第34話 ボス部屋の前
「下がれ!」
太い声が通路の先から跳ね返ってきた。
角を抜けると、10層のボス部屋の入口だった。扉はなく、入口のまわりの床だけが、大勢の靴に踏み固められて白っぽい。
中では、4人組の冒険者がもう戦っていた。さっきの叫び声は、挑んでいる側の声だったんだ。
中間ボスに挑めるのは1組ずつで、戦っている組がいる間、ほかの組は入口の外で待つ。講習の冊子に大きく載っていた決まりだ。
分かっているのに、足の裏が前へ出たがってむずむずする。
入口の脇の壁に背をつけて、ドローンだけを入口の縁の高さまで上げた。さっきのゴブリンの群れでピエロと入れ替わり、体を使わせたせいで、腰と左脚はまだ筋肉痛で重い。
腕の画面に、天井の高い広間が映る。
手前で盾を構えた前衛が2人、その後ろに2人。装備のそろい方からして、僕よりずっと場数を踏んでいる人たちだ。
4人の向こうに、灰色の背中があった。
狼だ。
ただ、大きさが違う。頭が大人の背丈と同じ高さにある。
木曜に8層で見たウルフの、倍ではきかない。画面越しなのに、唾がうまく飲みこめない。
『中ボスだ』
『でかい狼』
『でかすぎん?』
『大人くらいあるぞ』
『これ4人で勝てるの』
ヘラルドの名前でやっている僕の配信の同時接続数が、2万2千まで上がった。
(客人が増えたな)
隣のピエロが低く言った。配信の日にピエロが出るのは1回という約束で、その1回は、さっきの群れで使い切っている。声にいつもの弾みがない。
首から下げたメモ帳をめくって、道具屋の帳場で協会の資料から写したページを開く。『ダイアウルフ 急所=首の後ろの付け根 奥に伏せる 近づくと起きる』と、自分の字で書いてある。
資料によれば、狼が起きるのは、広間の中ほどまで踏み込まれたときだ。
4人組はまだ入口寄りにいる。あそこなら、起こさずに陣形を組めるはずだった。
「中ほどより前で起きたぞ!」
後ろにいる男の人が怒鳴った。リーダーらしい。
起きた所が、資料よりずっと入口寄りだ。
中間ボスは頭を低く下げたまま、盾に鼻先を押しつけていた。
盾を持った2人の靴が、石の床の上をずるずる後ろへ下がっていく。盾を2枚並べても押し返せていない。
『押されてる押されてる』
『パワー違いすぎ』
低く下げた頭の後ろで、肩の毛が盛り上がっている。首の後ろはほとんど見えない。
急所を自分の頭でふさいでいるんだ。
灰色の後ろ脚がぐっと沈みこむ。
跳ぶ気だ。
画面だけじゃ足りなくて、入口の縁から顔を半分出した。
「来るぞ!」
灰色の体が盾めがけて跳んだ。
宙で、低かった頭が持ち上がる。首の後ろの付け根が、天井の光の中にさらされた。
剣の人が腹の下へ潜りこんで、突き上げる。
届かない。
切っ先は首のずっと手前で空を切った。
『空振り』
『今の惜しい』
惜しくはなかった。切っ先から首の後ろまで、まだ腕1本ぶんあった。
跳ばせて下から突く。あの4人が組んできた形は、きっとこれだ。
「下がれ!」
リーダーの声で、剣の人が盾の後ろへ跳び退く。
灰色の体が盾の前に4本の足で降りた。
そこで、止まった。
メモ帳のウルフの行が頭をよぎる。着地のあと少しの間止まる、と書いた行だ。
大人の背の高さにあった頭が、がくんと沈む。頭と一緒に、首の後ろの付け根が下りてくる。
入口の縁からのぞく、僕の目の高さまで。
今なら、届く。
誰も、そこにいない。
灰色の頭がゆっくり上がっていく。首の後ろの付け根は、また盾の人の頭より高く戻った。
止まった間に、狼の頭の横に1人いれば、首の後ろを刺せていた。
隣のピエロも、黙って同じ所を見ている。
次は跳ばなかった。
低い頭のまま、中間ボスが盾ごと前衛にぶつかる。
鈍い音がした。
盾1枚で、あの体当たりを受けたんだ。
盾の人の体が横へ飛んだ。石の床を2回転がって、起き上がらない。
『うわ』
『飛んだぞ人が』
4人でも、こうなるのか。
「引け!」
2人が倒れた人の腕を肩に回して、担ぐように走り出す。剣の人は後ろ向きに下がってくる。
うまい下がり方だと思う。思うけど、追われている。
灰色の体が追ってきた。画面の中の狼が、どんどん大きくなる。
『こっち来てない?』
『ヘラルド逃げろ』
ボスは部屋から出てこないと、資料にはある。ついさっき、その資料は間違っていた。
壁に背をつけたまま、体が勝手に固くなった。
4人組が入口から転がり出てきた。
担がれた人の盾は、真ん中からへこんでいる。
すぐ後ろで、灰色の体が止まった。白っぽい床の、内側の端だった。
近い。
鼻先がこっちを向いている。
気づいたら、僕は4人組と狼の間へ踏み出していた。
『え、もう行ってる』
『ヘラルドがまた最初に行った』
『狼まだそこにいる!』
『いつもこの人が一番だよな』
灰色の鼻先が一度だけ僕のほうで止まった。それから狼は背を向けて、奥の暗がりへ戻っていく。
広間の外へは出ない。そこだけは資料のとおりだった。
「そ、そこに、寝かせてください。……あの、頭は、打ってないですか」
「……腕だけだ」
盾の人の左腕は、肘の上から赤く腫れていた。そっと曲げてもらっても、骨の向きはおかしくない。打ち身で済んでいる。
ポーチから傷薬と包帯を出す。店で何百回も、お客さんに巻き方を見せてきた包帯だ。
膝は今ごろ笑い出しているのに、巻く手だけは迷わなかった。
「……悪い。助かった」
盾の人が歯の間から言った。包帯を巻いたほうの手で、僕の袖を一度だけつかむ。
『礼言われてる』
『ヘラルド照れてて草』
照れてはいない。返す言葉が見つからないだけだ。
リーダーが横に膝をついた。僕の首のメモ帳と、上に浮いたドローンを順に見る。
「……配信の子か」
「悪いが、カメラはこっちに向けないでくれ」
静かな言い方だった。静かなぶん、断れない。
ドローンを壁のほうへ向けた。腕の画面が、灰色の石だけになる。
見ている2万2千人に、壁を見せている。
『壁』
『なんで壁』
『顔出しNGか』
『何かあった?』
リーダーは入口の奥の暗がりを一度見てから、言った。
「この部屋に挑む順番は、まだ俺たちだ。こいつの腕が済んだら、また来る」
冊子に載っていたのは、挑めるのは1組ずつ、までだ。いったん引いた組が順番を取っておける、とは書いてなかった。
そもそも僕は、入口を見に来ただけなのに。
それでも、さっき狼が着地して止まった少しの間のことが、喉まで来ていた。
また来るなら、次は崩れないでほしい。
「あ、あの、と、跳んで、降りたあとに、く、首が……」
「あの狼は、全部資料どおりだ」
リーダーは、壁を向いたドローンを一度だけ見た。
「配信の子が、口を出すな」
盾の人は、さっき僕の袖をつかんだ手を引っこめて、目をそらした。
『は?』
『さっき前で起きたって叫んでたろ』
『音入ってるぞ』
『嘘だろ』
『助けてもらってそれかよ』
言いかけた口のまま、僕は黙った。
途中で切られるのは慣れている。僕の声はたいてい最後まで届かない。
『ヘラルド言い返せよ』
『言い返さないのがヘラルドだろ』
4人組は盾の人を支えて、上の層へ戻っていった。
盾の人は、角を曲がるまで一度もこっちを見なかった。
入口の前には、僕とドローンだけが残る。入口の外から《気配察知》を奥へ伸ばすと、暗がりの底に大きな気配が1つ伏せていて、息をしているのかも分からないほど動かない。眠っているみたいだ。
(少年。あれは、私の一幕の相手だ)
ピエロは暗がりから目を離さなかった。僕は返事をしないで、ドローンを壁から戻す。
「……き、今日は、ここまでです。見てくれて、ありがとうございました」
配信を閉じてから、首のメモ帳を開いた。ウルフの行の下に、鉛筆で『大狼 降りたあと少し止まる 首の後ろが下りる』と書く。
その下に、どこで起きるか、と書きかけて、鉛筆が止まった。
それを知っている人たちは、教えてくれなかった。
◇
9層へ上がる階段の途中で、腕のスマートフォンが短く鳴った。
結衣ねえからだ。僕は今日のことを何も送っていない。
開くと、1行だけだった。
コボルトのも、さっき走ったのも、りっちゃんだね、とあった。
りっちゃんは、結衣ねえが昔から僕を呼ぶ名前だ。コボルトの喉を突いたのも、けが人へ走ったのも僕自身だと、結衣ねえは見ていた。
次の段に足が出ない。
ごめん、と打ちかけて、消した。
この1行に返すのは、ごめん、じゃない。
じゃあ、何て打てばいいんだろう。
その1行は画面に出たままだ。
僕の指は止まったままだった。




