第四話 大切な色
「お願いがあるんです」
慣れないご飯作りも二日目。ぼーっとしていると唐突にソファへと押しかけられた。
何事かと身構え、叶のほうを見つめる。
それを見て笑って、手を取られた。
「おそろいでマニキュア、塗りませんか」
そう言いながら手元に現れるマニキュア。
こいつこんなの持ってたっけ。
爪に色を塗ったこともなければ髪を染めたこともないような叶が。いつどこでこんなもの。
髪を染めるのは私が止めたんだったな、そういえば。せっかくの綺麗な髪が痛むのを阻止するために。
今思えば好きなようにさせてあげるべきだったのかもしれないけど。言われた通り受け止めてしまうのが叶だった。
「仕事があったらできないじゃないですか、こういうの」
ないからいいですよねの理論らしい。
いいというか。あの。
そういうものに興味を持ったことがないと言えば嘘になる。でもやってこなかった人生だし。無縁だし。
言い訳を考えているうちに塗り始められてしまった。
待てよ少しは。話を聞けよ。
「動かないでください。はみ出ちゃうので」
「ごめん。でもなんで急に」
訊いてみると一瞬手が止まり、また再開される。
なんでだろうな。そう呟いたと思えばうつむかれた。
どんな思惑があっても、私は従うしかない。
叶が家に居るのも今日で一旦終わりだ。
塗られるがまま塗られていたけど、やっと気付いた。よく見れば桜色。
どこで手に入れてきたのかはさておき。叶らしいというか。
よっぽど桜を見たかったのか。それとも罪滅ぼしなのか。
「誕生色とか色言葉っていうのもあるみたいですよ」
「誕生石みたいな?」
そうそう、と頷きながらもしっかり手元から目を離さない。
そういうなんたら言葉みたいなの好きだよな、こいつ。
好きというかどうせやるなら調べておきたい病なんだろう。
ある日は四字熟語をひたすら調べて覚えていたし。いつか役立つかも、と張り切っていた。
片手でスマホを手繰り寄せ、調べてみる。
私も私だよなこれ。つい気になってしまって。
「もの静かでも積極的な行動派って書いてあるよ。合ってるじゃん、すご」
「えー、なにそれ。でも、ある意味そうなるのか……?」
ある意味でなくてもそうなる。
もの静かな子だと思っていたら「先生、恋人になりませんか?!」と言葉を投げかけるような子だったし。
何度も何度も耳にタコができるくらい云われてきた。
いつもなら行動しないところを。ここだけはとことん積極的で。
今もそうなのがうれしい限り。
「ほら、もう片方も」
スマホを押収されてまた塗られる。
多少乾くまでなにもするな、だなんて。まあいいんだけど。
「綾音様の誕生色でも調べてあげます」
「要らないよそんなの」
塗る手を止めて、押収されたスマホをいじられる。
こう話していると病気だなんてとても思えない。
持って年内だなんて想像もできやしない。
くだらないことを本気で考えているような人が。本当に。
「新時代をつくる理想的な人。当たってるじゃないですか」
「いやどこが」
「私の人生を構築してくれた理想で詰まった人。自覚ないとか罪な女だ」
そんな真面目な顔をして言うもんじゃないし罪ってなんだし。
叶の人生をつくった、というよりともに人生をつくりあげてきたというのはそうなんだけど。
罪なのは叶のほうではないか。
恋人になってくれとせがんでおきながら死ぬ順番を間違えようとしているのだから。
「いつこんなの買ったの?」
罪もなにもない。冤罪をかけられては困る。ということで話を変えてしまう。
「三月とかには買ってたんですよ。お花見するときにでも塗ってやろうと思って」
まさかの用意周到。
そうだったのか。桜と合わせて、お揃いの色を。
「大切な色にでもなるかと思ったんですけどね」
全ての爪に色が載せられ、手元がぱっと明るくなった。
なんだか落ち着かない。こういうことをしてこなかった人生が一転してしまった。
叶が居なかったら塗ることもなかっただろうし、他にも色んなことをせずに長い人生を過ごしたことだろう。
ありがたくあり、愛しくもあり。
大切な色。特別なもの。
初めて爪を彩られた。これもきっと思い出に残る。
「大切な色だよ、もう。叶に塗ってもらって、まずこんなの初めてだし」
「ごめんね、綾音様」
感謝を伝えたつもりなのに。こいつはなにを口走っている。
目に涙を溜めながらそっぽを向かれた。
なにがあろうと私は叶を一人になんてしたくない。
「なに謝ってんの。ほら塗ってやるからさ、こっち向きな」
誰よりも怖がっているのは当の本人だ。それは分かっている。
生きたい、でもこんなことなら生きたくない。さっさと死んだほうがお互いのためだと泣きじゃくるくらいの。
聞えよがしに呟かれる。
「別れたっていいんですよ。私はあなたを幸せにすることなんてできない」
「なに言ってんの、お前は。本気でそんなこと言ってる?」
震える背中。
叶だけではない。私も震えている。
怒りに、絶望に。悲しみとはまた違うなにか。
後ろから肩を掴み、無理矢理前を向かせる。
嫌でも塗ってもらった桜色の爪が目に入ってくる。
彼女はなにを思っているのだろう。分からないからこそ、話をしないといけない。
「なんでそう思うの、叶」
手を上げてはいけない。感情に任せて怒鳴りつけるのも逆効果。
彼女に手を上げたことはない。取っ組み合いの喧嘩をしたことがあるわけでもないけど、些細なものは何度もある。
互いに生きている人間だし。
叶に手を出したらもうそれは。それこそ別れる理由になってしまう。
やっぱり同じじゃないかと言われてしまうだけだ。みんなそうだ、みんな同じだと。
愛情ではなく暴力を受けて育った叶の心はいつまで経とうと治らない。
治るものではない。
「だって、だって。死ぬかもしれないのに。これから迷惑ばかりかけてしまうし。捨てるなら今のうちですよ」
最後の言葉は聞き捨てならない。そんな話をしたいわけじゃない。
聞き出して、思いを無理にでも話させて。
どちらの思いも置き去りにならないように。踏み潰してしまわないように。
上手く行かないのが人間というもの。
「言わせてみればなんだ。死ぬかもしれない人を誰が捨てる?私はそんなことしない。何のために仕事を休んだと思ってる。叶のそばに居るためだよ」
見開かれた目から大粒の涙がいくつも零れ落ちていく。
頬を伝い、顎から手元に。首元に伝って。
死ぬ理由を探したって無駄なんだよ、叶。私が君を見放すことなんて永遠にありえない。
分かって。そう思いながら抱きしめる。
いつか居なくなってしまうかもしれない彼女を。
「生という漢字には色んな読みがある。死という漢字には一つの読みしかない」
床に座り込んだままなにを言い出すのか。
嫌がる叶の脇に手を入れ、ソファに移動させる。
当の本人が一番忘れていそうだが彼女は病人だ。
「色んな希望を持つか。一つの希望だけに縋るのか。叶はどっちを選ぶ」
途端に部屋が静かになった。
続く沈黙。
早瀬叶という人物は受け答えをするのも大の苦手な人だった。
ああ言うべきかこう言うべきかを悩んだ挙げ句に答えることを放棄する。
二者択一にしても、どれだけ選択肢を増やそうとも答えてくれない。
分かっている。だからこそ聞く。
何十年も待っている。この子からの言葉を。
「ああ、もう。怒ってくれる人が居るのは幸せなことだって、本当にその通りだ」
微かに笑みを見せ、指先で涙を拭う。
「綾音様と生きたい。生きたいです。死にたくなんかない」
意識が戻ってからの数日、入院している間に色々と考えていたらしい。
見舞いに行っても一人で過ごす時間のほうが圧倒的に長い。
よからぬことを考えて、本心ではないことを真実だと思い込むには十分すぎるくらいには。
私が不安なら叶だってそれ以上の感情を持っている。
一つの希望。それが私であったということがなによりの証拠だ。
「ほら、できた」
思ったよりも塗るのに手こずった。
やったこともないはずなのにムラもなく綺麗に塗ってくれた叶に感心する。
「ありがとうございます、綾音様。綺麗だ」
手を伸ばして彩られた爪を眺める彼女。
そんな瞬間も切り取っておきたいのが私と叶の性。
塗っている間は一言も互いに話さなかった。
無理に話しても喧嘩の延長線みたいになってしまう。頭を冷やす時間も必要だ。
「桜の写真でも見る?撮っておいたんだよ」
「見ます。見せてください」
食い気味で目を輝かせられる。
涙の跡が残ったままでも愛しい人というのはどこまでも愛おしい。
カメラロールから写真を発掘する。
本当は叶と見たかった景色。
一人ではどこか寂しかった。写真を撮っても、桜並木を見上げても。
同じ景色を見たい人が居ること。それはとても幸せなことらしい。
見せてみるとスマホごと奪い取られて何度も「いいな」と繰り返される。
そりゃそうだよな。誰よりも見たかったのは叶自身だ。
でもそれよりも嬉しいと云ってくれるのは。
「やっぱり綾音様が塗ってくれた爪のほうが綺麗です。心が晴れる」
ここ最近はいいことが全くなかった。
病気の宣告からそれほど時間が経ったわけでもないのに、どんどん制限されていく行動。
生きがいは一体どこにあるのか。
叶はそれが当たり前のように振る舞っている。受け入れるのが早いわけではなくて、諦めるのが早いだけ。
そんな彼女が少しでも明るく前向きになってくれるなら。慣れないこともしてみるものだ。
「今までの写真に落書きしてもいい?」
「いいけど。なんでまた」
自室の机から持ってこられた色ペンたちが並べられ、黙々と作業が始まる。
アルバムから適当に選ばれたものに星やらハートやら、簡単なメッセージが写真に彩られていく。
やりたいときにやってもらおう。後悔なんてしたくない。
作業の邪魔にならないように、また床に座った彼女の背中に抱きつく。
「次見返したとき、少しでも笑えたら素敵じゃないですか」
「……うん。それいつの夏のだろ、楽しそ」
次見返すとき。それはいつになるのか。
そのときにこの子はまだこの世界に居るのだろうか。
昔の写真にも手が加わり、二つの思い出が一葉ずつに詰まっていく。
寂しくないように努力してくれても。時が来れば人が変わったように崩れ落ちると思う。
未来が来るのが怖い。過去に縋っていたい。
この瞬間がずっと続いてくれたら。
「買い物なんて久しぶりですね、綾音様」
「そうだね。叶が外に出たがらないから」
少しくらい休めばいいのに。家に帰ってからも自室の整理を少しでもするだの何だのと忙しなかった。
久しぶりのデートとでもいうのか、まあそんなところ。
入院の間に必要なものの買い物をしないといけない。
パジャマ類だとか脱ぎ着しやすい服だとか。なにが必要なのか考えれば考えるほど分からなくなる。
「教科書とか持って行こうかな」
「何に使うの」
さあ、と首をかしげられる。
国語の教科書なんて普通に……いや、でも小説とか物語とかは載っているのか。それならある程度の暇つぶしにはなるかもしれない。
教職から退いて二日目の彼女。まだ教師であり続けている。
自分からやめると言い出したって、そう簡単に区切れるものではない。
「延長コードとか買って行ってもいいですか」
「分かった。入院中に必要になったものは私が持っていくから」
車椅子を押すのにも大分慣れてきた。最初は苦戦したけど。
歩きたいと叶は云うが、外でそれも長い時間となると体力が続かない。
家からしばらくは歩くという意思を尊重した。でも外で転けるのは危ない。もう昔のように若いわけでも治りが早いわけでもない。
息が切れ始めたところで問答無用。まだどこにも行っていないのに疲れ切っては困る。
リハビリも頑張らないとだな。そう声をかけると軽く悲鳴を上げられた。
脱ぎ着しやすいパジャマ類を選び、どれがいいか模索する。
基本がシンプルな人だからな。冒険が嫌いというか勇気がないんだろう。
何でも似合うのに。メイド服とか。
「これは?」
「アロハシャツなんてどこから見つけてきたんですか」
いやここにあったから。冗談半分で見せただけなのに、半分引かれている。
ろくでもないことが一番楽しい。
こうやって笑えるのもいつまで続いてくれるのか、なんて。不穏なことを考えるのはやめたほうがいい。
選び終わってうろちょろと店を周っていると叶がガチャガチャに興味を示した。
いつもこういうのやらないもんな、と思った途端に車椅子から降り立って回し始められる。
また勝手な行動を。別にいいんだけども。
「見てー、食パンが縮こまって座ってる」
「なんだそれ。いいじゃん」
ニコニコと嬉しそうな彼女。
そんな姿を見ているとこっちまで笑ってしまう。
叶の好きなところ。一緒に居ると楽しいところ、なんでも共有してくれるところ。
全種類出そうと思ったらいくらかかるんだろう、と考えている叶を連れてデートを続けた。
帰り道はスーパーに寄って食料調達。
最近は雪里に買いに行けと命じられて何度か行った。ずっと家に転がり込んでいるんだからそのくらいやれと。
でも今日は叶と一緒。あまり食材を買ってもすぐに病院に戻らないといけないから、控えめにする必要がある。
「なにか食べたいものあります?」
「すき焼き」
つい口をついて出てしまった。
長らく食べていないな、そういえば。なにを考えるでもなく答えていた。つまり、多分。食べたいということのはず。
「いいですね。しばらくやってないですし。迷惑をかけた分の償いも兼ねましょうか、私の奢りで」
兼ねなくてもよかったんだけど。謝る必要も別にない。
気付けなかった私にも責任がある。
気付いたところでいい方向に転がれたかと言うと。それは神のみぞ知ることだ。
「紅芋タルトありますよ、それにラム酒風味のやつも。パンケーキもある」
叶が言うなら仕方ないよな。食べたいわけじゃないけど目を引かれる。決して食べたいわけでは。
「目が物語ってますよ、綾音様」
気付けば買い物カゴに三種類とも入れていた。食後のデザートとでも行こう。
叶には昔から餌付けされてきた。されてきた自覚はある。いつもストックされていたし、なにかあれば反省の代わりにお菓子が買い与えられたりして。
おかげで多少肉がついたような気もする。でも彼女からはどこも変わらないじゃないかと云われる。
それならそうなんだろう。思い込みというのは何気に大切なことだ。
「料理も買い物も頑張ってるって聞いてます。ご褒美はちゃんとあげないとですね」
雪里がそんなことを?そんなバカな。
疑っても意味はない。叶がそう教えてくれたんだから素直に受け取るべきなんだろう。
でも嫌だな、なんか。
「お酒買っていいですよね」
「え。え?いいのか酒なんて」
しばらく飲めなさそうだからとカゴにドスッと入れられた芋焼酎。
まさかのセレクトこれかよ。正気なのか。
一晩で飲みきれるものにするものだと思ったのに。缶ビールとか缶チューハイとかそういうのを。
「雪里先生とでも飲んでください」
「飲み切らない前提で言うな」
そんなこんなで重たくなってしまった買い物たち。
自由奔放な彼女を止めることもできずに帰り道を歩いた。
豪華な夕食を終え、お酒を嗜み。
買ってきたパジャマ類のタグを黙々と切って試着兼ねてのファッションショーを開く。
「洋服でもあるまいに。私だってもう子どもじゃないんですよ」
「いいじゃん。せっかくなんだから」
これから嫌でも目に入るのに、と愚痴をこぼされながらのショータイム。
今から洗濯をしても朝までには乾かないだろう。また別日にでも持っていくか。
叶が家に居てくれるのが当たり前だったのにな。そうはいかなくなってしまうのが悲しいというか寂しいというか。
いつまでも一緒に居るものだと思っていた。
「ほら、食べましょう」
買ってこられたタルトたちがソファ前の小さなテーブルに置かれる。
それなら。
「マスターのコーヒーが飲みたいな」
「誰がマスターですか。私は昔のバイトですよ、失礼です」
叶が淹れてくれるコーヒーは一級品。
喫茶店でバイトをしていた彼女。
毎日のように店主の指導の下で練習して帰ってきていたのも懐かしい思い出。
かつての店主と遜色ないほどなのに、謙遜される。なにを言おうと受け継がれてきた味だ。
「ありがとう、色々と」
「そんな顔しなくていいんだよ。生きてくれてるならなんだって」
淹れられたコーヒーと戦利品を前にして他愛もない話を交わした。
生きていてくれてありがとう、叶。
この先もずっとそばに居て。他愛もない話を交わそう。




