第一話 いつも通りの
いつも通りの朝。
寝起きの悪い彼女の体を揺すって起こす。
「叶、起きて。朝だよ」
「あと百時間待ってください」
待てるか。
頭まで布団を被り直す叶の上で馬乗りになる。
意地でも掛け布団を手放そうとしない彼女との一騎打ちが始まった。
朝の五時からなにをしているんだか。
多少寝坊しても問題はない時間に目覚ましを一度鳴らしている。
スヌーズ機能に頼りっぱなしになるのだけは嫌で。できるだけ一発で起きたいところ。だけど叶はそうはいかない。
まず寝付きが悪いからな、この人。寝られずにベランダで風に当たっていることも多い。そして朝は起きない。
「いい加減起きて」
「抱っこしてください。じゃないと起きません」
何とか起き上がらせ、ベッドに座らせることに成功した。
抱っこを要求されるのもいつものこと。
どこまでも仕方のない人。座ってからも眠っている。
要求に応えているようで自分も自分でどこか甘えていて。仕方がないのはどっちなんだろう、とたまに考えたりする。
今日も今日とて長い一日が始まるらしい。何事もなければいいけれど。
「はい、終わり。顔洗ってきな」
「あー、もう一日終わってほしい。夜になってほしい」
朝っぱらからなにを言っているんだこいつは。
カーテンを開け放ち、窓を開ける。
春の始まりといっても朝はまだ寒い。
はー、酒でも飲みたい。
これでは叶と同じようなことを思ってしまっている。
顔を洗い、身支度をする。半分寝たまま、もう半分は少し寝たまま。
やっぱり寝たいものは寝たい。
どこか行きたいな。旅行とか。
叶は面倒くさがるだろうけど、たまにはどこか気晴らしにでも連れていきたいところ。
逃避行という言葉を使えばついてくるかな。
「先生、恋人になりませんか」
「朝からなんだ。もう恋人だろ、ってなに言わせてんだよ」
ツボにでもハマったのか、爆笑をぶちかましながら朝ごはんを作っていく彼女。
全く。恋人になって何年経っただろう。もう数えることも面倒になるほど時が経った。
黒歴史だと言っておきながらいつまでもこういうことを息をするように云ってくるし。
いつもの様に食パンはトースターで焼かれ、昨日の夜のあまりのサラダを提供される。あとスープも。
「またご飯食べないつもりか」
「サラダでも食べたら満足してくれるんですか?」
私にはご飯を提供してくれるのに自分にはなぜか節制を強いる恋人。
これもいつものこと。朝に食べると具合が悪くなるらしい。
それはまあ仕方ない。ただ放って置くと何日も食べることをやめようとしてしまうのが問題で。
食べるのも面倒だと。寝ていたいんだと。
「綾音様には元気で居てもらわないと困りますし」
そう思うなら自分の健康にも少しは気を配ったらどうだ。
長年注意してきているけど改善はいつまで経っても見られない。諦めたら駄目なことだしな。
注意されるほうが面倒だと思うんだが。彼女が一番手の焼ける生徒だ。
どこまで尽くそうと叶の心は穴の空いたザルみたいなもの。
だからどれだけ尽くそうと言葉をかけようと流れ去って消えてしまう。
穴を埋めるにはどうすればいいのか。これでも埋まってきたほうなんだろうけど。
最初の頃は本当に。ここまでしてもこうも人というのは変わらないものなのかと落胆したりしていた。
学校で授業をするより、生徒指導をするより。どんな理不尽なことよりも、彼女と向き合い続けるほうが骨が折れた。
「今日は早く帰れるようにします」
「いつでも早く帰ってきていいんだよ。どこで仕事しても変わんないだから」
私も今日は会議とかあるけど。できるだけ早く帰ろう。
春休みくらい五時起きじゃなくてもいいじゃないかとソファに項垂れる叶を横目に、隣でテレビをつける。
それもそうだけど。それだと休み明けがしんどくなるのが目に見えている。
ぐうたら過ごした短い休日の後を思い出す。
ベッドにしがみついて離れず、家を出る時間になっても玄関前の壁にへばりついて離れようとしなかった彼女。
先生とは思えない子どもの姿を散々この目と耳に焼いてきた。
これといったニュースもなく、録画したままのものたちを少しだけ再生する。
「いつもありがと、せんせ」
「なに。熱でもあんのか」
酷いとしばかれても問題はない。
たまにクリティカルヒットしてくるのはやめてほしいけど。本当に痛いんだからな。
気のせいだと顔を隠されてはどうしようもない。ただ眠いだけだとまたしばかれる。
のんびりと過ごせる朝はいい。
ソファから転がり落ちて洗濯物を干していく彼女。いつも思うけど真面目だ。
私なら帰ってから干すかもしれないし干さないかもしれないのに。まず洗濯機を回さないし。
「土日のどっちかはお花見しましょうね」
「夜桜でもいいよな。お酒飲みたい」
途中まで一緒に通勤できるのもまたいい。行きたくなくても腕を引っ張ってくれる人が居る。
桜か。もうそんな季節なんだな。出会いと別れの季節。
移ろっていくのは季節だけではない。
なんて、柄にもないことを考えながら歩く。
「あなたと出会えてよかった」
「本当にどうした。やっぱり熱でも」
やけに感傷的な叶。
頭でも打ったのか。ただ単に春だからこうなっているだけなのか。
忙しない日々の幕開けであるのは確かだ。生徒の名前を覚えるのもまた大変なこと。
「それじゃ、また夜に」
「気を付けてな」
手を振り、背中を見送る。
今日も頑張るか。帰ったら叶を注入しよう。
「今瀬先生、お電話です」
「分かりました」
いつも通りに電話に出ただけ。
それなのにこの一瞬で世界が変わってしまった。
「早瀬先生のご家族様でしょうか」
「え、ああ。はい」
緊迫した声色。
何の電話かも分からない私にまで緊張が伝わってくる。
早瀬?叶になにかあったのか。
いたずらか。いたずらにしては緊張感がすごくある。いや、学校にいたずら電話をかけるほど馬鹿な人は居ないだろうが。
それに先生と敬称がついているのでは。
「早瀬先生が階段で倒れられて」
「は?どういうことですか」
言葉が荒くなり、周りの視線が集まる。
「救急車は呼びました。今病院に。でも意識がなくて……」
それからはよく覚えていない。
しばらく受話器を持ったまま呆然としていた。
叶が倒れた?
朝は元気そうだったのに。
いつも通りに会話を交わしながら家を出た。
なにか変わった様子はなかったか?
しんどそうだったとか、顔色が悪かったとか。
特段悪そうではなかった。なのになんで。
いつもより感傷的だったのは体調不良を隠していたからなのか。
そういうわけでもなさそうだった。ならなんで。
定時になってすぐ、伝えられた病院へ走る。
すぐに行けよ、と自分でも思うけど。
すぐに行ける状態であればよかった。よかったけれど。
世の中そう上手くもいかない。
こういうときに限って忙しくて。抜けることもできなくて。
定時で帰れるように詰めに詰め込んだ。
叶の無事を祈るばかり。
まだ少女だった叶が電車に飛び込もうとした、という知らせを受け取ったときは急いで駆けつけたのに。
あのときはまだ校門を開ける前だったから。朝礼の最中だったこともあって、許可をすぐに求めて抜けた。
だとしても、一人にしてしまって申し訳ない。ごめん、叶。
「早瀬叶の家族なんですが」
最寄り駅に着いてから全速力で走った。
今までで一番を争うほどの全力。
叶が倒れるのはこれが初めてではない、昔にもあった。
そのときは脱水だけだった。だから、それくらいで済んでくれていればと思っていた。
「検査も一通り終わったところなので。まだ断言はできませんが」
叶を一目見る間もなく部屋に通され、説明を受ける。
どことなく漂う緊張感。それに混ざる嫌な予感。
「とりあえず今の状態は落ち着いています。過労からのものでしょう」
一つの安心を覚えたとき、ですが、と付け加えられた。
過労で倒れたおかげで見つかった、と言っていいのかはあれだが。発覚したのが今でよかった。そうは言っても病状は思わしくないと。
「年内持てばいいほうだと思っておいてください。今から治療を始めても、来年まで持つかどうか」
息が止まる。
時間が止まってしまったような感覚。
年内って。なにそれ。
今までずっと一緒に居た人が。そんなまさか。
きっと悪い夢だろう。きっとそのはず。それか今言われていることが全部デタラメなんだ。
受け止めようとしない心。理解できない頭。
ただの過労じゃなかったということは。
「……死ぬって、ことですか」
「治療をしても数カ月後には延命治療をどうするか、という話になるかもしれません。そう覚悟しておいていただけると」
なんで、なんで叶が。
なにがあったらそんなことになるんだ。
生きることを選んでくれたあの子が。どうして。
そんなのおかしい。私よりも先に死ぬなんて、どうかしている。
視界が歪み、息が荒くなる。
これからもずっと一緒に居るものだと疑ってもこなかった。
桜を見ようと約束した。旅行にでも行きたいと思った。
それなのになんで。
「自覚症状も多少はあったと思うのですが」
「そんなの一言も言っていませんでした。元気、でした」
元気といってもな。あの子はいつもどこかしらの体調が悪かったから。精神的にも、もちろん体も。
そのせいで発覚するのが遅くなって。こうなっていて。
しんどいのが当たり前だと思っている子。
これで元気じゃないなら元気な日なんてありません、と言い切るくらいの筋金入りの。
冷静に今までを思い出す自分と、動転したままの自分が同居する。
「一応の確認なのですが……あの体の傷は」
いかにも倒れたときにできたものではない傷。
誰が見てもそう聞くであろうもの。
「あの子、幼い頃に虐待されていたんです。それで私が親代わりを」
ああ、という顔をしてパソコンに視線を移す医者。
咄嗟に親代わりなんて言ったけれど。間違ってはないんだが。
こういう場面はそういうことにしておいたほうがいいかな。恋人といっても結婚しているわけじゃないし。
冷静に考えられることと、られないこと。この差は一体どこから生まれるんだろう。
命が関わるか否か、か。
「叶に会うことはできますか」
「まだ意識も戻っていませんし、面会の時間はもう終わりですので。また明日来てもらえると」
いつも通りの朝から一転しすぎだ。
また夜に、って言ったのに。無理するなって言ってくれたのに。なんで。
「階段で倒れられたこともあって頭を打った可能性があります。検査では異常はなかったのですが。意識が戻ったらご連絡します」
説明を聞いても何の実感も湧かない。現実が見えてこない。
そうだ、雪里に連絡しないと。
私だけではどうにもならない。一人になりたくない。
叶は一人なのに。
診察室から出ると、慌てた様子で一人駆け寄ってきた。
空っぽに近い頭では誰なんだろうとも考えられない。誰何する気も起きない。
茫然自失の状態を無視して訊かれる。
「あ、あの早瀬先生のご家族様ですよね。あの、状態は」
「失礼ですが、あなたは?」
こっちもこっちで向こうも向こう。
互いに焦っている。
「失礼しました、加瀬と申します。早瀬先生と階段を上がっていて、そのときに」
大方の情報を掴めたところで警戒心も下がっていく。
叶が倒れたときに一緒に居た人物。私に連絡をくれたのもこの人だろう。
電話を受けたときはかなり動転していたけど。声色は同じだ。
同じように仕事が終わってから駆けつけたらしい。
すっと息を吸い込み、切り替える。
「いらしてくれてありがとうございます。ただ――」
医者に伝えられたことをそのまま口にする。
話しているだけなのになにかが込み上がる。
死ぬかもしれない。そんな言葉を口にするのは気が引ける。
死なないかもしれない。まだ結果がちゃんと出たわけではない。
「そう、ですか。明日の朝には上に伝えておきます」
叶が教師になって二十年あまり。それなりに培ってきたものがある。
加瀬という人を見ていると随分と信頼されているようだ。
「こんなことになるまでは普通に話してたんです。受け身を取る前に階段から」
その場に誰かが居てくれてよかった。
もし一人で倒れていたら。
誰かが見つけたときには時すでに遅し、じゃなくてよかった。
「今日はゆっくり休んでください。ご心配をおかけして申し訳ない」
「いえ、私がもっと早く気付いていれば。よく頼らせてもらっていたのに。申し訳ありません」
しばらく話をし、見送る。
目の前で人が倒れるというだけでも相当なショックだったはずだ。ゆっくり休んでほしい。
一人になるとまたどこか心細くなる。
叶が望んできたもの。それが眼前に現れる。
死ぬなと言っても。治らないものでは手のうちようがない。
入院の手続きやら諸々に時間を取られている間に雪里が病院に着いた。
知っている顔があるだけで人はこうも安心するものなのか。
「綾音、大丈夫?」
「どうしよう、叶が。叶が」
落ち着け、と背中を撫でられる。
なんでなのか、この人を見た瞬間に張り詰めていた緊張が一気に鈍化した。
泣きついても状況は変わってくれない。
雪里にしがみついたまま、しばらく離れられなかった。
もう夜になった。電話を受けて随分経つのに、まだ目を覚ましてくれない。
「早瀬が心配なのは分かる。私だって急いで来るくらいには心配なんだ。でも綾音まで倒れたら元も子もないでしょ」
どうにかして病院に居座りたかった。
叶がいつ起きてもすぐに駆けつけられるように。
何度もそう言った。気持ちは分かるけど、と咎められてしまった。
雪里のおかげで家まで連れて帰られた。言われた通り面会はできないしもう遅いんだから、と。
あの子は病院なのに。
空になっていく思考回路が気味悪く感じる。
「とりあえず晩飯食いな。今日は泊まっていく」
気付いたら勝手に上がり込まれていた。
それに冷蔵庫にあったもので晩ごはんを作られていた。
あとなんだ、泊まっていくって。
まあ今日は許してやろう。口にはしたくないけど、一人では心細い。
無心で食べ進める晩ごはん。
叶が作るものよりなんというか。優しくない。味が濃い?なんだろう。不味くはないけど。
料理ができないからあまり人のことを言えないし言う立場にない。
叶のがいい。
「それで、早瀬はどうなんだ」
叶が倒れたとしかメールでは伝えていない。
私は私で結局こいつに頼ってしまっている。
頼れる人なんてそう居ない。叶との関係を知っているのもこいつくらいだし。
もう隠さなくたっていいのだろうが。言いにくすぎるし機会もない。自分はともかく叶を侮辱されるのは嫌。
隠すのは何気に大変で辛くもある。
だから雪里は本当に。大切にするべき人なんだ。
分かっていても、ぶっきらぼうになる。この人なら大丈夫だという甘えもどこかにある。
「倒れたのは過労からだろうって」
ああ、という納得の空気。
私だってそう思ってしまった。
最初は。
「長くて年内だって」
押し殺した声と感情を表に出さないように気を張る元同僚。
そこまで気を使わなくても。私は医者に本当に治らないのかと詰め寄ったのに。
「なにかの間違いじゃないの。だって元気ではあったじゃん」
「そう思うよ。思ってる。思いたい」
食べながらする話でもない。声を上ずらせながら、茶碗をことんと置いた。
この三人で集まったのも最近のこと。
家出と称して泊まりに来られた。そのときも全く、普段と同じだった。
また黙々と食べながら考える。
いつも目の前に居る叶が居ない。半分寝ながらご飯を作ってくれる叶が居ない。
甘えながら今日あったことを話してもくれない。
疲れたから充電させろと抱っこをねだってくることもない。
彼女が居るのが当たり前なのに。あまりに突然のこと過ぎて受け入れられない。
受け入れられる日なんて来るのだろうか。
「綾音はどうするの。早瀬はもう教職には戻れないんでしょ」
後者の言葉ではっとした。
そうか、もう戻れないのか。
戻ったとしても年度最後まで居ることはできない。
そうだよな。そうなるのか。考えたこともなかった。叶が居なくなるなんて。
「叶のそばに居たい、しばらく休みたい。代わり居るか分かんないけど」
年度替わりで異動の時期で。そこから代わりを探すのも大変な話。
でも叶の代わりよりはたくさん居る。
叶の代わりなんて居ないから。どこを探したって居ない。私の愛している人は一人だけ。
「一緒に居てあげな。早瀬もそのほうが安心するだろうし」
「うん。早く目が覚めてくれたらいいんだけど」
その日は雪里をソファで寝かし、私は叶の居ない寝室で寝た。
行事とかがあれば一人で過ごして寝ることも稀にあったけれど、今日は一段と孤独を感じる。
電話もできない。声も聞けない。
朝に見た姿で最後なんだ。当たり前に寂しい。
彼女の匂いの残る枕に顔を埋め、涙を溜める。
倒れるなんて思ってもみなかった。いつも通りにくだらない会話を交わした朝を思い出す。
笑い合えたのがあれで最後だとしたら。
そんなの嫌だ。ありえない。
早く帰ってきてよ、叶。
私は君しか居ないんだ。




