第31話 倒れない戦い方
「久我さんが、中層に行っていいって言うなら」
椅子を引くより先に、母がそう言った。
日曜の朝の台所だ。答えは朝まで待ってくれ、と父に言われたゆうべから、ろくに眠れていない。
父はもう食卓について、講習の冊子を湯のみの横に置いている。
母の今の一言が答えだと、すぐには分からなかった。
ゆうべ正面から反対した母の口から出てくるのは、やめて、だと思っていた。
「反対なのは、変わらないからね」
「でも、お母さんが見たって、あなたが中層で大丈夫かどうかなんて、分からないもの」
母の目の下がうっすら青い。眠れなかったのは僕だけじゃなかった。
「2回も、あなたを助けてくれた人だから。あの人の目のほうが、お母さんの目より確かでしょう」
父が冷蔵庫の扉へ顎を向けた。台所に貼った約束の紙には、土曜に書いた『9層』がまだ残っている。
「紙は、今までどおりだ」
やめて、とは最後まで言われなかった。
ゆうべから肩に入っていた力が、一度に抜けていく。
「……うん」
ありがとう、まで言いたかったのに、喉の手前で詰まった。
「今日、協会に電話して、頼んでみるね」
母はもう、協会の電話番号を探しはじめている。
(衛兵か)
ピエロは、ダンジョンを見回る久我さんを、城の見張りになぞらえて衛兵と呼ぶ。その名を口にしたきり、台所の隅で黙った。中層と聞けば、真っ先にはしゃぎそうなものなのに。
変だとは思った。
でも、かじったトーストに、やっと味がした。今はそっちのほうが大事だ。
◇
「坊主のお母さんから、電話をもらったぞ」
火曜の放課後、協会の受付の前で、後ろから呼び止められた。
振り向くと、巡回員の黄色い腕章を巻いて大きな背嚢を背負った久我さんが、目の前にいた。
「見極めは、引き受けた。巡回の合間に、上層で見てやる」
「お母さん、電話の向こうで何度も頭を下げてたぞ。見えなくても分かる」
受話器を耳に当てたまま、台所でお辞儀をしている姿が目に浮かぶ。
僕を背負って帰ってくれた人が、今度は、僕を中層へ行かせていいかを、自分の目で見に来てくれる。怖さより先に、背中を支えてもらった気がした。
「……よろしく、お願いします」
頭を下げると、久我さんが僕の後ろ頭に目を止めた。6層で打った傷の、髪の下に残ったかさぶたのあたりだ。
久我さんは何も言わず、すぐに目を戻した。
受付の柱に、ピエロが斜めにもたれていた。
(衛兵のお出ましだ)
ピエロが、久我さんの無精ひげから首のあたりへ、ゆっくり目を下ろしていく。
前に6層で、前を歩く男の首を、斬れるかどうか値踏みしたときと同じ目だ。
「先に言っとくぞ。自分が知ってるだけで、坊主は3度倒れてる」
最初に潜った日の6層と、2週間前の6層と、処刑人に打たれた日だ。
3度とも、僕は途中で気を失っていた。
「だから、教えるのは、倒れない戦い方だ」
僕が知らない分まで、きっちり数えられていた。
僕は自分の靴の先に目を落とす。
「……勝ち方じゃ、ないんですね」
「勝ち方は、そのあとだ。倒れた奴は、何も持って帰れんからな」
僕の場合は、気を失えば、その間の記憶ごとどこかへ置いてくる。笑えない話だ。
◇
7層の通路の脇の、腰を下ろせるくぼみで、久我さんが背嚢を下ろす。
「腕を上げて、顎を引け。腕の間から見ろ」
「目はつぶるな。つぶったら、次が見えんぞ」
頭を守る形は、腕を上げるだけの簡単なものだった。簡単なのに、顎を引くのを何度も忘れて、そのたびに太い指で額を押し戻された。
受け身は久我さんが先に一度やってみせる。大きな体が石の上で音もなく丸まり、起きたときには、もう腕が上がっている。転んだようには少しも見えない。
次は僕の番だ。膝をつかずに肩から丸まって転がり、起きたら、すぐ相手から一歩離れる。
店長に言われて毎晩続けてきた柔軟が、こんな所で役に立った。体は思ったより素直に丸まってくれる。
「膝はつくな。つくと、次に立つのが一拍遅れるぞ」
何十回目かで、肩と腰がじんわり痛み出した。それでも、転がったあとの足が、前より早く床をつかんでいる。
起き上がるたびに、久我さんと目が合った。通路の先には一度も目をやらず、僕の体と顔だけを見ている。
最後に言われたことは、首から下げたメモ帳に書いた。
頭を守る。膝をつかずに転がる。入る前に出口を見る。
久我さんが、書き終えた僕の手もとをのぞいた。
「出口は、打たれてから探すんじゃ遅いぞ」
くぼみから少し先の、広い部屋の前で足を止めた。
部屋の出入り口は、手前と奥の2つだ。手前は、僕たちが歩いてきた通路へ戻る。奥のほうは暗い通路へ続き、その先へはまだ入ったことがない。
だから出口は、手前だ。
出口の脇で、久我さんが腕を組んだ。
(衛兵は、見物か)
見物じゃなくて、見極めだよ。ここで声に出すわけにはいかないので、言い返すのは頭の中だけにしておく。
部屋の真ん中まで進んだところで、《気配察知》が肌をなでた。奥の通路の向こうで、低いものが何匹も、床をこすって近づいてくる。
犬ほどもある黒いアリが、5匹、暗がりからこぼれ出てきた。キラーアントだ。
群れで足元から来る相手は、7層でいちばん苦手だった。
ポーチの手袋を右手にはめて、短剣を抜く。
「こ、こっち……こっちだよ」
《挑発》に、5匹のアリの顔がいっせいに僕を向いた。久我さんのほうへは1匹も行かない。
いつもの癖で、考えるより先に、体がそうしていた。
先頭の1匹が顎を鳴らして這ってくる。
結衣ねえの家の門の前で言われたことを思い出した。前に出るとき、僕は重心が後ろに残っている。
重心を前へ。
右足を踏み出す。なのに、体が右足の上に乗ってこない。かかとが床に残っている。
突き出した短剣は、アリの頭の手前で空を切った。
短剣が届かない。
アリの顎が、さっきまで僕の膝があった所で鳴る。慌てて跳び下がった。
言われたとおりにやったつもりで、まだ、僕の足は前に出ていない。
悔しくて、奥歯をかんだ。
下がった僕の両脇へ、残りの4匹が広がっていく。
左右に2匹ずつ。正面の1匹だけが、動かずに顎を開いたままだ。
左右の端が、少しずつ、僕の後ろへ回りこんでくる。
出口が遠くなる。
右の端にいたアリの黒い背が、僕と出口の間に半分かかった。あと半歩で、ふさがる。
囲まれる前に、出口へ。
腕を上げて、顎を引く。
腕の間から出口だけを見て、後ろへ下がった。
右の端のアリが出口の前へ滑りこむ。
短剣で、横から払った。
アリが壁際へ転がる。
その脇を抜けて、通路へ出た。
腕を下ろすと、すぐ横に久我さんがいた。腕を組んだまま、剣の柄に手もかけていない。
群れには目もくれず、久我さんは僕の顔を見ていた。
「それでいい」
褒められたのか、確かめられただけなのか、僕には分からない。どちらでも、胸の奥が少し熱くなった。
息を吐いたら、膝から力が抜けかけた。つくなと言われたばかりの膝を、慌てて伸ばす。
通路はアリが1匹ずつしか通れない幅だった。出てくる順に、頭と胸の継ぎ目を狙って、3匹を魔石に変える。残りの2匹は奥の通路へ帰っていった。
部屋の真ん中では1匹にも届かなかったのに。
(衛兵の作法か)
ピエロが通路の壁にもたれて笑っていた。
(入る前に逃げ道を数え、群れに背を向けて下がる。臆病な芸だ)
背中は向けてない。腕の間から、ちゃんと前を見て下がった。
◇
7層を出るころには、転がった数だけ、肩と腰が歩くたびに文句を言うようになっていた。
6層へ上がる坂の途中で、前を歩く久我さんが口を開いた。
「坊主。倒れる直前、何を考えてる」
6層で処刑人の警棒に打たれて気を失う前、最後に何を思ったか。
作業服の肩が沈むのが見えて、体が一手遅れた。思い出せるのはそこまでだ。
思い出しきる前に、僕は答えていた。
「……倒れたら、帰れない、ので」
嘘じゃない。けれど、本当のことの半分だ。
僕が気を失えば、ピエロが僕の体を勝手に動かす。ピエロが守るのはカメラに映る人だけで、カメラの回っていない日は、そばにいる人にも刃を向ける。残りの半分は、喉の奥で止まったまま出てこない。
「そうか」
それだけだった。久我さんは振り返って、僕の顔を少し長く見た。
ピエロのことを言わずに済んで、ほっとしている自分がいた。
入口へ上がる最後の階段で、久我さんが振り向かずに言った。
「次は、坊主がどこまで立っていられるか、見る」
「限りが分からんと、倒れない戦い方も教えようがないからな」
足の裏から、冷たさが上ってきた。
カメラのない日に、久我さんの前で気を失ったら。
先を上る大きな背嚢が、一段ずつ遠くなる。
手すりにもたれたピエロが、黙ってその背中の、首のあたりへ目を下ろしていった。




