1-7.
泊りが解禁されると、仕事終わりの遅い日でも会えるようになった。会いに来るのはやはり水島の方が多くて、本当に夜遅くにやってきて、隣で寝て、朝食だけ食べて出ていくような日もあれば、夕方早く仕事が終わったと言って星野のキッチンの貧弱な装備に文句を言いながらご飯を作ってくれる日もある。早々に合鍵が渡されたのは、お互いに使える時間を最大限活用するための合理的な判断であり、特別なイベントとしてのロマンチックな演出は何もなかった。
その日は日曜日で、星野は休みだったが水島は仕事が入っていた。予定通り終わったら帰りに寄れるというので星野は外に出る用事を昼過ぎまでに済ませて、午後は家でいつか観るリストに入れていた映画を鑑賞して過ごした。リビングのローテーブルにスマホとテレビのリモコンを並べて、二本目の映画に取り掛かったときはまだ日は十分高かったはずだ。スマホの着信音ではっと気が付いたときには部屋に差し込む光は夕方のものになっていた。いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。
着信は水島からで、少し遅くなったがこちらへ向かっているという。
「何か先に連絡もらってました? ごめんなさい、寝ちゃっててメッセージ見れてない」
「それはいいけど。疲れてるならやめとくか?」
「ううん、平気です。のんびりし過ぎただけだから」
「分かった。じゃ。このまま行くわ」
夕飯時には家に着けるが、そこからご飯を作り出したら遅くなる。今日は駅で落ち合って一緒に食べようという話になった。
夜になってもまだ風が温い。二人は駅近くの蕎麦屋に入った。
「こういうのって、蕎麦のおかずが丼なのか、丼のお供が蕎麦なのか、どっちだと思います?」
せいろとカツ丼が並ぶ水島のテーブルを見て星野が言う。
「どっちも主役だと思ってるけど」
水島は答えながら星野のせいろの端っこにカツを一切れうつした。目顔で意図を尋ねてくる星野に「タンパク質」と答えると、蕎麦と大根おろししか注文していなかった星野は素直に受け取ってカツを食べる。「あ、美味しい」と言うのでせいろの端にカツがもう一切れ追加された。
二切れ目を飲み込んでから星野が忘れかけていた話題へ戻る。
「両方主役も間違いじゃないけど、僕としてはこういう食べ方すると丼がメインになっちゃう気がするんですよ。お蕎麦屋さんなのに」
「蕎麦だけで腹いっぱいにしようと思ったら、わんこそば食うしかないぞ」
「食べたことあります?」
「一回だけ」
「僕も一回だけ」
「一回でいいよな」
「最初は美味しかったですけど、途中からいつ止めようか思ったら緊張で味どころじゃなくなりました」
「俺は自分のペースで食べたい」
どうでもいい話をしているうちに蕎麦も丼も食べ終わり、店を出る。朝ごはん用にハムと卵くらいは欲しいという水島がスーパーに寄って、ついでにアイスも買った。二人はアイスを齧りながら家路を辿る。
「明日は朝早い?」
「遅いです。九時出発で間に合います。水島さんはお休みでしたっけ?」
「うん。昨日も今日も出だったから、明日は代休」
「お酒じゃなくて、アイスで良かったんですか?」
「うん。今日はしっかり休む日にすんの」
星野はわざとらしく目を丸くして水島を振り返った。
「なんだよ、その顔」
「水島さんの口から、しっかり休むなんて言葉を聞く日が来るとは……」
学生時代のあだ名が「暴走列車」の水島である。「へええ」と感心して見せる星野を軽く睨んで三十代には休息が必要だという。
「とにかく今日は休肝日。そして早く寝る」
二人は家に帰ると、水島の宣言通りにさっさとシャワーを浴びて布団に直行した。さすがにすぐに眠りに落ちることはできなくて寝ころんだままだらだら喋る。映研の合宿のときは寝落ち寸前まで騒いでから布団へ撤収するのが常だったので、横になってから喋ることはなかった。意外と新鮮だなと水島が笑う。
「女の子部屋はおしゃべりの声、してましたよね」
「そうだっけ?」
「部屋の前通ると、なんかヒソヒソ、ボソボソずっと声がしてた気がします」
「心霊的な奴じゃなくて?」
「たまにキャーって叫び声もしてた」
「心霊的な奴……」
「恋バナだと思いますけど」
「……青春だな」
「下で大宴会してた人たちも、それはそれで青春してたと思います」
あんな無茶な飲めや騒げはもうできない。二人して思い出し笑いをしておでこをぶつけて、笑いながらキスをした。
夜中、星野は目を覚ました。
布団の中で目をあけて、人の気配のする方へ顔を向ければ水島が眠っている。穏やかな寝息を立てて、着替えが足りないからと星野から借りたTシャツを着て、すぐ隣に寝転がっている。ゆっくりと上下する胸を見て、伏せられたまつ毛を見て、薄く開いた唇を見て、星野の視界は歪んで揺れた。そこにいることを確認したい衝動に駆られるが、起こしてはいけないと指先に言い聞かせて、水島を見つめる。そのまま堪えようとするのに、涙はなかなか止まらなくて、一度深く吸おうとした息が喉に引っかかってわずかな音を立てた。水島の瞼が震える。
「……星野?」
ぼんやりと開いていた目が焦点を結び、ゆっくりと伸ばされた手が星野の頬に触れる。涙を拭うように何度か撫でるとするりと離れてシーツに落ちる。そのまま星野の手に重なった。
「どうした?」
星野は黙ったまま小さく首を横に振る。微笑もうとして、失敗して、また頬を新たな涙が滑る。今度は自分で頬をぬぐい、するりとベッドから降りて、ティッシュとゴミ箱を持って帰ってきた。ベッドに腰かけて目元を拭いて鼻をかんで、何度も深呼吸を繰り返す。
「急いで泣き止まなくていいよ」
「……大丈夫」
それきり言葉の続かない星野は震える息を務めてゆっくりと吐き出した。水島も起き上がり、星野の背中を眺める。汗ばんだ背中にTシャツが張り付いて、息を吸っては吐く体の動きがくっきり浮かび上がった。その揺れが少しずつ小さくなり、また数枚のティッシュが引き出されては捨てられて、ようやく星野が振り返った。今度こそ照れくさそうに微笑んで水島を見る。
「嬉しくなっちゃって……驚かせてごめんなさい」
「……今?」
短い問いかけに、星野は頷いた。
「そこに、いたから」
今度は水島が深く息をついた。口元を覆うように上がった手がわずかにずれて親指が唇を押す。
「……心配いらない奴です」
言いながら、また目が潤んできたのか慌てて目をこするので水島が手を掴んで止めた。
「瞼腫れる……」
「平気です」
「……うそつけ。痛そうだぞ」
「平気なんです」
星野は掴まれていた手を抜き取って、ティッシュでまた目を押さえた。それを適当に丸めてゴミ箱へ放ると、ばたんとベッドに横たわって水島に背を向ける。
「明日の朝、冷やします」
水島はしばらく星野の背中をみやってから、のっそりとベッドを下りてリビングへ向かった。
「朝、九時でいいって言ってたっけ?」
「……はい」
「七時半には起きろよ」
星野が寝ころんだまま、水島を目で追っているとスマホを片手に戻ってきた。何か操作していて目覚ましをかけているのだろうと思われた。
「そんなに長いこと冷やしてたら目玉が凍りますよ」
星野を跨ぎ越して自分のいた場所へ戻る水島に抗議するが、聞き入れるつもりはないようで水島は枕元にスマホを置いて布団へ戻った。
「風呂入って、飯食う時間もあるだろ」
星野は水島を追うように寝返りを打つ。
「八時で間に合います」
しっかり目を見て断言したが、やはり水島は譲らなかった。
「ダメ。起こす。もう寝ろ。おやすみ」
水島の手が星野の瞼を覆って目を閉じさせる。温かい手が心地よい。星野はほどなく眠りに落ちた。
翌朝、アラームが鳴るより前に起きた水島は星野の顔を見て、眉尻と口の端を両方下げた。薄く差し込む朝日の下で、瞼が腫れている。触れようかと伸ばした指先を途中で止めて、そのまま静かに部屋を出た。
その少し後にアラーム音に起こされた星野はいつもより重い瞼をこじ開けてキッチンへ向かった。風呂場からシャワーの音が響いている。コップに水を汲んでいる間に水島が戻ってきた。自分のためのシャワーではなかったらしく服は昨夜のままだ。
「お、起きたか」
「おはようございます」
「ん。おはよ。水飲んだら、そのまま風呂浴びてきな」
「……ハイ」
鏡を見るまでもない瞼の重みに反論もできず、星野は素直に従った。水島は先に溜め始めてくれていたおかげで湯舟には半分くらいお湯が溜まっていて、星野が浸かるといい具合に水面が上がった。ずるりと沈み込んで一気に頭まで浸かってみる。水の中で音を聞くのは思い出せないくらい久しぶりのことだった。
支度が一通り終わると、出発までの残り時間は瞼を冷やすことに充てることにして保冷剤をタオルに包む。ソファに寄りかかって仰向いた顔の上に乗せて目を閉じる。
「星野、今日は遅くなる?」
「今日は……うん、ちょっと。たぶん遅くなると思います。でも、九時くらいには帰れるといいなと思ってはいます」
答えながら水島を見ようとして、顔から保冷剤が落ちそうになる。水島の手が伸びて保冷剤入りのタオルと星野の顔に固定する。
「今日も泊って良い?」
「え……それは別にいいですけど」
「じゃ、そうする」
「……はい」
水島は星野の目を保冷剤で覆ったまま、しばらく隣に腰かけていた。
結局、星野の帰宅は十時を回った。家には予告通り水島がいた。
「おかえり」
「ただいま」
星野が落ち着いたころ、我が家のようにくつろいでテレビを眺めていた水島が「あのさ」と声をかけてきた。
「これ、どっか置いとけるとこある?」
これ、と言いながら示したのはソファの陰に置かれていたスポーツバッグで中身がしっかり詰まっているのが見てとれた。
「適当に、置いといてもらっていいですけど……ずっと置いておく感じですか?」
「んー、ずっとっていうか。服」
「着替え?」
「うん」
「だったら中身出してクローゼットに一緒にしておきますか。皴になるし」
「置ける?」
「混ざらない方がよかったら、畳んでおいてもいいものだけバッグに残したらいいと思います。スペース自体はあるから」
星野がクローゼットを開いて、使えそうな場所を示すと水島はバッグから何枚かのシャツとズボンを取り出して吊るした。バッグには星野が言った通りの皴になることを気にしなくていいものが残る。服は三日から四日分はあるように見えた。
「……たくさん、ですね」
「やっぱ邪魔?」
「そうじゃないけど……」
クローゼットの前に立って星野は並んで吊るされた自分と水島の服を見る。
「寒い時期の上着とかになると嵩張るかもな」
服を整えた水島が残った隙間を確かめて言う。今は夏物ばかりでクローゼットにはまだゆとりがある。
「……そうですね」
星野は並んで立つ水島の背中にそっと手を添えて、シャツを握った。




