第16話 壁の向こう
壁の向こうに、何かいる。
見えない。足音もしない。それなのに、通路が左へ折れた先に何かがいると、肌のほうが先に知っていた。
金曜の放課後、6層。
潜る前に、結衣ねえには、今日潜る、6層、とだけ送ってある。
知らない層で新しいスキルを試すほど、僕は度胸がない。角の数まで覚えているから、6層にした。
昨日、道具屋の帳場の前で取った《気配察知》だ。
首の後ろの、左側だけがざわざわする。
暗い部屋で、誰かが背中のすぐ後ろに立ったときの感じに近い。壁1枚向こうから、何かの気配がまっすぐこっちへ届いている。
角の先に、1つ。背丈は僕の胸くらい。
何なのかまでは肌も教えてくれない。
半年の癖で、床の石へ伸びかけた手を、途中で止めた。
しゃがんで休んでいる冒険者も、ちょうどこのくらいの大きさだ。人だったら、僕は人に石を当てることになる。
角の先をこの目で見るまで、手は出さない。
(何を突っ立っている。投げればいいだろう)
返事はしない。声を出せば、角の先にも聞こえる。
息を殺して、角まで寄った。一歩寄るごとに、首の後ろのざわざわが強くなる。
気配は低い所から動かない。
休んでいる人なら、少しは身じろぎする。じっとしているなら、待っているほうだ。
片目だけ、角の先へ出す。
岩の陰から、棍棒の先がのぞいていた。
ゴブリンだ。
ゴブリンが跳び出したときには、僕はもう角の反対の壁ぎわへ抜けていた。棍棒が誰もいない角を打つ。
前なら、暗がりをにらんでいた分だけ、遅れていた所だ。
空振りで泳いだ脇へ短剣を入れると、光の粒が散って、魔石が1つ転がった。
(逃げ足が速くなったな、少年。昨日3つも取って、増えたのが逃げ足か)
言い返せない。昨日取ったスキルで速くなったのは、たしかに逃げ足だ。
魔石を拾って目を上げると、まっすぐ延びた通路のずっと奥に、ゴブリンが1匹いた。こっちに背を向けて、床の何かを漁っている。
この前の配信で石を当てたうさぎより、ずっと遠い。前の僕の石なら、半分も行かずに床を転がっていた。
モンスターを僕へ振り向かせる《挑発》は、遠くまで届かない。投げるスキルを取ったのは、その先へ届くためだ。あのゴブリンはちょうど、その先にいる。
試すなら、いちばん弱い相手がいい。
床から、手に収まる石を1つ拾った。指の腹で、握りやすい向きを探す。
振りかぶる。
狙いは背中の少し上。
投げた。
指から、石が抜ける。
落ちない。
山なりにもならずに、光る石の明かりを2つくぐって、まだまっすぐ伸びていく。
ゴブリンの後ろ頭で、硬い音がした。
ゴブリンが振り向いた。
棍棒を握ったまま、近くの暗がりをきょろきょろ見回している。石がどこから来たのか、分かっていない。
通路の奥の小さな顔が、やっとこっちを向いた。
あんなに遠くから、僕を見ている。
右手の指先に、うさぎへ投げたときにはなかった、いちばん先からすっと石が離れる感じが残っていた。
ゴブリンが棍棒を振り上げて走ってくる。
足元の前に撒き菱を撒いて、その手前で待った。
片付くまでに一度だけ、棍棒の先が右の前腕をかすった。痛いけど、腕は動く。
魔石を拾ってから、首から下げたメモ帳を開いた。
唇を結んで、頬がゆるむのをこらえる。メモ帳の端には、うれしいときに付けてきた丸が5つ並んでいる。その隣に、少し震える鉛筆で、小さな丸を1つ足す。
(また石投げか。石ころ1つ当てたくらいで、丸まで付けて喜ぶとは。安い客だな、少年は)
壁にもたれたピエロが鼻で笑った。
袖の上から前腕の打ち身を押さえて、右手を握る。
◇
立川ダンジョンを出て、自転車で家へ向かう。坂を下りきった所で、背中で声がした。
(少年。取り引きの話をしよう)
(何かを手に入れたら、同じだけ差し出す。そういう決まりだ)
(3つも取らせてやった。次は、少年が差し出す番さ)
スキル3つの代わりに何かよこせ、ということらしい。
取らせてやった、ときた。3つの代金は僕のスキルptで払って、18が10に減ったんだけど。
(配信の日を増やせ。客人は、待たせすぎるとよそへ行く)
(それと、客人の多い深い層へ潜れ。浅い所の小物では、すぐ飽きられる)
「……それ、どこで覚えたの」
(何をだ)
「その、同じだけ差し出すってやつ」
(昼の教室だ。少年の前に座っている男が、隣の男に言っていた。パンを1つやるから、宿題を写させろ、とな)
パンと宿題が釣り合うのかは、僕には分からない。
赤信号で止まった。独り言に見えないように、歩道に誰もいないのを見てから、声を落とす。
「配信の日は、増やさないよ。水曜と土曜だけ」
(なら、層だ)
「層も、だめ。……父さんたちと、上層だけって約束してるから」
(上層は10層までだと、少年が乳母に言っていたな。10とは言わない。8でいい)
乳母、はピエロが結衣ねえを呼ぶ言い方だ。上層の底の10層から2つまけてやる、という顔だ。
先に10を出されてからの8は、安く聞こえるのがずるい。
「8層だって、協会の目安だとEランクの人向けだよ。僕の冒険者証は、その下のFだからね」
(強さは、数ではない)
「じゃあ、何で決まるの」
(斬ってみれば分かる)
「同時接続数は、毎回数えるのに? ……レベルは、信じないの」
(客人は数だ。強さは、数ではない)
配信を開けるたびに、画面のいちばん上の数字を真っ先に目で拾うピエロが、それを言う。
笑いそうになって、ハンドルを握り直した。
青信号でペダルを踏みこみながら、勘定する。
配信する日を増やせば、ピエロの出番も増える。層を1つ譲っても、出番は1回のままだ。
譲るなら、層のほうだ。
8層でいいよ、と言いかけて、喉で止まった。
この前の配信の夜、結衣ねえに、6層あたりまでしか行かないと言ったのは、僕だ。
(どうした、少年。急にこぐのが遅くなったな)
答えようがない。
「……8層は、配信の日、だけなら」
(小さいな、少年。はっきり言え)
「土曜の配信は、8層。8層は配信の日だけで、上層からは、出ないからね。……10は、なしだよ」
口に出したそばから、今夜の結衣ねえへの知らせの文面が、1文字も浮かばなくなった。
(決まりだ。土曜は、8だ)
◇
帰りに店へ寄って、手袋を店長に見せた。
帳面の『右手の手袋 黒い革 律くん預かり』のページに、短剣が滑らなかったことと、取ったスキルを試したことを書く。今日は書けないことが1つも起きなかった。
家に着いて、自分の部屋の机から、結衣ねえに、帰った、と時刻を添えて送る。
帰った、の下に、指を止めずに、土曜の配信は8層、ごめん、と打ち足す。
すぐに、6層あたりって言ったよね、とだけ返ってきた。
配信の日だけだから、と打ちかけて、消す。
ごめん、とだけ返す。
6層あたり、と結衣ねえに言って2日で、その層を越える。
夜が更けても、結衣ねえからは、もう何も来なかった。
窓枠では、ピエロが片脚に重心をかけてもたれていた。
(少年。8層で、いちばん強いのは何だ)
「……8層だと、コボルトも、角のあるうさぎも出るけど。いちばんは、オークかな」
「協会の資料だと、大人より大きくて、Eランク。僕より、格上だよ」
(E、か。また数だな)
(大きいなら、舞台映えする)
次の出番で、オークと戦う気だ。
ピエロは、壁ぎわの長物のケースへ顔を向けた。中身は、ピエロの大鎌だ。
(演目は、決まった)




