1-6.
何度か行き来するうちに、二人が会う場所は星野の家に偏っていった。水島の家の先住民である大量の機材と資料の問題と、何より「今日これから行ってもいい?」と言うのは圧倒的に水島の方が多かったからだ。
「ここ、一人暮らしにしては広いよな」
だいぶ慣れてきた星野の1LDKを確認しながら水島が言う。寝室にしている一部屋に大きめのクローゼットがあるおかげで部屋に飛び出している収納が少ない。かつ、星野は水島ほど撮影や編集に関わる機材を個人で所有していないので物も少ない。広く見える理由を説明しながら、星野は念のために付け足した。
「別に誰かと住んでたわけじゃないですよ。前にも言いましたけど、引っ越したのは契約更新のタイミングの問題だったし……」
「うん、分かってる」
星野にはもう長い間恋人らしい恋人はいない。水島に向ける感情が恋だと自覚したときから、恋人が作れなくなってしまったから。もう十年近く定まった人はいないのだ。そんなことを細やかに説明したわけではないが、会えなくなるまでの期間はずっと近くにいてプライベートの様子もよく分かっていただろうし、その後のやりとりの中で、会えない間も星野の気持ちが変わらなかったことはきっと伝わっている。それでも、水島の「家が広い」という口ぶりに不安そうな気配が混じっているように思えた。
「独立の寝室が欲しいと思って探したら、こうなったんです。ワンルームって苦手で」
「ああ」
水島は納得したような声を上げる。星野は狭いところが落ち着くタイプだ。寝る場所はきちんと区切られた閉鎖空間の方がよい。学生時代の合宿や、若いころの仕事で泊りが必要だったとき、大部屋に雑魚寝させられると居心地が悪かった。
「お前、雑魚寝っつうと壁と俺の間に挟まってること多かったな」
水島も同じことを思い出したようだ。だが、細かいところに認識のずれがある。
「あれは僕が壁際で寝てると水島さんが隣に割り込んでくるから、結果挟まれてたんだと思いますけど」
「逆だろ? 俺が寝てる隣にお前が無理やり入ってくるから、結果挟まれてたんだろ?」
「えー、無理やりはないですよ。そっちの寝相が悪いから」
記憶は自分の目から見た情報しか捉えられないので、二人の話は平行線になった。
「……どっちにしろ、年中背中にひっついてたな」
「水島さん、体温高いから背中が気持ちいいんですよ……」
星野がぺたりと背中に両手を添えると、やはり水島の背中は温かい。
「夏は汗だくだけどな」
「冷房がちゃんと入ってるところだと、夏でも気持ちよかったですよ」
「……お前、ずっと俺で暖をとってたのかよ」
呆れた声がして、でも背中は動かない。星野はすっと指先で撫でてから手を離した。
そろそろ帰ると言い出した水島を、星野は玄関まで送る。初めて来た日以来、一度も駅まで送らせてもらえたことはない。
「終電、間に合います?」
遅くなってしまったので、乗り継ぎが上手くいくか心配な時間だ。水島は腕時計を見て「大丈夫」と答えた後にうつ向いたまま続けた。
「……あのさ」
水島の右手の親指が唇を押す。そのまま、逡巡するように指はそこに留まっていた。
「あのさ?」
終電を心配する星野が促すと、彼は顔を上げ、その表情をうかがうようにじっと見つめる。
「今度来るときは、終電、気にしないでもいい?」
期待するというよりも、心配そうな表情を浮かべる水島を見て、そういえば今日はずいぶん長いこと寝室を眺めていたなと星野は思う。あの時から、この質問がしたかったのかもしれない。切り出せなくて、でも黙ったままにもできなくて。帰り間際のぎりぎりに聞いてくるのが水島らしくて、愛おしかった。
「……次の日が二人とも休みだったら」
「……分かった」
水島は頷いて星野の頬を軽く撫でると、いつものように「また連絡する」と言って帰っていった。
再会以来、水島は星野との約束を破らないので、次の連絡はちゃんと彼の休前日でしかも早めに仕事を終えられる日が送られてきた。星野の予定を重ね合わせて、次は翌日までゆっくり一緒にいられる日に会うことに決めた。特別な場所へ行こうという提案はどちらからもなされず、場所はいつも通りの星野の家に決まった。おかげで初めてのお泊りから気を紛らわせたい星野が暇さえあれば掃除をする生活を送ることになり、シンクも洗面台も風呂場の鏡も曇り一つなく磨き上げられた。
その日、インターホンが鳴り終わるより前に玄関を開けて入ってきた水島は出迎えにきた星野に手に持っていたコンビニのビニール袋を差し出した。
「お土産。冷蔵庫入れといて」
透けて見えるのは缶ビールで、袋には水滴がついている。
「悪いけど、ちょっと先に風呂場貸して。足元が悪いとこ行ったら靴ん中が砂だらけでさ、一応洗ったけど気持ち悪い……」
「いいですけど。そのままシャワー浴びます?」
家の中に砂を持ち込まないようにしているのか、つま先立ちで移動する水島の後ろについて部屋の中へ戻る。
「いや、足だけでいいや。俺も腹減ってるし、先に食べようぜ」
水島の目がリビングのローテーブルに伏せたままの食器と箸を捉えていた。二人で食べようと思っていたので、星野もまだ夕食を食べていない。
「じゃあ、用意しちゃいますね」
「サンキュー」
そのままひょこひょこと風呂場へ消えていく水島を見送って、星野は冷蔵庫へ向かった。歩くたびにコンビニの袋がシャカシャカ鳴る。時間を気にしないでいいなら、たくさん飲めると思ったのか缶が六本入っていた。先に買ってあった総菜を取り出してスペースを確保して、入れ替わりにビールを収める。料理があまり得意でない星野の冷蔵庫は飲み物と加工が簡単な食材しか入っておらず、おかげで急な350mL缶六本も無事に居場所を得た。
缶を全部出した後もビニール袋にはまだ何か残っている。立ち上がってのぞいてみると新品の歯ブラシとパンツだった。ビールのおかげでパンツの袋にも水滴がついている。星野は総菜を運ぶのも忘れて、それを見下ろした。なんだかすごく、違和感があった。
「お前んち、風呂まできれいだな……ん? どうした?」
足だけ、と言いながらついでに顔も洗ってきたらしい水島が濡れた前髪をかき上げながらやってきた。冷蔵庫前で固まっていた星野はハッとして、コンビニ袋を水島へ差し出す。
「はい」
「お、うん」
星野の顔をうかがうようにしながら袋を受け取った水島は、その中身を確認して、また星野の横顔に視線を投げた。
「……あ、違うぞ」
「え?」
手を止めて振り返った星野に、水島は袋をシャカシャカと揺らして示した。
「泊まりの準備忘れたから慌てて買ったとか、ぎりぎりまで本当に泊まるか悩んでたから準備しなかったとかじゃないから」
どうやら水島は星野の表情を読んでいたらしい。たしかに、気にしていたのはそれだ。パンツは最初から泊るつもりだったらコンビニで買う必要のないものだから、そこにあるのが引っかかったのだ。図星をさされた星野は不機嫌を隠す努力を止めて聞き返した。
「……じゃあ、なんで」
コンビニなんかで間に合わせのように買ってくるのか。飲み込まれた言葉を表情が語っている。水島は堂々と答えた。
「朝から鞄にお泊りグッズなんか入れてたら、一日中浮ついちゃって仕事にならないと思ったから入れらんなかった」
「は?」
星野の目がきょとんと丸くなる。
「だってパンツ入ってるの見るたびに、絶対嬉しくなるじゃん」
「はあ?」
驚きが、呆れに変わった。
「いや、見るまでもなく。あるって思うだけでダメだったかもしれねえな。とにかく、仕事が終わるまで心頭滅却するためにパンツは家に置いてきた。でも、必要だから仕事終わってから買った。以上。だから余計な心配すんな」
星野のあきれ顔に、少しだけ笑みが混じる。
「……馬鹿じゃないですか」
やっと総菜を盛り付ける手を動かしだした星野に向かって、今度は水島が呆れた顔をして見せた。
「はあ? お前、逆の立場に立って考えてみろよ。お前だったらどうすんだよ」
温めるおかずを電子レンジに運びながら、星野は「えー」と考える。
「僕、コンビニの下着って抵抗あるんですよね……なんか必要以上に人の視線に晒されてる感じがして」
「そこかよ」
「途中下車して駅ビルあたりで買っていくかなあ」
バタンと電子レンジの扉を閉じてボタンを押す。
「だから、そこかよ。じゃなくて。結局、浮かれていい時間になってから買うだろ?」
と同意を求めてくる水島にちょっとだけ嫌そうにしながらも、星野は頷いた。
「……まあ、たしかに」
「そういうことだよ」
ちっとも恥じる気配のない水島に、星野は念を押す。
「じゃあ、今浮かれてるんですね」
「そりゃ、そうだろ」
ピーと電子音がして、星野は皿を取り出した。振り返ると水島はちょっと胸を張っている。
「ふふ、何をそんなに堂々と」
「悪いか」
完全な開き直りを見て、星野は笑った。
「いいえ」
少なくとも星野と水島にとって、今日は堂々と浮かれてもいい日だった。
下手な料理をするより、買っておいた方が早くて確実。現実的な星野の判断が100%反映された食卓に水島は何の異論もないようだった。これが水島の家で食べるのならば、みそ汁くらいは、とか、賞味期限がどうの、などと理由をつけて水島が手料理を振舞ってくれるのだろうが、彼は同じことを星野に求めはしなかった。学生時代からこの調子の星野が、会えなかった間に料理に目覚めた可能性は考えていないらしい。
食事があらかた片付いてきたころ、星野はふとソファの隅に置かれたままのコンビニ袋を目にとめた。そして湧きだした疑問をそのまま口に出す。
「そういえば、脱いだ方はどうするつもりですか?」
「は?」
口に入っていたご飯を吹き出しそうになって急いで飲み下す水島を待ってから、星野は言い添える。
「パンツ」
「パンツ?」
「脱ぐでしょ?」
「……そりゃあ、お前……脱ぐんじゃね?」
水島はやや居心地悪そうに答える。その顔に困惑が浮かんでいるのを見て、星野は最初の疑問をもう少しかみ砕いて繰り返した。
「それ、持って帰ります? おいていきます?」
「え、ちょっと待て。そのパターン考えてなかった」
「汚れものだけ置いていかれるのちょっと嫌だけど、置いてったら洗っておくくらいはしますけど」
淡々と続ける星野に、水島は半目になって返した。
「嫌なんか」
「どうせならコンビニで二つ買って来ればよかったのに」
「……そんなに一緒に洗うの嫌かよ」
ちょっと拗ね始めた水島に、星野は冷静に答える。
「やらないとは言ってませんよ」
水島はむっと口を引き結んでいたが、やがて「次は二つ買ってくる」と答えた。
星野はふわっと笑顔になって、そのまま悪戯そうに口の端を釣り上げた。
「……なんか色とか決めてくれるといいなあ。黒の無地とかどっちがどっちか分からなくなりそう」
「だったらお前がこれから先はピンクだけ買え。絶対被らないから」
「じゃあ、水島さんはずっと白ブリーフで」
「やめろ」
真顔で制止した後で、こらえきれずに二人は笑った。
その晩、シャワーを浴び終わったころに、水島が「お前も相当浮かれてただろ。あの風呂の磨きっぷりはさ」と突っついてきたので、星野は「悪いですか」と水島を真似て答えた。「全然悪くない。でも可愛い」と返された。




