第八話 ふたりでひとり
「夏至の日に七種類の野花を枕の下に置いて寝たら夢に運命の人が現れるんですって」
台風が去ってからのお見舞いの日。
六月を過ぎてからも彼女の病状は悪化を辿り、回復の見通しは立たなかった。
最初に話を聞いた通り、もう手を打つ術なしといった状態にある。
一日一日がこうも怖くて愛しいものなのかと日々痛感してばかりいる。
なのに彼女といえばこうだ。
「でも運命の人よりもなんていうか。いつ死ねるのか教えてほしいなー。ま、野花がそんなの教えてくれるわけないか。死神でもあるまいし」
運命の人なら目の前に居るし、と付け加えられてももう遅い。
目つきが鋭くなったことに気付いたのか、苦笑いを浮かべて逃れようとする。
いつものこと。これが日常なのはそうだ。それが冗談で済まなくなっているのもまた事実。
摘んできたたんぽぽを受け取った叶はどこかで見たという知識を披露する。
一日空いただけなのに、どうしてこうも久しぶりに叶に会った気分になるんだろう。
昨日だってビデオ通話をして、どうでもいい話をして。それで家事を放棄していたら、定時で帰ってきた雪里に怒られて。
今も目の前に居るのに遠い場所に居るように思える。
空虚。空白。目を離せばこの空間から彼女が消えてしまいそうで怖い。
「……せるようになったんですよー、って聞いてます?」
「ん、なに」
だから、と言葉が繋げられる。
見せつけられるゲームの画面。ゲームなんかしない人が同じくしない私になにかを言っている。
生徒から話を聞くことはあっても、何のことやらさっぱりだった。
「ずっと殺されてばかりだったんですけどね。撃てるようになったんです」
昨日もそんな話をされたっけ。最近やり始めたという。
殺すだとか撃つだとかえらく物騒だな。
ぼんやり考えていた思考は霧が晴れるかのように明瞭さを取り戻す。
いやなにやってんだよこの子。
「駄目だよ、そんな心臓に悪いゲームなんて」
「いいじゃないですか。なにも本当に死ぬわけ……」
語尾を弱め、今自分が発そうとした言葉の意味を推し量る彼女。
気まずそうに目を逸らし、無言でそのアプリをゴミ箱に葬った。
死というものを履き違えてはいけない。死が簡単に手に入るものだと思っては駄目だ。
自分のことを知っている人が報せを受け取ったときどう思うのか。私から諭さなくても、叶はそこを理解しようとするようになった。
死んでも誰も悲しまないし、もうこれ以上辛い思いをしないでいい。その時点では部分的にそうだったかもしれない。だが今はどうなのか。
「せっかくだし連絡先も消そっかな」
「は?」
理解しようとしている割には行動が突拍子もない。
死ぬために本当の戦争に行くとか言わなかっただけマシかと思ってしまった。
私と雪里の連絡先はもちろん残す、と言われても。他の人たちはどうなる。いくら今関係が薄いからといって、完全に破壊する必要はないだろう。
加瀬という人だって、あんなに心配してくれていたのに。他の人も然りだろうに。
叶は私と雪里以外の面会を望むことはなかった。
時が来たら切る。それがスタンスなのだと言えど、なかなかに酷だと思ってしまう。
「消すのは自分のためなのか、相手のためなのか。どっち?」
「どっちもです。切れば自分は自由になる。切れば私が生きようと死のうと相手に関係ない」
理解には程遠いらしい。
なんでこうも屁理屈というか歪んでいるというか。
もっと自分を大切にしてくれたら。そう思った途端、切れ目もなく涙が止まらなくなった。
大切にしてくれたのなら。もっと早く体調の異変に気付くことだってできたかもしれない。
他人の優しさにも、言葉にももっと目を向けられたかもしれない。
叶だけが悪いわけじゃない。過去は変えられない。転変もしない。
逡巡して固まっていた叶に抱き寄せられ、頬に口をつけられた。
呆気にとられていると「しょっぱい」と軽く微笑まれる。
「分かってる、でもこうしないといけない。私が生きた証はあなたが一番よく知っている」
「叶を知っている人は昔よりももっとたくさん居るよ。だからこそ荷が重いんだろうけどさ」
図星を当てることができたようだ。
これ以上詮索しなくてもある程度の把握と想像はできる。
なにも持っていなかった。誰に期待を向けられることもなく、気にかけてもらうこともなく。
それが次第に変わっていった。私が彼女の夢を引き出したから。
生きていくという意味ではよかった。生きるには人の支えが必要であり、多少の希望も要る。
叶にとってはずっと重荷だったのだろう。抱えきれないものを背負わされ、請け負い。辺りを見回しても逃げ場はなくなっていて。
死ぬとなった今、潔く手放すことで自由になれると思っている。
「一番の心残りも、死にたくない理由も。綾音様なんですよね」
じゃあ死ななければいい。そう言おうとしたとき、先手を打たれた。
「だから雪里先生と仲良くしてください」
「なんでそうなる。君が死ななければいい話だろ」
確かに雪里との付き合いは誰よりも長いし、今だって転がり込んでいるし。
仲良くといわれても。仲が悪いわけではないとは思っているけど。
何かと世話になっているからちゃんと返せるものは返せということなのか。
それもあるだろうが。なにか違う気がする。
「ほんとに最近なんか浮腫んで仕方なくて。どうにかしてくれって思います」
「揉んでやるよ、一回五百円で」
冗談を交わしながらでないとどうにかなってしまいそうだ。
足を揉んでやっていると、傷もこの目に飛び込んでくる。
古傷であろうと塩を塗り込むような真似はしたくない。
よくここまで生きてきてくれたものだ。色々あったとはいえ、本当に。
「生きてくれてありがと、叶」
目を白黒させながらなんと答えるべきか迷っている。
言わなくてもいいかとも思った。でも言えるうちに言っておかないと、後になって悔やむのが目に見える。
大人になるということ。互いに生きているうちに、感謝を伝えること。
恥ずかしさと後悔のどちらを取るか。その点において叶は伝えられるうちに感謝を伝えてくれる子だった。
明日がある確証なんてどこにもない。
「先生が居なかったら生きてない。ありがとうはこっちのセリフだし。見捨てないでくれてありがとう」
目を逸らしながら言った挙句、枕に顔を埋めて感情の揺らぎも恥も隠そうとする叶。
本当に、心から。生きてくれてありがとうと思う。
何度も何度も向き合おうとした。その度に逃げられ、かわされ。生きたいと死にたいに挟まれている叶を引っ張り出すこともできず。
どんな思いで今まで生きてきたのか。強いという言葉で片付けるのもあれだが。弱さの中には強さがあり信念がある。
見捨てるはずもない。最愛の人と居たいと思うのは当たり前のことだろう。
「一人の命を救ったことも知らない誰かさんが、誰かさん自身を誇ってくれるのを待ち望んでます」
なんと答えたものか。微笑むことさえできているのか分からない。
本当にずっとそう思ってくれているということ。
誇りに思えと最初に云われたとき、まさか叶が私より先に死ぬなどとは考えてもみなかった。
誇りの意味もイマイチ理解していなかったし。そのときは叶を誇りに思った。それ以外になにを思えと言うのか。
でも違った。二回目に云われたとき、その言葉の持つ意味を知った。
絶対に止める。絶対に生かす。私より先に死ぬなんていう真似は許さない。今もそう思っているけど。
「誇りなんて簡単に。叶は叶自身を誇ってくれてるのか」
予測くらいはできた質問に分かりやすくたじろぐ彼女。
マッサージを終え、椅子に座り直そうとするとベッドに引き戻された。
机にはもう少しで完成しそうなパズルが寝そべっている。
「思いたくない。私はいい先生ではなかったし、人としてもまだまだだし。でも、生きてきた今までの時間は受け止められます」
「そう。……そうか。強くなったな」
受け止めること。認めること。どれも叶は人に対してはできても自分自身にもたらすことはなかった。
入院生活が長くなるほど、自分と向き合う時間もそれに伴う。
私も然り。色々と考える時間が増えた。
「今瀬先生を目指して教師の道に進んだ。綾音様が居るから生きてきた。あなたのためなら何でもできる。だからもう迷わない。悔やむこともない」
言葉を選びながらゆっくりと。途切れた語彙を繋ぎ合わせながらの拙くて脆くさえ思えてくる彼女の想い。
強くなったといっていいものか。私を抜けば叶の語る人生は崩壊する。
私のために。叶が叶自身を誇ることがないのと同じく、叶は叶のために生きてはいない。
それでも生きているのだから許容しろと言うだろう。
「綾音様は私なしでも生きてくれますよね」
私なしでは生きていけないと言う割にこういうことを平気で訊いてくる。
言霊と化していきそうな呪いのような問い。
沈黙で答えてやると、意とは反したものが返された。
「雪里先生が居れば、大丈夫でしょ?」
眉をひそめながら、パズルを完成にまで持っていく叶を見つめる。
半月ほどでネモフィラのパズルを完成させた叶は、新しいものを買ってやると言っても聞かず。花畑はバラバラに崩され、繰り返し暇つぶしにあてがわれた。
初めてそばに居たいと思えた人。誰よりも大切な。
許すにも限度がある。
「壊すよ、そんなことばっか言ってたら」
小さなピースに指先が触れ、動きが止まる。
今日はここまでにしよう。時間も時間だ。
手を振ることもなく、互いにうつむいたまま別れた。
「あんたたちはバカだね。揃いも揃ってバカで大バカモノだ」
今日の様子を伝えると罵倒された。
そんなにバカバカ言わんでもいいじゃないか。私だって悪かったと思うし。叶も悪いけど。
でもこうやって後悔が生まれる。
生きてくれていることへの感謝を伝えたときは分かっていたこと。
余裕がなくなるとこうなってしまう。それが一番後悔のもとだというのに。
「自分の手で壊されたらどうする。もう止めないよ、私は」
目にも止まらぬ早さで叶を助け、叱りつけた雪里。
止めないと言っておきながら止めてくれるのだろう。なんて、叶がまたなにかを起こす前提になっている。
事あるごとに家にやってきたのも、連絡を寄越してきたのも。全部こいつの気まぐれだと思っていた。
違うかもしれない。でも叶と私の間に入ってくるのは、一体なんでなんだ。
「早瀬も反省してるみたいだけど。さっさと話し合って解決しな。残されてる時間なんて分からないんだから」
ごめんと思ってる。端的に記されたメールの画面を見せつけられる。
見舞いに行ってから、連絡もなにも取っていない。
今から行くと送って数時間。待ってますと返ってきて数時間。
時間を巻き戻せたらいいのに。歯車を逆回転させたいくらいだ。
「こっちも疲れてんの。恋人同士は早く仲直りしてください」
遅い晩ごはんを食べ、風呂に直行して行った正論者。
もう遅い時間だが、まだこっそり起きているのだろう。
文字を打っては消し、点滅するカーソルを睨み。なんと送ればいいのか。
ごめんとでも言えばいいのか。また明日も行くと送ればいいか。
「また明日も来てください。いいものがあるから」
ソファに座るわけでもなく、床に寝転がった体勢になったとき丁度メッセージが来た。
叶とのチャット欄を開いたまま考えていたせいで一瞬で既読をつけてしまった。焦ってももう遅い。
いいもの、か。なんだろう。
病気が治ったらそりゃいいが。
おかえりとただいまを二人の家で言えることがなによりもいいものだと、ふと思う。
転がり込んでいる身がなにをほざいているのだか。
それでも明日は怖くない。会いに行ける。
「ありがとう」
一見すれば一足先に感謝を述べているような雰囲気だけど。
きっと彼女なら意を汲んでくれるはず。
そんな期待が面会をぶち壊したことに気付いたときにはまたしても遅く。
布団に入って目を開けている謎の犬のスタンプが送られてきただけいいか。
おやすみも早く二人の家で言いたい。
一緒の布団に入って、いい夢を見たい。
「あ、綾音様。昨日はその、ごめんなさい」
「私こそごめん」
入室すると同時に謝られ、反射的に謝り返す。
数秒その場に突っ立ち、ベッド脇の椅子まで歩く。
どうも反省しているようだ。
叶も雪里になにか言われたんだろう。私も風呂から上がった雪里に寝るまで咎められ続けた。
そんな話をすると、昨日とは違って笑いながらやいのやいの言ってくれた。
「雪里先生には感謝しないとですね。もう仲裁役じゃないですか」
「ただの引き裂き役だろ」
素直になれと言われても人の思考はそう簡単に変わらない。
そう思っていたいだけと言われたら勝ち目もないけど。
「で、いいものってなに」
引き出しから取り出されたのは小さな布切れ……ではなく御守りだった。
自分も作ってみようかと思いながら結局実行に移さなかった代物。
なんで私に。叶がもらう側であるような。
受け取った御守りは薄い黄色を纏い、犬の形をしていた。
可愛すぎる気もする。でも彼女の気持ちを受け取る以外の選択肢はない。
「なんで犬?」
「子犬の動画とかよく見てたから」
ああ、と声が漏れる。
好きで見ていたというより叶に似ているから見ていただけで。
それがよくなかったのか、こいつは犬好きだと認識されて犬ばかりがおすすめに出てくるようになった。
大型犬より子犬のほうがが叶には合う。
前に出会ったあの子はうさぎだったか。好みに合わせてやるのも彼女らしい気遣いだ。
「ありがと。でもいつ作ったの。ずっと何かしらしてるじゃん」
「段々できなくなってる。色々と。だから今のうちにこういうことをやっておかないと、って。後悔してからじゃ遅いから」
できていたものができなくなる。その苦痛は叶にしか分からない。
私には大丈夫だとかそんな生半可な言葉しかかけられないし、なにかできるわけでもない。
ジグソーパズルもそういう理由で選んだのはある。なにもできない償いを。
「集中力が続かないんですよね。気付いたら寝てる」
「それは無理しすぎなんだろ。副作用だってあるんだし。余計悪化するって」
一応は一人で歩けるようになった叶。人の手か壁の支えがないと危なっかしいがリハビリと空き時間の努力が功を奏した。
ただいつ歩けなくなるまでに悪化するかは分からない。現に手の震えは出てきている。
そんな中、針と糸を使って御守りを作ってくれた。
一体どこからそんな気力と努力が出てくるのやら。
指に刺さったりはしなかったのか訊いてみると、こう返された。
「何回もしたけど点滴の針とか検査よりマシですよ。比にならない」
彼女には彼女なりの痛みがある。
手を取り、指をなでる。頑張ってくれたことへの感謝、そしてこれからへの期待を込めて。
希望を持たないとまた喧嘩になる。
「私たち、足して二で割れたらいいのにな」
そうすれば叶も私の気持ちも多少は分かってくれるだろう。
全てを解することができなくても、生きてほしいという願いだけは受け取ってほしい。
そして私も彼女の気持ちを理解したい。
傷も苦しみも。少しくらい分かち合いたい。
「割りたくないです。足すだけにしましょう」
割と真面目に食いついてきた愛しい子犬。
一心同体にでもなりたい、ってか。それはそれで楽しそうかもしれない。
真逆な部分の多い私たち二人が合体したとすれば。どんな人間と化すのだろうか。ある意味サイボーグ。
でもずっと一緒に居られるなら。
ただいまもおかえりも、おはようもおやすみも。いい夢みるんだよとか。いくらでも言えるのかな。
「紫陽花、中庭に咲き出したって聞いたんです。また行きましょうね」
「そうだな。じゃあ早く熱下げないと」
微熱が続いている叶と喧嘩したのは確かにバカだった。
永遠に共に居られたとしても、さよならを言うことはこの先一生ないだろう。
生徒と教師の間柄ならさようならで済むけれど。
とっくにそんな関係はやめている。
「一蓮托生って同じ蓮華の花の上に生まれることを指すんですって。ロマンチック」
今度はしっかり解説を入れてくれる。
運命を来世でも共にできるなら。
叶と一緒ならもし次の人生があったとしても、苦痛をも忘れて生きていけるだろう。
来世は要らないけど、とつい本音を漏らす彼女を抱きしめる。
なにがあってもそばに居る。
だからずっと、ここに居て。
次の未来も。その次もまた。




