第十一話 叶わない願いと
夏の暑さに遅れてやられたのか、病魔が蝕んでいるせいなのか。
退院して二ヶ月程が経った頃からなにを口にしようと身体が受け付けず、終いには食べることを拒まれるようになった。
食事が苦痛そのものになっている。だからといってこのまま見過ごすわけにもいかない。
「なにか食べよ、味噌汁とかだけでも」
「いやだ。むり」
ベッドに横になったまま答えが返ってくる。
三日に一回は散歩に連れ出していたけれど、これでは無理がある。出歩くことも目減りしていく。
一番苦しいのは彼女自身。分かっていても見ているこっちまでしんどくなってくる。
こうなる可能性があることくらい理解していたはずなのに。
今までも食事を拒まれることは星の数ほどあった。思えば倒れた日もそうだった。ただ拒み方が尋常ではなくなっている。
骨が折れる思いなのはなにも今に始まったことではない。
雪里にも頼んで食べられそうなものを模索しているが。結局は病院送りだろう。
今日のアイデアはきなこを溶かした牛乳でも飲ませたら、だった。
きなこ餅でも食べたい。現実から逃避するように浮かんだものは、食べたいものリストに加えられる。
「食べないと病院送りだからね」
「やだ」
むくりと起き上がり、ふらふらとリビングに歩いていくぱっと見の幽霊。
力尽きてソファに転がるまでがデフォルト。体力も気力もほとんど残っていない。
食べられるうちにと私の作る食事を欲しては食べ、美味しいと言ってくれた叶の様子は一変してしまった。
今年もあと三ヶ月と少し。そう考えるとこの様子も当たり前なのかもしれない。
「不死身じゃないんだよ」
ちらりとこちらを見て、うつむかれる。
着実に死に向かっていっている。
どうにか生かす方法はないのか。調べても道筋は見えてこない。
「お茶漬け、たべたいです」
虚ろな目をこちらに向けて要望を発する。
自分から食べたいと言うだなんて。こんなことは滅多にない。
驚きは喜びに変わり、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
余程病院送りが嫌なのだろう。入院なんてもうしたくないと耳にタコができるほど言っていたし。
なにも食べようとしないときはお手製の野菜やら果物やらをミキサーにかけたものを飲ませたりしている。
不味くはなくとも美味しくもないようで、険しい顔をしながらスムージーを飲んでいた。
冷凍していた白米を電子レンジに放り込み、お茶漬けの用意をする。
自分は自分でなにか食べないといけない。それが何気に一番面倒だったりする。なにを作ればいいのか冷蔵庫を見ても分からない。
「できたからおいで」
身体を支え、テーブルまで連れて行く。
すっかり軽くなったことを実感しながら、ゆっくりと食べ進める叶をぼんやり見つめる。
私がひたすら調べていることも知っている。こんなに長い時間を共にして気付かないわけもない。
検索履歴も勝手に見られているし。それは私もよくやっていたこと。多分仕返しされている。
「おいしいです」
「ならよかった。食べられるところまで食べな。時間かかっていいから」
頷き、手を止めながら黙々と食べていく。
ただそんな様子を見ているだけでも安心できる。まだ生きていると安堵できる。
熱が出てはなかなか下がらず、うなされることも増えてきた。
最後の夏。最後の秋。どこまでも一緒に生きていけると信じて疑わなかった今までがあまりにも尊く思える。
「散歩行きたいです。外に行きたい」
半分ほど食べた辺りで、そう口にする叶。
最近は外に行きたいと何度も訴えてくるようになった。横になっていても窓の向こうを見て思いを馳せている。
もっと早くに外に行きたいと言ってくれればよかったのに。たまには外に行こうと言っても嫌の一点張りだった今までが嘘かのように言い続けてくるのだから。
「熱下がってないのにどこ行こうって言うのさ」
「夏はもう終わりだけど。手持ち花火したい」
いつになく真剣なトーンで願いを請う叶を前に、思わずなにも考えずに頷くところだった。
夏祭りに行きたいとも言っていた。免疫も体力も落ちている彼女の願いを叶えることはできなかった。
花火大会の映像をテレビで見ても、便利な時代だと言うばかりで満足したというわけではなさそうだった。
初夏から見たいと言っていたし。
ベランダで育てていた朝顔もほぼ終わりを迎えている。種を取って、袋に保管してみたけど。また植えるかどうかは分からない。
次の夏なんてもう来ない。そう思った瞬間、答えが出てしまった気がした。
次がないなら。少しでも叶えてあげるべきなのかもしれない。
「線香花火と吹き出し花火、どっちがいい?」
やはり無理だという諦念を持っていたのだろう。暫時あっけにとられ、時が止まってしまった。
いいのか、と目が訊いている。
なにも全てを否定したいわけではない。幽閉したいわけがない。
願いを全て叶えることは不可能だとしても。小さなものの積み重ねはいずれ大きな力となる。
「どっちもやりたい。線香花火もたくさん」
目を輝かせながら嬉しそうにねだってくる。
こんなに喜ぶか。思わず私まで笑みがこぼれてくる。
笑うことは必要だ。陰っていた心に陽光が降り注ぐ。
「分かった、買ってくるよ。夜になるまで安静にしておきな」
「ありがとう。珍しいですね、折れてくれるなんて」
余計な一言は置いておこう。別に折れたわけではないし。
駄目だと伝える度、あからさまに不機嫌になる。だから叶の頼みを断るのも毎回申し訳なく思ってはいる。
生きる意味もなくただ寝かしているよりも、何かしらの刺激があったほうがいい。
人と接することも少なくなった今、なにを与えられるだろう。
ぼんやり考えている間にからっぽになっていた茶碗。
視線を上げると、これでできるだろと言わんばかりの顔をしている姿が映った。
「食べ切れたの久しぶりじゃん。そんなに頑張ってまでやりたいか」
「もちろん。久しぶりに食べようって思えました」
少しでも口にしてくれるだけで安堵のため息をもらすようになった。
そんな日常になりつつある今、食べることが苦痛なことに変わりはなくとも。ひとまず今日はこれでなんとかなる気がする。
手に薬を乗せてやり、眉間にシワを寄せて飲み込むのを確認する。服薬を管理するのも私の役目だ。
市販薬とは比にならない強さの薬を彼女に任せるのは末恐ろしい。乱用でもされたらと思うと背筋が凍る。
考えていることに気付いたのか、「大丈夫」と励ますように言ってくれた。
笑う門には福来る。確かにそうだと実感した。
「買ってくるからいい子にしておくこと。分かった?」
「承知しましたー」
軽く流されては買いに行っている間が不安すぎて行けやしない。
寝室に戻されて不服そうな叶を前に、口酸っぱく言い聞かせる。
「寝ときなさいな。食べて体力も使ったんだしさ」
「分かりましたよ。子ども扱いしないでください」
布団を被り、寝る体制を取ってさっさと行けと手振りで言われる。
本当にこの子ときたら。年も立場も関係無しに色々とぶっ込んでくる。ある意味心臓が強い。
もう一度咎めておいて、日の降り注ぐ外に躍り出る。
「綾音様ー!行ってらっしゃい」
声のする方を向けば窓から顔を出して手を振る叶が居た。
一瞬心臓が飛び上がった。なにをしようと危なっかしく見えてしまう。
寝る体勢を取っていたのに窓辺に移るとか。寝る気もあったものではなさそうだ。
「危ないから戻れ。行ってくる」
ここまで届く声量を出すとはな。日によって話すこともめっきり減るというのに。
花火をしたいあまりに元気になっている。
それにつられて私まで足が軽くなった。
いつもの買い出しの前に、忘れてはいけないものを先に見て回る。
夏の終わりだからか花火も安くで売られている。
セットのものと、線香花火単体のもの。両方買っていくか。
今まで一人で買い出しに行くことはあまりなかった。休みの日に荷物持ちとしてまとめ買いに付き合わされることなら多々あったけど。
カゴに花火を入れ、食品売場に行こうとしたとき。小さな子どもが花火をねだっている声が背後から聞こえた。
振り向いてみると、指を差しながら親を必死に説得している。
叶の手に入らなかったそのものが、近くにある。
私も名も知らぬあの小さな子のようにねだったものだ。いつもと違うことをするのはあまりにも特別で、嬉しかった。
叶がいくら望んでも手にすることのなかったものを、私は持っている。
今からなにを与えられるのか。そんなことを考え出すと歯止めがきかなくなる。
早足で買い物を終え、言いつけ通りに寝ている彼女の待つ家に急いだ。
物音で目が覚めたのか、玄関で荷物を下ろした途端に回転椅子を飛ばした叶がやってきた。
「おかえりなさい。キャスターがついてる椅子は便利ですね」
「ただいま。だからって飛ばさないの、壊れちゃうよ」
寝癖のついた髪の毛。息も上がっている。
そんなに急いで出迎えてくれなくても。私と同じ行動を選ぶのだから。
ただ私の取る行動と違うことを彼女はしてくる。
椅子に荷物を乗せ、背もたれを思いっきり押される。その反動によってリビングまでふっ飛ばされた。
「だから壊れるって」
「いいじゃん」
荷物だけが先に向こうへ行き、廊下に座り込む叶と呆然と立ち尽くす自分。
なにもよくない、と唖然としながら答えると反省の色を示すどころか開き直られていた。
手を取って立たせ、ものを大切にしろと言い聞かせる。
遅めの朝とは打って変わって目に生気が宿っているのを見ると、元気そうだと錯覚しそうになる。
買ってきたものを冷蔵庫に放り込みながら、質問を投げかけてみることにした。
「叶ってさ。私と出会ってなくてもまだ生きてた?」
「なにその質問。薄気味悪い」
酷い言われようだ。確かに急すぎるし直球だけど。そんな言い切らなくてもいいだろう。
ただ聞いてみたいこと。私が居るから生きられるとよく口にするけど、タラレバならばどうだったのか。
「私だって死が怖いときくらいあった。屋上に行き始めても、見下ろせば当たり前に怖いし。それでも考えに考えた」
ずっと前に屋上に連れて行ってもらったことがある。あとは叶を探し当てたときの計二回。
確かにあれは怖かった。フェンスがあるから選んだのだと、後で聞いた。
死について考えても、死に踏み切れない。人間らしく、あまりにも苦しい。
「衰弱死ならできたでしょうけどね、あなたと出会わなければ。いつか帰ってきた親に曝すことができるから」
望んで手に入れられるものではない。そう笑って付け加えられた。
出会う前のこの子の姿を私は知らない。
初めて出会ったときの早瀬の姿からシミュレーションでもしてみれば想像できるかもしれないが。色々と失礼な気がする。
「生きていれば生きる術を学ぶことができる。死ぬ術も身につけられる。その道を選んだだけです」
早く閉めろと叫ぶ冷蔵庫の扉を閉め、手をつけたまましばらく動けなかった。
彼女を傷だらけにした人たちを許せるはずがない。こんなに残酷なものを抱えて生き続ける必要なんてどこにある。
鉢合わせた私に雑に金を手渡して勝手にしろと言った母親であろう人。
家の様子を見に戻った叶に暴力を振りかざした父親であろう人。
死へと導いた極悪人と言わざるを得ない人たち。
叶のことなんてもう覚えていないかもしれない。
「綾音様?」
心配そうに声をかけられ、なんでもないと首を振る。
叶の言う死ぬ術は、じわじわと死へ向かっていくものだ。
逃げ道さえも苦しまないといけないものを自ら選んでしまう。
出会えていなかったとすれば。今ここに居る彼女は冗談抜きでミイラになっていただろう。
「ごめん、変な話しして」
「幸せそうな子でも見ましたか。過去なんて切り捨ててくださいよ、今を生きて」
今を、と言われるのも何度目か。
よからぬ感触を得たのか、花火のセットをエコバッグから取り出して目を爛々と輝かせ始めた。
「早くやりたいね」
嬉しそうにしながら感謝を伝えてくれる彼女の口を封じ、体温を感じる。
重ねられるうちに。感じられるうちに。
鼓動までもが伝う、この時間がずっと続いてくれるのならば。
「うれしかったんですよ。あなたが向き合い続けてくれたこと」
抱きしめていた腕を解き、向かい合う。
なにも無駄ではなかったと知るのには十分過ぎる言葉を、あといくつもらえるのだろう。
「覚えてます?すごい疲れて帰ってきた先生を無理矢理花火に誘ったの」
「いつのことだ。何回もしてるじゃん」
車椅子を押し、夜道を行く。
律儀に何年前か指を折って数えている。あまりの年数に腰を抜かす気しかしない。
最近の夏は夜も仕事漬けばかりで祭りだとか花火だとか、それどころではなかった。
特に叶だ。あまりの忙しさで潰れていたのが原因。
学生のときの彼女にはよく色々な行事に強制参加させられた。
やったことのないものばかりだったからか、純粋な目をあちこちに向けて楽しんでいたのを覚えている。
その身にある傷と影。あまりの対比に目が眩みそうになった。
それらが彼女を支えてもいた。
「二十五年くらい前、多分。そう思うと恐ろしいです」
「だから数えるのはやめろって言ってんだ。もう年だよ」
笑い飛ばしていると、公園が見えてきた。
バケツとセットを抱えている叶は既に楽しそうにしている。
夕方には熱も下がり、元気だからと言って聞かなくなった。
紺色のカーディガンを羽織っていても分かる体の細さ。
退院する前からも、そして今も叶はよく口にする。できるものをできるうちにしておきたい。
しなくていいものもさっさとしていることには目をつむろう。
「久しぶりだ、公園。早くやりましょ」
バケツを持って水道に駆け出そうと身を乗り出す彼女を制止する。
掴んだ肩は心が冷えるほどに骨ばっていた。
「待てって、そう慌てるな。水入れたら一人じゃ持てないだろ」
「嫌ですね、そんな貧弱じゃないです」
どこからどう見ても貧弱だろうが。思わず口にするところだった。
内心に留めておき、一緒に持とうと誘う。
それならいいとバケツを差し出され、右側の手持ちを掴む。
歩きたがってくれるのはいいことだ。
だけど次の通院次第ではどちらに転ぶことやら。
これ以上痩せ細っては生きるとか死ぬとかどころではない。嫌だと拒絶するだろうが。看過してはいけないところまで来ている。
折れたのだから折れてもらおう。もちろん私だって一緒に居られるほうがいいのだから。
ただいまと言えばおかえりと言ってくれて。食い違っても謝れて。
そんな人が居てくれるキセキを誰が手放したいという。
「早くやろ、綾音様。早く」
催促したってなにも逃げやしない。
手を引かれるがままに連行され、ろうそくに火を灯す。
吹き出し花火を持たせ、子どものように喜ぶ叶を画角に収める。
そしてなにかに耽り出したとき、花は水の中へと落ちて行った。
近くに居ても、なにも分からない。
超能力者にでもなれたら読み解けるのだろうか。彼女の奥底に宿っているなにかに。
私にできるのは寄り添うことだ。
どうか燃え尽きず。いつまでも隣に。
「一緒にやるんです。やれ」
「やれって。語彙が強いな」
横に並び、火薬の匂いを感じながら夏の風物詩を堪能する。
楽しそうだ、とても。
そうだ。
散々に疲れて帰った私を一人にしてくれなかった。
無理矢理で押しが強くて言いくるめてくるのは前からだが。
いつから用意していたのか、ここぞとばかりに誘ってくれたあの夏の夜。背中に抱きついたまま離れてくれなくなったんだっけ。
「転けてたよね、あの日」
「よく転けてますよ、今も。一人にしたくなかった。なりたくなかった。どこか遠くに行っちゃったら、って」
なにも叶を残して去ることなどないのに。
ずっと恐れていたのだろう。私が彼女を置いてどこかに行くことを。
今もそう。
線香花火を見つめる叶の頬に流れる雫を拭い、しゃがみ続けることに限界を感じて屈伸をする。
信じてくれていないわけではないということが、より一層頭を悩ませる。
死よりも裏切りに恐れをなしている。
「出会う前に死んだってよかった。死ねたのに、身軽だったのに。できなかった」
昼間に投げかけたものの続きか。
この種の質問を何度か問いかけてきた。そしてパターン化された言葉が返ってくる。
逃れるように。時には本当に逃げられもした。
好きだと伝えてくれても、辛いとはなかなか言おうとしてくれない。
感情に支配されているタイプの人。その分なにも教えてくれない困ったさん。
弱々しくなっていく火球。ついに散った花。
ゆっくり立ち上がった叶と目が合い、どことなく気まずい雰囲気が漂う。
「今瀬先生。あなたはこれからも生きるんです。私が死んだとしても。なにがあっても」
呪いのような言葉。
実際に呪いであり暗示なのだろう。
叶が先に死なないと思っていたわけではない。
病を抜きに考えても、この人はそう長く生きてくれはしない。それでもどうにか生き続けてほしかった。
順番を間違えるなと釘を刺してきた。
「ハッピーエンドで終わりたかった」
言い切ると同時に胸元に崩れ落ちてきた彼女を抱きしめ、静かに泣き始めたのが嗚咽から分かる。
頭を撫でても声をかけても、首を振るばかり。
連絡先を薪をくべるようにして消し去ったのもそういうことか。
誰かの幸せを守るために。自分自身も思い出として胸にしまえるように。
星の踊り輝く公園。どこか秋を感じる風。
「あなたが誇るべきなのは、あなた自身です」
思った通りの言葉が来た。
心から思ってくれていることは知っている。面映ゆさもあるが。
尊敬してくれるのはありがたい。でもそれは私も同じだ。
どこまでも無垢で真っ直ぐで。時に天邪鬼になって。
「叶が居てくれるから一つの物語ができる。私だけでは成り立たない」
背中に絡む彼女の腕が一層強く絡みついてきた。
一体どこからこんな力が出てくるのだろう。いつものように想像を超えてくる。
数本残っている花火に目をやり、もう一回やろうと誘う。
泣き顔を見せないようにするためか背後に回られ、背中にまとわりつかれた。
「一緒にやろ。元はと言えば叶が言い出したんでしょ」
「そういえばそうでした」
本当に忘れていたらしい。びっくりな奴だ。
また同じように横に並び、命を燃やす。
なぜ恋人という選択肢を選んだのか。あの夜、恋人なんていうワードを投げかけてきたのか。
ずっと一人だった彼女が、ただ恋人を欲していたとは思えない。
胸元に残る涙の冷たさを感じながら、時は過ぎていく。
「作りましょうよ、花冠」
「帰ろうって言ったのに」
シロツメクサが咲いているのを見つけてしまったらしい。
帰ろうと言っても聞く耳持たず。野原に座り込んで作り始めた。
仕方ないので私も座り、そのまま寝転ぶ。
こうしてみると色々と思い出す。
なんで生きているのか分からない、死んでも誰も悲しまないとぼやかれた日のこと。
課題を写しまくっているのを見過ごし、なんとか事なきを得た叶を見てよくない感心をしたこと。
衣替えをしている最中によからぬ写真を拾われたこと。
一緒に暮らすのが当たり前になったこの毎日を。
ついでに四葉を探している叶の声を聞きながら目を閉じる。
幸せなのにな。
「できた。ほら、起きてください」
起き上がり、目をこする。少々寝ていたようだ。
あくびを堪えきれず、見ていた叶に笑われた。
「相変わらずかわいい」
「なんだよ、からかうな」
本心だと言い返され、頷くしかなくなった。
褒められているのか何なのか。
不貞腐れていると、頭に花冠を載せられた。
「似合ってる。写真撮ってあげますよ」
「いらないって。何の需要もないんだから」
攻防の末に写真を撮られ、結局叶に惨敗した一日になった。
楽しそうだったからいいか。実際私も楽しかったし。
「見て、KISSしてる」
「やめなさい。とっとと帰ろう」
公園のベンチで交わしている若い二人組。
若いっていいなと感心しながら笑っている叶を連れて帰る。
燃え尽きなくていいから。笑っていてほしい。
どれだけくだらなくても話をしていたい。
あとどれほどの時間が残されているのだろう。
いつもより遅くなったお風呂の時間。
一人でも入れると最初は言っていたが、最近は違うらしい。
「なんでもない日常が続いてくれてよかった。幸せです、私は」
少しばかり冷えた体が温められていく。
叶は相変わらず冷たいけれど。冬場なんて氷かと思うほどに冷えていることがある。
氷の女王、と茶化したりもしたっけ。
一気にお湯の温度が下がるほどには冷え切っていた。どの冬も。
「未来に希望があると考えられない。最悪のことを考えて、それらは起こらなくて。やっと安心できて。今を生きてる」
今。
未来。
明日が来るかさえ不透明な毎日。
いつでも死ねるように、と口にする彼女の真意。
空っぽに近付いていく本棚。捨てられた書類。
無に近付いていっているようで。それらはなにも戻ってはこなくて。
想いを少しでも把握し、記憶しておかないと。きっと後悔する。
死んだ人の想いを想像することができても、その人の口から語られることはない。
永遠なんてものがこの世にあるなんて思ったことは。願ったことがあったとしても。
「恵まれてる。病で死ぬだけで、誰も知らないところで死ぬわけじゃない」
誰にも見つけられずに命を落とす可能性のほうが高かった叶が言うと。
看取る覚悟なんてできやしない。だがそのときはいずれ来てしまう。着実に、目の前に迫っている。
「私を置いて死ねたら満足か」
「沈めますよ、そんなこと言ったら」
肩を並べて浸かっていた湯船に波紋が広がる。
生きたがっている人にかける言葉ではなかった。
本気で沈めてきそうな殺気が狭い風呂場に充満する。
話を変えないとやばいことになりそう。怖い。
「そーいえばさ、早瀬って階段登る度に息切れしてたよね」
「いつの話ししてるんです。そうですけど。ここで名字で呼ばれるとなんか、昔に戻ったみたいで」
顔を赤らめて身体を隠す彼女を見て、思わず私まで恥ずかしくなってきた。
ピュアだなほんとに、ほんとに。
初めて一緒に風呂に入ったのは叶からのお誘いだった。
その後の誘いは私から……ってなに考えて。
「先生まで顔真っ赤。なに考えてんだか」
「お前もだろ、元はと言えば叶が」
急に静かになったと思うと同時に水鉄砲が飛んできた。
目を丸くして彼女の方を向くと顔面にもう一発食らった。
「手で水鉄砲打つの上手いよね。唯一の特技じゃん」
「バカにしないでくださーい」
しばらくどうでもいい争いを繰り広げ、二人してのぼせた。
こうやって過ごしたのもご無沙汰なものだ。
「はー、楽しかった」
「水飲みな。ただでさえのぼせやすいのにあんな暴れて」
それはごめんと申し訳なさそうに謝られる。
私まで茹だるとは思っていなかった。どれだけ長い時間入っていたのかと時計を見てみると、納得の時刻が読み取れた。
「相変わらずだよ、お前って奴は」
「どういう意味ですか、それ」
どうもこうも全てを含めた意味だ。
冷たさも傷も。あれもこれも。
出会った当初より痩せ細ってしまったのはあれだけど。
「綾音様は変わりましたね。サスペンスドラマみたいな包丁の持ち方してたのに」
いつのことか訊いてみるとまた随分前の話だった。
雪里にも最近言われたんだよな。刀じゃないんだからとか。怖いとか。
「教えてもらっておきながらあんま変わってなかったです、ごめん」
「あんなに特訓されても忘れるくらいやらせなかったのが悪かった」
謝ってみると後悔された。
微妙な間が空き、笑いが起こる。
今からでもちゃんとやろう。改めてそう思う。
この数ヶ月でやってきたことを叶は評価してくれる。やってこなかったからこんなに評価される。
私はといえば感謝を伝えても。
「やりたかったからやってたんです。二人でひとつになれたらいいじゃんって。間違いではなかったと思います」
多少の間違いはあるだろう。
現に私は甘えすぎてポンコツになってしまった。
二人で一人前になれるなら。たとえ歪だったとしても実現した。間違いも許容範囲ということに。
持ち帰った花冠を叶の頭に載せて写真を撮る。
ついでに動画も回しておこう。人が一番最初に忘れるのは声なのだと叶から聞いたことがある。
「はーい、叶さん。こっち向いて」
「え、なに。動画?」
振り向いた叶を捉えた瞬間、短くなった髪が伸びてきていることに気付いた。
こんなに痩せ細って食事もまともに摂れていないのに。髪の伸びる速さは若い頃と変わらないらしい。
嫌そうな顔をしながらもなにか察したのか、カメラも気にせず飛びついてきた。
「なるほど。綾音様って分かりやすいですよね。寂しがり屋さんだ」
「ちがうし」
至近距離に映る叶と、至近どころではなく密着している今の状況と。
脳を焼かれる思いだ。実際に熱された鉄板の上に居るみたい。
「見てくださいよ、四つ葉。初めて見つけたんです」
冠にくくりつけられていた三つ葉を無視して四つ葉を丁寧に外し、くるくると回して見せられる。
初めてだったのか。それはそれは。
叶にとって初めてのことを、私は共にしてきた。
初めての行事ごと、初めての人とのお出かけ。
初めてのプレゼント。初めての――。
「栞にしましょう。記念品として」
「夜ふかしだな、今日は。たまにはいいか」
とりあえずの重石として国語辞典に四つ葉が寝かされ、漢字辞典がその上に置かれる。
なんだか可哀想な状況。圧死してしまいそうだ。
「ぺちゃんこになっちゃうね」
「来る家間違えたって思われてそう」
未だに回し続けている録画。
四つ葉が作り上げた幸せなホームビデオか。
幸せ。
軌跡、奇跡。
なぜか辞典にハンカチを載せて寝かせ始める叶。あまりに愛おしさが増す。
「今瀬先生のことが好きだって気付いたとき、怖かったな」
「恋人になりませんかって言ってきたのに?」
あれは事故だと必死で弁明される。
そんなはずじゃなかったのだと。じゃあどういうはずだったのか。
かくいう私は好意を寄せられていたことに全く気付いていなかった。
早瀬の気持ちを知ったのは手紙でだった。自分の気持ちに気付いたのもそのときだ。
守りたいと思った。そんな早瀬も卒業すれば自動的に会えなくなる。
分かっていたはずなのになぜか。それが当たり前であるのに。
特別な感情なんてなにもなかったのに。怖くなった。失うことが。
もっと早く好きだと言ってくれていたら。なんて思ったりもしたけど立場上あまりの禁忌。
早瀬もわきまえていた。だからこそ寄越してくれたのが最後のときで。
どうせ終わるなら暴露してやろうという投げやりな部分もあっただろうけど。
「ま、分からんでもない。怖いより恋人のほうが勝った叶さん」
「家連れてって言った変な人」
否定するにもぐうの音も出ない。
生徒ではないし、夜遅いから送り届けてきたという体で済ますこともできる。と言い訳を考えたりもしたな。
人の家なんて久しぶりに行って、それが叶の家で。
「いいじゃん、幸せなんだから」
「幸せになっちゃった。幸せすぎた」
珍しく指輪がつけられていることに今更気が付いた。
暗闇の中では認識できなかったのだろう。決して節穴なわけでは。
指輪なんてものは私からすれば未知の領域で。贈ると決めたときは悩みに悩んだ。頭がパンクするほどに。
最初に贈るときは悪意だとか裏切りだとか。それらから守るものを選び。
今彼女が身につけているのは、やはり永遠の愛を誓うもの。
「恋人イコール結婚ですよね、私たちの生活って。特に綾音様」
「しょうがないじゃん。叶を守るって決めたんだもん」
贈る前には念入りに確認を入れたものだ。
欲しい誕生日プレゼントを訊いても「恋人になりましょう」といつも通りに返されて。
後悔しないか、と問いても答えは想像通りだった。
だからって色々と飛ばしすぎたかもしれない。でも関係自体は長いのだからいいかと。
それに。態度で表さないとこの子に伝わらないと思った。
「恋人枠ゲットできたって思ってた」
「枠って」
そんな椅子取りゲームみたいな考え方。らしいっちゃらしいけど。
なのに目の前から消えようとするし。何度も自分で自分を傷付けて。どれだけ怒ってきたことか。
愛しているからこそ。私は。
一緒に居られる時間が少ない日常にもモヤモヤしていた。そんな気持ちを凌駕するほど仕事に追われていた。
早く帰る日は大抵叶の捜索だったし。
楽しかったな。いくら大変な毎日でも。怒っても、泣いても。
二人で居たい。これからもずっと。
「わ、急になに」
「夜が明けなかったらいいのにね」
巡らせていた思考回路と口を奪われ、寝室に連れて行かれた。
永遠の愛を誓ったとしても。
守るだなんて大口を叩いても。
二人でひとつな以上、二人でないとなにも成り立たない。
どうか彼女に春が訪れますように。花の芽吹く、優しい季節を。
たとえ叶わない願いだったとしても、これだけは。
どうか叶とずっと生きられますように。




