第九話 雨の窓
湿気が纏わりつく梅雨。
まるで水中にでも居るようだ。
「エアコンの匂いとか、涼しい部屋から暑い外に出るときとかの感じっていいですよね」
「分からんでもないけどさ」
検査結果を聞きに行くだけだろとなぜか私が励まされる。
結果を聞かずとも既に肝を座らせている彼女には気後れする。
自分のことは自分が一番よく知っていると豪語する割に分かっていないのだから。知っていれば今の状況はなかっただろう。
この入院期間でも容態が急変したと連絡を受け取ったことが数回ある。おかげでこっちが死ぬかと思った。
彼女も私の考えていることは薄々伝わっているらしい。段々と語彙が弱まっていっている。
叶を不安に陥れては駄目だ。なにかいい話題を探す。
「そうだ、紫陽花。後で見に行こうか」
「はい。でもいいんですか、体調よくなさそうですけど」
病人に心配されては顔もない。
ただの不安。ただの恐怖。叶はなんでこうも自分より他人を心配するのか。
顔色も悪いと普通に心配されて面目ない。どうしよう。
「あと普通に今日雨ですよ」
濡れた肩とズボンの裾をタオルで拭かれながら状態を詮索される。
叶にはどんな動揺もお見通しか。
ただ拭かれながらぼんやりしていると、指先に目がいった。
マニキュアを塗られてからもう二ヶ月。こんなに短い期間に思えるというのに。少しの兆しもみせてもらえないとなると気が重くなる。
梅雨だからマイナス思考になっているんだと自分に言い聞かせても大して意味はない。
塗ってみたらなにか反応をもらえたり。きっと気付いてくれるはずだ、この子の慧眼力は侮れない。
やっぱり、退院してからまた一緒に塗ろう。そのほうが私もいい。どこかの誰かにまで突っ込まれたくない。
「紫陽花はとりあえず置いておいて。行きますか、綾音様」
少しだけ開いている扉。そして目配せをする看護師に気付き、軽く会釈をする。
誰と話していても、叶という人は第三者がこちらを向いただけで気付く。
外出先でもそんなことがあった。どれほど遠くても知っている人が居れば必ずと言っていいほど気付き、そして逃げる。
自己防衛は鉄壁だ。幼い頃からの名残だと思うと複雑だけれど。
歩くと言って聞かない叶とともに、また平静を失ってしまうような話を聞きに行った。
「死は始まりであって、決して終わりではない」
「はい?」
雨が止んだら中庭に出てもよかったが、止む気配はどこにもない。
中庭の見える窓際での立ち話。病室に戻るのはまだ嫌らしい。
雨に濡れる紫陽花を眺めながら彼女は通常運転でなにかをほざき始めた。
「ま、始まりはあなたにあるわけですが。私にはない」
言いたいことがなんとなく掴めたところで、窓の外に目を移す。
はっきりと、ほぼ即答で延命を拒否した叶。食い気味とさえ言えるほど。
分かってはいた。心構えもしていたつもりだった。
髪を切られる心構えもできていないのに、変な話でもある。
体中の痛みも苦しみも話そうとしてくれない。私以外には言うくせして。
心配をかけたくないからなにも言うな、と看護師にも口止めしようとするほどの。伝わるのを見越しているのもそうで。
そんなに頼りないだろうか。我が身を振り返るとそうかもしれない、と思う。
見かけによらず案外弱いと雪から始まる名前の人にも言われたことがある。
「極論を言うくらいに辛いなら言ってよ。何のために私はここに居るの」
深くなっていく緑の葉から雨粒がひとつふたつと落ちていく。
横目で見られ、また視線を戻すのが反射で分かる。
なにもできなくなってまで生きる必要はない。人としての尊厳を失ってからも生きるより、天寿を全うしたほうがいい。
それが彼女の考えであり、筋の通った話であるから否定もできない。
「あなたを生かすためならなんだってするつもりだった。私が死んでからも綾音様の人生は続くんです」
自ら決めたものを曲げることはない。
なんだってする。それに延命が含まれてしまうのを避けるために過去形にしやがった。
握った拳はどこにもいけない。この雨の中、走ってどこかに行ってしまいたい衝動に駆られても足は動かない。
「まだ治療があるわけですし。そんな気を落とさないでくださいよ。病は気からです」
「そうだけどさ。もういっそ気から病になりたい」
なにも考えずに出た言葉。逆にしただけなのに意味合いが異なりすぎる。
自分でも驚いていると、窓に反射する姿がこちらを向いている。
恐る恐る体の向きを合わせ、目を逸らす。
彼女に望んでいるのは生だ。また叶が望んでくれているものも生。
死ではない。
凍りついた心を優しい陽で溶かしていくように、抱きついて離れようとしない愛する人。
梅雨寒も忘れてしまうほどあたたかい。
「一緒に居たいよ。この先もずっと」
「私も君と一緒に居たい。居たい、永遠に」
永遠がこの世にあるなら。
なにも多くは望まない。永遠に叶と居られるだけでいいんだ。
特別なことなんていらないから。
抱き返し、人目も気にせずに泣く。
死は一番分かりやすく、そして得体の知れないものでもある。
叶と一緒に暮らさなければ、死を考えることもなかった。いくら明日が来るのが嫌でも、来ることが前提にあった。
そう考えてこれなかった人が目の前に居る。
「でも綾音様。あなたが頑張って色々覚えているのも知ってるし、こうして毎日来てくれていることも感謝してる。死んじゃいけない」
毎日作った料理の写真を送っていることもあって、食べていないにせよ上達を認めてもらえている。
たまにカップ麺の日とかあるけれど。妥当だと言ってくれる。
叶の退院も言っているうちに来るのだろう。
それならもっと上達して、食べてもらえるうちにお返しをしたい。
今までずっと任せていた分を取り戻すことができなかったとしても。
「ミョウガの天ぷらを作るとは思っていませんでした。揚げ物だし」
「大変だった、油ははねるし後処理サボって怒られてさ」
それは怒るでしょ、と温和な目を向けられ、慌てて目を逸らされる。
喧嘩をしようと怒るのが下手で長続きしない。
安い日限定だったミョウガの天ぷらを初めて食べたときはいい意味で絶句した。しつこくねだっていた時期もあったくらい。
すると仕事終わりだった叶の堪忍袋の緒が切れ、大量の天ぷらが生成されてこれでもかと目の前に置かれたことがある。
変なプライドはもう捨ててしまったほうがきっと楽だ。
「上達のスピードが段違いすぎてついていけません」
「叶がそれ言うか」
廊下に響く笑い声に気付き、顔を見合わせる。
しー、と唇に人差し指を添える叶を真似てみるとまた笑いが続く。
これだけ笑ったのはいつ振りだろう。叶との暮らしは二人とは思えないほどの笑いが起きることもあったけど。
家に帰れたらまた。
「じゃあ髪切ろっかな」
「はい?」
どうせ死ぬとしても区切りをつけたい。早く切った分、髪も早く伸びる。
そんな力説を病室に戻る道のりで聞きながら、ここまで来ても心構えをしようと思っていない自分に気付いた。
なにがそんなに嫌なのかと問われると困るが。とにかく嫌なものは嫌なのだ。
「姿形が変わったとしても。思い出は消えません」
ベッドに腰をかけ、新しく買ってきたジグソーパズルをコツコツ進めていく叶。
姿形。死。
深読みをするのがいけない。つい叶の発する言葉以上のものを家宅捜索をするように粗探しをしてしまう。
生きてほしいと願っているくせして。私という人間はどうしてこうも。
伝えられたことにも屈せず、あっけらかんとする彼女に耳を壊されかけた。
「ねえってば。この花ってストレリチアですよね」
耳元でこれでもかと声量を出してきた叶の顔を見る。
話しかけても反応してくれないのが悪いんだと意地の悪い表情をして言う。
耳がギンギンする。要らぬ考え事をしていたのが悪い。
というかこの人タフだよな。タフというか全てを振り切っているというか。
「ねえ、聞いてます?問いに答えてください、先生なんだから」
もう先生じゃないと答えそうになった。こんなことを言えばまた反感を買う。
休職の身なのであれば今すぐにでも復帰しろと窓から追い出されそうで怖い。
末恐ろしい子に育てた覚えはないが。問いに答えなければ。
「ストレージ?花なんて知らないよ、ただ綺麗に見えただけ」
「ストレリチアね。極楽鳥花とも。……そういうところですよ、綾音様」
この花になにかあるのだろうか。なにか特別な意味でも。
前は寒色の花だったから、今回はオレンジ色の明るい色にしたほうが気分も変わっていいかと思ったくらいで。
覚えていたら後で調べてみよう。三歩も歩いたらきっと忘れるだろうけど。
「色んな花知ってんね、君は」
「これは食べれるかどうかって図鑑とかで調べてたら覚えていただけです」
返答に困るのがまた叶との時間という気がしていい。
それにしてもこいつの記憶力は私からすればずば抜けて見える。
まあ中学時代の彼女のテストの結果と言えばあれだが。採点途中で頭を抱えたのもいい思い出。
「どこまで生きられるかな」
この闘病生活の中、弱音を吐くのは珍しい。
逆にこの類を言わなかったこと自体も不可解ではある。
私を不安に陥れないためだとすれば、平謝りでもしよう。
違うならば。それに応じて反応を返せばいい。
「五百歳まで生きな」
「それ私が願ったことですよ。まねっこ」
いつの七夕だったか、願われたことがあった。五百歳まで生きてくれますように、と。
叶が居ないと無理に決まっていることをわざわざ願ってしまうのだから困る。
「一光年とも言いましたっけ」
「新幹線で三六一万年くらいかかるって書いてるよ。もう塵でも灰でもないじゃん」
調べてみると異次元の数値が現れた。
この子は一体私をなんだと思っているのか。妖怪か化け物とでも思っているのだろうか。
人生百年時代をはるかに超えているもの。というか人間自体、百年も生きられるように設計されているわけではない。
実際私は彼女より生きている分の老いを感じている。
「三六一万年もあったらやりたいことも行きたい場所にも、飽きたってなんでもできますね」
「そんなに時間あったらそれはそれでしんどいって」
死にたがりの叶がこんな冗談を口にするとは。
少なからず死にたくないと思っている。やり残したこともたくさんあるはずだ。
だってこんなに希望の兆しさえ潰える宣告が立て続けに起こったのだから。
もう季節も変わっていっている。あとどれだけの時間が残されているのか。
夏を迎え、秋は来るのだろうか。冬は。叶の望む春は。
「綾音ー、いくらなんでも電気くらいつけてよ。ご主人のお帰りだぞ」
病室を出て以降の記憶がない。
電気が灯され、暗い影として見えていた家具たちが光を浴びる。
まだこの人には連絡もなにもしていなかった。無知のままで居てほしくさえある。
「その様子を見れば察しはつく。……よくなかったんだね」
「悪化してる、って」
なにも言わなくても伝わっていく感情。
叶の前では堪えていた涙。平静を失っても、彼女が泣く前に流すわけにもいかなかった。なんて嘘だけど。
叶を無視して泣いたのは秘密。泣いたの度合いが違いすぎるし。
少しでも可能性があるのなら続けてくれ、なんて言っても聞き入れてくれるはずもない。叶には叶の信念がある。解していても泣きついてしまった。
ゼロから十まで話し続けていれば比喩ではなく気が狂ってしまいそうだ。
なだめるように頭に手を置かれ、ただ無言が続く。
どこか心地よく、振り払って逃げ出したくもある。
今頃あの子は一人でなにを考えているのだろう。寝るまでの間に黙々とパズルでもしているのだろうか。
「窓枠から身体を乗り出させていたときさ。ほんとに無意識に動いてて。自分でも驚いたんだ」
急に何の話をしだすんだ、この人は。
見栄か。助けてやったということに対して感謝を要求しているのか。
このまま思い出話に持っていって逃げ場をなくすつもりか。
「死ぬつもりなんてなかっただろうけどね。まだ死ねないもん、あいつ」
なにかを知っているような口ぶりに視線を尖らす。
遠回しに死ぬなと私に云っているのなら余計なお世話だ。私が叶を置いていけるはずもない。
「久々に酒飲も。冷えてんよ」
なにを言っても無意味だと思ったのか酒を出してきた。
明日叶に怒られないようにペース配分を考えないと。
飲まない選択肢は今はない。
飲まないとやってられない。
「治療は続けるの?早瀬のことだから拒否ってそうだけど」
一気にチューハイを流し込む雪里を横目に見ながら、返事を考える。
なにもかもが潰える気がして。そんなことはないと見透かしてくるような瞳が同情を浴びせる。
「今の治療は次で最後。結果次第だけど、もうこれ以上は無理」
「そう。……そっか。そうだよな。うん。そうか」
相槌の量があまりにも多い。
分かっていたことだとしても狼狽する。当たり前の反応をもらえてなぜか安心してしまった。
叶は平静を保ったまま話を聞いていた。その目の奥が笑っているように見えたのはなにも考えすぎではない。
ある意味のひとでなし。自分のことには情け容赦ない。
「私たちは早瀬の成長を見てきてる。早瀬が覚えていないことも知ってる。思い出話でもするか、たまには」
話すことなんてない。そう言おうと思ったけれど、叶のことならば聞くだけでも色々と思い出せていいか。
聞く姿勢を取ったとき、叶から料理の写真の催促が来た。
画面を覗き込んでくる雪里から背を向けるように逃げ、思考を巡らせる。
目の前には酒の缶しかない。アテもなく感情に任せて飲んでいるし。
雪里なんていつの間にか二本目に突入している。これでは二日酔いまっしぐらだ。
「生きることを放棄しているのは我々も同じだな。食べることは生きることだ」
「昨日の余り物まだあったでしょ、取ってきて」
面倒くさそうに腰を上げる人間には無視を決め、叶にメッセージを連投する。
ちゃんと晩ごはんを食べたのか、今はなにをしているのか。
どうせならテレビ通話でもして酒を飲みたい。わがままが浮かび上がると、こびりつくようにして頭から離れなくなった。
心を読まれたように着信を鳴らすスマホに心臓が跳ね、つい雪里のほうにぶん投げる。
「投げんな。おかず机に置いてなかったらどっちかが大惨事だよ」
思ったより飛距離を出したスマホ。
間一髪で受け止めた雪里にしばかれ、通話に出る。
いくら数時間前に叶に会っているといえど、謎の緊張感がある。
「よー、早瀬。今から思い出話でもしようと思ってたんだよ」
「わ、酔ってる。嫌だなー、かけるタイミング間違えた」
乱入者には容赦なく嫌な顔を見せつけ、頬杖をつきながら面白そうに様子を画面越しに見つめる彼女。
早瀬の思い出話を叶に聞かせるのは多分危ない。羞恥心で病院から矢でも飛んでくるかもしれない。
今日の飯を見せ、酒は雪里のせいでバレているから言う必要もない。
作れる状態でなかったことは叶に見透かされている。だからこうして心配だからと口にせずとも電話をかけてきた。
逆の立場だったら自分もそうする。なんて思っているのだろう。
もしも本当に逆であったなら。叶のことが心配で居られたものではない。
誰よりも強く、弱いあの子を止められる者は世界中のどこを探したって見つけることは不可能だ。
一緒に死ぬのが最善策と洗脳してきそうな子を。
「お酒は程々に、お二人とも。明日も平日ですし」
注意も聞いているのか怪しい元同僚のことは放っておいて、叶との話に花を咲かせる。
今なにをしているのか訊いてみると、出来上がったジグソーパズルが映された。
「もうできたの?なんだっけ、ストレスみたいな」
「ストレリチア。綾音様が帰ってからもずっとやってたんです」
花の名前を復唱しながら進む会話。
彼女がこんなにパズルに集中するとは。
今日はまた特別ではあったかとは思うが。叶も叶なりに苦しみを分散させようとしている。
なのに転がり込んだ先の家主ときたら未だに酒を浴びるように飲んでいる。
声を聞けてよかったという叶と酒乱と化した人にもみくちゃにされる夜。
明日は明日できっと詰問責めにされるのだろうな。それはそれで、また人生か。
「じゃ、思い出話でも」
「正気かお前。叶だって程々にって言ってただろ」
透明のガラスのコップ。ロック用の氷。
飲みきれるはずのなかった芋焼酎は雪里の家に持ち込み、こういうことに使われる。
電話の切れたスマホは充電を欲し、コンセントに繋がれた。
思い出か。思い出な。いつのことを切り取っても幸せな一ページになる。
勝手に一人で感慨に浸っていると、勢いよくコップが叩きつけられた。
「好きだったもんね、早瀬のこと」
「またそれか。もういいじゃん」
そんな昔のことを掘り返されても。思い出話じゃなくて糾弾大会みたいだし。
でもいつもと違う。それ以上の言葉を繋げようとしない。
声をかけても溶けていく氷を見つめたまま。口角すら動く気配を微塵も見せない。
「なあ、どうしたの」
「ん。なんだろうね。不思議とあの子が死ぬんだって思うと、意味分かんなくて」
辛気臭い話をしようっていう流れだったっけ。
私だけが辛いなんてはずもなく。
なにも不思議ではない。これが当たり前の反応。この人も叶との付き合いが長い、唯一の人。
事あるごとに現れていたからか、学生のときと違って雪里とも普通に話せるようになった早瀬。
よかった。私たちのことを知る人が居てくれて。
「話してくれるようになるとは思わなかったな。誰とも話そうとしないし、話しかけたら銅像になっちゃうし」
「ほんとにな。私だって最初はどう接すればいいか分からなかったし。今もそうだけどね」
誰に対しても怯えをなしていた。怒るはずのないことでも反射的に受け身を取ってしまうような。
心を開いてくれたのはいつだったか。
立場が変わってからも叶はなにも変わらず。慕われているのは目に見えていても、謎で出来上がっているような先生でもあって。
自分というものを人に見せたがらなかった。最後の最後まで。
「見守るよ、これからも。仕方のない奴らだから」
「はいはい、よろしく」
今更乾杯を交わし、喉を焼くように伝っていく酒を感じる。
数ある思い出を話すのはもう少し先でいい。
今はただ、誰かと居られるだけで。
雨の降り続ける音と感情に溺れそうになりながら、遠い昔話に花を咲かせた。




