第七話 御守り
「よー、綾音」
最寄り駅まで行くと既に雪里が居た。
昨日はあのまま自宅で過ごしたから二日振りに見る人間。
感情をどうにか振り切るためにジグソーパズルを探しに行ったらとっぷり日が暮れていて。
叶の匂いを補給するためにも雪里の家は選ばなかった。
そそくさと逃げ、病院のある方向を歩く。
「待てよ。酷くない?」
後ろから走ってくる元同僚を無視して早足に切り替える。
我ながらなんでこんなことをしているのか不思議でたまらない。嫌いというわけではない。嫌い寄りの普通といったところなだけ。
「最近はどうなのさ、早瀬は」
「リハビリも頑張ってるみたいだよ、治療の結果は思わしくないけど」
叶に関わる質問には答える。
それはなぜか。理由は簡単、なにかあったときに私一人で対処できるとは到底思えないからだ。
早瀬叶を知っていて、私との関係を知っている人はこいつくらいでもある。それなら使えるだけ使っておかないと気が済まない。
競歩のように抜いたり抜かれたり並んだりしながら、見慣れた道をひたすら歩いた。
「叶ー、ってなにしてんの」
扉を開けてみれば窓枠から身を乗り出すようにして空を眺める彼女が目に入った。
雪里があっという間に叶の側に飛んで行き、窓際から離させる。
目にも止まらぬ早さというのはこういうことか。
目を丸くしてベッドに座らされる叶。相変わらずお人形のように見えた。
「なにしてんだ早瀬、危ないだろ」
「外の空気を吸っていただけですよ」
面倒くさそうに言葉をかわしてやり取りを強制終了させようとする。
危ないことをしていたのは叶であるし、叱るのも当たり前のこと。
どうしようもないな、本当に。教師と教師であったとは思えない。問題行動を起こす生徒に戻っているぞ。
固まったままの自分に気付き、やっと彼女の方に歩みを進める。
「危ないことくらい分かってたよね、叶」
「分かりませんね」
平然と答える彼女の一言で、頭に血が上る感覚を今までになく感じた。
死を願った彼女。この世が一番地獄だと語った彼女。生きたいと泣いた彼女。
どれが叶自身の言葉なのか。一番分かっているはずなのに。
肩を掴んだまま、二の次が出てこない。
なにを伝えてもかわされる。真剣に向き合ったとしても蔑ろにされる。
私が、叶が一番望んでいない言葉を投げかけたとすれば。彼女は屈託のない笑みを見せて姿をくらますだろう。
「いい加減にしろよ。綾音がどれだけお前のことを想っていると思う?愛していると思ってるんだ。それを要らないと言うなら私は許さない。傷付けることを楽しむな。望むな」
割って入ってきた雪里の剣幕に押され、私までたじろぐ。
雪里がなにを知っているのか。それはともかく、代わりに言ってくれたことに胸をなでおろす。
私以外からもたまには叱ってもらわないと。どうも耐性ができてしまって困る。
見下ろしてみると、目に涙を溜めている叶の瞳は揺らぎ、泣くまいと必死に堪えていた。
この種のお叱りを受けることは叶からすれば的を射抜かれているのと同じ。理解はしているからこそ、自分のした言動が罪に思えてきてしまう。
死んで償うとか言い出しそうで恐ろしくなってくる。
「もういいよ、雪里。やめな。ここは病院だしこいつは病人だ」
どことなく気まずい雰囲気が流れる。
叶が死を願っているのは今に始まったことではない。
何十年も生き地獄で暮らしているのだから。この手の行動に走るのも無理はないし当たり前でもある。
沈黙が流れ、空気はどんどん張り詰めていく。
横目で雪里を見ても、目の前に居る叶を見ても。そして私自身もそこにただ立ち尽くすばかりで進展もない。
ついに頬を伝い出す雫。いくつにも連なって落ちていく。
「だいじょうぶ?はやせせんせー」
扉が開き、小さな子どもが病室に入ってきた。
この子は一体。入院している子なのだろうか。一人でここまで来たのか。
固まっている私たちをよそに叶は目を拭い、その子に対して微笑みかけた。
「大丈夫だよ。一人で来たの?ここまで遠かったでしょう」
引き出しからなにかを取り出し、近くまで来るように手招きをする叶。
そしてそれを小さな手に持たせ、優しく話しかけてやりはじめた。
「お母さんに渡してね、御守り。きっとよくなるって、たくさんおまじない込めたから。でも一番元気が出るのはお母さんも私も、彩葉ちゃんの笑顔なんだよ」
「うん!ありがと!」
無邪気な声の響く一室。
今までこんなに賑やかなことがあっただろうか。
少なくとも私は知らないし、さっきまでの重たい空気はひまわりの柄のワンピースを着る少女によってかき消された。
叶の過去と対になるような明るい性格。愛さているのがよく分かる。
「せんせいも早くげんきになってね、大きくなったらもっと、おべんきょうおしえて」
「分かった、元気になる。国語なら教えてあげられるから」
彼女が答えたとき、開けっ放しの扉の向こうから誰かがやってきた。
「彩葉、ここに居たの。勝手に行くなって言ってるのに。すみません、お騒がせして」
「大丈夫ですよ。じゃあまたね、彩葉ちゃん」
「またひらがなおしえてね」
手を振って去っていく幼子と何度もお辞儀をしながらお礼を伝える髪の短い女性。
まるで嵐が過ぎ去ったかのような静寂さが部屋にもたらされる。
一体何だったんだろう、今のは。私たち空気だったし。
満足したのか疲れたのか、ふーっとため息をこぼす私の彼女。
そして呆然と立ち尽くしていた私たちが視界に入った途端、あ、と目を瞬かせた。
「ごめんなさい、色々と。死なないから、あの」
「まさか病院でも慕われてるとは。な、綾音」
肩をどつかれてバランスを崩す。切り替え早いな、この人たち。
雪里はまだ仕事に追われる日々を続けているし、叶は職から退いたとはいえ慕われ続けている。
私はどうだろう。叶に縋って生きてきた私に、生きている私に。叶の居ない世界線が眼前に現れたときどうなるんだろう。
からっぽなのは私自身ではないか。
「綾音様、どうしたんですか」
心配そうに見つめてくる叶。なにか悟ったように目をそらす雪里。
まるであと一つはめれば完成するジグソーパズルのピースが見つからないような。そんな焦りと怖さが全身に伝播する。
「あの子、誰なの?」
とりあえず自分自身を落ち着かせるために話を振る。
なんでこんなに動揺しているのか自分でも分からない。
「彩葉ちゃんです、年長さん。たまたま中庭で出会って、そこからひらがなとか教えたりして。いい子ですよ」
どうやらお母さんが入院していて、彩葉ちゃんは保育園の休みにお見舞いに来ているらしい。
それじゃああの女性は叔母さんとかか。
疑問を読んだように叶は続ける。
「あの方は彩葉ちゃんのお母さん……ですよ」
「え?」
まあ細かいことは置いておいて、と話を強制終了させられた。
このご時世色んなことがあるし、ただの固定概念を他人に押し付けることも違うし。そうだな、色んな形がある。
私と叶がそうであるように、説明が難しいものも理解を得られないこともたくさんある。
雪里がそこに寛容なのはなぜだろう。
説明をしなくても見破られていて、そのまま受け止めて接してくれていて。
女と女。元生徒と教師。今では立場が対等になったと言っても。親代わりでもあるとしても。
一から十まで説明するのは難しい。だから私たちの内情を知っている人は数少ない。私の親と、今は亡きマスターと。あとはこいつだけ。
「彩葉ちゃんだっけ?あの子に渡してたのって何なのさ」
話題を変える雪里。最初の剣幕を忘れさせるほどにいつもの声色に戻っている。
私までビクビクしてしまうくらいには怖かった。人を救う言葉と声色だったのは確かだが。その分本気で感情が入っていた。
ほんと、生粋の教師。この人の生徒でなくてよかったと心から思う。
「あれは御守りです。夜な夜な作ってて、看護師さんに怒られてしまいまして……」
しょんぼりしながら、それでも微かに笑っている叶。反省の色もなにもない。
御守り。手作り。 叶はそのために寝ていなかったのか。こいつは生粋のお人好しだ。
自分も病人なのを忘れている。そしてとても心優しい子になってくれた。
「手作りとかすごいな、綾音にはできないやつ」
「な、できるし。やればできるって」
つい吹っ掛けられた言葉に食いかかってしまった。
裁縫とかできないのに。思い出せば家庭科は散々だった。
でも御守りなら。作りたい、かもしれない。
元気になって、家に帰ってこられるように。病気平癒を願って。
「あれうさぎの形だったよね、大変だったでしょ」
「裁縫なんて苦手中の苦手ですから、とても。でも喜んでくれてよかった。うさぎが好きだって言ってたから」
謙遜しているように聞こえるけれど、実際叶は裁縫が得意というわけでもない。
私のため、誰かのためにという前提があれば頑張る。自分のものになると壊滅的な下手さに早変わりする。
叶の七不思議。自分のためになると壊滅的になってしまう。
寝る暇も惜しんで電気もつけず、象って。そして生地を切って、縫って。
気付けば彼女を抱きしめていた。
「頑張ったんだね、偉いよ。でも自分のことも気にかけてあげるんだよ。無理したら駄目だ」
分かってると抱き返され、雪里から野次が飛ぶ。今度はどちらも味方をする言葉。
「今瀬先生にお願いがあるんですよね。髪を切りたくて」
思考が止まる。沈黙が空白のように見えてくる。
髪を切りたい。そうか。待て、髪を切りたい?
「え、なんで」
「反応遅すぎる」
ゆるい三つ編みに結われている毛先をくるくるしながら、お願いを続けられる。
これからのことを考えると長い髪は邪魔であるし、介護にも不向きだと。
良い機会だし心機一転髪を切りたい、と。院内にも理容室ならあるし、と。
まあいいじゃんと雪里は簡単に口にする。
なにもよくない。叶の長くて黒い髪が、私は好きで。私の特別なんだ。
「嫌だ。切るな」
「ほらそう言うと思った。でもいつか切りますからね。心づもりをしておいてください」
なにを言ってももう決定事項らしい。そんなことあるか。
聞き入れられないことは年を追うごとに増えてきた。
それが普通なのは分かっている。叶が優しすぎただけで。甘えていたのは私で。
変遷していくのが世の常。
なにも変わらないでほしいなんていうものは受け入れられない。
「はいはい。いちご持ってきたんだけど食べる?早瀬」
「いいんですか。わざわざありがとうございます」
丁寧にお礼を伝え、既にヘタを取られたいちごをタッパーから細い指先で取り出す。
美味しそうに頬張る叶を眺めながら、変わるものと変わらないものを考える。
食べることを拒むことが多くても、食べたいものを訊いてみれば綾音様と答えられてきた。
こいつは私を食物だと思っている可能性がある。
ご飯を食べると体調が悪くなるだとか、ただ単に面倒だからとか以前の問題があるような気もしなくもない。
果物は高いからと自分から買うことはなかったけれど、たまに買って帰ると嬉しそうに頬張っていたっけ。
たまには自分に褒美を与えたっていいものを。
「みんなで食べましょ、私だけって流石にいやなので」
嫌なことはちゃんと嫌だと言う。否定だけはいつも早い。
やりたいこと、好きなものを訊いてみるとひたすらの沈黙が流れて話にもならなかったりすることもあった。
今は食に対してはあれだが。これが好きだとかこれがいいとかは言ってくれるようになって。
病院の生活なんて飽きたと言うようになって。
ただそんな彼女にも言い続けたことがある。
「綾音様、考え事なんてしてないで。食べないと全部食べられちゃいますよ、この方に」
視線を上げるとタッパーを抱える雪里が居た。
それも意地の悪い顔。悪役。
買ってきたのはこの人だし私は別に与えられる側ではないが。それでも鼻腔をくすぐるいちごの香りには抗えない。
「よこせ」
「ください、だろ」
人に物を頼む態度を再度教えられる。
知っているし分かっている。私も何度も言ってきたことだ。
それもできていないような人間が誰に口出しできるのか。
「爾汝の交わりを見せつけられているような気がします」
そう笑われたとき、また客が来た。
どういう意味かも分からないのがどこか悔しい。知識不足がたたっている。
「はやせせんせー、まるつけして!」
「はーい、待ってね」
中学で国語を教えていた人は未就学児相手にひらがなを教えている。
相手が誰であろうと心を掴めるのか、この人。
いちごを無心で食べながらまた空気と化す。
小さい子だからこそいちごが好きな気がするのだけど。
「懐かれてんなー」
「な、本当に。私たちってこんな空気薄いものなの」
目を合わせて、おかしくなって笑う。
立ったままだから彩葉ちゃんに気付いてもらえない。というより叶のことが好きなんだろう。
叶の幼少期を私は知らないし、彼女自身も思い出したがらない。ツツジの花を食らうくらいの生活だったのだから無理もない。
もしもっと早くに出会えていたのなら。傷だらけになる前に救い出せたのだろうか。
「彩葉ちゃん、私以外にも先生が居るんだよ。ほらここに」
丸付けを終えた叶に紹介される。
予想外の展開に二人でたじろぎ、彩葉ちゃんの視線がこちらに昇る。
年長さんというのはこんなに小さくて幼いものなのか。
まだ赤ちゃんみたい。守らなければいけないという信念が生まれてしまいそう。
しゃがんで目線を合わせる雪里につられて、私も身を低くする。
「雪里凪です、よろしくね」
「今瀬綾音です……?」
語尾にはてなが飛ぶくらいには小さな子に慣れていない。
どうするのが正解なのか。考えすぎかもしれないが、怖い。
そんな私に目もくれず叶に飛びつく少女。
ベッドにまでよじ登って甘えられるその神経が心底羨ましい。
大人の目なんて気にもとめないほどの強い心臓を持っているのなら、この先も安泰だろうな。
「難しいって言ってたひらがなも綺麗に書けたね。先生たちに自己紹介できたらもっとはなまるだよ」
頭を撫でられ、抱っこされたままこちらに向き直る小さな命。
そこを変われ。口にはしなくともそればかりが脳内を占める。
なんで今日出会ったばかりのこの子に叶を取られているんだ。意味が分からん。
「いろはです!よろしくおねがいします」
あまりの無邪気さに心が浄化されていく。なにかばつが悪い気さえしてくる。
年頃の子たちのように辛辣な言葉も嫌味も言わない。人畜無害そのもの。
ただ叶を取るのは気に障る。
疲れを見せ始めた彼女に気付いたのか、はなまるの書かれたひらがなの練習ノートを持ってベッドから飛び降りる少女。
必死に元気を取り繕ってみせる叶にしっかり感謝を伝え、その子は去って行った。
本当に嵐のような子だった。天真爛漫というか。お転婆娘という言葉はあの子にぴったりだ。
忘れかけていた手土産の存在を思い出し、置いていたカバンの中身を捜索する。
「はい、これ。ジグソーパズル。今渡さないと忘れそうだから」
「早くないですか。昨日の今日ですよ、綾音様。……ありがとうございます」
手渡した小さな箱をまじまじと凝視する叶。そんなに検分しなくてもいいとは思うけど。
この箱の中に何百ピースと入っているのだからすごいものだ。
選んだパズルは簡単なもののほうがいいか、とも思ったがある程度の難易度のものを選んでおいた。
一瞬でできてしまってもつまらないし。なるべく長くできそうかな、と思うものを。
ただこいつは変に真面目だから副作用でしんどかったとしても、無理をして完成に近付けようとする可能性がある。
病人に無理をさせるほど私は鬼じゃないし願ってもいない。
ただ御守りのことも考えると叶はずっと叶である。
「へえ、パズルか。いいじゃん。画面ばっか見てても疲れるだけだし。デジタルデトックスってやつね」
「ネモフィラ畑行きたーい。あー、もう季節違うか」
行きたいという願いを叶えてあげられない分、こういったもので補填するしかない。
お花見のこともずっと引きずっているし。これからも冬になるまで花くらい色々咲くだろうに。
花は朽ちても美しく、対して人間はそうではない。かつて彼女が夜桜を見ているときに言い放った言葉。
なにを思いながら見ていたのか。ただ綺麗だというだけでは終われない叶にはいつもやきもきさせられる。
「いつかみんなでお花見行きたいですね。ね?」
「そうだな。……って雪里も?」
「大丈夫、お前らの間に挟まるようなことはしない」
邪魔をする気しかない元同僚と、それも楽しそうだと笑う叶。
生への希望を持てるのが花なら。生への渇望が生まれるのなら。
彼女の代わりに色々と持ち帰ってやろう。
いつか三人で桜を見られるように。
さっそく机にジグソーパズルを広げ始めた叶と共に頭を抱え、あれやこれやと話しながらこれからのピースをはめていった。




