第25話 数字
右の手首に、指の形のあざがあった。
朝、昨夜の包帯をほどいて湿布をはがすと、手首の内側に青黒い跡が4つ、外側に1つ並んでいる。
昨日処刑人の警棒に打たれたのは胴と腕で、手首を打たれた覚えはない。
服の下の打ち身は一晩たってもまだ熱い。昨夜母に連れていかれた救急外来では、打撲だけです、と言われた。
打撲で指の形は残らない。
僕の知らない間に、誰かがここを握ったんだ。
処刑人の手か。僕を背負ってくれた、久我さんの手か。
どちらにしても、握られたとき、この手首の先にあったのは僕じゃない。
窓枠には、僕にしか見えないピエロが、細長い体を斜めにしてもたれていた。昨日久我さんの背中で僕が目を覚ましてから、ピエロは一言もしゃべっていない。
僕が気を失ってから何があったのかを覚えているのは、ピエロだけだ。
階段の下から食器の音がするので、声を落とした。
「きみ。……ドローンが落ちたあと、何があったの」
ピエロは白く塗った横顔を、窓の外へ向けたままだった。
(負けた)
短い声だった。
ピエロが負けたと口にするのを、僕は一度も聞いたことがない。
シャツの袖に腕を通しかけたまま、僕は動けなくなった。
僕は手首を窓のほうへ上げて見せる。
「これ。きみ、何を狙ったの」
(喉だ)
冗談に包まない声だった。
ピエロはあざを一度だけ見た。恥じる色も、言い訳もない。
喉の手前で止められた刃の跡が、僕の手首に残っている。
「……誰か、来たの」
(客席のなくなった舞台に、赤い頭の用はない)
赤い頭は、赤いヘルメットの処刑人だ。カメラがなくなって帰ったのだ。
久我さんが来たのは、そのあとになる。
「なんで、カメラを落としたの」
ピエロが初めて僕のほうを向いた。笑っていない。
(少年の体に襲いかかった刺客だ。それを片付けるのは、客に見せる芸ではない)
(刺客の舞台に、客席は残さない)
殺すところを、映させないためだ。
結衣ねえのスマートフォンの中で、ピエロは僕の顔のまま、真上のカメラを見上げて笑っていた。
僕はあざの上まで、シャツの袖を引き下ろす。
台所に下りると、父がもう食卓についていた。椅子に腰を下ろせば、昨日の筋肉痛が残る腰と左脚がきしむ。
痛いところは、と母に聞かれて、服の下が少し、と答える。眠れたか、と父が新聞の向こうから聞く。
聞かれるのは体のことばかりだ。
「協会の人から聞いたよ。襲われてた人を、逃がしたんだってね」
母の声は怒っていない。
叱られないと、黙っていたことのほうが胸の中で重くなる。
かじったトーストを噛めなくなった。1週間前にぶつけた後ろ頭の一点が、今になってうずき出す。
噛めないまま、言葉のほうが先に出た。
「……先週も、6層で頭、打ったんだ。少しだけ、気を失って」
気を失っている間は、手袋のピエロが僕の体を動かす。そのことだけは、トーストと一緒に飲みこむ。
母が僕の後ろ頭へ手を伸ばした。
指で髪をかき分けて、ぶつけた所を探す。見つけた所で指が止まり、しばらく離れなかった。
「1週間で、2回も……」
「ねえ。もう、潜るのは――」
やめて、の手前で母の声が切れた。
僕も何も返せない。潜れなくなったら、ピエロに体を貸す場所がなくなる。
父がたたんだ新聞をテーブルに置いた。
「潜る日は、何層に行って何時に帰るか、紙に書いて、そこに貼っていけ」
父は顎で冷蔵庫の扉を指した。
「書いた層より下には、行くな。書いた時間を過ぎても連絡がなかったら、母さんが協会に電話する」
「それが守れるなら、止めない」
父がこんなに続けてしゃべるのを、久しぶりに聞いた。
母は何か言いかけてやめ、湯のみを両手で包む。
「……書く」
結衣ねえへの知らせは「6層あたり」で、少し下へ行ってもうそにならなかった。
冷蔵庫に貼る紙の数字には、その幅がない。
◇
学校では、詰襟の袖を手首まで引っぱって、1日をやりすごした。
放課後に店へ行くと、結衣ねえが先に来ていた。今日は部の練習がない日だ。
「顔を見に来ただけ。やめなさいって言ったの、取り消してないからね」
そう言いながら、結衣ねえは僕が引っぱった袖口を見ている。昨夜の協会で泣いた目が、まだ少し赤い。
店長は僕を帳場の奥の椅子に座らせて、救急箱を開けた。袖をまくった手首のあざを見ても、店長は太い指を止めずに湿布を当て、包帯を巻いていく。
謝る言葉なら、店の戸の前で用意してきた。
「あの、店長。昨日は」
「聞かないよ」
包帯の端を留めながら、店長は顔も上げなかった。
「聞いたら、律くんは謝るだろう。謝らせるために巻いてるんじゃないってわけ」
6層で頭をぶつけた日に何も聞かれなかったわけが、やっと分かった。
「その代わり、道具のことは聞くよ。うちの短剣、手袋の手で滑らなかったかい?」
問いは道具のことなのに、店長は僕の顔色と、巻いたばかりの包帯ばかり見ていた。
「……滑らなかった、です」
その先は僕が気を失ったあとの話になる。
「切り抜きで見たよ。じゃあ、最後にいちばん役に立ったのは、何だったんだい?」
店長は一度だけ、売り場の短剣の棚へ目をやった。
僕が答えるより先に、棚の脇でピエロが背を起こす。
(石投げだ)
(カメラを落としたのも、刺客の目をそらしたのも、石だ。……石投げに、助けられた)
ピエロが挙げたのは、半年、人へ行くモンスターに投げてきただけの、僕の石だった。
「えっと……石、です。黒手袋のときに、ドローンを落としてた、あれ」
あだ名で呼べば、体を動かしていたのが誰かは言わずに済む。
配信でいつもしている言い換えが、店長の前でもするりと出た。
「ほう」
店長はそれだけ言って、前掛けの上の肩を少し下ろした。
(少年)
ピエロの声が低くなった。
ピエロは棚から背を離して、一歩こちらへ出てくる。
(少年の数は、いくつだ。赤い頭と、どれだけ違う)
数とは、Lvのことだ。
カメラの前で、数字など飾りだと言い切ったのはピエロだ。
昨日、処刑人はスマートフォンを見ると、歩幅を変えて詰めてきた。僕の体は一手遅れた。
僕は顔を上げて、棚の脇のピエロに向き直る。
「負けたのは、数字の差だよ。……数字は、飾りじゃない」
帳場の前で、結衣ねえがこっちを見ていた。誰もいない棚の脇と僕の顔を、何度も見比べる。
「りっちゃん。今の、誰に言ったの」
答えられない。
ピエロも言い返してこなかった。
店長は何も聞かずに、救急箱のふたを閉めた。
「じゃあ、手袋を見せてごらん」
店長が引き出しから薄い帳面を出して、手袋のページを開いた。潜った日は帰りに見せる約束だ。
手袋を帳場に出して、店長の鉛筆を借りる。「律くん預かり」の角ばった字の下に、短剣は、滑らなかった、と書いた。
前に潜った日と、同じ1行だ。
ピエロはこの手袋の手で、僕の体のまま、人の喉へ刃を向けた。
ピエロのことを伏せるのには慣れたはずなのに、今日は指が一画も動かない。
店長は急かさなかった。帳場の向こうから、止まった鉛筆の先を黙って見ている。
結衣ねえも、同じ鉛筆の先を見ていた。
帰りぎわ、結衣ねえが先に戸の前に立った。
戸に手をかけたまま、振り返らない。
「明日から、潜る日の知らせ、いらないから」
「知らせてもらっても、あたしには止められない。……電話しても、切るよね」
怒った声ではなかった。
ごめん、と言いかけた。
昨夜の協会で、結衣ねえに「ごめんは、もういい」と言われたばかりだ。
開いた口から、何も出てこない。
結衣ねえはそのまま戸を開けて出ていった。
店長は何も言わなかった。
◇
夜、ベッドの縁に座る。枕もとのスマートフォンは、伏せたまま一度も光らない。
ステータス、と念じた。今夜は下の数行だけで閉じずに、全部を開く。
名前:白瀬律
Lv:12
職業:斥候
HP:91/91
MP:24/24
筋力:10 耐久:12 敏捷:21 器用:19 魔力:8
スキル:《挑発》 Lv1/《気配察知》 Lv1/《隠密》 Lv1/《投擲》 Lv1
スキルpt:14
取得可能なスキル:1件
HPは満ちているのに、手首のあざは少しも薄くなっていない。
僕のLvは12で、処刑人の画面にあったLvは41。
差は、29。
処刑人の回を見るのを途中でやめた夜、差は30だった。1つしか縮んでいない。
あの夜の41は、遠すぎてただの数字にしか見えなかった。
今夜の29には、指の形がついている。
強くならないと、処刑人は止められない。
ピエロが窓枠から画面をのぞきこんでいる。
いつもなら、ここで《三日月斬り》をねだる声が来る。今夜は来なかった。
スキルptの14で、僕は目を止めた。
それから、いちばん下の「取得可能なスキル:1件」に。ピエロがねだり続けた鎌の技、《鎌術》だ。
窓枠のピエロも、黙って同じ行を見ていた。




