第二話 流れる雲
叶の居ない日々。
なんで雪里が代わりに居るんだろう。なんて思ったけどここはこいつの家だった。
叶の意識が戻らないまま一週間以上が経過した。
もう二度と目を覚ましてくれないんじゃないか。そんな思考が脳裏によぎる。
その度にその思考を打ち消して平静を取り戻す。
叶の居ない家に居ることが嫌で、荷物を持って雪里の家に転がり込んだのも最近の話。
仕事から帰ってきた人を無視して思い出に浸る。
「今日はどう?」
「もう目を覚ましてもいい頃だけど、って」
起きたら早瀬に怒られるぞ、と言われながらこの人の家の床に転がっている。
転がり込むにしても本当に転がるんじゃない、と邪魔そうにされながら過ごす。
叶が倒れた翌日から動いて、なんとか休職まで持ち込めた。非常勤でも、と言われたけど。叶との時間のほうが大切だし。
もうこのまま早期退職でもいいような気がしている。
本当に居なくなる日が来るなら、それこそもう私は動けなくなる。働くことなんてできない。
きっとふとした時に泣き崩れて、仕事なんて手につかなくなる。
そんなことを言えばきっと叶に泣かれるだろうけど。泣かせたのはそっちだし。
先生みたいな先生になりたい。そう云ってくれたのは彼女だったからな。
「明日休みだから一緒に見舞い行くよ」
「そう。ありがとね」
毎日のように眠っている叶に会いに行っている。
元から細い体だけれど、余計に細くなっているような気がする。
最初の数日間は頭に包帯も巻かれていた。管だらけの状態でもあった。
今は状態が落ち着いたのか、ただ眠っているだけのように見える。
変わり果てたとでも言うべき姿にはじめに見たときはたじろいだ。
意識が戻らないのは過労からのものだろう、と医者は云っていた。
確かにここ最近は働き詰めだったし。無理がたたるのも頷ける。
早く起きてくれたらな。
話をしたい。雪里に料理教室を開かれていることとか。
桜が綺麗だった、って伝えられたら。
写真も撮ったけれど、逆に悪影響を及ぼしそうな気もする。なんで一人で行ったんだって。
いやお前が倒れたからだし。
一緒にお花見しようと笑って居たのは叶のほうじゃないか。
口に出さずにひとりごとをするのも徐々に面倒になっていく。面倒というよりは空虚になってしまう。
これからも叶と生きていくためにも、できることはやっておこう。
「ほら行くよ」
「待ってよ。心の準備が」
毎日行っても心の準備ができていない。
意識が戻ってくれたら。病気なんてなければ。早く家に帰れたら。
そんなことばかり考えて、現実はそうはならなくて。勝手に期待して裏切られている。
重い足取りで雪里の家から出て、車に乗せてもらう。
話す内容もこれといってなくなった。こいつの仕事の愚痴くらいだ、聞いているのは。
「それにしても聞いてよ、綾音がいつまで経ってもそっけなくて」
「お前が元気すぎるだけ。静かにしろ」
運転してもらいながら酷い言い方かもしれない。
理由を正当化しなくても雪里はそれが当たり前かのようになにかを醸し出す。
感情を言葉にしなくても分かってしまうくらいの関係性。思えば随分と長い付き合いになった。
叶の病室の近くまで来ると、いつもより騒がしいことに気付いた。
部屋を覗いてみればバタバタと医者と看護師が出入りしている。
「あ、あの。一体なにが」
「意識戻りましたよ。声をかけてあげてください」
意識が戻った。
目が覚めたのか。
雪里に顔を向けると同じ心情に居るようだった。
もちろん嬉しさが感情の九割を占めている。
それに同居するのは怖さとでもいうのか。なんというか。
声をかけろと言っても、それこそもう一週間も話していない。
今までどうやって話してたっけ。色々と考えながら叶の元まで歩く。
虚ろな表情の彼女。生気がない。青白い肌が今にも消えそうな結晶のように見える。
望みに望んできたのに。この子は今なにを思っているんだろう。思えているのだろうか。
雪里に背中を押され、意を決して声をかける。
できるだけ優しく。変なことを考えないように。
「叶、分かる?私だよ」
こちらに向いた顔。
まだ認識できていないのか、表情は一つも変わらない。
数十秒経って、ようやく瞳に生気が宿った。
そして慌てたようになにか話そうとする。
目線を合わせやすいようにしゃがみ、耳を傾ける。
「……あやねさま?あやねさま」
かすれた声で弱々しく。それでも必死で名前を呼んでくれる。
私からも名前を呼んでやる。
久しぶりに叶の声を聞けた。
生きている。生きてくれている。それが何よりも嬉しい。怖さなんてどこかに消え去った。
思わず涙が込み上げてくる。
人目も気にせず、胸に泣きついてしまった。
もう目を覚ましてくれないかと思った。もう話せないかと思った。
今までにない恐怖を味わったんだ、少しくらい泣かせてほしい。
困ったように頭を優しく撫でてくれる。おぼつかない手は冷たいけれど、あたたかい。
顔を上げると温かい目とでも言うのか、そんな視線を周囲から浴びせられていたことに気付いた。
後ろを振り向けば雪里も。とんだ恥晒しに顔を下げる。
ベッドの背を上げられ、久しぶりに座った叶はまるでお人形のようだった。
「早瀬さん、しばらく経ったらまた来ますね」
無理はさせないこと、とだけ伝えられて部屋には三人が残った。
状況をどこまで理解できているのかも分からない。
自分が死ぬかもしれないなんてこともこの子はまだ知らない。
事実は嫌でもいつか伝えられるはずだ。今日中にでも。
死にたがりの彼女はなにを思うのか。流石に病院から飛び出したりはしないだろうが。
「早瀬ー、見舞いに来たぞ」
「……ゆきさとせんせい」
大分表情がほどけてきた。
寝すぎだ、と雪里がからかう。
眠っていた期間を伝えると青ざめてしまった。
今いつですか、と慌てて聞くあたりなにも変わってはいなさそうだ。よかった。
「覚えてる?倒れたときのこと」
ベッド脇に椅子を置いて座る。
まだどこか虚ろで目の焦点もなかなか合わない。
言い訳を考えているだけか、こいつ。そう思うとそんな気がしてきた。
本当のことを語るしかないと腹を決めたのか、申し訳なさそうに言葉が並べられていく。
「階段……登ってた。目の前が真っ暗になって、そのまま」
加瀬という人が言っていた通り、階段を登っていたときに意識が途切れたらしい。
話しながらチラチラとこっちを見てくる。やっぱり言い訳を考えているな。仕方のないやつだ。
起きた途端にそんなあれこれ考える必要なんてないのに。
変わらないな、ずっと。なにを言うべきなのか迷っていそうだ。謝るべきなのか、なにも言わないべきなのか。
「怒らないよ」手を握ってそう言ってみると、少しだけ微笑んでくれた。
なにがともあれ無事に目が覚めてよかった、ほんと。
「早瀬が倒れてからこいつずっと泣いてたんだからな。うちに転がってくるし」
なにを勝手に言ってんだこのバカタレは。怒られるじゃん。
「転がり、って。まさか」
たどたどしくも話してくれてたのに。なんか目つき変わったしこの子。目で怒られている。そんなまさか。
「まあそう怒るな。なにもしてない。こいつは泣くか寝てるだけだ」
「余計に安心できませんよ」
安堵したような表情を一瞬見せたと思えばやっぱり怒っている。
転がり込んでおきながらなにもしていないなんて駄目だ、とでも言っているような。
勝手に開かれる料理教室に強制的に参加させられていることも知らないくせに。怒るなし。
「でも料理は教えてるよ。なにもできないんじゃこの先不安だから」
「不安ってなんだ。やるときはやるよ、多分」
言い争いもいつものこと。どうでもいいことで争ってしまっている自覚はある。
またやってると言わんばかりの諦観の視線に気付き、口を結ぶ。
ここは病院だ。家じゃない。こういう行動はいい加減慎まないと。
全部雪里のせいだ。
曇っていく表情に気付いたとき、叶は口を開いた。
「ところで、いつ帰れるんですか」
目が覚めたばかりなのにもうそれか。
病気じゃなくても少しくらい休んだほうがいいのに。過労で倒れたのだし、いくら意識を失っていた期間が長いとはいえ身体にも堪えているはずだ。
真面目というか。一体誰に似たんだろう。元からこの子はそういう子だけど。
「まだしばらく入院だよ、叶」
この一言でなにか悟ったようだった。
そうですか、と俯いて数分。
なにを考えているのかこっちが察せられない。
雪里の様子を伺ってみても私と同じ面持ち。
病気だと言ったわけでもないのに。治らないなんて言ったわけでもなしに。
「それじゃ、早めに退かないとですね」
沈黙を破ったのは当の叶だった。
どこまで先読みするつもりだ。しすぎだろう。
ずっと体調が悪かったからそんなに早く踏ん切りがつくのか。
なにもかもを倒れる前から知っていたのか。
「なにも言ってないのにそんなこと言うな。なに、ずっとしんどかったの?」
「いえ、しんどいなんて別に。ただお二人の表情とか、看護師さんたちとか見てると」
そういうところだけ勘がいいんだよなこいつは。いつも鈍いのに。鈍いからこうなるまで気付かなかったんだよな。
憎みたくても憎めないのだから。
「過労だよ。何にしろ休むのが先だ」
嘘をついているわけじゃない。なのになんでこんなに心が酷く締め付けられる。
暗くなってきた雰囲気を切り上げ、いかに料理が下手かを雪里が演説しだす。
叶も叶で微かに笑って頷いてるんじゃないよ、もう。なにしにきたのか分からない。
恥晒し大会にでも来たのか。
包丁を持つところから怖いし。包丁を持ったままこっち向いてくるし。切ってもらおうとしたら武士みたいに包丁を振り下ろそうとするし、と。
全部バラす必要なんてないだろう。
それに雪里の前でだからこそ真面目にやりたくない。負けた気がする。
「この人はそういう人なんです。もう少しだけ付き合ってあげてください、習得は早いはずだから」
ディスられているのか何なのか。
頑張っていることは褒めてもらえた。
なぜか雪里にまで感謝を述べている彼女。
お世話になります、なんて一々言わなくていいんだよ。
時間が経つのは早いもので、面会の時間も終盤戦。
戸をノックされ、現れた看護師に耳打ちされる。
「すみません、後で説明を」
分かりました、と答えると叶にまた察された。
動揺を隠しきれずに目を逸らす。
これでは答え合わせをしているようなもの。
じゃあ先に車で待ってる、と雪里は足早に病室から去って行った。
久しぶりの二人の空間。
いつもの冷たい手を握り、もう片方で手の甲をさする。
「目が覚めてよかったよ。心配したんだからね」
「ごめんなさい。でも綾音様じゃなくてよかった」
自己犠牲はやめろといつも言っているのに。またそういうことを。
私からすれば逆だったらよかったのに案件だ。ただ、これもまた論争になりそうなのでやめておく。
口に出したら面倒になってしまう。殴り合いまではしなくても、言葉で傷を抉り合って互いに傷付く。
そういうことを何度も経験してきた。
叶が叶を陥れる度に傷を負う。あなたは別だと言われても。誰の尊厳も守れていない。
「夢をみました。フォトウェディングのあの日を」
「それは随分呑気な話だね。こちとら心配で寝れやしなかったのに」
冗談めかして言ってみると眉をひそめられた。
困らせたか。やっぱり。
反論くらいしてもいいのにその言葉がまず浮かんでこないような優しい人。
ごめんなさいと不服そうに呟くくらいに不器用な人。
フォトウェディングな。
確かにあの日は私にとっても思い出の、思い入れのある日だ。
正式に結婚することはできなくても、誰にも受け入れられなかったとしても。私たちがそれでいいなら、もういいやと思って。
フォトウェディングを提案したのは私からだった。
先生、恋人になりませんか?!と云われたあの日を再現しようとしていた日に。
再現しようと提案したのも自分だった。
「はしゃいでましたもんね、綾音様。なんか子どもみたいで。先生の過去を見れてるみたいでうれしかったな」
「そうか?そんなことないだろ。叶なんて最初緊張しすぎて人形と化してたし」
カッチコチに固まっていたお人形こと早瀬叶。
つついたらそのまま横に倒れてしまうかと思ったほど。
楽しかったな。昔は昔でよかった。
すっかり身も心も大人になった早瀬。
自分自身を誇れと云われても。誇りたいのは叶のことばかり。
好きなのも守りたいのも全部。
「目が覚めたら知らない天井だし、体は動かないしで。どうなってんだって思いました」
「言い訳も考えて、か」
図星を指された叶の表情というのはどうも面白い。
また慌てて言い訳を考えようとする。
意識もはっきりしてきた様子。
よかった。生きていてくれて。本当によかった。
「抱っこして」
「甘えたさんだね。いいよ、いくらでも。引っ付いてていいから」
不安混じりの声に乱される心。
少しずつ戻っていく体温を感じながらあたためてやる。
服を鷲掴みにされて何分経っただろう。見えていた雲が窓の向こうへと流れていく。
車椅子に乗せられた叶とともに、病状と怪我の状態を聞きに行く。
さっきとは打って変わって不安そうな様子もみせない彼女に胸をかき乱される。
もう諦めてるじゃん、早いよ。まだなにも聞いてないのに。
「何でも話してくれていいんだからね」
「お花見したかったです」
思っていた返答とは違ったけれど、これも叶の本心そのものだ。
不安よりも後悔というか、ないものに思いを焦がしているのがこの子らしくもある。
私のほうがずっと不安だし怖がっているらしい。
老後の話をしたときに、すごい剣幕で睨まれた理由も今ならやっと分かる。
そうだよな。そうだ。
私たちにとって、先に死なれるなんてありえないんだ。
人は一人では生きられないと言ったって。どちらかが欠ければ海の底へと真っ逆さま。
「検査の結果ですが――」
前に聞いた通り、助かる見込みは少ないらしい。よくて年内生きられるかどうか。
彼女の様子を伺ってみると、青ざめるどころか口角が上がっていた。
嬉しそう、というか。喜んでいるように見える。
もう叶を救うことはできない。
川に飛び込んだ石の如く、動揺は水輪を描いていくと同時に沈んでいく。
ずっと望んできた死というものが手に入ることを喜んでいるんだ。
違うと否定されたってそうは思えない。
握りしめた拳が震える。
治療はどうするか。そんな話に突入する。
延命治療はまた話し合えたら。そう云われた。
少しでも望みがあるのなら、私はしてほしい。生きてほしい。でも苦しむのは叶だ。
「話し合って決めてもらっても大丈夫ですので」
「一通りの治療はします、でもそれ以上はしません。そういう、なんというか。延命とかは嫌なので」
治療まで投げ出すのかと思っていたからそこはとりあえず。
こっちを見向きもせずに食い気味で答えられてしまった。
決めるのは叶自身だし。口出ししたところでこの子の意思が揺らぐことはない。
すっかり大人になってしまったね、早瀬。
あんなに物怖じしていたのに。たくましくなってくれたものだ。
「じゃあ叶、なにかあったら連絡してね」
「はい。暇になったらスタンプでも連打します」
それはやめろ、と笑って私だけ病院を出た。
叶と居られる時間なんてないに等しい。
これからはもっと少なくなる、何ならなくなってしまう。
久しぶりに叶と話せた。笑っている姿を見ることができた。
もう二度と、なんていう悪夢は一旦幕を下ろす。
それなのにどうしようもない寂寥感に襲われる。
遠い場所に行ってしまったように感じながら、雪里の待つ駐車場まで行った。
なにもかもが嘘であればいいのに。
不死身になれと、五百歳まで生きてくれと云っていたのは叶のほうなのに。
バカが。




