第24話 背中の上で
「起きたか」
すぐ下から、低い声がした。
揺れる背中の上で、僕は胴の痛みに息を詰めた。打たれた所が一歩ごとにずきずきする。
黄色い腕章に、無精ひげの横顔。右手のこの黒い手袋を初めてはめた日、6層で倒れた僕を運んだのと同じ背中だった。
6層の壁の光る石が、久我さんの肩ごしにゆっくり後ろへ流れていく。
ぶら下がった僕の靴の先が、歩くたびに久我さんの脚に当たって揺れる。
この格好を、後ろの人たちにずっと見られていたらしい。耳の先まで熱くなった。
右手を探ると、短剣は腰のさやに戻っていた。収めた覚えはない。
打たれた覚えのない右の手首まで、熱を持って痛んでいる。
腰と左脚の奥には、よく知っている筋肉痛が居座っていた。
僕と入れ替わったピエロがこの体を動かしたあとに、いつも残る痛みだ。
久我さんの大きな背嚢は、後ろを歩く巡回員の人が抱えていた。もう1人は黒い破片ののぞく袋を提げている。
何の破片なのか、僕には見当もつかない。
「あの……冒険者の人は」
自分の体のことより先に、僕はそれを聞いていた。
「逃げてきた奴に、途中で場所を聞いた。足は引きずってたが、自分で走ってたぞ」
「……よかった」
体じゅうの力が抜けかけて、背負われているのを思い出した。
「処刑人は、奥へ退いた」
「坊主。1人で近づくなと、言ったはずだぞ」
「すみません」
同じことを協会の受付で言われてから、まだ1週間もたっていない。言い返せることは1つもなかった。
それきり久我さんは黙って歩いた。
背中に伝わる足取りは、ふだんの巡回と同じで乱れない。それなのに、話しかける隙はどこにもなかった。
あのあと、僕の体は何をしたんですか。喉まで来た問いが、そこから先へ出ていかない。
答えを聞くほうがずっと怖かった。
僕にしか見えないピエロが、通路の壁際を僕らと同じ速さでついてくる。
僕が猫背になるたびに頭の中へ飛んでくる「顎」「肩」という小言が今日は一度もない。
小言のない帰り道は、何かあった印にしか思えなかった。
入口の明かりが見えてきたころ、久我さんが腰の無線を取った。
「巡回の久我。6層で救助1件、Fランクを1名保護。通報のあった処刑人の件は、戻って上げる。それと……」
そこで、久我さんの声が止まった。
背中ごしに、久我さんの息が一度だけ深くなる。
「……いや、以上だ」
手袋を初めてはめた日の無線も、同じ「それと……」で止まった。その続きを僕はまだ知らない。
◇
協会の受付の奥に、カーテンで仕切った救護の部屋がある。僕はそこで丸い椅子に座らされた。カーテン1枚向こうでは、受付の台で誰かが用紙をめくっている。
職員の人が、右の手首に湿布を当てて包帯を巻いていく。服をめくられて脇腹が見えかけたところで、僕は目をそらした。
ピエロはカーテンの内側で壁に斜めにもたれていて、ここでもまだ口を開かない。
手当てが済むと、壁際の久我さんがこっちを向いた。
「何を覚えてる」
「処刑人に打たれて……倒れた所まで、です」
ピエロのことを抜いても嘘にならない答えは、これしかない。
久我さんはすぐには次を言わず、太い指で無精ひげをこすった。
「最初の日も、倒れたあとのことは覚えてなかったな」
「……覚えてない、です」
久我さんが何を確かめているのか、僕には分からなかった。
久我さんはうなずきもせずに、職員の人と一緒にカーテンの外へ出ていった。最後まで、こっちを振り返らない。
「白瀬さん。未成年の方なので、おうちに連絡しました。お母さまが、こちらに向かわれています」
戻ってきた職員の人のその言葉だけで、胃が縮んだ。
潜るのは上層だけ、と僕は父と母に約束している。人に襲われて気を失った、なんて、どう言い換えても上層だけの話には聞こえない。
どこまで話せばいいんだろう。
「それと、お知り合いだという方が、受付にいらしています。お通ししますか」
「……会います」
勢いよくカーテンが開いた。
「りっちゃん」
頭の上で結んだ結衣ねえの髪が、走ってきたまま崩れていた。まだ肩で大きく息をしている。
結衣ねえは僕の包帯の手首を見てから、唇をかんだ。目の縁はもう赤い。
「何してるの」
「えっと、その」
「電話、何回かけたと思ってるの。見てたんだよ。りっちゃんが打たれて、倒れるとこ」
最後のほうで、声が裏返った。
「怖かった。……怖かったんだから」
泣きながら怒る人を、僕は結衣ねえのほかに知らない。
「ごめん」
「ごめんは、もういいの」
結衣ねえは叱る声のまま、僕の肩と腕を指で確かめていく。脇腹に触れられて僕が息を止めると、結衣ねえもそこで手を止めた。
もう一度ごめんと言いかけて、僕は口を閉じる。
結衣ねえは手の甲で涙を拭いて、スマートフォンを取り出した。
「笑ってたの、りっちゃんじゃないよね」
差し出された画面の上に、動画の題が出ている。〔公開処刑〕本日の出演者さん。
包帯の手で受け取ると、結衣ねえが横から指を伸ばし、僕が倒れる少し前まで動画を戻した。
他人のカメラの中で、黒い服の猫背が、警棒を受けて崩れていく。
僕の背中は思っていたよりずっと小さかった。
『あ、落ちた』
『主演さん謝罪タイムまだ?』
処刑人に狙われた僕が、そう呼ばれている。
次に映った顔から、目が離せなくなった。
白粉の上を、黒い線がこめかみへ跳ね上がっている。立っているのは僕の体で、笑っているのは僕の口だった。
『え、立った』
『ガチすぎてやばい』
『顔こわ』
『笑ってんのがむり』
『カメラ減ってね?』
『演出だろ 顔変わる手袋のやつ』
『ヘラルドの二重人格キャラか』
『処刑人もノリいいな』
ヘラルドは、僕の配信の名前だ。さっきまで怖がっていた人たちが、もう笑う側に戻っている。
包帯を巻いた手に収まる小さな画面から、白粉の顔が真上のカメラ越しに僕を見上げて笑っていた。
『本物では』
『はい演出演出』
画面の中で、顔の横から石が飛んでくる。
石が、カメラに当たる手前まで大きくなる。
画面が、黒く切れた。
再生の終わった画面に、僕の顔が暗く映りこんでいる。
持っている手のほうが、画面より先に冷たくなっていた。
「りっちゃんは、あんなふうにカメラを見ない。……何があったの」
結衣ねえの声から、もう怒りは消えていた。
「……覚えてない」
あれは見た目を変える手袋の演出だよ。前はそう言ってごまかしたのに、その言葉が今日は喉のどこにも見つからない。
壁にもたれた人のことだけを、僕は言わなかった。
本当に覚えていないから、嘘にもならない。それがいちばんずるい。
結衣ねえはしばらく僕の顔を見ていた。前髪の下の目をのぞきこむみたいに。
それから、黒くなった画面に目を落とした。
「……じゃあ、画面のあの人が何をしたのかは、あの人しか覚えてないんだ」
答えられなかった。




