1-3.
海辺で水島と再会して以来、著しく集中を欠く。星野自身、自覚があって、だからこそ余計に確認を繰り返しているのに、その慎重さをあざ笑うように、また目の前でコップがひっくり返った。
「すみません……」
肩を落としてテーブルと、お茶のかかってしまった資料を拭く。
「星野さんって、意外とドジっ子ですよね」
ペーパータオルを持ってきてくれた若いスタッフにお礼を言いながら、ここ最近の実績では否定できないとひそかに落ち込む。
「若いのに切れ者って噂だったけど、実は可愛い要素もあるなんて……属性盛りすぎじゃないですか」
「そんな噂あるんですか?」
「ありますよー。NDさんとこの制作、可愛い顔して怖いって噂も、星野さんのことですよね?」
「……知らないです」
「あとは、ええと」
「いや、いいです。聞かない方がいいような気がするから」
そそくさとその場を離れて、湿ったペーパータオルと空になった紙コップを捨てる。そっと深呼吸してから自分の持ち場へと向かった。仕事に向き合ってしまえば余計なことは考えない。脳に隙を与えさえしなければ大丈夫なのだ。
仕事は大きなミスなく乗り越えたが、その分、家に帰ると押さえつけていた物思いが奔流のように星野を支配する。水島に会えたことも、彼がまた一緒に映画を撮ろうと言ってくれたことも、夢のようで信じられない。一番自信がないのは、今、自分が彼の恋人であるかもしれないということ。あの曖昧な告白は本当に恋愛の意味だったのか。それとも、それは自分の欲望が歪めた認識で、以前と同じようにあくまでも映画を作るうえでの相棒として惚れていると言っただけなのか。手をつないで寝たときには恋愛だと思ったのに、日に日に確信は揺らぎ、それがゆえに、どうしても水島に連絡を取ることができないでいた。
メッセージアプリを開けば、四年九か月前に送ったメッセージの「これで最後にします。お願いだから、連絡ください」がどうしても目に入る。向こうにしても同じはずだ。早く新しいメッセージで一杯にして、星野から一方的にメッセージを送り続けた履歴が目に入らないようにしてしまいたい。けれど、いったい何を書いたらいいのだろうか。
「次、いつ会えそう?」
五年ぶりの水島からのメッセージは簡潔だった。星野は見た途端にずっと自分が考えていた悩みに百点の正解が届いたと思った。拍子抜けするほど、必要なことはこれだけだった。スケジュール管理用のアプリを立ち上げて明日からの予定を流し見る。土日には外せない仕事が入っているが、その分平日にあがりが早い日が続いていた。
「次の水曜と木曜なら18時には終われます」
送信には即既読の印がつき、まもなく返信があった。次に会うのは水曜の晩に決まった。
再会は夢ではなかった。また会える約束ができた途端に浮ついていた気持ちは落ち着いたて、ドジっ子のラベルは剝がせなくなる前に返上となった。
水曜日。星野は十分に余裕をもって約束の場所に向かった。二人の仕事が終わる場所の中間点を取った都心の小さな駅の改札の外。帰宅ラッシュの時間帯で途切れることなく駅に向かう人波が続いていた。星野は人をすり抜けるように改札を出て軽く首を巡らす。予想に反して水島は既にその場にいて、大きな柱に寄りかかってこちらを見ていた。軽く手を上げると、同じように手を上げ返してくる。星野は小走りに近寄って、途中でどこで立ち止まればいいか分からなくなった。そのまま腕を絡めるような恋人の距離感では近すぎる。でも、走り出してしまったのに妙に遠くで止まるのも絶対におかしい。一瞬の迷いの後で星野が立ち止まった場所は、思ったよりも水島が近かった。一歩か二歩、間違えたなと思う。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
二人の身長差は五センチもない。なのに水島が仰ぎ見る角度になっているのは距離が近すぎるからだ。それは分かるのに今さら後ずさることもできない。何気なさを装ってそのまま話し続けた。駅へ向かう人がひっきりなしに通り過ぎることが、二人がその距離を変えない理由として都合がよかった。
「飯食った?」
「まだです。水島さんは?」
「この時間に待ち合わせがあったら食わんだろ、普通に考えて」
「だったらなんで僕には聞いたんですか」
「え? 食べたかもしれないだろ?」
「意味不明すぎる」
「そうか?」
水島は聞き返しつつも、深く考えるつもりはないようで「とりあえず行くか」と身を翻した。大きくて重そうな鞄は星野と同様で、職業柄抱えて運ぶ荷物の量を感じさせる。
「昼飯なんだった?」
「普通のコンビニ弁当ですよ」
「そっか。俺牛丼」
「相変わらず肉ばっかり食べてるんですか?」
「キムチもつけたよ」
「はいはい」
呆れた顔を見せながら星野は駅前に並ぶ店の看板をざっと眺めた。気の利いた店がぱっと思いつくほど詳しい場所ではない。待ち合わせ場所が決まってからなんとなくは調べたものの、どんな店を選ぶべきか悩んでしまって途中で諦めた。それなのに並んで歩いてみると、自然と行先が浮かぶのだから不思議なものだ。きっと空気のせい。昔と変わらない会話ができているおかげで一人で想像しているときには見えなかった行き先が、ちゃんと見える。
「普通の居酒屋とかでいいですよね」
念のために確認すれば、水島は「おう」と当たり前のように答えて店選びを星野に委ねた。
平日ど真ん中の水曜日。19時前。居酒屋はまだ空いていてテーブルとカウンターを選べる余地があった。店員に尋ねられて星野は水島を振り返る。
「カウンターでいんじゃん?」
水島は即決して、そのまま二人はカウンター席に収まった。足元にそれぞれの大きな鞄を下ろして腰かける。メニューを覗き込む額がくっつきそうな席の近さだった。鞄を避けるように足を開いて座ると膝がぶつかる。星野は少しだけ鞄に足をのせて座ることにして膝を離した。
一度ぶつかった膝を気にするそぶりもなく先にメニューを見ていた水島はぱっと中身を確認するなり、すぐに星野に渡してきた。水島には決める気がないのではない。頼みたいものがだいたいいつも一緒だから、定番の品があることさえ確認出来たら、用は済んでいるのだ。星野はその癖をよく知っている。だから最初の注文は水島に任せた。後から全体の分量を調整するのは星野の役割になる。
「生二つ。あと、焼き鳥盛り合わせと、軟骨唐揚げ、野菜スティック……は、味噌で。それから……だし巻きは味選べる? これ、甘くないやつ? じゃあ、だし巻きも」
威勢のいい返事を残して店員が去った後で「お前、なんか食べたいのあったか?」と聞かれて星野は軽く首を振った。
「さっきのに、ちゃんと入ってたから大丈夫です」
「そっか」
「でも、よかったんですか?」
「何が?」
星野が答えるより前にビールが出てきて、一回会話は途切れた。とりあえずは乾杯だ。しっかり喉を潤してから「で?」と水島が話を戻してくる。
「え?」
「だから、よかったんですかって。何が?」
「ああ、野菜スティック。水島さん、マヨ派でしょ。この店、マヨもありますよ」
メニューを見落としたのかと示して見せると、水島は「うん」とだけ答えた。続きを待っている星野に横顔を見せたままメニューを指ではじいて閉じてしまう。
「味噌でいいんだよ。味噌も好きだし」
「……でしたっけ?」
口元が緩むから、それ以上は言わずに星野は納得した。昔から野菜スティックは味噌派なのは星野だ。なんとなく、水島がそれを覚えているような気がした。
飲みながらの話題は、今日の仕事、明日の仕事、今の住まい、最近見た映画。あっちこっちへ飛ぶ。二杯目のビールが空になっても避けているのは昔の仲間の話。
酒に強いのは水島の方。星野は二杯で切り上げてウーロン茶に切り替えた。それでも水島につられていつもより早いペースで飲んでしまったから、指先がだるいような感覚がある。体の微妙な制御が狂っている。ちょっと乗り出したはずみに鞄に置いていた足が滑って、また膝がぶつかる。
「あ、すいません」
「いいよ」
足を戻そうとした星野に、水島は「そのままで」と付け加えた。
「鞄、踏んづけんなよ。中身知らないけど足跡ついてんぞ」
「壊れ物はないから平気ですよ」
「でもお前、持ち物踏むのとか基本嫌なタイプだろ」
「まあ、それはそうですけど」
不意に水島がくっくと笑う。その揺れが膝から伝わってくる。
「思い出した。お前の脱いだ服の上に座って、めちゃくちゃ嫌な顔されたことあったな」
「えー? いつの話ですか? っていうか、どれの?」
「シャツだよ。なんか、緑の、ストライプのさ」
「ああ、それ学生時代の話じゃないですか。よく覚えてますね……」
「だって、お前、すんげえ顔すんだもん。仮にも先輩相手にさ」
「確か、デートの前だったんですよ」
「聞いたよ。聞いた」
今度は出会った頃の思い出話をしながら、水島は焼酎に切り替えていたグラスに口をつける。眼のふちが赤らんで、声がいつもより大きくなって、ご機嫌になる。皿を下げに来た店員に星野はそっと水を頼んだ。
「はい」
星野の前に届いたお冷のグラスを水島の方へ滑らせると、水島は一瞬きょとんとした。
「明日も朝からって言ってましたよね? もうそのくらいにしておかないと、響きますよ」
「ええ、もう?」
「たぶん」
星野が目を見て答えると、水島は中身の残っている焼酎を未練がましくゆっくりと奥へ押しやってお冷を手に取った。飲む前にグラスを瞼にあてて「つめてえ」と呟いている。グラスの水滴がついてびちょびちょになった瞼を雑にぬぐうとそのまま顔を覆った。
「大丈夫ですか? 止めるの遅かったかな」
ほぼ独り言だった後半の言葉も耳に届いたらしい水島がゆっくり顔を上げる。
「いや、大丈夫。完璧」
「本当に?」
「うん。完璧すぎただけ」
「なら、いいんですけど……」
釈然としない星野に「いいから、いいから」と適当に返して、水島は水をあおった。
明日も仕事の二人は、それなりの時間に店を出た。お酒の飲み方も弁えた年頃になっているから駅に向かう足取りにも目立って怪しいところはない。ただちょっとふわふわと楽しい気持ちの分だけ、足が軽く感じる程度だ。
駅までの短い道のりの途中で水島が問いかけた。
「なあ、こんな感じでいいか?」
「こんな感じ?」
水島はちょっと言いよどんでから、前を向いたまま答える。
「いや、ちゃんとした…デートみたいなんじゃないけど」
デートの一言に今度は星野が口ごもる。あの日、”たぶん”恋人になったと思っていた。でも”たぶん”じゃなかった。改めて確信を得て、胸の奥がじわっと温まった。枯れて消えるはずだった長い長い片思いの果てに、こんな日が来るなんて思ってもみなかった。
「……はい。夜景の見えるレストランとか、僕はいらないですけど…やりたい、感じだったりします?」
「いや、俺もそれはいいや。でも……まあ、いいか。そのうちで」
「何が?」
「ううん、秘密」
口を閉ざしてしまった水島の横顔を星野が軽く睨んでも、知らんぷりをして歩き続けていく。星野は少しだけ考えた。夜景の見えるレストランよりも、水島が行きたいところ。
「……家に来るときは1週間以上前に連絡してください」
「まだ言ってない」
憮然とした返事に「違いました?」と問いかけると、水島は親指で唇をなぞってから答えた。
「来週の水曜」
黙ってスマホを取り出した星野は手早く操作すると、顔を上げて返した。
「来週だったら木曜にしてください」
「金曜は?」
「来週だったら木曜」
水島は宙を睨んでから答えた。
「……後で連絡する」
「え、無理に仕事動かさなくても再来週とかでも」
「後で、連絡する」
一語一語、強調する水島に強い意志を感じて星野は折れた。
「……はい」
ちょうど駅に差し掛かった二人は次の約束を仮置きにして、改札で別れた。
水島が星野の家を訪ねてきたのは、最初に提案された日からさらに半月も後のことになった。水島はちゃんと連絡をよこしたのだが、それぞれの仕事のスケジュールの狂いが悪い方に重なってしまったのだ。仕方がないから昼間にちょっとだけ落ち合って昼食を食べたりはしたが、それにしたって小一時間しか顔を合わせられなかった。同じ業界で、似たような境遇にある二人だからお互い納得できるが、もしそうではなかったら喧嘩の火種になるだろうと、星野は他人事のように思う。そして喧嘩はしなくとも、会えるはずの予定が何度も無くなったら気落ちするのは避けられない。その日も水島から夕方近くにトラブルがあって仕事終わりが遅くなると連絡がきた。
「延期しましょうか? あんまり帰りが遅くなったら明日大変だし」
星野は同じ内容の提案は二回目だなと思いながら返信し、そのまますぐに仕事に戻った。メッセージを送った時点で今日の予定は流れた気でいた。だから、自分の仕事が終わった後に改めて「迷惑じゃないなら今日行く」という水島の返信を見て、思わずガッツポーズが出た。職場を出る前だったので、周りの視線が恥ずかしかった。
帰宅した星野が延々と部屋を片付けているうちに、水島から家の近くまでついたと連絡がきた。部屋番号を返信すると間もなくチャイムが鳴った。
「おじゃましまーす」
学生時代はなんの遠慮もなしに星野の家でゴロゴロしていたような気がする水島が、様子をうかがうように家に入ってくる。
「どうぞ。荷物、どこでも適当なとこに置いちゃってください。それで、こっち。こっちに座って」
星野がソファを示すと、水島は素直に従う。
「夕飯食べられました?」
「うん、お詫びにってちょっといい弁当買ってもらった」
「じゃあ、ちょっとだけ飲みます? 今、ビールくらいしかないけど」
「もらう。もらう」
星野が冷えたビールと適当なつまみをもって戻ると、水島はきちんとソファに座って首だけ巡らせていた。
「……楽にして、いいんですよ?」
「分かってる」
難しげに眉を寄せた表情で、どうにも居心地が悪そうだ。星野も、一人暮らし用の小さなソファに並んで座るべきか、自分は床に座った方がいいか、迷ってしまってビールを出した後もウロウロと落ち着かない。結局ソファの前の床にぺたりと座って、改めて乾杯しようとすると、水島もソファから滑り降りてきて、二人してソファを背もたれにする形になった。
「そっち座ってていいのに」
「俺だけ上に座ってんの、絶対変だろ」
「……そうですか?」
「普通にしゃべりにくいだろ」
星野は先ほど水島がいたあたりを振り返ってみると、確かにちょっと首が辛い。でも。
「ずっと見つめあってしゃべるんじゃなかったら、気にならないと思いますけど」
「……お前の後頭部だけ見てしゃべれと?」
「いや、そうじゃないですよ。もう」
つまみに手を伸ばして「あと、こっちのがとりやすいし」と水島が自分が床に座る理由を付け加えてきたので、星野はいったん諦めた。
「……昔は僕の家で寝っ転がって好き放題してたくせに」
「……お前、合宿で俺の布団横取りしたことあったろ」
「そんなことありましたっけ?」
「あった。俺が夜、トイレ行って帰ってきたら寝るとこなくなってた」
「覚えてないです」
「……一回も?」
「え?」
本気で記憶にないことが星野の様子から分かったらしい水島は「あー」と声を上げてソファにもたれた。そのままビールをぐっと飲んで冷たすぎたのかこめかみを抑えている。星野はちびちびと飲みながら水島の復活を黙って待った。
しばらくして顔を上げた水島は部屋の片隅を差して「それ」と言った。指が示しているのは壁際に置かれた電子ピアノだ。
「始めたの?」
水島が星野の家に気軽に出入りしていた頃にはなかったもので、そもそも星野は水島の前で楽器を演奏したことなどない。
「子供の頃に習ってたんです。実家に顔を出す機会が続いたときになんとなく触ったら、楽しくなっちゃって」
「へえ……弾けるんだ」
「弾けるってほどじゃないですよ。……本当に遊びです」
「ふうん」
そのまま会話が途絶えて、星野は少し温くなったビールをまたちょっと飲んで、缶についた水滴の上に指を滑らせて波線を描いた。濡れた指先をどうしようかと思っていると「仕事」と呟く声が聞こえてきた。
「何ですか?」
「仕事、調子、どう?」
「調子……ええと。まあまあ、ですね。最近はたいした失敗もしてないし。スケジュールもバッファー内に入ってるし」
「……」
「え、聞いてます?」
「おん。調子いいんだろ。良かったじゃん」
「はあ。まあ。水島さんは? 今日のトラブル、収拾ついたんですか?」
「一応。でもちょっと危ない感じは残ってるな。明日怖えな」
星野は水島の苦笑い気味の横顔を見て、その顎のラインがやっぱり以前より鋭くなったと思う。笑うときの表情のバリエーションが豊かなのは変わらなくて、同じ苦笑いでも苦さのレベルがちゃんと違うんだよな、と思う。今のは少し甘さがあったから、きっとそんなに悪い状態じゃない。
「星野?」
「え?」
「……聞いてないだろ」
じとっと睨まれて、星野は慌てて直近の記憶を呼び戻した。
「トラブル、だいたい、解決?」
星野が首を傾げると、水島は「怪しい」と言いたげに目を眇めた。
「聞いてましたよ。だいたいは」
「本当かよ」
「そっちだって、さっきだいぶ怪しかったですよ」
お互いに睨みあう。でも、どっちもどっちなのも分かっている。さっきからふわふわして会話が長続きしない。付き合いたての高校生だってもうちょっと上手にやるだろうに。
「ふっ、ふふ」
耐えられなくなって笑い出した水島は、それでも必死にかみ殺そうとしているようで眉が八の字になっている。泣き笑いのようなその横顔を星野は息をつめて見つめた。やがてすっと腰を浮かせて水島の方へ顔を寄せる。そのまま水島が彼の気配に気が付くより前に、その頬に短くそっと口づけた。
カタツムリが家に戻るように素早く元の場所へ戻った星野を、水島の半ば驚愕の視線が追いかけてくる。思わず膝を抱えて三角座りになった星野は、顎を膝に乗せたまま言い訳するように答えた。
「今の顔。困り眉の泣き笑いみたいな顔。かわいいなってずっと思ってたんです」
ずっと。本当にずっと。たぶん彼に恋していると気が付く前から。その表情が好きだった。一番、可愛くて、普段は堂々と現場の王様のように振る舞う監督の水島が、簡単に抱きしめられるサイズに感じられて、見かけるたびに胸がきゅっとなった。それを今、恋人の距離で見せられた。だから、つい。
「我慢、できなくなりました」
水島に顔を向けるのが恥ずかしくてそのまま膝に顔を埋めていると、ぐいと引き寄せられて抱き締められた。正面から抱き着いてきた水島は無言で頭を星野の肩口に寄せると、そのままぐりぐりと額をこすりつけて何か呻いている。
「ええ? ちょ、ちょっと」
星野が身じろぎしても、腕が緩まない。今度は頬と頬をくっつけて頬擦りされた。まだ何か唸っている。
「ちょっと、それ強すぎて、いたいって」
星野が文句を言うと頬が離れて、ため息とともにもう一度抱きしめられた。次は顎が肩に刺さっている。
「ねえ……」
背中をぽんぽんと叩くと、ようやく水島と目が合った。上気した頬と真剣な眼差しが星野の目の前にある。
「お前、今のは反則過ぎるだろ」
「え?」
聞き返す前に唇が塞がれて、でもすぐに離れた。それでも星野はもう一回聞き返そうとは思わなかった。ただ唇に残った温かい感触に意識が持っていかれる。もう一度きちんと目が合うと、今度はもっとゆっくりと近づいて、もっと丁寧に唇が重ねられる。何度も、確かめるように、ゆっくりと。
優しい口づけが、だんだん深まっていくにつれて星野を抱きしめる水島の手に込められる力も増していく。背中がのけぞるほど強く抱かれて覆いかぶさるように唇を食まれると、そのまま食べられてしまいたくなる。二人の胸の間に挟まったままだった星野の手は、いつの間にか水島のシャツを握り締めている。その手を解いて、水島が指を絡めた。
そのまま、倒れこみそうになったとき、星野は残った手で水島の胸をトンと叩いた。同じ動きをもう一度繰り返す。強くはない、小さな衝撃に水島は動きを止めた。そっと指先で押せば、押されただけの速さで水島の身が引いていく。唇だけは触れ合わせたまま少しずつ体が離れて、その隙間に二人の荒い息が落ちる。とうとう唇が離れて、繋がっているのは指を絡めた片手だけになった。
「急ぎたく、ないんです」
まだ息が整わない。瞳は潤んだまま。でも、星野の声にはちゃんと理性があった。水島はまっすぐ星野を見て、それから軽く目を伏せた。
「うん」
「ごめんなさ」
「ストップ」
水島はしっかり星野を見て言い聞かせるように断言した。
「お前が正しい」
「……はい」
「ゆっくり、の、方がいいと思う……辛いけど」
最後が本当に切実そうで、星野は小さく笑った。
すっかり温くなってしまったビールで仕切り直している間、二人はじわじわと近づいて寄りかかりあい、ときどき押し返しあった。話は相変わらずうまくかみ合わなかった。
明日もお互いに仕事がある。長居できないのは分かっていたことだ。ビールが空になったタイミングで水島が立ちあがった。
「また連絡するから」
星野も一緒に立ち上がり、適当な上着を掴んで既に玄関に向かっている水島を追いかけた。
「待ってください。駅まで送るから」
水島は靴に足を突っ込みながら「ダメ」と返した。
「なんでですか」
星野は踵を直していた水島が体を起こすのを待った。水島はちゃんと起き上がってから答えた。
「連れて帰りたくなるから」
表情が冗談ではなかったので、星野はそれ以上食い下がるのは諦めた。
「分かりました」
俯き加減になる星野の頭にポンと手を載せてから水島は扉を開けた
「しっかり鍵かけろよ」
「はい。そっちも気を付けて」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
言われた通り、扉に鍵をかけてから、ソファに戻ったら急に涙が溢れてきた。星野は自分は最近泣きすぎだと思いながら、しばらく黙って泣いた。




