第六話 愛の喜び
「元気?」
「元気そうに見えます?」
ノックをして部屋に入り、いつものお決まりのように元気かと問う。
今は治療の休みの期間。元から痩せぎすな体型だった彼女だが、治療の間にまた痩せこけた。
目に光がない。虚ろ。
元気なわけがないのは分かっている。それでも訊いてしまっている。
ただ単に自分のルーティンなだけ。
身体を起き上がらせ、目に光を戻すように手招きをされる。
「いつも通りにそう訊いてくれるの、何気にうれしいっていうか。救いですらある」
「なにそれ。じゃあ元気になってからも言い続けてあげる」
腕に絡みついて離れようとしない叶に体温を奪われそうになりながらなだめる。
毎日のようにお見舞いに行っても寂しいものは寂しい。
寝食を共にすることもできないのだから当たり前だ。
叶の治療が始まってからはまた雪里の家に転がり込んだりして過ごしている。
二日に一回は換気がてらに帰っているけど。過ごすのはほぼあの人の家だったり。
おかげで料理教室は開かれるし一つくらい家事やっとけよと云われている。
やったりやらなかったりなのは秘密だ。
私にだって一応やることはある。叶と自分の服を洗って干さないといけないし、家の状態も保たないといけない。
叶が居ないことを理由にしてゴミ屋敷にでもしたら。雷嫌いな奴にバカでかい雷を落とされてしまう。
「最近なにしてるの」
「教科書と本読むか、寝るか。パソコンとか見るか。教科書読んでたら目が霞んでくるんですよね。あまりに歳」
ベッド横の椅子に座り、机に置かれていた本を手に取ってみる。
学校の図書館で見かけたことのあるもの。題名もなにも覚えていなかったけど、確かに見覚えがあるような。
あまりに分厚くて目に止まったんだっけ。読むの大変そう、と思って素通りをかました記憶。
「読みますか、それ。いい話ですよ」
「いやいいよ。分厚いし」
だからいいんだろ、と咎められる。
分厚い本だからこそ繰り返し読むほどに愛着が湧くらしい。
読もうとも思わないのに繰り返しだなんて。遠い次元の話でもされているみたいだ。
「叶の書いたやつなら読むんだけどな」
「え、それガチだったんですか。書く必要あり系?」
「あり系」
まじかー、と落胆の声を上げながら天井を仰ぐ叶につられて共に見上げる。
病院の天井というのはまたなにかを物語っているように見える。
別に無理にとは言わないし。強いるつもりはないけれど。
どうせ読むなら彼女のものがいいと思ってしまう。
世界で一つだけの物語を。
それを読むのは私一人ではもったいない気もするが私だけでいい。
「色んなところにツツジ咲いてたよ」
「中庭にも咲いてるの見ました。行きましょう、一緒に」
体力の落ちている彼女を連れるのには多少の不安もある。
まあでも、ここは病院なわけだし。
なにかあっても誰かが居るし。
許可をもらって、病室から出る。
なにかを言いかけた看護師さんを不思議に思いつつも、手を引いて催促する彼女には勝てなかった。
「距離は結構歩けるようになったんですよ」
「勝手に抜け出して練習してるって聞いた」
叶の歩調に合わせ、確かに前より歩けているのを共に実感する。
チクられてる、と表情を曇らされる。
なんで言わないでって言ったことは一瞬で共有されるんだと愚痴までこぼされ始めた。
「お前も先生だったんだから分かるだろ。事故の防止」
不服そうだな。気持ちは分かるけども。どうしようもないことしかないのが世の常ってもので。
思われているからこそのことでもあるし。あまりに続くようなら対策を取らないといけなくなるし。
そんなの自分のためじゃなくてあなたたちのためだ、と批判されそうだが。
なにを言おうとお前のためだ。
倒れてからというもの、一気に筋力が衰えた叶。
歩けるには歩けても途中で力尽きてしまう。
それが嫌なのは分かる。治療中は免疫だって落ちるし怪我でもしたら危ないことは彼女だって理解している。
なのにこっそり病室から抜け出して廊下を彷徨っていることがあると苦言が来た。
リハビリの時間も頑張っていると聞いているのに、こいつときたらそれ以上に頑張ろうとする。
何のために叶に合ったリハビリを設定されているのやら。
「無理したら駄目だよ。誰も居ない場所で動けなくなったらどうするの」
「行き倒れを楽しみます」
開き直られると困る。
これではなにを言っても叱っても、のほほんとかわされてしまう。
困ったやつなのは最初から知っているし、手持ちに言い訳に使える語彙が豊富なのも事実で。
負けている、色々と。
こんな会話を繰り広げているうちに中庭に辿りついた。
「咲いてる、咲いてますよ」
「見たら分かる。もうすぐ夏だな」
ツツジが鮮やかに中庭を彩る。
ピンクの花と白い花が混ざり合っている部分もある。自然というのは不思議だ。
長袖のシャツを着て抑えめにはしゃぐ姿を見ていると、今までの夏を思い出させてくる。
暑さにはめっぽう弱くても、どうすれば楽しめるかを考えられるのが叶のいいところ。
「蜜吸っていいかなー」
「駄目です。毒がある種類もあるってよ。それに衛生的にもやめておきな」
つまらん大人だと頬を膨らませられてもな。
確かに子どもの頃は私も吸ってたけども。つまらない大人というワードが妙に心に刺さる。
「よく吸ってたな。花ごと食べるのはおすすめしませんが」
「食べたことあんのか」
普通にあります、と食い気味に答えられ、ドン引きを隠せなくなった。
食べるものがなかったから食べてみただけだ、と。
叶の過去を知っているからこそただのジョークとして処理することができない。
返答に詰まる。そんなに考え込むなと謎に励まされる。
「そうですね。今ならもっと美味しいものが食べられる。病院食はあんまり好きじゃないけど」
「叶のご飯食べたいよ、早く。私も頑張って作ってはいるけどさ、マジ無理」
木漏れ日を浴びながらのんびりと話す。
幸せだ。
なんてふと思ってしまうくらいには幸せで。
投薬中は大分弱っていた。話せるには話せても、私が帰った後は充電が切れたかのように寝ていたらしい。
熱が出れば下がらず。薬に対して身体が耐えきれず、意識混濁に陥った日もあった。
なにも無理に頑張る必要もないのに起きれば作業をしていたり、勝手に歩く練習をしたり。
そんなのだから無理がたたって過労で倒れるんだ。
「雪里先生から聞いてますよ。包丁の扱いも上手くなってきたって。掃除も頑張ってるんですもんね」
「前にもらったレシピ帳、見ながらやってる。同じようにはできないよ」
随分前すぎるがもらっていたレシピ帳。
目につくところには置いていたけれど手に取るまではいかなかった。
いざそれを手にしてみるとまだまだ綺麗な状態で保管できていて。思わず感嘆を漏らした。
叶からすればあれだろうが。
雪里に教えてもらう味付けではなにか違って、つい文句が出るとそれなら自分でやれと言われて。見ながら時間をかけて作ってみても上手くはいかず。
今までろくにやってこなかったのが悪い。
「誰しも最初から完璧になんてできません。あのレシピ帳だって、決して出来が良いものではない。というか私だって作るの適当ですし」
分かっていても自分に期待するほどその落ち度に毎度肩を落とす。
過信というか、自分にもできるという期待。それを打ち砕けばやる気はなくなる。
でも自分で自分の期待を裏切るという行為はできない。成長もなにもできなくなりそうで。
ここまで考えているとあることに気付いた。
これでは叶と同じだ。
「案外似た者同士ですね、私たち。なんかうれしい」
「そうだな。そう思うと心も楽になる気がするよ」
微笑み、顔を見合わせる。
特別なんてものはなにも要らない。
だからこの瞬間が永遠に続いてほしい。
なんでもなくて、ろくでもない。それでいいから。
「よもぎはいいですよ。食える」
「食えるけど。もうこの話いいでしょ」
私も幼い頃に外で摘んできたよもぎを食した。もちろんそのままではない。よもぎ餅にしてもらった。
ただ叶はどうだろうか。食えると言っているあたり水で洗っただけの葉っぱを食べていそうだ。
青空の下に出て、ツツジの花をつんつんとつつき。指先が触れた部分を撫でてやる。
もし彼女を救うなにかがあるのなら。不死身とは言わずもあと十年ほど一緒に居られたら。
叶わないことばかり考える。それが日常になりつつある今日の空はあまりに眩しい。
「そろそろ戻ろうか。日光浴びるのも久しぶりなわけだし」
「もう少し居ましょうよ」
「いつまで立ち話する気なの、叶さん」
壁にもたれかかっているとはいえ、いつまでも立ったまま話すのは疲れるだろう。
自分もそっちに行きたいと言わんばかりの視線を浴びせてくる人の元に行き、背中に手を回す。
体力を戻したいのも分かる。できることならと思うのも。
「仕方ないかー。戻ったらいいんですよね。戻れば」
ぶっきらぼうに吐き捨てながら踵を返す。
子どもじゃないんだからさ。と思ってもそんな姿を見せてくれるのは私の前だけだ。
甘えてくれるならいいや。とことん甘えさせてあげよう。
薄い手を握り、病院の独特の匂いを吸いながら病室に連れ戻す。
「どうでもいいような物語を書けばいいんですよね。くっだらねえやつを」
最後の言葉は一体なんだ。やけに語彙が強い。
愚痴も悪口も悪態をつくことも少ない叶が言うと肝が冷える。
細い右腕で引き出しから紙を取り出し、ボールペンが机に載せられた。
書く気があったとは。書かないものだと思っていた。
何事も完璧を求めようとして自分自身に惨敗するような彼女。
無理と言ったら負けだとか、やめたら負けだとかと言い出すような人。
どこの話の通らない脳筋なんだよ。何度もそう思った。いくら私でも言わないことを平気で兵器のような言葉を乱射する。
「点滴嫌なんですよね。邪魔だし」
「それはそうだろうけど勝手に抜くなよ。各方面から怒られるんだから」
分かってるからやってないんだと、ペンを回しながらぼやかれる。
部屋に戻ってから、なぜかご機嫌が悪い。
元気が出るもの。叶のためになるもの。それは一体なんだろうか。
思案していると白紙の上部分が埋まっていた。
まじまじと読んでみるとつい先程までのやり取りがそこにあった。
「aとbはツツジを見に来た。aは蜜を吸いたがった。なのにbときたらそれを止めた。毒があるから、と」
「読み上げないでっていつも言ってるじゃないですか。ばか」
名前がaとbなのも叶らしくて微笑ましくなってくる。
「ところでこの二本の線はなに?」
「なに、って。棒ですけど」
絵心ないし面倒だから棒でいいだろ、とのこと。
棒人間でもなく棒と来たか。そうか。口を出すものでもないしまあいい。
「いいじゃん、叶らしくて。また書いてよ」
「気が向いたらでいいなら」
いいよ、と答えて思案していたことを思い出す。
つい話に夢中になって記憶が抜けていた。
「そうだそうだ、暇つぶしにジグソーパズルでもどうかと思ってさ」
「パズルですか。私にやれとでも」
嫌そうな表情を浮かべながら沈黙の時間が始まる。
せっかくの提案を断るわけにはいかない。かといってやりたいわけではない。今思っているであろうことは大体予測できる。
返答ももちろん予想がつく。
「やります……でも難しいのはいやです」
了解、とひとこと返事を言っておく。やらないとは言えない人だ。
そうとなればどこかでパズルを調達しに行かないとな。
どれくらいのものがいいだろう。難しすぎず、それなりに時間を潰すことができて幅の取らないもの。
パズルを最後にやったのも叶と暮らし始める前のことだ。
あのときは休日の一人の時間の静寂さが嫌で気を紛らわせるものを試しに試していた時期だった。
編み物は意味が分からなくてやめた。裁縫も然り。結局酒が友達という暴論を企てて過ごしていた。
叶と暮らし始めてからは寂しいもなにもなかったし、毎日に色が加えられた。
「花火見たい」
「急だな。まだ初夏だよ」
花火な。今年は見れるのか、どうなのか。
手持ち花火くらいなら家に帰ったときにできると思うけど。打ち上げ花火を見に行くのはまだ心配が残る。
こいつは花火が好きだったから。できることはしてあげたい。
前の家なんていつの話だ、って感じがするが小さな花火が見える場所だった。
「偏見だけどさ。一緒に燃え尽きれそうって言いそう」
「なにそれ。近くで見たら思えるでしょうね。私は燃えるつもりなんてないですよ」
燃えるというよりも深い海に沈む想像ならできると返された。
なにそれ。
なんか嫌だ。
変なこと言わなきゃよかった。
「もう五月ですもんね。言っている間に夏本番がやってくる」
「気が早いこともないか、最近じゃ。そういや雪里が明日来るって。ちゃんと休んでおきな」
頭を撫でて、踵を返す。
病室から出る間際、小さな声で謝られた。
「先生。……ごめんね」
その言葉がなにを意味するのか。考えなくても分かってしまった。
どんなことがあっても。叶がなにをしようと。別にいいのに。
「いいんだよ、私が選んだ道だ」
手を振ってからそっと扉を閉め、数秒の間そこに立ち尽くす。
一回目の治療は効果があるとは言えなかった。何なら悪化を辿っているという。
叶は気丈に振る舞ってはいるが、どんな節穴の目を持っていようと満身創痍であることに気付かない者はいない。
扉一枚を隔てただけでも不安に襲われる。
病のせいではなく、自ら命を投げ出してしまうのではないか。
名も無き責任が彼女を包み込み、望まない道に誘導しているように思える。
「あ、お帰りのところ申し訳ないんですが」
「いつもお世話になっております。どうかしましたか」
帰ろうと一息を吐いたとき、向こうから歩いてきたさっきの看護師に呼び止められた。
儀礼的に返事をし、扉から一歩離れて話を聞く。
「消灯時間の前に寝ていることが多いのですが。夜中にどうも隠れて作業しているみたいで」
「あー……」
脱走を企てているだとかの部類の話じゃなくてよかった。と安堵している自分に気付いて態度を改める。
夜遅くまで授業準備だとか色々やってたもんな。その名残と言えばいいように聞こえるが。そんなことはない。
生粋の夜行性だしな。そういう話でもない。
「何気なく聞いてみたんですけど、寝ているとの一点張りで」
煙幕を張って逃げようとしている姿が目に浮かぶ。
電気もつけていないならパソコンかなにかをしているのだろうか。
どうせ叶は誰になにを訊かれてもしらばっくれる。問い詰めて吐くかどうかは分からない。口を滑らすのを待つほうがいい。
「また訊いておきます、すみません」
「寝られない日が続くようでしたらこちらでも対応を考えますね」
お礼を伝え、病院から出る。
叶が入院して一ヶ月。
この一ヶ月の間に目まぐるしく状況は変わっていった。その間にも季節は巡っていく。
初夏と思えないほどの日差しを直に浴びながら帰路についた。
持ち帰った洗濯物を洗濯機に放り込み、洗い終わるのを待つ。
一人で過ごすこの家は静かで広い。
窓から差し込む日差しは空虚ともいえる心に入り込む。
教師という立場から退かせた。そんなどうでもいいことを本気にしてしまうのだから。
重い腰を上げ、また叶の部屋に立ち入り、本棚を物色する。
なにかないだろうか。隠し財産とか。それは冗談だ、と一人で弁明する。
部屋に入ったのはいいが。なにをしようか。
大切に飾られている贈ったものたち。埃を吹き飛ばし、ハンカチで拭ってやる。
私と違って手入れをしっかりしていてくれた甲斐あって、何年経っても綺麗なまま。
曇りもせず光を身に取り込んでいる。
「月に叢雲花に風」
開け放っていたドアの向こうから無機質な通知が来たと思えば、どういう意味か分からない文面にはてなを飛ばす。
既読をつけたと同時に面会時のツツジの写真と文章が送られてきた。
「ごめんね、綾音様。毎日来てくれてありがとう」
言葉の意味を調べてみる。
美しい月が顔を見せたかと思えば雲が覆い隠し、美しい花が咲いたかと思えば風が吹き散らしていく。
叶の言わんとしていることの片鱗が見えてきた。
「月が見えなくても、花が散っても。君は私の特別だよ」
画面に零れ落ちる雫が雨粒のように散っていく。
送信した瞬間についた既読はどこか哀愁を漂わせ、洗濯が終わったことを知らせるブザー音はリビングまで響いていった。




