表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星野と水島  作者: 青砥緑
1. 再会
9/24

1-9.

「先月の電気代が大変なことになってた」

 ある朝、星野の家のダイニングで水島が言い出したときに、星野が真っ先に考えたのはもはや家主が滅多に帰らなくなった水島の家で何か電気製品がつけっぱなしになっていたことだ。

「ほとんど基本料金だけだった。そんなん初めて見た」

「ああ、そっち。良かったじゃないですか。ほぼ住んでないんだから当たり前ですけど」

「お前の方は絶対増えてるだろ。そういうの言ってくれよ。適当に金額決めてくれたら毎月入れるから」

「そうですね……ずっといるなら、ルールにした方がいいか。定額の方が都合がいいですか?」

 星野は残りご飯を適当に丸めただけのおにぎりをラップで握り直しながら尋ねた。昨夜のおかずを芯に入れたら途中で崩れだしたらしい。

「いや、季節の波があるやつは割合決める方がいんじゃねえの。家賃とかは定額でいいけどさ」

 水島はコーヒーでパンを飲み下した。もしもマッチングアプリに登録するのだとすれば、どちらも胸を張れるような稼ぎではない。それでも贅沢をしなければ男二人それなりに暮らしていける。少なくとも水島が星野に養ってもらう必要はない。これまで星野が入り浸る自分に家計にまつわるお金を請求してきていなかったことに気が付いた水島が、それを不本意に感じる程度には彼も自立している。しかし星野は鷹揚に首を振った。

「家賃はいいですよ。別に水島さんが来て額が変わったもんじゃないから」

「それはダメだろ。俺も住んでるんだから」

「住んでる……」

 星野はそこで黙り込んでしまった。水島はしばらく待っていたが、出かける時間が迫っていたのを思い出して立ち上がった。

「後でちゃんとしよう。俺、もう出ないとだから」

 何も解決はしていないが、どれも時間がない朝に話し合うべき話題ではない。

「夜には続き話すからな」

 念を押してからコーヒーカップをシンクにおいて水につける。取って返してバッグをつかんだ水島は足早に玄関に向かった。成人男性二人分の靴が並ぶ玄関は文字通り足の踏み場もない。星野に履かない靴は部屋に引き上げておいて欲しいと繰り返し言われているものの、今日履かなくても明日には使う、という靴を片付けるのが面倒くさくて、ついつい、玄関に置いておくものが増える。文句を言っている星野だって二足も三足も出しっぱなしにしているのだから、お互い様でもある。

「帰りの時間分かったら連絡する」

 言いながらお目当ての靴に着地するために、手前の靴の隙間につま先を下ろす。何かを踏んでしまったようでぐらりと揺れて、慌ててついた隣の足はもっと思い切り別の靴を踏んづけた。

「おっとっと」

「あっ!」

 見送りに立ち上がった星野が大きな声をあげる。常にない大きな反応に嫌なものを感じて水島が足元を見ると踏んでいたのは星野の革靴だった。

「わりい、よろけた」

 慌てて自分の靴の上に移動して、さらに履く予定だったスニーカーに足を入れる。星野の靴は鼻づらがへこんで深いしわができている。玄関へ駆け寄ってきた星野はその靴を拾い上げて顔をしかめた。

「靴踏まれるの嫌だから、使わない靴は玄関に出しっぱなしにしないでくださいって、いつも言ってるじゃないですか」

 星野の声は珍しく尖っていて、その棘に貫かれた水島の心も波立った。

「悪かったって」

 謝りつつも視線は玄関いっぱいに並ぶ靴をたどる。

「でも、俺の靴だけじゃないだろ、これ」

 靴の所有者の割合はどうみたって半々だ。

「……これは今日、特別用事があって出してたんです。」

 水島の踏んだ革靴は、たしかに普段は見かけないもので、きちんと手入れがされている黒のオックスフォードだった。たぶん、大事なときの大事な靴だ。大きな仕事があるのかもしれない。その一足が増えた分、今日はいつにもまして着地点が少なかったわけだ。

「一個出すなら、一個しまえって。いつもお前がいうやつじゃん。踏まれたくないなら、なおさら片付けとけばよかっただろ」

 水島が返すと、星野は黙って睨み返してきた。次に何か言う前に水島の腕時計のアラームが鳴る。時間切れだ。

「言いたいことあるなら、後で聞くよ。俺、マジで時間まずいから」

 そのまま、行ってきますも言わずに家を出た。扉が閉まる音を背中で聞いてアパートの階段を下る。安普請の水島のアパートの金属製の階段と違って、コンクリートの階段は乱暴に踏みしめてもトントンと穏やかな音しかしない。今は水島よりも星野の方が稼いでいる。それは誰が言わなくたって知っていることだった。


 その日、水島の仕事は小さなミスが続いて進捗が遅れた。人間的な生活が守れるタイミングで解散できたのでぎりぎり及第点ではある。

 夕飯には間に合わないが、それほど遅くならずに帰れそう。

 星野への帰りの時間を知らせるメッセージに既読がついても返信はなかった。それ自体は忙しい日には割合よくあることなのに、後味の悪い別れ方をした今日は妙に気になった。最寄駅まで帰り着いた水島は、もう慣れた道を星野の家に向かって歩く。不安をなだめながら見えてきたアパートを見上げれば星野は在宅しているようで窓に明かりがついていた。それだけで少し心が落ち着く。


 玄関のカギを開けて扉を開いたとき、中には明かりが灯っていた。だからよく見えた。水島の靴だけ残して、綺麗に片付いた玄関が。いつもは見えない床面のレンガ調のシートが磨いたみたいに光っていた。

 水島の心臓はぎゅっと引き攣れるように痛んだ。

「星野!」

 靴を脱ぐのももどかしくダイニングへ飛び込むと、洗い物をしていたらしい星野が驚いたように振り返った。

「え、何?」

 目を見開く様子に変わったところは何もなくて、脱力した水島はテーブルに両手をついて項垂れた。

「水島さん? どうかしたんですか?」

「出て行ったのかと……」

 水島が絞り出した声が聞き取れなかったのか、星野は出しっぱなしだった水を止めてから手をぬぐって水島の方に歩み寄った。

「なんて?」

「靴がないから、玄関」

 顔を上げた水島の眉が情けないくらい垂れているのを、不思議そうに見ながらも星野は軽く答えた。

「あ、片付けました。確かに僕の靴もたくさんありましたし。その日履く分だけ出すようにします」

「なんでお前のだけ」

「水島さん、そういうの得意じゃないでしょ。僕が自分の分を管理したら解決することだから。外に出る時に出すようにすれば踏まれないし」

 最後は少し冗談めかしていた星野は、水島の呼吸が深くなったのを察して黙った。垂れていた眉はいつの間にかもとに戻って、こめかみが震えている。

「それじゃダメだろ」

「なんで?」

「お前だけ我慢して済まそうとしてるだろ」

「……だって。言ったって、できなかったじゃないですか。僕、言いましたよ。何度も。ねえ、言いましたよね?」

 言い返した星野は水島のように怒りを抑えこんでいるようには見えない。見えないのに絶対に怒っている。それは少なくとも水島には分かった。

「でも、できなかったでしょ?」

 確かにできなかったことを指摘されて返す言葉が出ない水島に星野は続ける。

「誰にでも向き不向きはあります。できないことを無理強いする気はありません。だから靴の件は、もういいです。今朝はごめんなさ」

「やめろよ」

 低い声で遮られて、星野は口を閉ざし、まだ机に手をついたままの水島を見下ろした。

「だからそうやって、勝手に諦めて自分だけ我慢するなって! 俺も、俺が悪かっただろ? 今朝のはさ。そういうのはちゃんと責めろよ。そうじゃないとこっちの気持ちが落ち着かない。落ち着かなくて気持ち悪い、ずっと」

「は? こっちの気持ちって何ですか? 自分が散々……」

「それは聞いた! 俺が悪かった! そうじゃない。俺が言ってんのはお前がまともに向き合わないことだよ。俺が、ここにいるのに、いないみたいに」

 水島の言葉は堰を切ったように止まらない。

「金のこともそう。仕事のことも。一緒にいるのに大事なことほど話してない。あの靴履いて、今日、どこ行ったんだよ。大事な仕事だったんじゃねえの? 俺、何も聞いてない。聞いてないよな?」

「ちょ、ちょっと。話逸らさないでください。玄関の靴とお金は関係ないでしょ」

「同じだよ。話さない。相談しない。お前が俺に期待しないって話だ」

「期待?」

 星野は顔を歪めて聞き返した。

「期待、してないって? あなたに?」

 明らかに温度の下がった声に、怒りをぶつけていたはずの水島が気圧される。

「してますよ。知らないだけでしょ?」

 言い切るころには声だけでなく表情も冷たくて、水島はぞっとした。見慣れたはずの顔なのに笑みと親しみが抜けただけで、別人のように遠く感じる。何も言い返せない水島を睨んでいる間に、じわじわと頬が紅潮し、眦が吊り上がる。

「期待ならしてます。毎日、毎日。嫌になるくらい。毎日、今日も帰ってきてくれるかなって期待してます。分かります? それがどんなに怖いことか。今日はもう家に帰ってもいないかもしれない。何か間違えたら、また突然いなくなるかもしれないって思って、毎日! 毎日!……いっそのこと諦めちゃった方が楽なのに……帰ってくるから、また次の日も、次の日もドアが開くまで。それでも、まだ足りない?……何が?」

 水島を睨み据えた瞳には涙が浮かび、濡れたまつ毛の重さにひかれるように視線が落ちた。

「もう、やだ……」

 静かな悲鳴と一緒にぽろぽろ涙が零れ落ちた。小さな雫は水島の中に残っていた燻りをあっという間に消し去る。

「……もうやだって言うなよ」

 水島が涙をぬぐおうと伸ばす手を払いのけて星野は後ずさる。ほんの二歩か三歩下がったら壁に背中がついてしまうその距離を水島は追えなかった。ただ行き場のなくなった手を握り締める。

「俺、それ、嫌だよ……嫌だ」

 手を伸ばせば簡単に届く距離で向かい合っているのに、どちらも顔を上げることもできないまま、しばらく立ち尽くした。星野が鼻をすする音だけが何度かして、それもやがて止んだ。

 先に口を開いたのはまだ声の震える星野の方だった。

「靴のこと、きつく言わなかったのは、一つもなくなったら、嫌だからですよ」

 水島の脳裏に帰宅したときに見た玄関の様子がよみがえる。靴が減って、使いやすく整った寂しい三和土。

「さっき、帰ってきたらお前の靴がなくて、出て行かれたのかと思った」

 だから、ほんの少しでも星野の恐怖が分かった、と伝えたかった言葉は不思議そうな星野の声に遮られた。

「僕の、家なのに?」

 ゆっくりと顔を上げた水島は力なく笑った。

「は、はは。そうだよな。『お前の』うちだよな。出てくなら、俺か」

「え……」

 水島はいっそ優しいほどに穏やかな表情を向けた。けれど、すっと鋭く吸われた息が、わずかに震える口元がその表情を裏切っている。

「目の前にいても辛いだけなら、それはもう、無理だろ」

 星野の頬に伸ばした手は、今度は振り払われなかった。濡れた頬をぬぐって、水島は続ける。

「俺がいたら、辛い?」

 星野は答えない。だから水島はもう一度問いかけた。

「それとも、まだ、ここにいてもいい?」

 隠しきれない怯えの滲んだ問いに水島を見返していた星野の瞳にはっきりと意思が戻った。眦はまだ濡れたまま、でも視線には本来の彼の強さを含ませて答える。

「あなたが、本当に望むなら」

 息をのんだ水島の顔が僅かに歪む。そのまま星野の肩口に額を寄せて、縋るようにその両肩をつかんだ。

「お前、本当に。優しいのに、厳しいよな」

「自分で選んでください。そうじゃなきゃ、きっと一生安心できない」

 星野の腕は水島を抱き寄せず、ただ頬を少しだけ水島の頭に預けるように傾ける。星野に見えない角度で伏せられていた水島の瞼が震えた。深く吸い込んだ息が何度も、声にならずに吐き出される。水島の視線の先で握られていた星野のこぶしがゆっくりとほどけていく。

 それに気づいた水島から苦し気な声が落ちた。

「いやだ。もう離れたくない。一緒にいたい。いてほしい」

「ずっと?」

 優しい声で、星野はやっぱり厳しいことを言う。水島は顔を上げて至近距離に星野を見た。表情ごと期待を押し殺そうとしているかのような無表情が見返してくる。

「ずっと。俺んとこにいて」

 肩を引き寄せると、星野は素直に水島の胸の中に身を預けた。わずかに身長の高い星野の口は自然と水島の耳もとに寄せられる。そして柔らかい声が届いた。

「はい」


 水島は、ぎゅっと一度力を込めて星野を抱きしめた後で、長い溜息とともに崩れ落ちた。そのまま座り込んでいると星野がコップに水をもってきて、床の上を滑らせるように指先で押しやる。水島は小さなコップの水を一気に飲み干すと星野の様子をちらりとうかがう。少し離れたところで膝を抱えて座り込んでいる星野は自分のつま先を見つめていた。

「星野」

 呼びかけると、ぴくりと肩を震わせて振り向く代わりに顔を膝に埋めてしまった。

「……星野」

 今度はゆっくりと顔があがり、怒っているのか困っているのか、眉を寄せたまま水島を見返す。

「マジで一人で抱え込むなよ。ちゃんと話せよ」

「別に。……そんな大した隠し事してるつもりないですよ」

「お前、自覚ないのかよ……」

 水島は深くため息をついて壁にもたれた。

「考えてること教えてって言ったら分かる?」

「考えてること?」

「隠してるつもりじゃなくても、言わないで済ませてることあるだろ」

「……」

 星野の視線は膝のあたりをさまよって最後にはつま先に戻った。水島は無言の横顔に問いかける。

「例えば今日、あの靴履いてどこ行ってたのか、とか」

 それでも星野が黙っているので、水島は足を延ばして星野のつま先をつついた。


 顔を洗うといってその場を逃れた星野がソファに移動した水島のもとへ戻ってきたときには手に紙束を握っていた。まだ部外秘だからここだけの話だと前置きして渡されたそれは映画の企画書で、計画段階で既に星野の名前も制作チーフとして並んでいた。実現するかどうかまだ五分五分で、だからこそ今日のスポンサーへの企画説明は重要な場だったという。まだ出資が得られるかは分からないが、その場での感触は悪くはなかった。そこまで聞いた水島は居心地悪そうな星野の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「すげえじゃん。大事な日の勝負靴、踏んで悪かったな」

 首を横に振った星野はゆっくりと顔を上げる。

「こういうこと、どう話したらいいか分からなくて」

「うん。そうだな。正直俺も分からん」

「ふふ、偉そうなこと言っといて」

「でも、今は聞けて良かったと思ってる。祝えるし、応援もできるし、負けるもんかとやる気も出る……まあ、ちょっと悔しくはあるけどな。でも、隠されるより一億倍マシだな」

「一億倍……表現ダサ」

「うるせえな」

 大の男が並ぶと自然に肩を寄せ合う距離になってしまうソファの上で、水島の肩に寄りかかるようにして星野はふふふと笑った。



 数日後の食卓で星野がおもむろに切り出した。

「もう少し広い家に移りましょうか」

「え?」

「二人分の家賃と固定費。まとめた方が節約になるでしょ」

「……確かに。ただ、もう分かってると思うけど、俺、お前ほど金出せないよ」

 何気ない風に聞こえるようにと気を使った水島の言葉に星野はけろりと答えた。

「いいですよ」

「いいって、何が」

「僕、やりくり上手だから。何とかします。誰かのせいで予算ぎりぎりの運用をたくさん経験しましたからね。あれから、ちょっと考えたんですよ」

 いきなり具体的な数字を持ち出してくる星野に、水島は慌ててちょっと待てと声をかける。

「仕事早すぎだろ。無理すんなよ?」

「いや、無理っていうか。 もう待つ必要ないかなと思って」

「え、俺、待たせてた?」

 ぎょっとする水島に、星野は軽い笑い声をあげた。

「そうじゃないけど、ここに二人じゃ狭いからいつかは引っ越したいと思ってたんです。いつか、自信が付いたら」

「……そっか」

「はい」

 星野は穏やかに頷いた。


 その後、喧嘩以来の数日で不動産情報を調べつくして夜更かししたと知られた星野はちょっとしたお説教を食らった。ただ「お前は本当にその抱え込み癖を直せ」と言いながら、その頭を抱き寄せていた水島の言葉は星野の引っ越し熱を下げる役には立たず、二人の新居探しは極めてスムーズに進んだ。引っ越し先は2LDKに間取りが広がり、それぞれの家から私物を運びこむのに先駆けて大きめの冷蔵庫と広いソファが搬入された。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ