第1話 右手の手袋
学校帰りの詰襟のまま、冒険者向けの道具屋の棚を、端から数えていく。閉めた店の鍵を入院中の店主から預かって、毎日やっている点検だ。
3段目の棚で、品の数が合わなくなった。右手だけの黒い革の手袋が、そこにある。
値札はなく、店主の字で埋まった仕入れ帳にも載っていない。
この店に防犯カメラはなく、鍵を持っているのは店主と僕だけだ。
鍵のかかった店で、品が1つ増えている。
「誰が置いたの、これ」
手に取った黒の子山羊革は古くて柔らかく、手首に白い短い折り返しが付いていた。
見た目はただの古い手袋だ。
でも、ダンジョンの宝箱からは、ときどき古い品のレプリカが出る。見た目は普通の古道具と同じで、見分けられるのは《鑑定》のスキルだけだ。
レプリカには、まれに小さな効果が付いている。手袋なら、せいぜい滑り止めだろう。見た目を変える手袋もあるけど、あれは配信者の小道具だ。
僕は《鑑定》を持っていない。この手袋に効果があるかは、使って確かめるしかない。
値札を付ける前の品は自分で試す。冒険者をやっているのも、そのためだ。
メモ用紙に『値札のない右手の手袋を、試しに持ち出します』と書いて、仕入れ帳に挟む。黙って持ち出すのは性に合わない。
自転車で立川ダンジョンへ向かう。協会のゲートに冒険者証を通して出る予定の時刻を届け、黒の上下に着替えるところまでは、いつもどおりだ。
上層の通路は、壁の石がぼんやり光っていて明るい。すれ違う冒険者はたいてい肩の上に配信のドローンを浮かべていて、そのたびに僕は顔を伏せる。
配信はしていない。猫背でポーチの中身を点検しているだけの僕を、見たい人はいない。
戦わずに済む道を選んで、層を1つずつ降りていく。協会が僕みたいなFランクの目安にしているのは、5層までだ。
怖いけど、店の客が道具を使うのは6層から先が多いから、試すときは、Eランクの目安のいちばん浅い6層まで降りる。
6層の行き止まりで、手袋を右手にはめ、短剣を握った。
「あれ、滑らない」
汗ばんだ手のひらなのに、柄が吸いつくように収まる。本当に、滑り止めが付いている。
顔を上げて、息が止まった。
通路の壁に、背の高い女の人がもたれていた。
細い体に、真っ白に塗った顔。左の目尻からこめかみへ、黒い線が1本跳ね上がっている。
どう見ても、冒険者の格好じゃない。
短い髪を後ろへなでつけて、膝まで届く黒の長い上着を着ている。右手には僕と同じ手袋。
嫌な予感しかしない。
片脚に重心をかけて斜めに立ち、銀の道化の頭が付いた黒い細い杖を、指先で遊ばせていた。
顔を白く塗った、道化だ。
ピエロ、と頭の中で呼んだ。
「あ、あの……だ、誰?」
(少年。顎)
ピエロの白い口元が動いたのに、声は耳ではなく、頭の内側から聞こえた。うつむいた顎を上げろ、ということらしい。
(肩もだ。丸めるな)
「え、あ、ごめん」
初対面のピエロに猫背を叱られて、なぜか謝っている。
今さら膝が震え出す。怖いときは点検すると落ち着く。ステータス、と念じると、半透明の画面が目の前に浮かんだ。
名前:白瀬律
Lv:3
職業:斥候
HP:46/46
MP:12/12
筋力:6 耐久:7 敏捷:12 器用:12 魔力:6
スキル:《挑発》 Lv1
スキルpt:4
取得可能なスキル:0件
画面のどこにも、ピエロはいない。
(字は読めない。だが、数なら読める)
画面の日本語は読めなくて、数字だけは読める、ということらしい。ステータス画面は本人にしか見えない。ピエロは僕の目を通して、この画面をのぞいているんだ。
なら、壁にもたれたあの姿も、僕にしか見えていないはずだ。
「ほっといて……くれないかな」
(小さい数ばかりだな、少年)
でも、言われたとおりだ。協会の講習で見た数字では、冒険者証を取ったばかりの冒険者はLv1で、HPが40前後、能力値は5から10だった。半年潜った僕の数字は、そこからほとんど動いていない。
ただ一つのスキルは、モンスターの注意を自分に向ける《挑発》。臆病な僕に、いちばん向いていないスキルだ。
手袋を外せば、ピエロも消えるかもしれない。はめた直後に現れて、同じ手袋までしているからだ。
短剣を腰に戻して、手袋の指先をつまむ。そのとき、角の先で硬い音がした。
のぞくと、黄色い腕章の男の人が、通路に座り込んでいた。
協会の巡回員だ。大きな背嚢を背負ったまま頭を押さえていて、武器は手の届かない所まで飛ばされている。
立とうとして、膝から崩れた。頭を打ったんだ。
その奥から、犬の頭をした人型が近づいてくる。
コボルト。ゴブリンより速い、6層の厄介者だ。
気づいたときには、もう短剣を抜いて走り出していた。
(少年、体を代われ。あれは私が斬る)
声は聞こえた。僕の体を明け渡して、ピエロが動かす。その意味までは、頭に入ってこなかった。
足が先に出て、震えるのはそのあとだ。僕はいつも順番がおかしい。
「こ、こっち……こっちだよ!」
声と一緒に、《挑発》、と念じる。光は出ない。コボルトの犬の顔だけが、くるりと僕へ向く。
効いた。効いてしまった。
爪が鼻先をかすめる。転がってよけたけど、膝が笑ってうまく立てない。
たぶん今のは運だ。
「来るな、坊主!」
来るなと言われても、もう来てしまった。
次の踏み込みは見えなかった。
胸に体当たりを受けて、背中から壁に叩きつけられる。後ろ頭が石を打って、音が遠くなった。
だめだ、目が開かない。
右手の中で、短剣の握りだけは、最後まで滑らなかった。
◇
6層の通路の床に座り込んだまま、巡回員の久我はまだ立てなかった。打った頭の芯が揺れて、膝に力が入らない。
自分をかばった坊主は、壁の下で動かなくなっている。構えを見れば、Fランクの新人だと分かった。そんな坊主に、かばわせてしまった。
コボルトが坊主のほうへ歩いていく。
その坊主が、立ち上がった。
坊主の顔が、笑っていた。
さっきまで歯を鳴らしていた顔だ。頭を打って、おかしくなったのか。
坊主は片脚に重心を預けて、斜めに立った。丸めていた背中を、嘘みたいにまっすぐ伸ばしている。
目にかかっていた前髪を、指で後ろへなでつける。
出てきた顔に、薄い白粉が浮いていた。左の目尻からこめかみへ黒い線が跳ね上がっている。
坊主が短剣を指の間でくるりと回して、止めた。
コボルトが跳ぶ。坊主は動かない。刃を下げ、顎を上げたまま、どこも動かない。
一振り。
コボルトが光の粒になってほどけ、石の床に魔石が1つ転がった。
刃の通った線がまだ目に残っている。Dランクの目で見ても、まっすぐすぎる。震えていた新人の動きじゃない。
坊主は新しい服の着心地でも確かめるように、腰をひねった。
「柔らかいな」
そう言って、坊主はまた笑う。
斜めに立ったまま、坊主は刃先を久我に向けた。黒い線の跳ねた目で、久我の顔から首までを、ゆっくり見下ろしていく。
「剣を落とした衛兵か。身なりは落第だが、首はいい」
衛兵とは、自分のことらしい。首がいいとは、斬るのにいい首だという意味か。
久我は座ったまま、後ずさった。得物は遠く、脚はまだ言うことを聞かない。
坊主が刃を下げて、顎を上げた。
コボルトが跳んだときと、同じ形だ。
あの形のあとに来たのは、一振りだった。
いつ来るのかだけが分からない。
「……おい。おい、坊主」
返事はない。何をするか分からないものが、一歩近づいた。
下げた刃先は、座った久我の喉の高さにある。
坊主は久我の一歩手前で、前のめりに崩れた。
崩れるのと一緒に、黒い線も白粉も消えた。
伏せた顔はもう、さっき震えていた坊主の顔に戻っている。
自分は今、何に斬られかけたんだ。
数分して、ようやく膝が言うことを聞いた。久我は坊主を背負い、出口へ歩き出した。
◇
揺れる背中の上で、僕は腰と片脚の痛みに目を覚ました。壁に打った背中も、まだずきずきする。
さっきの腕章の人に、背負われている。生きてる、らしい。
「起きたか」
下ろされて、無精ひげの顔にのぞき込まれる。
「巡回の久我だ。冒険者証は持ってるな」
差し出した冒険者証の名前の欄を指でなぞって、久我さんは「Fか」とだけ言った。
「助かった。礼を言うぞ。だがな、新人が前に出るな」
「すみません」
「で、だ。あのコボルトを一振りで斬ったろう。どこで覚えた」
「え、僕ですか?」
覚えていない。壁にぶつかったところで、記憶は切れている。
僕に、一振りでコボルトを斬れるはずがない。
「それが、その……分かりません」
久我さんは黙って、腰の無線を取った。
「巡回の久我、6層で救助1件。Fランクを1名保護、自分も軽傷で戻る。それと……」
そこで、声が止まった。
久我さんは一度だけ僕を見て、「……いや、以上だ」と無線を切った。
僕がほかに何をしたのか、聞くのが怖かった。
先に立って歩き出した久我さんを、痛む脚で追う。
通路の壁に、ピエロがもたれていた。
消えてない。手袋は僕の右手にはまったままだ。
久我さんはピエロの前を、見向きもせずに通り過ぎた。
気を失っている間に僕の体を動かしたのは、ピエロだ。
久我さんに聞こえないよう、小声で聞く。
「あのさ。あれ、きみだよね」
(ああ。体を少し借りた)
怖い。それでも、久我さんが生きているのは、ピエロのおかげだ。
「ありがとう。……久我さんを、助けてくれて」
(礼には及ばないさ、少年)
(次は、人間でやりたい)




