第十話 おかえり
ついにこの日がやってきた。
いつだかと同じように全身全霊で家中を掃除し、叶が帰ってきても文句が飛ばないように準備を整える。
どこかの悪女は私の周りには居ないが、指であらゆる端をこすって埃を確認する。
彼女がシンデレラを貶めるような言動をすることはないし、私もしたことはない。叶からすればされる側だし。
おとぎ話のような世界線に憧れたことはあるのだろうか。野草を手当たり次第食してきた幼い叶の夢は一体。
時計の示す時刻を見て、いつも通りにバタバタと家を出る用意をする。一人だろうが二人だろうがなにも変わりはない。
気にしなくてもなにも変わらないのに今日は何故か毛先が気になる。
そんなこんなしていたら時間がどんどんなくなるというお決まりのパターン。
あわてんぼうのサンタクロースもびっくりな速さで家を飛び出した。
「暑い、休ませて」
「ちょっとどうしたんですか。そんな走ってこなくたって私は逃げれませんよ」
逃げる気はあるっていうことか。
追いかけっこというかイタチごっこを何百回繰り返してきたことやら。別にいいんだけどな。それはそれで。
もうあんなに必死になって探し回ることもしなくていいのだろう。
退院が決まってからは少しずつ荷物を家に持ち帰り、長期休み前の荷物多すぎ問題を回避しようとした。
その甲斐あって色々と出てくる。
「これなに?」
「もらった」
あらゆるものをもらっていた叶に驚嘆しながら、袋の中へ詰め込んでいく。
折り紙にお絵かきに。ミサンガにビーズで作られたブレスレット。彩葉ちゃんを始め、あらゆる品をもらったり何かしらの勉強を教えたりして過ごしていたらしい。
「よくこんなに。慕われ過ぎでは?」
「体調悪いときとか、色々看護師さんづてに置いていってくれて。気付いたらこんなに」
拒むこともはばかれるし、と底なしの優しさを誰にでも与える彼女。そして施されるという神がかった人。
自尊心を傷付けでもしたらと心配するところも実に叶らしい。
よくもまあ自尊心もなにもかもを破壊されて育った子が。こんなに心優しい人になるとはすごいものだ。
「しんどいときとか、なにも考えられなくなる。でも綾音様の名前を繰り返しループさせたら、気が休まって。一番の特効薬ですね」
「へえ。そっか。それはそれは」
満更でもない感情が身を包む。
機嫌を取られているのに気付いたのにはなにか特別な理由が……あった。
退院が決まる前のある日。
ついに髪を切った叶は普通にいつものお人形であった。口を開けば子犬に変貌するけど。
最後の最後まで切らないでほしいと言い続けてはいたが、心構えというか心づもり自体はできていた。
叶が断言してくれていなければ、切らないでほしいお化けにでもなっていただろう。いやなっていたか。
どんなものに区切りをつけたのかは分からない。それでも重圧は少なくなったように見えた。
肩より下まで切られた髪を揺らし、ノートやらパソコンやらをカバンに詰め込む彼女。
退院が決まった。つまりはもう回復の兆しは潰えたことになる。もぬけの殻になっても生き続けてもらうより、一緒の時間を過ごして思い出を増やすほうが断然いい。
雪里とも話し、最終的な答えは同じになった。
なにがあっても生きてほしい。でも苦しめる形になるのだけは嫌だし、彼女の自由と尊厳を守らなければ意味もない。
雪里には泣きながら言葉にもならないなにかを曝け出してしまった。
ドン引きもできない状況であったことがせめてもの救い。
それにまたしてもやけ酒に走っていったおかげで、雪里のほうが大変なことになった。
よく頑張ってくれた。倒れたという知らせを受け取ったときはどうなるかと思ったけれど。今を生きてくれているなら。もうなんでもいい。
「熱もなくてよかったよ。体調悪かったら延期だもん」
「この一週間は気合い入れてちゃんと早寝を心がけたんです。生活の基礎を徹底して、無理はしない。まあ普通のことなんですけど」
普通のことが誰にとってもの当たり前というわけではない。こいつを見ていてよく分かった。
病人であり治療中だったのだから早寝も生活の基礎もしなければならない環境に居たはずで。
無理矢理そんな環境の中に放り込まれたのにも関わらず、自分の生き方を貫いてしまった。
夜な夜なお守りを作ったりなにかを書いていたり。取り上げたとしても新たなものを手にして平然としてしまう。
「本当にしんどいときは無理ですよ、流石に。綾音様を数えるくらいしか」
「私は羊か」
羊であろうとなんだっていい。何でもいいという感情がどんどん加速していっている。
毎日見舞いに行っていれば叶の体調が悪いところだって必ず見てきた。
痛みを堪える姿も。痛みを痛みで塗り替えようとしていた姿も。これからも見るだろうし、考えたくもない最期もこの目で見るだろう。
私がこんなに愛されるだとか愛すとか。そんなものには無縁だと思っていたのに。
いくら身体が辛くても考えていてくれること。まるで美しくて脆い飴細工のようで。
「ねー、本当に帰れるんですか」
「そうだよ、帰れるんだよ。よかったね」
最後の言葉を言うのに少しためらった。
よかった、で合っているのか。治らない現実を突きつけているだけでは。
「うん、とても。やっとあなたと好きなだけ居られる」
一番現実をこの胸に突き刺されているのは私か。
退職して、治療に集中して、治ったら。もしかしたら復職できるかもしれない。あの日までの日常をまた取り戻せるかもしれない。
どれだけ日々を忙しなく過ごしていても。あの日常が好きだった。
叶からすれば仕事もなく、私との時間が長くなる。私と過ごせる。そのほうが嬉しいのだろう。
一緒に居られる時間が限られていたのが当然のことだと疑いもなく思っていたのは私だ。
「ずっと二人でゆっくりできますね。迷惑しかかけないかもだけど、よろしくお願いします」
「迷惑はない。できるものをできるときにしような」
退院の手続きを済ませ、今にも走り出しそうな叶の手を取る。
一体どんな生活が待っているのか。
夏空の広がる外へ歩み出た。
「シャバはいいっすね、シャバですよシャバ」
「やめろ。口調まで変わってる」
テンションがどうにかなっている叶と二人で歩く。
荷物置きになった車椅子。一時退院のときはペンギンのように歩いては転けていた叶も、ゆっくりと並んで歩けるまでになった。
それでも何があるか分からない。車椅子は必要である。
「てか暑すぎません?蒸籠で蒸されてるみたい」
「蒸しパンになりそうだな」
「久しぶりに食べたいなー」
冗談では済まされない暑さ。
黒の羽織りを着ている彼女を見るだけで余計に暑くなる。
食べたいと言うならスーパーに寄って買っていくか。食べられるうちに、できるだけ。
雪里に泣きながら相談をした日。治らないことを告げられた夜更けのお通夜モード。
死を望んできた叶を私は知っている。今この瞬間も心の何処かではそれを願っていることも。
全てを知らない雪里も、ここまで付き合いが長くなるとなんとなくの察しはついている。
あの日窓際の彼女を止めたのも、過去と今が繋がったからだろう。
今を考えろ。過去は変わらない。だけど未来は変えられる。生きたいと思える道をつくれ。
そう雪里に云われたとき、大波に襲われていた心ははさざ波ほどに静まった。
叶は過去を憶えたまま、今日まで必死に生きてきた。明日すら見えないとしても。
生きたいと思える道。
花の咲く、優しい道。
「見てー、神社!行きましょうよ」
「こんなところにあったっけ。階段長いな、膝が終わりそう」
いつもと違う道を歩いて帰ってみれば新しい発見もある。
ただ階段に太刀打ちできるほどの健康体でないこの人には少々厳しいものがある。
この暑さとここまでの距離を歩くだけで疲れたはず。まず私が無理だ、この階段は。
「無理か。じゃあここで勝手に祈りましょう」
突飛な発想に呆気にとられながら私も勝手に祈る。
叶が一日でも長く私のそばに居てくれますように。
神に祈らずしてどうしろと言うのか。
目を開けると同時に地面に倒れ込む姿が見えた。
急いで声をかけ、大丈夫か確認する。
熱された地面に手をつけながら、繕った笑みを向けられる。
「大丈夫、ちょっと立ち眩みしただけです」
「頑張って歩いたんだから休みな。ほら、お茶も飲んで」
病院と外とでは気温も疲れ方も違う。なにかがあってからでは遅いのだ。
大丈夫なわけのない叶を車椅子に座らせ、帰り道を歩く。
歩きたいと逆さまから見つめてくる彼女をなだめ、ある種のホラーだと茶化す。
首も痛めるしやめたらいいものを。
表情が見えないというのもまた怖いのか、しつこいほどに振り向いてくる。
「ね、さっきなにを祈ったんですか」
「それ言ったら意味なくない?」
別に減るものじゃないんだしと声をはずませている。
余程待ち望んでいたのだろう、この日を。
どれだけ外の景色を切り取って見せても、あったことを話しても。夢が膨らむばかり。
なにも話さなければ夢は欲求に変わって脱走を企てでもしたかも。そう思うと話しておいてよかった。
「私は綾音様が一光年生きてくれるように祈りました」
「ほんとそれやめてよ。現実的じゃない」
どうしてこんな無謀な祈りをするのだか。悪い気はしなくてもスケールがあまりにも大きすぎる。範疇を越えすぎだ。
「徒歩だったら二億年を余裕で越すって、恐ろしい」
「恐ろしいこと祈んな」
そんなに生き続けないといけないとすれば地獄だな。流石の私でもそれは死を望むだろう。
それにしても新幹線で行けば三六一万年くらいだと言っていたのに。人間のスピードでは色々と無理がある。
今ここに存在している私たちはちっぽけな存在だ。居なくなってしまっても同じ。
らしくないことを考えた、まるで叶みたいなことを。
こんなことばかりを思って生きているこの人は、死後の世界をどう捉えているのか。
「点滴ないから腕振り回し放題。身軽」
「暴れるなってば。家に着くまで大人しくして」
道端に咲いている花に一々反応し、家に帰れる喜びを語る。
どれだけ我慢していたのかよく分かる。荷物もあるのに暴れられると困るが。
溜め込んでいたものを発散し、家に着く前に眠りに落ちていった叶。
このまま二人でどこかに行ってしまいたくもなった。
買い物をしている間も何度か目を覚ましてはまた眠りに落ちるの繰り返し。
一緒に居られるのが不思議にさえ思えてくる。やっと日常がこの手に戻ってくるんだ。
「ほら、着いたよ」
彼女の方に回り込み、優しく声をかけ、肩を叩く。
目をこすり、一瞬にして表情が明るくなるのを見てつい笑ってしまった。
こういうときは包み隠さず自分の感情を出してくれる。分かりにくくて分かりやすい子。
「家、家だ。うれしいね」
「そうだね。持てる荷物だけ持って、行っておいで」
鍵を開け、律儀に靴を脱ぎ揃え。荷物とともにリビングに突っ走っていくのが音で分かる。
いつだかと同じような状況。ただ転びはしなかったのが成長と取れる。
やっとこの家に光が戻った。静けさが消えた。
やっぱり私には叶が居ないといけない。
漠然と考えていると、玄関に子犬が戻ってきた。
「テーブルの上に紫陽花ある、どうしたんですか」
「ん、それ雪里からもらったんだよ。切り花だからそんなにもたないって言ってたけど」
昨日もらった白の紫陽花。叶の退院祝い兼ねてのものらしい。
明日は二人で水入らずの時間を過ごせ、と云われた。たまにはいいところがある人。
手を引かれて、強制的にソファに座らされる。
隣に叶が居る。この家で、この場所で。
また急いで掃除をしたこともバレている。変に綺麗で整っているせいで。
あの日のマニキュアの瓶も小さなテーブルに置かれたままだ。
「おかえり、叶」
「ただいま。ただいま、ただいま」
何度もただいまを繰り返す叶の背中を撫で、おかえりを伝える。
この家と雪里の家と病院を行き来して過ごしていた約三ヶ月。短いようで長かった。
料理の基本から始め、家事を覚え直し。今までどうやって生きていたのか自分でも分からないほどの時間を過ごした。
叶のためならやるしかない。
それを自分のためにできるようにするんだと叶と雪里に言われ続けてはいるが。まだ隣に居る人のためにやっていたい。
その日が来るまでは。
「待ち望んでたんです。退院できるのを、ずっと。死ぬなら家がいいし、死ぬまで家に居たい」
静かに、そして重みのある声が綴る言葉。
本音。その中にある希望。どれもこれもが儚く、そして美しくも思い。
どれだけ心細かったのだろう。一人で考え抜いた結果。一人で耐え抜いた結果。
一人でないと言ったって、一人の時間が大半なのは事実。誰かのためになにかをし、自分のために気を紛らわす。
叶の心を読み解くのは至難の業だ。
紐解こうとしても鉄骨の檻が彼女の心を守っている。付け入られないために、これ以上傷付かないために。
「考えられたのも、耐えられたのも。綾音様が毎日来てくれたからですよ。一人ではどうすることもできなかった」
話をそのまま聞けば私と話している間に考えがまとまり、やっぱりこの選択肢しかないと導き出せる。
私が明日も来ると言うから長い夜を越えることができる、ということらしい。
感謝されているのか。また違うのか。
久しぶりに見上げるうちの天井。
雪里の家では客用の布団を借りて寝泊まりし、起きる度に知らない天井が目に入ってここはどこなのかと思い出すところから始まっていた。
もうしばらくはそんなこともないと信じたい。彼女の体調次第で入退院も変動する。
隣を向けば叶が居る。前を向けばテレビ台の上に飾られているフォトウェディングの一枚が目に入る。
恋人になりませんか、と云われたあの日が懐かしい。
もう一度、なにもかもが同じの時間を過ごせるのなら。
「今を生きましょう。過去に縛られず、未来を恐れず」
見透かされた。動揺をあらわにしていると、図星かよとデコピンを食らった。
雪里も叶も同じようなことを言う。今を生きろと、今を考えろと。
過去にすがりつき、未来を閉ざす。そんないつかが見えてしまうほどには今を生きようとしていない。
誰よりも怖がっている。叶が居なくなることを。無になってしまいそうで。
まだヒリヒリ痛む額を撫で、気を入れ替える。
せっかくの日をこんなに湿っぽい感情で満たしてはつまらない。
「よし、なんか食べよう。なにがいい?なんでもいいよ」
「綾音様がいいな」
真顔でこいつは一体なにを言っているのか。
手こずりながらもご飯を作り、叶に喜んでもらえるという褒美もあり。
自由気ままに過ごせる時間が手に入ったことに戸惑いつつも、確かに幸せな時を過ごした。
久しぶりに叶の居る夜を過ごす。
退院祝いと称して夏らしい果物の詰め合わせを渡し、悪戦苦闘しながら切ったパイナップルは無垢な笑みを呼び起こした。
蒸しパンは明日の朝ごはんに選ばれた。
自室の整理をしなければ、と奮起する彼女を椅子に座って眺めながらビデオを回す。
何気ないものを撮るのが日課。それが過ぎて大変なことになっているのもまた私たちの生き方。
こればかりは自分たちの手で捨てることはない。
いつか誰かが捨てることになるとすれば、あまりの量を前に躊躇うかもしれない。
「帰る家があって、待っててくれる人が居て。こんなに幸せでいいんでしょうか」
まとめられた書類の束を縛りながら問われ、スマホをポケットにしまう。
私も思った。帰れば叶が待っていてくれた日々がどれだけ幸運に満ち足りていたのか。
彼女が入院してから胸が絞めつけられるほどに考えた。
なにも当たり前ではない。分かっているつもりなのはただの錯覚。
「なんでずっと守ってくれるの」
机にドサッと置かれた書類。振り向いて問いてくる痩せ細った恋人。
なんでと言われても。知らず知らずのうちにこの子を守りたいという思いが生まれ、彼女のしつこいくらいの願いを受け入れた。
それだけではないのは確かだけれど、なんでと言われると困る。
「なんでだと思う?」
「知りませんよ、私が訊いてるんで」
そりゃそうだ。
気付けば向かい合って椅子に座り、まるで尋問でも受けている気分になる。
救いたかった。守りたかった。
泡沫のように水面に現れたこの言葉こそが真実。
救いたいと思った。一人にしたくなかった。知らないところで消えてしまいそうな少女を見捨てることなどしたくなかった。
今はどうなのか。
どことなく重く気まずい空気が部屋を満たす。
逃げ出したい。目を逸らし、叶を見てを繰り返す。
同じように振る舞っていた彼女と目が合い、逃げ場がなくなった。
「後悔したくないんだよ」
「後悔なんてする必要ありません。あなたは私を生かした。それで十分」
すかさず言い返してくる。
やはり歯車が噛み合うことはない。それで十分だとか自分を誇りに思えとか。言わせてみればこういうことばかり。
「だからこそ後悔したくないんだけどな。私は君をなかったことにすることはできない」
死にたいというよりかは消えることを望んでいるのだろう。
自分から話を振ったのだから私がこの会話を終わらせる必要もない。
五分間の沈黙の時間は叶に抱きつかれたことで幕を下ろすことになった。
そういうことだ。私が早瀬叶を守り続けたい理由は。
もっとこの子とたくさんの景色を見たい。
今はただそれだけ。
今を生きろというのなら、一緒に生きていって。
「見てー、綾音様。逆立ち」
振り向いて見てみると言葉の通り逆立ちをする人が居た。壁倒立だけど。
なんで急に逆立ち。というかできなかったよな、この人。いつできるようになったんだ。普通に危ないし。
疑問が次々に浮かんでくる。
その様子を面白そうに見ながら、助けを求められる。
「早く助けて、戻れない」
「アホか。何でも思うがままにやるな」
目が回ると床にへたばる叶の背中を擦りながら、なんでもない時を過ごす。
ほんとに突拍子もないんだから。後先考えずになんでそんなことするかな。
体力も筋力もないのに、全く。こんな細くて薄い身体のどこに力があるんだか。
「薄いは余計です、もう」
「え、声に出てた?」
諸々出ていたとポコポコと殴られる。
それは失敬。でも事実、いやなんでもない。
病人ということも忘れていそうだ。元気と言うなら別にいいんだけど。
「月出てる、ほら」
カーテンの隙間から光っているなにかが見える。
窓際に駆け、ベランダに出ていく叶を追いながら月明かりを目に焼き付ける。
月見も何度かしたな。グラウンドで、とか。帰り道で、とか。
秋じゃなくても月はいつでもそこに居る。新月でも見えないだけでどこかに居てくれる。
幽霊になっても居てくれるだろうか。
叶を成仏させる気なんて更々ない。悪霊になってもいいから、隣に居てほしい。
うさぎの労働時間と給料を気にしていた彼女。不思議なことを考えるものだとつくづく感心する。
「ね、叶はさ。教師以外ならなにになりたかった?なんでもいいよ、コガネムシとかでも」
言いやすいように出した例えがこれとは。自分でもバカみたいだと思う。
金持ちだ、ってよく聞くから。言い訳が脳内を満たし、思わず手で顔を覆う。
吹き出すように笑った叶の明るい声が耳に伝い、月を見直す。
「コガネムシって。そうだなー、考えたことない。あれ、やばい」
今になって必死に探し出している。
知ってはいた。夢を追えるほど、憧れを持てるほどの人生でなかった。
あると思うから、と待つように言いつけられる。
しばらくすると青ざめたような顔を向け、謝られた。
「考えてみたけどない、夢を追いかける子たちを見てきたのに」
分かりやすく落胆しすぎである。
どれだけ励ましてみてもショックを受けてしまっていてどうにもならない。
教師になりたいという夢だけでもよかったのだけど。
ケーキ屋だとか花屋だとか。現実的な例を上げてみても首を振られる。
まずケーキ屋の存在自体、小学生になるまで知らなかったという。なにかの物語に出てくる架空の場所だと思っていたのだと。
私まで謎のショックを受け、言葉が途切れる。
「十六歳の誕生日、初めて人に祝われて。ケーキ買ってきてくれたのうれしかったな。一緒に食べれたし」
そうか。そうだったんだな。
あの頃はまだ知らないことばかりで。仕事も忙しくてかまってやれる時間も少なかった。
私の誕生日のほうが一ヶ月早かったから先に祝ってもらった。
思い返してみれば「ケーキって甘いんですね」と言われたような。
冗談ではなく得心だったのか。
祝ってもらったこともないのに祝ってくれた。誕生日というものを、必死でつくってくれたんだ。
たくさん調べて、考えてくれた。あまりに尊い人。
……ということは叶に初めてあげた誕生日プレゼントが。
「婚約指輪だなんてロマンチックすぎて。私が羨ましいです」
ほころんだ笑みを浮かべ、照れてもいる彼女。
そんなに嬉しかったなら。過去と今の私も報われる。
「大学だって今までだって、自分の思う道を行ったってよかったと思うよ」
夢がないなら思う道もなにもないかもしれない。
私の家から行ける距離の大学に、私と同じ道に。それを選んだのは叶自身ではある。
だけどよかったのだろうか。
またしてもタラレバの話。なにをしていたら。していたとすれば。環境が違ったのなら。
「今更それ言います?もうどうにもならないのに」
そりゃそうだ。ごもっともなご意見。
死を待つだけになった叶にこんなこと。
なにか夢が欲しかった。心地よい夢物語が現実にあるはずもないというのに。
「どこかの主人公ではないけど。でも先生が居るから、先生みたいな先生になりたいから。そう思ってたんですよ」
すねた顔をしながらまとわりついてくる叶にくすぐられ、バランスを崩す。
気がついたときにはどこかの騎士のような表情を浮かべ、透き通る肌が目の前にあった。
この体制は一体なんだ。このままお姫様抱っこでもされそうな雰囲気。
私がこっち側なんて汗顔の至りだ。
浮つく感情。瞬きをする度に月光を浴びる彼女が美しく見えて仕方がない。よってヒートアップしていく。
「い、いつまでこの体制でいるの」
「えー、ずっと。なんて嘘ですよ、お姫様」
恋に落ちるとはこういうことか。ときめきとはこういうことで。
いい年をして、長年の付き合いの彼女に落とされて。
守られる側というのも悪くないかもしれない。柄にもなく思ってしまうほどにはどうかしてしまっている。
身体を支えられ、何事もなかったかのように体勢を戻す。
たまに叶は騎士になる。そして惚れ直させられて。子犬でもあり、時に一匹狼になり。時にはこうして支えてくれる。
雷が駄目で、小さな怪我には気付かず過ごしてて。気付いたときには慰めろと要求してくる。
「やっぱ好きだな、叶のこと」
「告白?プロポーズ?何度でも言ってください」
しまった。揚げ足を取られた。
何度振りほどこうとしても離れてくれない。
離れる必要もないか。ただ外の熱気が暑苦しい。
今日も熱帯夜。このまま熱帯魚になれそうだ。
思わず暑いと嘆いた叶の言葉を皮切りに、冷房の効いた部屋に連れ戻す。
「いつもならもう寝てる時間でしょ、寝る気ないね」
「いつもってなんです。消灯時間なんて知りません」
墓穴を掘ったことに遅れて気付いた叶。
知ってますもんね、と開き直って寝ない宣言をしだす。
今日くらいはいいか。夜はまだこれからなんだし。
「遠距離とか普通に無理だし。お互いに生きていけなかったでしょ?」
話を戻され、とりあえず頷いておく。
私たちに一人で生きる能力があるかというと、全く持ってないと言い切れる。
そこに根拠は要らない。考えなくても分かる。
「それに私の夢は一つ。先生みたいな先生になりたい。あとは綾音様の恋人でありたい、です」
一つというか二つのような。
でもこんなに長い年月が経っても同じ夢を持ち続けているなんて。
叶の信念となったものは揺らがないのだろう。いくら悩んでも、回り道をしてから回っても。
ひとつひとつの点は軌跡となり、その人の人生になる。
真っ直ぐな道よりも冒険できる分かれ道を。分岐点に迷ったとしても、信じる道を行く。
教えられてばかりの道のりだった。
恥ずかしそうに毛先をくるくるといじっている彼女の頭を撫で、ボサボサになってからも続ける。
「色々あったけどさ。よく頑張ったね、偉かったよ」
含意しかない言葉。色々。本当に色々。
心配は絶えなかったし目を見開くほどの光景を何度も見てきた。
泣いたのは叶のためだったのか、自分のためか。
二人で雨に濡れて。抱きしめ合って。
素直になれない私を、叶が紐解いてくれた。カッコ悪い姿なんて誰にも見せたくなかったけど。
この人は私が何もかもさらけ出しても、笑って受け止めてくれた。
幻滅してもおかしくないことばかりだったのに。
遥か遠くから雷鳴が聞こえてくる。カーテンをめくってみると月はまだそこに居た。
「大丈夫だよ、こっちには来ないって」
怯える子犬のように身を震わせ、しがみついて離れない叶をなだめる。
寝室に移動し、しばらくすると音も聞こえなくなった。
声をかけても離れようとしない叶の体温はいつもより高く感じられる。
「これからは二人で居られるんです。やっとですよ、やっと。ずっと」
誰よりも願ってきたのは当の本人。
一緒に居られる時間を大切にしよう。
今まで以上に。これまでよりもっと特別ななにかを。
一人じゃない。だからきっと大丈夫。
大丈夫だよ、叶。
大丈夫だって言って。




