第32話 一拍遅い合図
灰色のウルフが床を蹴った。
僕は両腕で頭を抱えて、横へ転がった。さっきまで首のあった高さで、牙が空を噛む音がした。
膝はつかない。転がった勢いのまま足の裏で床をとらえて、立ち上がる。
おととい教わった受け身が、ちゃんと体に入っていた。
今日は木曜で、配信しない日だ。台所の紙に行き先の「8層」と書いて、ドローンは家に置いてきた。
「はぐれのウルフを1人で引き付けてみろ。まずいと思ったら、自分が下がれと言って割って入る」
部屋に入る前に、久我さんはそう言った。
今、久我さんは僕から2歩離れた出入り口に立っている。右手を剣の柄に置いたままで、ウルフを見ていない。
僕の顔を見ている。
守ってくれる人に顔を見られていると、思っていたより背中が落ち着かない。ウルフより先に、久我さんの目に気を取られそうになる。
ウルフが低い姿勢のまま、壁ぎわを回りこむ。大きな犬ほどの背中が、出入り口のほうへ流れかけた。
そっちはまずい。考えるより先に、口が開いていた。
「こ、こっち! ……こっちだよ、こっち見て」
声と一緒に《挑発》を使う。
ウルフがぐるりと顔を僕へ戻した。
出入り口に立っているのは今日の僕の先生で、そっちへ行かれたら、1人で引き付ける意味がない。
《挑発》の効き目が切れかけると、強い相手は振りほどこうとする。だから、切れる前にもう一度かける。店長に聞いたやり方だ。
8層の相手で、振りほどかれるかどうかを試す度胸は、僕にはない。
ウルフが跳びかかってくるたびに、両腕で頭を囲って、半身でよける。
1度。2度。
灰色の毛が腕のすぐ外を流れていく。
怖い。それでも僕は、腕の間から、ウルフが跳ぶ少し手前を見ていた。店の棚で刃こぼれを探すときと同じ目だ。
跳ぶ前に、毎回何かがある気がする。何があるのかまではまだ分からない。
ウルフが狙ってくるのは、脚と喉ばかりだった。止まって待っている相手の、いちばん柔らかい所だ。
だから、僕は止まらない。半歩ずつ位置を変えて、跳ばれるたびによける。
よけるだけなら、何度でもできる。短剣のほうは、まだ一度も前へ出せていなかった。
出そうとするたびに、重さがかかとに残って、足が床から離れない。おととい7層で試したときと同じだ。
3度目で、牙が構えた肘をかすめた。
腕ごと持っていかれて、足がもつれる。床に手をつく前に、どうにか踏みとどまった。
「下がれ」
久我さんの声が来たのは、僕が自分で立て直したあとだった。割って入る合図にしては、一拍遅い。
もう立てているのだから、下がる理由はない。僕は足をその場に置いたままにした。
もう一度かけた《挑発》で、ウルフがまたこっちを向く。
4度目の跳びかかりは見えなかった。出入り口の久我さんへ、目がそれた一瞬だった。
右肩に重いものがぶつかった。
肩当ての上から、牙ごと肩を押しつぶされる。
骨の奥で鈍い音が鳴った。
目の前が、白くなった。
音が遠い。耳の内側で、自分の息だけが大きい。
膝から力が抜けていく。
足の裏に、床の固さが感じられなくなっていく。
久我さんの「下がれ」が来ない。
カメラはない。
前に6層で気を失ったとき、目を開けると、僕の短剣は知らない人の首の指一本手前にあった。カメラに映らない人を、ピエロは守らない。
ここで気を失えば、ピエロが僕の体で久我さんの首へ行く。
僕が気を失ったら何が起きるか。それを知っているのは、この部屋で僕と、ピエロだけだ。
白い視界の端、僕の肩の後ろに、ピエロがいた。
ピエロは何も言わない。急かしもしない。
ピエロの目は、出入り口に立つ久我さんの首を見ている。
その向こうで、久我さんが一歩出かけて、止まった。
「……下がれ!」
来た。さっきと同じで、一拍遅れて。
膝はつかない。
抜けかけた膝を、そのまま横へ倒した。頭を抱えて転がり、ウルフとの間を空ける。
肩が床に当たって、息が詰まる。それでも、教わったとおり頭は床に打たなかった。
起き上がっても、目の前はまだ白い。白い中に、ウルフの灰色の体だけが見える。
あと何度よけられるかは、数えないことにした。数えたら、先に膝が折れる気がした。
さっきまで見ていたものは、白くなっても消えていなかった。
跳ぶ前に、ウルフは頭を下げて後ろ脚をためる。降りたら、向き直るまでに一拍止まる。
ウルフの頭が、下がった。
跳んだ。
僕は半歩だけ横へよけた。ウルフはさっきまで僕のいた床へ落ちた。顔はまだこっちを向いていない。
幼なじみの結衣ねえに、家の門の前で言われたことがある。前に出るとき、りっちゃんの重心は後ろに残ってる、と。
今も、重さはかかとに残っていた。
その重さを、つま先へ移す。
踏み込んだ。
僕の短剣が、向き直る前のウルフの首に入っていた。
ウルフの体がほどけるように消えて、床に魔石が1つ転がった。
【レベルアップ。Lv13からLv14になりました】
出入り口から、靴音が1つ、遅れて届いた。
割って入るはずだった久我さんの一歩は、ウルフのいなくなった床を踏んでいた。
(自分から行ったな、少年。見事だ)
肩の後ろから聞こえたピエロの声は、笑っていなかった。からかいも注文もついてこない。
今になって、短剣を下げた手が震えだす。
白かった視界のふちに、部屋の壁の色が少しずつ戻ってくる。
久我さんが目の前まで来た。剣の柄から手を下ろして、僕の目をのぞきこむ。
「名前と、今日の日付」
「白瀬、律です。……今日は、木曜で」
日付まで言い終えると、久我さんは太い指を1本、目の前で左右に振った。前に6層で後ろ頭を打って倒れた日にも、同じやり方で確かめられた。
白さの抜けてきた目で、どうにか指を追う。追い終えると、久我さんは指を下ろした。
それでも久我さんの目は、僕の顔からなかなか離れない。前髪の下の何を見ているのか、僕には見当がつかない。
「……立ってたな」
それだけだった。
無精ひげの顔に浮かんだのが、ほっとした顔なのか、ほかの何かなのか、僕には分からない。
「今日はここまでだ。肩、冷やしとけ」
「……はい」
久我さんは床の魔石を拾って僕の手に落とすと、先に出入り口へ戻っていった。
背嚢を背負った背中は、帰りの階段まで一度も振り向かなかった。
◇
夜、ベッドの縁でメモ帳を開いた。
足の裏には、つま先へ重さが移った瞬間の感じがまだ残っている。かかとは今日、床に残らなかった。
右肩は湿布の下で、まだ熱い。腕を上げると、肩当ての形どおりに鈍く痛む。
8層で見たものを、忘れないうちに書いておく。
ウルフ 跳ぶ前に頭が下がる 着地のあと一拍
今日の部屋で、いちばん役に立った1行だ。たぶん、次も役に立つ。
鉛筆の先で、部屋の中のことを最初から思い出していく。
肘をかすめた3度目。肩を打たれた4度目。思い出すたびに、同じ所で引っかかった。
久我さん 下がれが一拍ずつ遅い 目はずっと僕の顔
書いた字を見下ろす。ほかの行より、鉛筆の跡が少しだけ濃い。知らないうちに、強く押しつけて書いていた。
なぜそこで力が入ったのかは考えなかった。鉛筆はもう次の行に、右肩の打撲と書いている。
窓枠のピエロは何も言わない。
ピエロの目は、僕の字の上で止まっていた。




