第17話 張り子の王冠
曲がり角の手前で、僕は壁に肩を付けたまま、息を止めていた。
角の向こうに、子どもくらいの大きさの気配が3つある。
数と大きさからいって、たぶんゴブリンの群れだ。
たぶん、のまま角を曲がれるほど、僕は強くない。
3つの気配は角の先を横切って、奥へ遠ざかっていった。
1つも、こっちへは曲がってこない。
『今の何』
『止まっただけ?』
『地味』
『黒手袋まだ?』
何も起きないように止まったんだから、これで正解だ。
ただ、上手くいくほど、画面の中の僕は通路で休んでいる人にしか見えない。
配信を開けて、今日は8層です、と言ったときは、あんなに沸いたのに。
1つ上の幼なじみの結衣ねえも、どこかでこの配信を開いているかもしれない。危ない所を見せれば叱られるけれど、壁にくっついているだけなら大丈夫のはずだ。
角を曲がると、通路の先に、天井の高い部屋の出入り口が開いていた。
(少年。舞台は、あの部屋だ)
壁にもたれていたピエロが、白い指でその出入り口を指した。
その奥に、大きな気配が1つだけ、じっと止まっている。さっきの3つを束ねても、まだ足りない大きさだ。
昨日の夜、8層でいちばん強いのはオークだと、僕はピエロに答えた。
でも、気配で分かるのは大きさまでだ。何がいるかはこの目で見て決める。
《隠密》、と念じて、光る石の少ない壁ぎわを出入り口へ寄っていった。
自分より強い相手に効くのかどうかは、まだ一度も試していない。
出入り口に半歩だけ踏み入って、中をのぞく。光る石の明かりは奥まで届いていない。
その暗がりで、止まっていた大きな気配がこっちへ動きだした。
気づかれた。
通路へ跳び退る。
出入り口を緑の肩がふさいだ。
オークだ。頭は大人の背よりまだ上にある。
協会の資料にあった、大人より大きい、は控えめすぎる書き方だった。
『でか』
『オーク?』
『それEランクだぞ』
『格上じゃん』
『ヘラルド逃げろ』
Fランクの僕から見れば、ランクが1つ上の相手だ。
太い腕が頭の上から落ちてきた。
考えるより先に、体が横へ跳んでいる。さっきまで僕の頭があった所を腕が抜けて、床が鈍く鳴った。
次も跳べる気はまったくしない。
跳んだ勢いのまま、撒き菱を横なぎにばらまいた。出入り口の前に、とがった粒の帯ができる。
いつもなら、相手の足はここで止まる。
緑の足は帯を見もしなかった。
大きな足の裏が粒の真ん中に下りる。踏まれた粒が横へ弾けて、床を跳ねていく。
止まらない。
もう一歩。散った粒を蹴って、まっすぐ来る。
下がるしかない。
下がった足のかかとの下で、硬い粒が1つ、ころりと転がった。
僕は仰向けにひっくり返った。
背中で床を打って、息が胸の奥に詰まったまま出てこない。
自分で撒いた粒に、自分で転んでいる。
『ヘラルド!』
『転んだ』
『立って』
天井の明かりが緑の影で消えた。
オークが僕の上に立っている。急ぐ様子もない。肩をいからせ、顎をぐいと上げて、床の僕を見下ろしている。
逃げる獲物を見る目じゃない。もう片付いたものを見る目だ。
太い片腕がゆっくり頭の上へ上がっていく。
脚が床から上がらない。いつもは考えるより先に動く体が、今は、何も言うことを聞かない。
頭の中で、ピエロの声がした。
(代われ)
「モンスターだけ。……いいよ」
答えたとたん、僕の体を動かすのはピエロになる。
拳が落ちてきた。
ピエロが、僕の体を床の上で横へ2回、ごろりと転がした。
さっきまで僕の頭があった床を拳が打ち抜いて、石の粉が散る。
転がった勢いのまま、ピエロは片膝から立ち上がる。
僕のままなら、まだ床で目をつぶっていた。
ピエロが左手で、手袋の白い折り返しを引き直した。重心がすっと片脚へ流れ、丸かった背中が伸びる。
指で前髪を後ろへなでつけると、左の目尻からこめかみへ、冷たい線が1本跳ね上がった。
ピエロは背から鎌を外し、石突きで、粒の散った床を突く。
柄頭に両手を重ねる。上に来るのは、黒い手袋をはめた右手だ。
格上の目の前で、杖みたいに寄りかからないでほしい。
床から拳を引き抜いたオークが、こっちへ向き直る。
『顔がいい』
『背筋どこから出た』
ピエロは斜めに立ったまま動かない。目だけを一度、腕の画面へ向ける。
同時接続数は1万3千を超えていた。
「客人方、お待たせした」
「相手は、この層でいちばん位の高い、そこの大きいの」
「演目は、『張り子の王冠』」
最後の一語と一緒に、ピエロが《挑発》を使った。モンスターの目をこっちへ引きつける気配が、出入り口いっぱいに広がる。
ピエロは鎌をそのまま背の留め具へ戻す。
代わりに腰から抜いたのは、僕の短剣だった。持ち物の中で、いちばん短いやつだ。
『え、鎌は?』
『短剣で行くの?』
『格上相手に舐めプか』
(ま、待って。鎌は? 僕の短剣じゃ、あんなの――)
言い終わる前に、オークのうなりが、通路の壁をびりびりと震わせた。
《挑発》はちゃんと効いている。効かなくてよかったのに。
大股の足が、床に残った粒を踏みつぶしながら来る。
ピエロは斬りかからなかった。僕の体で、さっきのオークの真似をする。肩をぐいといからせて、顎を上げる。
見下ろす目つきのまま、大股で横へ2歩。
『似てるw』
『顎の角度まで同じ』
『さっきのオークじゃん』
格上の真似を、格上の目の前でしないでほしい。
太い腕が頭の上から振り下ろされ、床を打った。
低くなったその腕の上を、ピエロは僕の体ごと逆さまに越えていく。
頭より少し遅れて、胃がついてきた。
降りたのは、緑の背中のすぐ後ろだった。
ピエロは短剣の柄頭で、大きな後ろ頭をこつんと叩く。
斬っていない。叩いただけだ。
向き直ったオークが、横から腕を振り回す。
鼻先に風だけ通してよけると、ピエロはまた僕の体でオークの真似をして、肩をいからせ、顎を上げた。
『格上で遊ぶなw』
『今、後ろ取った?』
『あおりが上手すぎる』
あの腕に一度でも当たれば、この体はもたない。
うなりが、止んだ。
オークが肩をいからせ、顎をぐいと上げて、僕の体を見下ろす。
床の僕を見下ろした形とも、ピエロが僕の体で真似た形とも、同じだった。
いつ動いたのか、僕には分からなかった。
気づけば、緑の腕の付け根が頬のすぐ横にある。
ピエロは大きな影の懐に、小さな刃1本で斜めに立っている。
上がった顎の下の喉を、ピエロの短剣が一度だけ横に払った。
見下ろした形のまま、大きな体が光の粒にほどけた。
床に魔石が1つ落ちて跳ねる。
【レベルアップ。Lv10からLv11になりました】
天の声が言い終わる前に、ピエロが僕の鼻で、ふん、と短く笑った。
少しの間止まったコメント欄が、倍の速さで流れだした。
『は?』
『格上が一撃』
『スロー誰か』
『張り子ってそういう』
『自分で王様の顔したw』
「数字など、飾りだ」
ピエロはカメラから一度も目を離さない。
「位も、レベルも。入る所に入れば、そこで幕さ」
『数字は飾り』
『数字は飾り、頂きました』
『Lv信者息してない』
『名言が物騒』
物騒なのは名言じゃなくて、言った本人のほうだ。
(……その飾り、今ひとつ増えたよ)
返事はなかった。都合の悪い声だけは、ピエロの耳を上手に素通りしていく。
そのくせピエロは、同時接続数が1万6千に上がったのを、しっかり見ている。
ピエロは用の済んだ小道具みたいに短剣を腰へ戻し、背から鎌を外して宙へ放った。
回る刃の下で僕の背中が丸まり、前髪が目の上へ下りてきた。落ちてきた柄を、僕は右手で受けた。
オークを斬ったのは短剣なのに、最後に僕の手が受け止めるのは毎回、使わなかった鎌のほうだ。
遅れて、腰と左脚がきしみだす。転がって宙を回った分だけ、前の配信のあとより重い。
「あ、あの……みんな、ごめん。また、騒がせて。つ、次の配信は、水曜です」
配信を切って、床の撒き菱を拾った。踏みつぶされずに残ったのは、半分もなかった。
◇
夜、部屋のベッドの上で、スマートフォンが震える。
結衣ねえからのメッセージは、見てた、で始まって、やめなさい、で終わっていた。
間に、リンクが1つ挟まっている。題は、〔公開処刑〕本日の出演者さん。
噂の、処刑人のチャンネルだ。やめなさい、と一緒に届くものとしては、いちばん返事に困る。
開くと、赤いフルフェイスのヘルメットが、画面の真ん中に立っていた。
黒い作業服を着た肩の向こうに、カメラのドローンがいくつも浮いている。
「皆さん、お待たせしました。当チャンネルへ、ようこそ」
機械で平らにされた声が、テレビの司会みたいに続く。
「本日の出演者さんは、登録者さん3万人。いま伸びていらっしゃる、こちらの方です」
カメラが振られた先で、若い男の人が、通路の壁に背中を押しつけていた。
知らない人だった。後ろの通路にも、見覚えのある目印は1つもない。
『神回の予感』
『この人今日配信なかったよね』
流れていくコメントの中で、今日配信なかった、の1行だけが、目に残った。
狙われた男の人が、壁から背中を離して走りだす。
処刑人は走らない。間を詰めずに、ゆっくり後ろを歩いていく。
長い。逃げ回る背中ばかりが、何台ものドローンで、何分も映る。見ているだけの僕の息まで、浅くなっていく。
処刑人が腕のスマートフォンにちらりと目を落とした。
それから、歩幅が変わる。
人を怖がらせる間の取り方が、上手い。
上手い、と思ってしまったのが、嫌だった。
スピーカーから、何かを打つ鈍い音が2回した。男の人の声が悲鳴になりかけて、かすれる。
「では出演者さん。皆さんに、一言どうぞ」
画面を止めた。
謝らされる所までは、見ていられなかった。
止まった画面に、襲われた人の横顔が半分映っている。
気づいたら、ベッドの縁から片足が下りて、その横顔のほうへ、床を踏んでいた。
同じ画面の隅、チャンネル名の横に、小さく数字が出ている。
Lv41。
『Lv41えぐい』
『41に勝てるやついないだろ』
昼のオークで上がったばかりの僕のLvは、11だ。
41から11を引くと、30。半年潜ってLv4だった僕には、気の遠くなる差だ。
講習で聞いた目安なら、41は、下層を回る冒険者の数字だった。
窓枠にもたれたピエロが、画面の赤いヘルメットをのぞきこんで、喉の奥で笑った。
(赤い頭は、41か)
(昼に、見せたろう)
見た。昼に、オークの喉を一度で払った一振りだ。
あれは、この数字の前でも届くのか。
考えてから、気づく。
ピエロの刃の先に、僕は、赤いヘルメットの下にいる人の喉を置いていた。
腕に、鳥肌が立った。




