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叶わない願いと  作者: 雨宮雨霧


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5/11

第五話 一人の空間

 ドタバタと準備をして、また病院に出戻る日。

 当の本人は朝から行きたくないと駄々をこねている。

 いくらまだ時間があるとはいえ。そろそろ布団から動いてくれないとな。

「いつまで布団にしがみついているんですか、叶ちゃん」

「一億五千万年」

 なんだそりゃ。

 呆れてため息を吐いても動こうとしないのが、うちの困った犬に似た人間。どうしたものか。

 とりあえず寝室から離れ、様子を観察する。

 構って欲しくなってこっちに来させる作戦。

 ベッドに大の字になってしがみつくなんてどこの小学生なんだ。

 ゆったりとした朝。いつもならこの時間は、なんて考えるのは野暮か。

 八時になろうとしているのに、二人で家に居るなんて。不思議な感覚。

 持って行く荷物は昨日というか夜中に大方詰め込まれた。

 片付けないとな、と吐き捨てたあの子の言葉の意味を推し量ってみてもそういう意味にしかならず。

 行き場のない感情がまた増えてしまった。

「置いて行かないでください。酷いです」

「置いて行ってなんかないよ。駄々をこねるのが悪い」

 壁伝いに歩いてきた叶を支え、座らせる。

 食パンを焼きはじめると、余程起きたくなかったのかテーブルに顔を突っ伏してふて寝し始めた。

 全く。相変わらず面倒くさい奴だ。

「体調どう?」

 焼けた食パンをお皿に乗せて差し出す。

 むくりと顔を上げてまた腕を枕にし始める彼女。

 返事くらいしろ、と思いつつ朝ごはんを貪る。

 朝を一緒に過ごすのもしばらくお預けか。

「入院とかしたくないです。綾音様とずっと居られるほうがいい」

 気持ちは分からんでもないけど。そう思ってしまうのも無理もないんだけど。

 聞き捨てならない言葉が多すぎる。

 この短期間で、何度もしたくないというのは聞いてきた。その度に少しでも長く生きるために必要なことだと伝えてきた。

 生きたくない。それが叶の本心だったとしても。

 この数十年を生き延びてきてくれたこの子の心は病にまで耐えられるのか。

 そんな保証はどこにもない。

「元気になったら行きたい場所とか考えておくことだな」

「あなたと居られるならどこでだっていいですよ。宇宙でも海底でも」

 やっと食パンに手を差し伸べて食べ始めてくれた。

 朝にご飯を食べると具合が悪くなるのは基本仕事がある日だったか。

 まあ仕事なんてものはほぼ毎日ある。つまり永遠に体調のいい日が叶にはなかった。

 今日は逆に調子はよさそうだ。ちゃんと食べている。

「叶が居る人生を生きていたいよ、私は」

「なんですか。まだ死にませんけど」

 ふてくされたような顔をしてから笑ってみせる彼女。

 生きたいという思いが少なからずあるから今の今まで生きる道を選んでくれている。

 なんやかんやあってもお互いに思っていることは同じだ。

 この人の居る人生を愛していたい。

「作り置きしてから行ってもいいですか。あなたのために」

「私のためって。別に無理する必要はないんだからね。食べれるなら食べたいけども」

 叶の料理は世界一と太鼓判を押したっていいくらい美味しい。

 昨日も一昨日も一緒に作った、とはいえほぼ作ってもらっていたような気がする。

 彼女の言葉に甘えてしまって。

 一緒にやったほうが美味しいからと云われて。

 本当にこれでいいのか分からない。

 今まで甘えてばっか、それを当たり前にしてしまっていた。今更後悔ではなくとも反省している。

「いいんですよ。私がやりたくてやってるから。先生が喜んでくれるなら、綾音様が元気で居てくれるなら。恩返しをしたい」

 沈黙の間になにか悟ったのか、励ましというよりまた甘やかしの言葉をかけられている。

 恩返し。

 いつか恩返しをすると過去の手紙にも書かれていた。

 文末には多分、と句点を打たれていた。そんな保険までかけられていたのに。

 もうとっくに恩返しをしてくれている。返し過ぎでもある。

 あまりに過剰なのだ。与えてくれるもの、ねだってくるもの両方。それが早瀬叶という人物。

 どこまでも尽くそうとしてくれるから尽くしたくなってしまう。

「一緒にやろう、料理」

「すっかり板についてきましたね」

 彼女の企みに気付いたときにはもう遅し。

 朝ごはんを食べ終わってすぐお料理教室が始まった。

「怪我とか痛くない?」

「んー、傷の割に痛くないですよ。ほぼ治ってるし」

 傷跡はまだ痛々しいけれど。そんなことを言ったら全身痛々しいのだが。

 階段から落ちたこともあってあらゆる場所に傷ができてしまった。

 本人はケロッとしてにんじんを洗っている。

「記憶喪失とか本当にあるんですかね」

 急に話をぶっ込んでくる叶は至って真剣な面持ちをしていた。

 あるからそんな言葉があるのだろうけど。

「もしなっても、綾音様のことを見たら秒で好きになる自信があります」

 何気に恥ずかしいことを言っているような気が。

 あと複雑な気持ちになってくる。

 秒で好きになってくれたわけではないし。関係の構築にどれだけの時間がかかったと思っているんだ。

「無言で答えないでくださいよ。大丈夫、目が覚めてから秒で言い訳考えれたし」

「お、言ったな。言い訳人間め」

 自ら墓穴を掘った叶となぜか安心してしまった自分。

 愛してくれているならさっさと目を覚ましてくれたらよかったのに。

 何もかもを思い出せなくなったとすれば。うろたえるのは間違いなくとも、必ず一番になってやる。


「準備できた?」

「一生できません」

 家を出る時間になっても動こうとしてくれない。

 一体誰に似たのだろう。

 荷物の準備はできていても心の準備が一生できないらしい。

 そりゃそうだよな。これから家を離れてしたくもない治療をしなければならないんだから。

 私も私で感情が追いついていないまま。

 昨日はあんなに楽しかったのに。落ち度をすごく感じてしまう。

 これからどうなるんだろう。

「あ、マニキュア落とさないと」

「除光液だっけ。持ってくるよ」

 持ってくるとは言ってもどこにあるのか知らなかった。

「私の部屋の机の上」

 訊く前に答えられる。

 鈍い割には勘が鋭い。人の行動をよく見ている。

 立ち入りを許されたのをいいことに、思う存分叶の自室の空気を吸う。

 本来の目的を忘れて部屋から出そうになったけどギリセーフ。思い出した。

「ほれ」

「どうも」

 いつもなら投げて渡すところだが病人相手に、それも割れ物をなんて言語道断。ちゃんと手渡しする。

 こうやって時間がなくなって最終的にドタバタするんだろう。

 それでいい。そのほうがいい。この家で叶と一秒でも長く過ごせるのなら。

 自分も落としていいか一応尋ねてみると思った通りに却下された。

 もう少しだけ耐えろと。私の爪は桜の代理品みたいなものだ。

「お見舞いは毎日行くからさ。大丈夫だよ」

「家から離れたくないです。思い出とともに死なせてくださいよ」

 またそういうことを平気で。

 反応に困るんだよな。内容がこれだし。

「死なせないよ。どこに居ても」

 面と向かって目を合わせて。叶にとっては苦手な状況だろうけど。

 それでも求めているのはこれなんだろう。

 見捨てるわけがない。ずっと一緒に居る。

 心からそう思っていても口にしないと伝わらない。

「やっぱり嫌いになれないな、今瀬先生のこと」

 どういう意味だかは知らないが。ひとまずこの暗い空気からは逃れることができそう。

 叶を抱きしめ、二人で暮らしてきた家に一度別れを告げる。

 早く帰って来られますように。

 もちろん元気になって。


「ちゃんといい子にしてるんだよ」

「分かってますし。子ども扱いしないでください」

 病院に戻り、また病人らしくなった彼女。ある意味で適応している。

 元気になれ。病気なんてふっとばしてしまえ。なんて願ったところで。

 結局持ってきたらしい教科書と私物のノートパソコンがさっそくベッドテーブルに置かれている。

 テレビカードも先に買ってきたし暇はしばらくしないかな。いやするか。するよな。

「仕事でもするのか。そんな雰囲気だよ」

「他にやることもないですから。もう仕事じゃないけど。やりたいです」

 叶らしい。

 そう思うと思わず笑ってしまった。

 あんなに大変そうだったのに。どうすればいいのか分からないと悩んではキャパオーバーして家から飛び出したりしていたのに。

 いつの間にか成長していて、私のほうが尊敬してしまうような人になっていて。

 それでいてリスペクトの塊で。向上心の塊で。

「なにニヤついてるんですか」

 責め気味に怒られる。

 それでもやっぱり笑ってしまう。

 誰よりも彼女を見てきたのはこの私だ。それがなによりの幸せ。誰にも奪えない自慢。

「がんばり屋さんだもんね」

「バカにしてます?私が頑張ろうって思えるのはあなたが居てくれるからですよ。頑張ったら褒めてくれるから」

 それでもそう思ってくれていること、頑張ろうと思ってくれていることに嬉しいと感じてしまう。

 ならば。治療だって頑張ってほしい。

 私の隣にずっと居てほしいから。

 この子が居ない人生なんて人生と呼ぶことはできないし。

「本とか持ってくるよ。欲しいものがあれば買ってくる」

「考えておきますね、読みたいもの。自分で書いても楽しそうですけど」

 ほう、自分で書く。考えてもこなかったことだ。

 互いに文系といっても私は小説を読んできたわけではないし。本を読んでもそれは専門書のことのほうが多かった。

 そしてそれを見かけた叶が顔をしかめるという流れ。興味の有無の差。

 呪文に見えるとよく首をかしげられた。

 叶が本を買い始めたのは社会人になってからだった。本を買うための貯金までしていたくらいの真面目っぷり。

 小説だったりマニアックな本だったり。それこそどこで買ってきたのかも分からない本を手にしていることもあった。

 後者の本は買った張本人でさえも「よく分からなかった」と蔵書を増やしていた。

 そんな叶なら確かになにか書けるかもしれない。

 色んな景色を、感情を知っているもんな。

「書いたら読ませてよ」

「えー、やるとは言ってない。それになんか恥ずかしいし。気が向いたらで」

 食い気味で言われると諦めの方向に押されてしまう。

 仕方ない、書いてくれるのを気長に待とう。

 そういえば叶がまだ小さいとき。小さいというか高校生のときになにか物語を書いていた。

 というより書かせたのか、あれは。なんでか棒人間を書いていたから。物語にでもしてみたら、と提案して。

「覚えてる?棒人間の物語書いたの」

「覚えてますよ。しばらく持ち歩いてましたよね。なんでもかんでも持ちすぎなんです。あなたは」

 手紙も持ち歩いては家の中で落として。それがバレて持ち歩くのはやめろと怒られて。

 手紙は捨ててもいいけど捨てないでほしいとも云っていた。目がそう物語っていた。

 どっちも捨てるはずのないもの。もちろんあの物語だって。

 今も取ってあるのに。

「なんか全部、水の泡みたい」

 この話の流れからこれか。物語の流れだからこその詩的な言葉なのか。

 分かりたくない。

 水の泡なはずがない。

 ここまでやってきたのにこんな形で終わるなんてありえない。死ぬなんて許さない。

「水の泡って。なにも消えてないよ。消えるはずがない」

 今まで積み上げてきたものがそう簡単に。培ってきたものだって。

 慕われて、尊敬の眼差しまで受けて。

 なのに一つの単語だけで消し去ろうとする。

 彼女が望んできたものだとしても。なにもかもがそんな簡単に消えると思うな。

 握りしめた拳はどこにも行き場がなかった。

「お前には授業が必要だな、早瀬」

「何回受けても無理ですよ。私には。根気強くどうぞ」

 荷物を整理し終わり、最初はまだ明るく振る舞っていた叶の纏う雰囲気はすっかりと暗くなった。

 疲れたか。疲れるな。

 ほんの数日の間だけで変動していって。

 今までの努力も死というものだけで無になろうとする。

 感情が追いつかないからこそ諦めようとしてしまうのが叶という人。

 分かっている。分かっているからこそ。

 生きてここに居てほしい。

「それじゃ、また来るから。明日にはパジャマとか持ってくるよ」

「はい。談話室も行けたら行きますね。電話嫌いだけど」

 叶が言う行けたら行くは、行かないけど言っておこうというもの。信じるべきじゃない。

 でも期待をしておいてやろう。メールとかでもいいけれど。もっとずっと声を聞いていたい。


 また一人になった家に戻って、乾いた洗濯物を取り込む。

 夜に洗濯を回したけど、春の終わりの気温では結局乾ききらなかった。

 それにしても静かだ。なんというか、落ち着かない。

 いつもなら至るところに転がり落ちている叶が居ないとなれば。

 はー、とため息に声が乗る。

 それに反応する奴も居ない。

 叶は今なにをしているんだろう。

 教科書でも読み込んでいるのか。それとも何冊か持って行った小難しい本でも読んでいるのか。

 治療も今日からだし。緊張でもしてそう。

 何気に寂しいものだな、一人というのは。

 私が帰ってくるのが遅いとき、叶はよくペットカメラにいたずらを仕掛けたりしていた。

 またやってる、としか思ってもいなかったけど今なら気持ちが分からんでもない。

 寂しい。あまりに独りを感じる。

 彼女が高校生の頃から置いていたカメラたちも寿命が来て今は埃をかぶっている。それか捨てられた。

 一台は新しくしたけど。それもしばらくすれば帰ってきた叶の見守り役になるか。

 見ていない間に倒れられでもしたら嫌だし。

 一人言をするのも面倒になって、勝手に叶の部屋に入る。

 どことなく叶の匂いがする気がして。どこか安心してしまって。

「綾音様、勝手に部屋入ってます?」

 メッセージの通知が来たと思えばこの文面。

 なんで分かったんだろう。

 たまにこういうことがある。ルールを破って入り込んだとき、こうして連絡が入る。

 全く不思議なものだ。なんらかの特殊能力でもあるのか。

「入ってないよ。調子はどうなの」

 単調に返信を送る。

 嘘なんて吐いたことがない。だから平気。

 既読がついたと思えば「点滴引っこ抜きたい」と返ってきた。

 いやそれはいくらなんでも駄目だろ。思わずツッコミが口に出る。

 慣れない環境で苦手なものをする。それも生きるために。

 どんな言葉が彼女の心を満たしているのかは分からないけれど。

 私があげられるのは少なくとも生というものに希望を持てるような。そんな得体の知れないものだ。

「作り置きちゃんと食べてくださいね。冷凍してる肉とか魚とか調理してやってください」

 親かよ。

 口角が緩んでいるのに気が付く。

 料理な、料理。そうか。自分でやらないとだよな。

 なにを作ればいいのか分からないし。なにか作れるっていうわけでもないし。

 自分のために自分で料理をする。面倒でやってられないと思ってしまう。

 だから叶と暮らすまでコンビニ弁当と酒で生きていた。それもあまりに昔のことになってしまっていて。

 今はもう毎日コンビニ弁当というのも身体的にしんどい。

 だからといって作る気にもならない。


 叶の部屋から出て、ソファに転がっていたはずなのに目を開けると夕焼けの空が窓に映っていた。

 あー、寝ていたのか。

 疲れが溜まっていたのは自覚していたけど。

 こんな平日の夕方まで寝られる日が来るとは。

 寝起きの思考回路でスマホを持ち、二時間前と示す通知を開く。

「私のために作ってください」

 ただそれだけの文面。

 一行だけの文章。

 なのになぜかやる気が胸にひしひしと湧いてくる感覚がする。

 叶のため。

 いつか元気になった彼女に作ってやれるなら、やってみるか。

 そう思えるのはきっと彼女を愛しているから。それ以外に理由なんてない。


「焦げたんだけど」

 野菜の皮むきから手こずってすっかり遅い時間になってしまった。

 炒め物を作っただけなのに、昼寝して回復した体力までマイナスに落ち込む。

 火が強かったのかあっという間に焦げてしまった炒め物の写真を送り、焦げを一々取りながら黙々と食べ進める。

 味付けをするのも忘れて後から塩コショウを振った。

 案の定かけすぎて塩辛い。

 頑張ろうと思ってやったけど。意志と労力が釣り合わなかった。

 やっぱりネットだけで料理からあらゆる家事まで覚えたという叶はすごかったんだ。

 死にたいと思いながら、生きるために家事をする。

 とやかく言ってきたけれど叶のすごさには感嘆を漏らすしかない。

「頑張りましたね、綾音様。えらい」

 こっそり録ったらしいボイスメッセージが送られてきた。

 個室だからといって誰かに聞かれていたら恥ずかしくて無理、ということらしい。

 それはそう。

 認められると、褒められると。つい嬉しくなってまたやってみるか、と思ってしまう。

 叶が美味しいと食べてくれるように。精進するしかないかな。

 そう思いながら口に運んだ白米は硬かった。



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