第30話 上層だけの約束
食卓に、僕の講習の冊子が開いていた。
配信から帰ってきた、土曜の夜だ。今夜言うことを、帰りの自転車をこぎながら何度も言い直してきた。
僕が椅子を引くと、父は黙って冊子を閉じた。
見られて困る物をしまうみたいな手つきだ。
閉じた冊子は僕に返されずに、父の椅子の横へ置き直された。まだ返すつもりはないらしい。
冊子の角は、僕が持っていたころより丸くなっている。何度も開いた跡だ。
冒険者証を取ったとき、協会の講習でもらった冊子だ。閉じる前に、ゴブリンの絵がちらっと見えた。上層のモンスターのページだ。
半年のあいだ僕の部屋の棚で背表紙を見せていただけの物が、どうして父の手もとにあるんだろう。
表紙の上から、新聞の端をちぎったしおりがのぞいている。
日付を見ると、僕が協会から帰った次の朝、火曜の新聞だった。
ふだんの父が読むのは新聞と、テレビの天気予報の字幕くらいなのに。
何も聞かれなかったこの何日か、父はゴブリンの絵を黙って読んでいたことになる。
冷蔵庫の扉には、潜る日に行く層と帰る時刻を書いて貼る、父との約束の紙が残っている。今朝『9層、6時』と書いたとおりに帰ってきた。
腰と左脚の筋肉痛で、座るのに一拍かかった。配信で、ピエロが僕の体を動かして戦った分だ。
冷蔵庫の脇では、ピエロが斜めにもたれて、今日の口上を小声でなぞっている。視聴者が沸いた日のピエロは機嫌がいい。
母が焼き魚の皿を並べて、向かいに座った。
「そうだ。あの日ね、協会の受付で、久我さんにお礼を言ったの」
「あなたを背負ってきてくれた人。最初の日に助けてくれたのもあの人だって、協会の人に聞いて」
冷蔵庫の脇の小声が、その名前のところで途切れた。続きは来ない。出番を終えたあとのピエロにしては、静かすぎる。
知らなかった。僕が救護室でカーテンに囲まれていた間に、母と久我さんが受付で会っていたなんて。
母がそれを今になって言うのは、たぶん僕の顔に何か書いてあるからだ。
箸を置いた。
置いた音が思ったより大きく響く。
「あの、さ。……約束の、ことなんだけど」
父と母がこっちを見る。
自転車の上で言い直してきた言葉は、喉の奥で全部ほどけていった。
残ったのは、いちばん短い言い方だけだ。
「上層だけって、約束。……あれ、結び直したい、です」
声が裏返りかけた。です、って何だ。親に敬語を使ってどうする。
母が一度だけまばたきを止める。
半年前に冒険者証を取りたいと言った夜も、この台所だった。あのとき両親は、上層だけなら、と許してくれた。
今度は僕のほうから、その約束を動かそうとしている。
「上層だけ、じゃなくて。……ランクが、Dに、上がったら」
「中層に、行かせて、ほしい」
「D、っていうのは」
父が短く聞く。
「冒険者の、ランク。今は、Fで。……10層の中間ボスを倒したら、Dまで、上がる、から」
「その中間ボスって、強いの」
母の声が少しかすれている。
「……強い」
強くない、と言えば、今夜はたぶん楽に済んだ。
約束の紙に書けない層のことは、先に口で言うしかない。そう決めて帰ってきた。
2人とも、すぐには答えない。
母は湯のみを持ったまま止まり、父は椅子の横に置いた冊子に手をのせている。
「何がしたいんだ」
父の声に怒りはなかった。
怒る前に、まず聞く人だ。昔からそうだった。
言える分だけを、ひとつずつ拾い集める。
「この前の、……僕を打った人、みたいな人が、いて」
「ああいう人を、止められるように、なりたい。襲われてる人がいたら、今度は、逃がすだけじゃなくて」
僕を打った人とは、処刑人のことだ。
口に出したのは初めてだ。
言ってみたら、ずっと前からこれだった。
声は最後まで裏返らなかった。
父と母が顔を見合わせる。
冷蔵庫の低い音が、やけに長く聞こえる。
父が冊子の表紙の上で、指を一度だけ動かした。
母が湯のみを置いた。
「人を止めるのは、協会の人の仕事でしょう。あなたの仕事じゃない」
「あなたは、その久我さんに背負われてきたのよ。1週間で、2回も倒れて」
この前は途中で切れた母の声が、今夜は最後まで来た。
母は湯のみを離した手で、テーブルの縁をつかんでいる。あの朝、僕が打った後ろ頭を探った手だ。
僕が気を失えばピエロが出て、この体で人の喉へ刃を向けにいく。それだけは、この台所で言えない。
「……でも、行きたい」
わけの抜けた「でも」は、自分の耳にも駄々にしか聞こえなかった。
母は言い返さなかった。言い返さずに、まっすぐ僕を見ている。
父が母の顔を見た。それから、僕の顔を。
「今夜は、答えない」
「朝まで、考えさせてくれ」
父は椅子の横の冊子を持って、居間へ行った。今夜もあれを開くんだろう。
母が黙って立ち、皿を下げはじめる。僕の焼き魚だけが、一口も減らずに残った。
だめ、と言われたほうが、まだ眠れた気がする。
◇
夜の9時すぎに結衣ねえの家の門の前まで来て、メッセージを送った。
外にいる、とだけ。
送ってから、こんな時間に迷惑だったかと思い直す。もう遅い。
歩いて数分の道なのに、来るまでに2回引き返しかけている。
通学班のころ、泣いて歩けなくなった僕が、手を引かれて帰った道だ。
玄関の戸が開いて、門灯の下に結衣ねえが出てきた。部屋着の上に、だいだい色のジャージを羽織っている。髪は頭の高い所に結んだままだ。
結衣ねえは門を開けずに、格子の向こうで足を止めた。
「知らせはいらないって、言ったよね」
固い声だった。
潜る日と帰った時刻を送る約束を、結衣ねえはこの前、もういらないと打ち切った。
「知らせじゃ、なくて」
「……自分の口で、言いたくて」
結衣ねえは何も言わない。続きを待っている顔だ。
「Dに上がったら、中層に行かせてって、さっき、父さんと母さんに言ってきた」
「答えは、まだ、だけど。……結衣ねえにも、言わなきゃって」
(乳母の前で白状か。少年、今度こそ叱られるさ)
余計なお世話だ。結衣ねえに聞こえない声なのが、せめてもの救いだった。
結衣ねえは門の格子を握ったまま、黙っていた。
門灯の下で、握った指の節が白く見える。
「あたし、処刑人の回、最後まで見てたんだよ」
「りっちゃんが倒れて、動かなくなって。……あれより下に、行くの?」
うなずくしかなかった。
あの日、結衣ねえは協会で泣いた。泣かせたのは僕だ。
その結衣ねえに、もっと下へ行くと言いに来たのも僕だ。
「……怖いよ。中層なんて」
「あたしは、怖い」
次に来る言葉なら分かっている。やめなさい、だ。
今夜2度目の反対を待って、僕は肩をすくめた。
来なかった。
結衣ねえが、格子を握っていた指を一本ずつほどく。
かしゃん、と門が開く。
やめなさいと言われた夜、結衣ねえが僕の前で閉めた門だ。
結衣ねえが格子の外へ一歩出てくる。
「知らせは、いらない」
やっぱり、と思った。
「見てるからね」
「配信も、アーカイブも。全部」
叱られたときの返事なら、来る道でいくつも考えてきた。
見てる、に返す言葉だけは、1つも持っていない。
結衣ねえが、僕の顔から足もとへ目を下ろした。じっと見たまま、しばらく動かない。
「部活でね、人の足ばっかり見てるの。だから、アーカイブのりっちゃんも、ずっとそういうふうに見てた」
知らせを送らなくなってからの分も、だ。
結衣ねえが門の前の地面で、軽く一歩を踏み出してみせた。
前の足に体ごと乗っていて、かかとが地面から浮いている。
僕の踏み出し方とは、どこかが違う。どこが違うのか、まだ分からない。
それから、結衣ねえは僕の足もとを指さした。
「りっちゃん。前に出るとき、重心がいつも後ろに残ってる」
「人の前に立つために出てるの。踏み込むためじゃなくて」
言い返せなかった。
前に出ても、僕の体は後ろの足に乗ったままだ。前の足へ体ごと乗せたことがない。
門灯の下で、結衣ねえの結び髪が小さく揺れる。
僕は自分のかかとを見下ろした。




