がりの底で大きな気配が1つ触れた。伏せたまま動かない。
「今日は、奥まで行かないよ」
口に出して言った。言っておかないと、足が勝手に前へ出そうだった。
「右の壁ぎわを、一歩ずつ入るだけ。……気配が動いたら、すぐ戻る」
(好きにしろ。次の土曜は、少年が先に舞台に立つ)
土曜の配信で大狼とやり合うとき、先に戦うのは僕だ、という意味らしい。ピエロは入口の壁に片脚でもたれて、それきり黙った。
右の壁に肩を寄せて、ボス部屋へ入った。入口の明かりが背中に当たっている。
一歩ごとに、肌で奥を確かめる。気配は止まったままだ。
吐く息の音まで、足音より小さくした。
怖い。でも、どこで起きるかを知らないまま、次に配信でここへ立つほうがもっと怖い。
リーダーが叫んだあたりを過ぎた。
気配が動いた。
僕は足を止めた。戻ると言ったのは僕だ。
……でも、こっちへは来ない。
近づいてくるなら、肌がもっとざわつく。今の動きは、近づきも遠ざかりもしていない。
だったら、もう一歩だけ。
暗がりに目を凝らす。起きる所を見るなら今だ。
気配の向きがゆっくりずれていく。正面から左へ。
まだ近づいてはこない。
左から、さらに後ろへ。
気配は僕の後ろへ回っていく。
振り向いた。
入口の明かりの手前に、灰色の背がある。
大人の背ほどの大狼が、僕と入口のあいだで、こっちを向いて立っている。爪の音は一度もしていない。
眠ってなかった。
近づいてこなかったのは、暗がりの縁をぐるりと回って、僕の後ろへ出ていたからだ。
さっきまで僕の背中に当たっていた明かりが、今はあれの背中に当たっている。
ボス部屋を出れば、あれは追ってこない。4人組が挑んだ日に、入口の外からこの目で見た。
出られれば、の話だ。
考えるより先に、僕はいつものとおりに動いていた。
《挑発》。
灰色の顔がぐいと僕へ向いた。大狼が入口の前から一歩、二歩と出てくる。
来い。こっちへ来れば、入口の前が空く。
強い相手ほど、挑発が切れる前に抗う。店長に聞いたとおり、早めに数えて、もう一度使おうとした。
その前に、大狼が首を大きく振った。
……早い。
灰色の目が、僕から外れる。
振り切られた。
《挑発》。
……《挑発》。
大狼はもう、僕の声に顔を向けない。
入口を背にしたまま、頭を低くして、ゆっくり詰めてくる。
気づいたら、ポーチの撒き菱の袋に手を入れていた。
とがった粒をひとつかみ、足もとの前へ撒く。逃げるたびに、半年そうしてきた手だ。
粒が石の床に散って光った。
大狼の鼻先が粒の手前で止まる。
踏まない。
灰色の体が粒の縁を横へ回ってくる。
ひとつかみじゃ止まらない。
明かりを背負った大狼と、壁に背中をつけた猫背の僕。そのあいだで、踏まれなかった粒だけが光っている。
回りきった灰色の鼻先は、もう粒より僕に近い。
(退け、少年。ここは、舞台ではない)
体の中でピエロの声がした。笑っていない。
僕が気を失うのを、いつも待っている声だった。
退く先はあれの後ろにある。
横をすり抜けようにも、あの脚の速さは、4人組が挑んだ日に入口の外から見ている。
大狼が頭を下げた。
後ろ脚がたまる。
跳んでくる。
前へ。
頭を抱えて、灰色の胸の下へ転がりこむ。
腹の下の暗いすき間を、背中で抜ける。
左の腕に、後ろ脚がたたきつけられた。
膝はつかない。もう1回、転がる。
背中の向こうで、大きな体が降りる音がした。
少しの間、何も来ない。
入口の明かりへ体を投げ出した。
入口の外。
振り向くと、大狼が入口の手前に立っていた。
手を伸ばせば届く所から、灰色の目が僕を見ている。
動けない。
僕の靴の先は、白っぽく踏み固められた入口の床の、すぐ外にある。あと半歩、内側だったら。
大狼は向きを変えて、奥の暗がりへ戻っていった。気配は暗がりの底でまた止まる。
通路の壁に背中をつけたまま、ずるずると座りこんだ。
立とうとしても、膝が言うことを聞かない。
生きている、と分かったのは、そのあとだ。
「……動いたら戻るって、言ったのにね」
ピエロは何も返さなかった。
入口から、ボス部屋の床をのぞいた。
壁ぎわで、撒いたひとつかみが光っている。その奥に、袋が1つ落ちていた。転がったときに、ポーチからこぼれたらしい。
撒き菱の袋は部屋の中だ。
ダンジョンは置いていった物を消さない。それでも、拾いに入れば、またあれの前に立つことになる。
どこで起きたのかも分からない。
伏せて止まっている気配も、起きて止まっている気配も、肌には同じに触れる。
答えを1つも持ち帰れなかった。
遅れて、左の前腕が熱くなってきた。
袖をめくると、手首の上が赤黒くふくらんでいる。
震えが引いて、やっと立てたとき、腕のスマートフォンを見た。
約束の紙に書いた7時が、もうすぐそこまで来ている。
立ったばかりの足で走った。
◇
玄関を開けたのは、7時を何分か過ぎたころだった。
台所で、母が受話器を持って立っていた。
冷蔵庫の扉に貼った紙の、『7時』の前だ。母は親指をボタンにかけている。
あと少しで押されていた。
母は僕に気づいて、受話器を台に戻した。1度では収まらずに、2度目でやっと台に収まる。
「……おかえり」
それだけだった。
「……ただいま」
僕もそれしか言えなかった。
テーブルの僕の席で、ラップをかけた皿が冷めている。
走れば間に合うと思って、電話をしなかったのは僕だ。
左の袖は下ろしたままにした。腕のことは伏せている。
あのリーダーは「資料どおりだ」と言って、本当のことを伏せた。今の僕と、どこが違うんだろう。
潜った日は道具屋に寄って、店長に手袋を見せる。その約束も、今日は守れなかった。
部屋に上がって、ベッドの縁でステータスを開いた。スキルptは10ある。
腕が治るまで、投げる練習はしばらくできない。
《投擲》の名前を念じると、届く距離と正確さが上がる、という短い説明が出た。使うスキルptは2だ。
はい、と念じる。
【《投擲》がLv2になりました】
右手を握って、開いてみる。何かが変わった感じはしない。
ボス部屋で、あのひとつかみを撒いた手のままだ。
窓枠にピエロがもたれている。
受話器のボタンに親指をかけた母の姿が、まだ目の奥に残っている。
それでも、言うことは帰り道で決めていた。
「……土曜、配信で、あれに挑むよ」
「僕1人じゃ、届かなかった。カメラのある日なら、きみに体を貸せるから」
(演目は、もう決めてある)
「え。……どんなの。題くらい、教えてよ」
(客人より先に、少年に明かす題はない)
「……そういうとこ、ずるいよ」
ピエロは笑うだけだった。
これまで付けてきた題で、物騒じゃなかったものは一度もない。
メモ帳を開く。資料から写した大狼の行の終わり、『近づくと起きる』の横は、どこで起きるかを書くはずの所で、今日も空いたままだ。
続けて、『10層 中間ボス』の横に鉛筆で書き足す。
土曜。
窓枠のピエロが、機嫌よく顎を上げた。




