第2話 取り引き
右手だけの黒い手袋を、近所の公園のごみ箱に捨てた。
背を向けて歩き出す。協会から帰って、まだ1時間もたっていない。1分でも早く手放したかった。
気を失っている間に、僕の体はコボルトを斬った。動かしたのは、この手袋をはめたら現れた道化だ。
台所のはさみもカッターも、黒い革には傷ひとつ付けられなかった。刃が滑ったときには、もう上着をつかんで家を出ていた。
店の品なのは分かっている。書き置きまでして持ち出した品だ。
店主にはあとで謝る。弁償もする。
一歩ごとに、打った背中が痛む。腰と片脚の筋肉痛は、僕が動かした覚えのない痛みだ。
数歩で、頭の中に声が響いた。耳を通らない、あの道化の声だ。
(どこへ行く、少年)
見上げると、街灯の下にピエロが立っていた。白く塗った顔の左の目尻から、黒い線が1本、こめかみへ跳ねている。
捨てても、まだいる。
「な、なんで……捨てたのに」
(次にあれをはめた者に、私は移る)
ピエロはごみ箱のほうへ顎をしゃくった。笑っていなかった。
(その者の手で斬るのも、悪くない)
捨てれば終わると思っていた。捨てたら、始まるんだ。
足音がして、作業着の男の人がごみ箱の前で立ち止まった。空き缶を捨てる手を止めて、中をのぞき込んでいる。
あの人がはめたら。
考えるより先に、走っていた。
打ち身が響くけど、かまっていられない。
男の人の手より先に、ごみ箱へ腕を突っ込んで、手袋をつかんだ。
「すみません、それ……これ、僕のです」
男の人は僕と手袋を見比べて、変な顔のまま行ってしまった。
捨てに来たのに、拾いに走っているのは僕だ。
この手袋は、僕が持つ。
◇
部屋に戻ると、ピエロは窓枠にもたれていた。片脚に重心をかけて、斜めに立っている。人の部屋で、ずいぶん偉そうな立ち方だ。
手袋を机に置いて、声をひそめた。下の居間には父さんと母さんがいる。道化と話す声なんて、聞かせられない。
「あの、取り引き……取り引き、しよう」
(取り引き、か)
「人は、斬らないで。その代わり、ダンジョンでモンスターと戦うのは……いいよ。僕の体で」
(誰も見ていない穴ぐらで、斬り合いか。それは芸ではない)
ピエロは窓枠からこちらを向いたまま、動かない。
(観客がいないなら、私は人を斬る)
体のないピエロが、どうやって。
聞く前に、分かってしまった。6層で気を失った僕は、自分の体が何をしているのか、何も知らなかった。
僕が気を失えば、ピエロは僕の体で人を斬れる。
人をかばえば、僕はまた気を失ってしまう。
どうすれば、止められる?
モンスターとの戦いだって、見ている人はいる。これを見せれば、分かってくれるはずだ。
僕はスマートフォンを出して、D-Tube を開いた。一覧のいちばん上に、金のよろいの剣士の配信がある。いつ開いても、この人はそこにいる。
「芸だよ、これも。ほら、モンスターと戦うのを、みんな見に来てるんだ」
ピエロが窓枠から身を起こし、長い体を折って画面をのぞき込んだ。
(この板の中に、剣士がいるのか)
「いないよ。ダンジョンにいる人を撮って、ここに映してるんだ」
(いま、この時にか)
「うん、いま」
剣士が、自分の倍はあるモンスターに斬りかかり、金のよろいが光をはね返す。見せ方を分かっている人の戦い方だ。
画面の横を字が流れていく。
『きたあああ』
『金ぴかつええ』
『一撃かよ』
『剣速すぎて見えん』
『神回確定』
ピエロは剣士を見ていなかった。
見てほしいのは剣士のほうなんだけど。
(この流れる字は何だ)
「コメント。見てる人が書いてるんだよ」
(客人の野次か。……では、これは)
ピエロが黒い手袋の指で、画面の隅にある10.4万という表示を指した。
(1と0と4は読める。後ろの字は)
「万。10万4千。同時接続数っていって、いま見てる人の数だよ」
ピエロが黙った。
(王の広間には、この千分の一も入らない)
(それが一度に、一人の剣士を見ているのか)
画面の明かりを受けて、ピエロの目が光っていた。
(剣は振り回しているだけだ。……だが、客人は本物だ)
(決めた、少年。私は、この金のよろいより多くの客人を集める)
張り合う気なんて、僕にはない。そもそも、戦うのは僕の体だ。
(少年、取り引きに1つ足せ。配信だ)
(私の余興を、その板に映せ)
「板じゃなくて……待って。配信って、僕がするの?」
(ほかに誰がいる)
「無理だよ。人に見られるの、ほんとに……ほんとに苦手で」
(では、取り引きはなしだ)
「分かった。配信、する」
店のレジでも客と目を合わせられない僕が、配信をする。
店で道具を渡す前にひとつずつ点検するのと同じで、約束の中身もひとつずつ口に出して確かめた。
「人は、斬らない」
(斬らない。モンスターは斬る)
「ダンジョンの中だけ、だよ。それで、配信をする」
(客人の前でな)
「でも、きみが出るのは、配信をする日に……1回。1回きり、だよ」
(主の出番は、一度でいい)
「あと、1個だけ。体を貸すのは、僕がいいって言ったときだけ」
(いいだろう。少年が、口をきけるうちはな)
気を失ってしまえば、僕はいいも嫌も言えない。
もうひとつ、聞いておかないといけない。
「それと、僕の体……どのくらい動かせるの」
(一幕)
「ひとまく?」
(芝居のひと区切りだ。数分。客人が飽きる前に幕を引く)
ピエロの出番は、1回につき、その数分だけらしい。
「切れたら、どうなるの」
(体は少年に戻る)
数分たてば、体は必ず僕に戻ってくる。
◇
次の日からの3日は準備に使った。背中に打ち身の痕は残っているけど、腰と脚の痛みはもうない。
中古の小型ドローンを買ったら、店の手伝いでためた貯金がほとんど消えた。配信をするのは、ピエロに人を斬らせないためだ。これは、その値段だ。
部屋で浮かべると、手のひらほどの機体が、僕の斜め上をついて回る。
(羽の生えた画家か)
「画家じゃないよ。カメラ」
協会の売店では、腕に付けるスマートフォンのホルダーと、ドローンの予備の電池と、傷薬と包帯と、携帯食と水をかごに入れた。
(戦う前から手当ての支度か。臆病者の買い物だな)
臆病なのは本当なので、包帯をもう1つ足した。
(顎)
(肩)
顎を引け、肩を張れ、という合図だ。レジの列に並んでいても、ピエロは僕の猫背を叱るのをやめない。猫背は、言われて直るなら、とっくに直っている。
部屋に戻って、D-Tube のチャンネルも作った。配信者名の欄で、指が止まった。
「名前、どうしよう……」
(ヘラルド、と名乗れ)
「ヘラルド?」
(私の一幕の前に出て、客人に主のお出ましを告げる役さ。少年には似合いだ)
「似合わないよ、そんな格好いいの。チャンネルの名前だって、決めないと……」
(では、一幕劇場だ)
配信者名はヘラルド、チャンネル名は一幕劇場。どっちも、本名とはどこもつながらない。それなら、いい。
夜は、ピエロにせがまれて、ほかの人の配信を流した。
(少年、あの字は何と読む)
「どれ? ……ああ、草。笑ってる、って意味」
(草が、なぜ笑う)
「僕に聞かないで」
ピエロはコメントで字を覚えていった。最初の1字は「万」で、そこから先は、僕が教えるより速い。
2日目の夜には、短いコメントなら自分で読み上げていた。
(『へたくそ』。……ほう。客人は、正直だな)
読めるようになって、真っ先に喜ぶのがそれか。
(止めるな、少年。次だ)
金曜の放課後は、立川ダンジョンの1層に降りた。
モンスターを自分に向かわせる《挑発》を、どこに立って使えばいいか試してから、ポーチの手袋をはめて、短剣を抜く。手袋は、短剣を握るときだけはめることにした。
相手はスライムだ。半透明の体の奥に、核が浮いている。のろいくせに、刃先がなかなか届かない。
10回突いて、10回とも当たらなかった。我ながら、ひどい。
11回目で、刃先が核に当たる。
スライムが崩れて、光の粒になった。一撃だ。
しばらく声が出なかった。
首から下げたメモ帳の端に、小さな丸を1つ付ける。
うれしいとき、言葉の代わりに付ける丸だ。口より先に、鉛筆が動く。
当たりさえすれば、僕の短剣でも倒せる。
(地味だな)
地味でいい。
◇
土曜の夜。明日の昼に、初めての配信をする。
寝る前の柔軟は店主に教わった。道具と同じで、体も手入れするものだ、と。やらないと、落ち着いて眠れない。
床に脚を開いて座り、胸がつくまで上半身を前へ沈める。息を吐くと、もう少し沈む。体のほうが、僕よりずっと素直だ。
窓枠にもたれたピエロは、黒い上着の腕を組んで、黙って見ていた。暗い窓に、ピエロの白い顔だけが浮いている。
いつもなら、もう3回は顎を叱られている。
(少年)
胸を床につけたまま、顔だけ上げる。
(この体なら、どんな粋な男の真似もできる)
からかう声じゃない。
(よく手入れしてある。いい体だ)
何か返そうとして声が出ず、机のメモ帳に手を伸ばした。
丸を、2つ付けた。
(明日は、客人が来る)
明日の話になると、ピエロの声は弾む。
返事の代わりに、明かりを消した。
誰も来なければいい。
思ってすぐ、取り引きをした夜の、窓枠からの声がよみがえった。
(観客がいないなら、私は人を斬る)
同時接続数が0だったら、ピエロは何をするんだろう。




