第23話 届かない刃
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久我が剣を抜いて6層の通路の入口から踏み出したのと、奥の明かりの中で律が崩れたのは、同じ瞬間だった。
久我が坊主と呼んでいる、Fランクの新人だ。
律のそばに処刑人が立っている。赤いヘルメットをかぶり、右手に警棒を提げた男だ。頭の上にはドローンが3台浮いている。
広い通路の光る石は奥にしかなく、入口のあたりは暗い。処刑人の背中もドローンのレンズも、倒れた坊主のほうしか向いていない。
5層を回っていたところへ協会の窓口から無線が入ったのは、ついさっきだ。6層でFランクの新人が処刑人を通報してきた、と。
近くの巡回員と冒険者を集めて下りる途中、足を引きずって入口へ走る冒険者に行き合って場所を聞き、あとは1人で走った。
坊主には1人で近づくなと言っておいて、自分は1人でここまで走ってきている。
それでも間に合わなかった。着いたときにはもう、坊主は警棒を受けていた。
入口から明かりまでの床に、とがった撒き菱が点々と散っている。
撒き菱を越えて五、六歩。そこまで行けば剣が届く。
踏み出しかけたところで、明かりの中から笑い声がした。
倒れていた坊主の体が床に手をついて、起き上がる。
坊主の体は笑っていた。警棒で崩れたばかりの坊主の喉から、楽しそうな声が転がり出てくる。
頭をぶつけておかしくなったのか。違う。この笑い方は知っている。
坊主の体は丸まっていた背中を一息で伸ばし、片脚に重心を預けて斜めに立った。
坊主の立ち方じゃない。体は坊主のまま、中身が別のものに替わっている。
坊主の体が指で前髪を後ろへなでつけた。出てきた顔に薄い白粉が浮いている。左の目尻からこめかみへ、黒い線が跳ね上がっている。
ひと月近く前、坊主に初めて会った日に、同じ6層で見た顔だ。
久我は柄を握り直そうとして、汗で指をすべらせた。喉の皮膚だけがすっと冷えていく。
この顔が下げた刃先は、あのとき座り込んだ久我の喉の高さにあった。
「坊、主……」
呼んだつもりの声は喉の奥でかすれて、それきりだった。
久我の足が動かない。
踏み出したはずの右足は、入口の暗がりの床に貼りついたままだ。
巡回の腕章を巻いて何年になるか。新人の前で足がすくんだことなど、一度もなかったのに。
坊主の体がふいにしゃがんだ。右手の短剣を垂れた左手に握らせ、空いた右手で床の石をいくつかすくい上げる。
何をする気だ。
坊主の体が右腕をしならせた。
石は左に浮いたドローンの下を抜けて、奥の暗がりで鳴った。ドローンがふわりと高さを上げる。
子どもの石投げだ。あんなもので何を狙っている。
処刑人が高く逃げたドローンを見上げた。
「おや。カメラのほうですか」
当たらなかった1つで、狙いを読まれた。
処刑人は警棒を提げたまま歩きだした。走らない。さっき坊主を打ち倒したのと同じ足どりだ。
坊主の体は石を握った右手を、もう一度引いている。
カメラなんかどうでもいいだろう。目の前に、警棒を持った男がいるんだぞ。
警棒が横から来た。
坊主の体は床をすべるように半身を引いてかわし、引いた姿勢のまま腕を振った。
あの間合いでまだ投げるのか。
右の1台が羽根を鳴らして傾き、石の床に落ちて、それきり動かなくなる。
当たった。
処刑人は歩幅を変えずについてくる。坊主の体は下がりながら、もう次の石を指に挟んでいる。
次の一振りを、坊主の体はかわしきれなかった。
鈍い音がして、警棒が垂れた左腕の上に入る。
骨まで響く音だ。巡回で何度も聞いてきた。
坊主の体は打たれた腕を見もせずに、3つ目を投げた。
高く逃げていた左の1台が、遅れて落ちてくる。
さっき崩れたばかりの坊主の腕なのに、痛がりもしない。
残ったのは坊主の真上の1台だけだ。
坊主の体が顎を上げて、それを見上げた。
笑った。
4つ目の石が飛ぶ。真上の1台が坊主の足元へ落ちてきて跳ねる。
そのあいだ、坊主の体は暗がりの久我のほうを一度も見なかった。
「全部、落とされましたか」
処刑人の声は機械で均したように平らで、怒ってもいない。
坊主の体が短剣を右手に戻し、左手に石を1つだけ残す。
坊主の体が床を蹴った。
初めて会った日、この顔はしゃべり、刃を下げて顎を上げる形を作ってから一振りした。
今は何も言わない。形も作らない。
いきなり、短剣の切っ先が処刑人の喉へ伸びる。
処刑人が首をずらす。空を突いた切っ先がすぐに返り、今度は下から目を狙った。
処刑人が警棒でそれを横へ払う。
払われた刃は止まらず、首筋へ横から入る。脇の下をくぐって、また喉へ。
当たれば、そこで終わる所ばかりだ。
手足や胴には来ない。久我の知っているけんかとも、稽古とも違う。
動け、と久我は自分の足に言った。剣を持っているのはこっちだ。
足は言うことを聞かなかった。
坊主の体の足さばきは軽かった。床の上を跳ねるように出入りして、散った撒き菱は一つも踏まない。
左腕は脇に垂れたままで、警棒を受けた所をかばう素振りもなかった。
それでも届かない。
切っ先が動き出したのを見てから、処刑人が首をずらす。それで間に合っている。
刃の線はひと月前と同じだ。Dランクの目で見ても、まっすぐすぎる。Fランクの新人に引ける線じゃない。
なのに坊主の体の速さが、その線に追いついていない。
警棒が坊主の脇腹に入った。
鈍い音がする。坊主の体は声も上げずに半歩退き、また前へ出た。
坊主の体が突き出す切っ先は角度を変えるたびに、少しずつ近くなる。
自分があの前に立っていたら、最初の一突きで喉をもらっている。
処刑人は警棒を振る合間に、その刃を一つずつよけていく。
打ち合いの中で、坊主の体が垂らしたままの左手を、腰の高さで小さく振った。
石だ。
処刑人のシールドでかつんと音が鳴る。
ほんのわずかに、シールドの向きがそれた。
一突き。
処刑人は空けていた左手で、坊主の手首をつかんでいた。
切っ先は、赤いヘルメットの喉元の手前で止まっている。
処刑人がつかんだ手首ごと腕を振った。
坊主の小さな体が浮き、半回りして、胸から石の床に落ちる。
うつ伏せだ。初めて会った日も、この体は座り込んだ久我の一歩手前で、同じ形に前のめりに崩れた。
坊主の体は腕で床を押して肩を少し浮かせ、また床に伏せた。
立てない。
勝っていたら、あの切っ先は喉を通っていた。
坊主の顔は伏せられて、入口からは見えなくなった。
それでも久我の足は床から剥がれない。
警棒を提げた処刑人が、まだ坊主の横に立っている。
処刑人が腕に巻いたスマートフォンの画面にちらりと目を落とした。
まだ打つ気か。次に打たれたら、坊主はもう起きない。
警棒の先は下がったままだった。
「皆さんがいらっしゃらない所で打っても、数字になりませんので」
誰に聞かせるでもない、司会の話しぶりそのままの声だった。
数字とは、配信を見ている人の数だろう。カメラを全部落とされた今、ここで打っても、見ている者は一人もいないのだ。
坊主はもう打たれない。
剣を握ったまま、自分は一歩も出ていない。
処刑人は足元の坊主の体へ少しかがんだ。
撒き菱の向こうの五、六歩。剣の届くはずのその間が、まだ埋まらない。
「主演さん、覚えましたよ。次は、ちゃんとカメラの前で」
次にカメラの前で狙う相手として、足元の坊主を覚えたと言っている。
喉を狙われたばかりの男が言うのが、それか。
処刑人は背を向け、奥の通路へ歩いていく。暗がりの入口へは顔も向けない。
処刑人の赤いヘルメットが奥の角を曲がって、見えなくなった。
そこでやっと、久我の足が床から剥がれた。
遅れて、後ろからいくつもの靴音と手持ちの明かりが、入口へなだれ込んでくる。
「赤いのは、どこだ!」
駆け出しかけた先頭の前へ、久我は左腕を横へ伸ばした。
「奥へ行った。追うな。入口で待っとけ」
久我は1人で明かりの中へ入った。
靴の先で撒き菱を払うと、乾いた音を立てて転がっていく。Fランクの坊主なりに、やれることはやったらしい。
膝をついて、坊主の肩に手をかける。仰向けに返し、口元に耳を寄せた。息はある。
呼びかけようとして、声が止まった。
坊主の体は目を開けていた。
白粉と黒い線の顔で、坊主の体が真下から久我を見上げている。
何も言わない。まばたきもしない。
喉の皮膚がまた冷えた。
誰に見られているのか、久我には分からない。
入口に待たせた5人に、この顔は見えない。この目に見上げられているのは久我だけだ。
黒い線も白粉も、ふっと一度に消えた。
坊主の目が閉じ、なでつけてあった前髪がまぶたの上に落ちる。
そこにあるのは、初めて会った日、座り込んだ久我の前で歯を鳴らして震えていた子の顔だった。
「坊主。……おい、坊主」
返事はない。傷が重いのか、まぶたも動かなかった。
床に転がった短剣を拾い、坊主の腰のさやに戻す。坊主の右の手首に、太い指の跡が赤く残っていた。
この坊主の体を何か別のものが動かして、人を殺しにいった。
それが何なのかは分からない。
久我は坊主を背負って立ち上がった。
入口の明かりへ向かって歩き出す。
5人の明かりが背中の坊主を照らした。前髪の下にあるのは、どこにでもいる新人の寝顔だ。
あの日と同じくらい、背中の坊主は軽い。
自分は今、何を見せられたんだ。
答えは、この坊主の中から探す。




