1-2.
乗り継いで、乗り継いで、星野が駅を出たのは県境を越えた先の小さな海辺の町だった。
歩き出すと、風の湿り気を感じる。潮風の香りを辿るように星野は海へと歩いた。太陽は西へ傾きかけ、早春の日差しは冷たい風に負けている。
砂浜に出るころには、太陽は既に水平線に触れて強い金色の光が浜辺の全てを黒く切り取っていた。じゃりじゃりと湿った砂の感触は記憶よりも重く、靴の裏に吸い付く。星野は波打ち際へは寄らず、ただ砂浜を歩いた。あの頃。まだ水島と一緒に映画を撮っていた頃、最後の作品を撮っていた場所だ。
海は記憶と変わらない。ただ、とても静かで、頬に触れる風が温くないことだけが違う。
もう少し遠くまで行こうかと視線を投げた先に、人影があった。夕日を背負った人影は、ここ数日、何度も思い出したものと同じように見えた。
「あ……」
思わず、声が漏れる。そして、自分の声にはっとして星野は小さく笑った。いるはずのない人なのに。一瞬本気で期待した。あれが、水島なんじゃないか、と。
星野は軽く頭を振って、そのまま歩いた。近づいて、さりげなくその人が見ず知らずの他人であることを確認してから帰らないと夢に見そうだ。そんな気がする。星野が歩いていく間、その人影は微動だにせずに立っている。近づけば、海を眺めているのかと思った人影は海に背を向けていて、こちらに顔を向けているように見えた。視線は見えない。けれど、こちらを向いているような気がする。
星野の胸が緊張に痛み始めるころ、その人の右手がふっと顔の前に添えられた。唇に、触れるように。
星野は耐えられずに足を速めた。一歩ごとに早まる足取りは、やがて走っているのと変わらなくなる。
「水島、さん?」
近づいて、間違いないと確信して、やっと出した声は震えていた。彼の耳に届くとき、それが海風に煽られて声が途切れてしまっただけのように聞こえたらいいと思う。水島は五年の時を経て少し痩せたほかは、ほとんど変わらないように見えた。駆け寄る自分をまっすぐに見つめる眼差しも、記憶のなかの彼のままだった。
「星野、久しぶり……こんなとこで会うなんて」
水島はわずかに微笑んだ。深くなった目尻の皴。美しく弧を描く唇。穏やかな笑顔は若いころには見る機会の少なかったものだった。
「お前らしいな」
ふふっと笑い声を漏らしながら水島は首を振って顔に落ちかかる髪の毛を払う。星野はそのすべてから目を離せないまま立ちすくみ、再び顔を上げた水島は自分を凝視する視線に困ったように眉根を下げた。
「なんだよ、驚きすぎだろ」
「……驚きすぎって、何年ぶりだと思って」
「五年だな」
迷いのない返事は、彼が星野との別れを明確に記憶しているという告白だ。それにほんの少しの力をもらって星野は一つ、譲れない情報を付け加えて返した。
「音信不通の、五年ですよ」
二人が仲間たちと一緒に作っていた映画『浜辺の花』は不慮の事故からドミノが倒れるようにすべての歯車が狂っていった。水島がプロジェクトの終了の最終判断をし、制作担当であった星野とともに後始末を終わらせた。どうやって立ち直っていけばいいのかと思っていた矢先に水島が「しばらく今のクルーとは距離を置きたい」と言って連絡を絶った。それ以来、どんなメッセージを送っても、電話をかけても、一切の返事は来なかった。星野が連絡を諦めたのはさらに三か月後。以降、どちらからも連絡を取らずに四年と九か月。
水島を睨む瞳の端に涙が滲まないように星野は余計に力を込めた。しばらくそれを見返していた水島は、やがて、わずかに目を伏せて「悪かったな」と小さく謝罪した。海風はかき上げたばかりの水島の髪を乱して、伏せたままの瞼が震えて見えるのが揺れる前髪のせいなのか、どうか分からない。
星野はゆっくりと水島に近づく。手が届く距離まで来たときに水島が息を止めたのが分かった。星野はそこに立ち止まらず、水島の脇を抜けて海の方へ数歩進んだ。波が一度、寄せて返すのを見送ってから問いかける。
「どこで、何をしてたんですか?」
背中を向けたまま聞けば、水島の声が返ってくる。
「……東京にいたよ。CMやテレビの仕事とか、ぼちぼち。お前は?」
「同じですよ。東京で、テレビの仕事とか、ぼちぼち」
「嘘つけ」
「は?」
星野が半身振り返ると、水島は星野から三歩ほど後ろに立って海を見ていた。
「『明日と綺羅星』観たよ」
「ああ……はい」
「はいって、お前なあ」
「やってることは水島さん達と一緒にやってた頃と変わりませんよ」
水島は星野に体ごと向き直った。また、まっすぐに視線が合う。
「お前な。誰に向かってそれを言ってんだよ。公開予定もない素人の自主制作じゃねえ。小さくても全国公開の商業作品だぞ。同じわけあるかよ。しかもエンドロールのあそこに名前があるってのは、それだけの仕事したってことだろ。素人じゃなけりゃ皆分かることだよ。偉そうにしろよ」
「別に、偉くなってなんかないです。たまたま知り合った人が気に入ってくれただけですよ」
「そういうのは実力を買われたって言うんだよ」
「普段はバイトみたいな仕事ばっかりですし」
「……んなもん、みんなそうだろ」
映画の専門職で食べていける人間は一握りだ。映像の何でも屋みたいになって映画の世界にしがみついている仲間たちの暮らしぶりには大した差はない。水島の口ぶりから、彼もまた苦労して映画の近くに留まっているのが分かった。
「……映画は? 水島さんは、映画は?」
「たまに。少し」
答えながら水島がまた海を見た隙に、星野はそっとうつ向いた。水島が映画を続けていてくれて嬉しい。でも、続けているからこそ、もうそこに自分がいないことが耐えがたく苦しい。自分が平静な表情をできている自信はなかった。
「どんなの、やってるんですか?」
誰と、の方が聞きたいくせに、その質問を口にすることもできない。足元を見たまま聞けば、軽い調子で返事が返ってくる。
「ん、まあ、色々」
「色々って」
「……現場の使い走りだよ。要はバイト」
「監督は……やってないんですか?」
「映画じゃないやつだけ」
星野は顔を上げ、さらに質問を続けようとして言葉を飲み込んだ。水島が自分を見ていたからだ。真剣なまなざしがまっすぐに星野をとらえる。重い波の音と、湿った風とが、二人の間を行き過ぎた。水島の声が深く沈むようにその場に響く。
「なあ。もし。もし、俺がもう一回、あの映画撮りたいって言ったら、お前、また一緒にやってくれるか?」
何を聞かれたのか理解するのに、数秒要した。けれど、返事を用意するのには一秒もいらなかった。
「やります」
真顔のまま返された言葉に、水島は目を丸くして、それを隠すように足元へ顔を向けた。
「早えな」
星野は自分の気持ちに嘘がないことを確信して繰り返す。
「やります」
「うん。分かった、もう、分かったから」
軽く片手をあげてちょっと待てと示した水島は、そのまま上げた手を口元に運んで親指で唇をこすった。繰り返される仕草を星野は黙って見つめる。最後に一度、唇が歪むほど強くこすった指が離れるのと同時にふっと息が漏れた。水島は改めて海へ向き直り、両腕を振り上げて大きく伸びをする。
「お前のそれが聞けたら、もう、いい気がしてきたな」
「いい?」
星野の怪訝そうな声に背を向けたまま、水島は答える。それは小さな声だったが波音に消えることなく星野に届いた。
「映画……」
「は?」
「俺もう33だよ。夢だけ追える年じゃない……。お前がさ、もう一回一緒に撮ってもいいと思えるような映画作りができてたんだとしたら、もう十分」
星野は乱暴に水島の腕を引いて言葉を遮り、そのまま彼を自分に向き直らせた。心臓が強く打ち、目の縁は熱い。迸る言葉は叫ぶように強くなった。
「何言ってんですか!」
睨み据えた先の水島は驚いたように星野を見つめている。
「僕は。僕は、あなたの映画と、あなたの夢と、一緒に生きたいんです。やっと会えたのに……なのに、また一人で勝手に行っちゃうんですか?」
怒りに震える体を支え、星野は続けた。
「夢を……僕を、放り出して」
目に浮かぶ感情の高まりに反して、星野の声はそれを押し殺すように低くなった。
「だったら、今さら誘うようなこと言わないでください。僕の言葉で諦めがついたなんて、僕を逃げ出す理由にしないでください。そんなの……勝手すぎる」
目尻を乱暴にぬぐった星野は黙って水島に返答を求める。天を仰いで深呼吸を繰り返した水島はやがて「すまん」と静かに頭を下げた。
「何が」
「確かに卑怯な言い方だった。お前に俺の人生決めさせるところ……」
「そっちじゃない!」
星野は正面から水島の両腕を強くつかんで問い詰める。
「映画! 本当に、映画やめるんですか?!」
星野を見つめ返す水島は少し眉を下げて、ほんの一瞬、泣き笑いの表情を浮かべた。
「……やめない」
「本当に?」
「……続ける」
まだ声を震わせている星野に水島は何度も「やめないから」と繰り返した。しまいにはしゃがみこんで顔を覆ってしまった星野の前に同じようにしゃがんで、その肩の震えが止まるまで。
星野はまともに喋れるようになると、まず水島に缶コーヒーを要求した。浜辺の入り口あたりにある自動販売機まで先輩を走らせている間に、涙の跡をぬぐって消す。適当な流木へ腰かけて待っているところへ水島が戻ってきた。ほい、と差し出された温かいコーヒーは星野の好みをきちんと押さえていて、星野は「この人は本当にこういうところなんだよな」と少し呆れた気持ちでじっとりと見上げる。
「ん? こっちの方がいいか?」
視線をどう思ったのか水島が自分用に握っていた缶を示す。
「それ、コールドでしょ?」
「そうだけど」
「こっちがいいです。いただきます」
「おう」
缶コーヒー二つ分ほどの距離を開けて座り、それぞれのコーヒーを飲みながら、もうだいぶ暗くなってしまった海を眺める。日差しの残していったぬくもりが消えると、吹き付ける風はますます冷たく、隣り合う人の気配のある方の肩だけが残照のように温かかった。やがてそれさえも闇に溶けだしてしまう頃に水島が口を開いた。
「映画さ」
「はい」
「本当に、お前、また一緒にやってくれるの?」
「はい」
「……じゃあ、頑張らないとな」
最後の言葉は返事を求めているようには聞こえなかったので、星野は黙って聞いた。そのまま、また波の音だけに満たされた時間が続き、とうとう完全な夜空が広がる頃に水島が立ちあがった。
「さて、すっかり暮れちまったし、そろそろいくか」
うつ向いて、座ったままの星野を見下ろして、続ける。
「腹も減ったし、あそこ行こうぜ。ピエロ」
一緒に映画を撮っていたころにクルー達の行きつけだった喫茶店の名前に星野はようやく腰を上げた。二人はそれぞれに砂を払い、五年を経てなお足が覚えている通りに町へと歩き出した。
浜を少し離れた住宅街に入ると、そこにはもうほとんど人通りがなかった。
「よく来てたんですか、ここ」
「たまにな。たまに、仕事が詰まったときとかに」
車も滅多に通らない路地を並んで歩きながら話す。振り返って顔をみなくても声の気配で水島が苦笑いをしたのが分かった。きっと今日も同じ理由で来ていたのだろう。
「お前は?」
「僕は……ずいぶん、久しぶりです」
「そっか」
星野が最後にこの海に来たのは水島と連絡が取れなくなった後、まだ、彼を探していた頃。探すのは止めると決めてからは通うのを止め、いつしか行こうと考えることもなくなっていた。
「最近、小森に会ったから」
「うお、懐かしいな。小森か」
「はい。それで思い出したんです」
あなたのことを。
最後の言葉を飲み込んで、星野は代わりに別の大事なことを口にした。
「……ピエロ、なくなってますね」
「……そう見えるな」
住宅街にポツンと突き出した赤い庇が目印だった喫茶店は、どうやら別の業態に変わってしまったらしく当てにしていた明かりは見えなかった。
「どうすっかな」
今は雑貨店になっているらしい店舗の前で水島が首をかしげる。覗き込んでも、中に喫茶店の面影はない。
「別のところ、行ってみます? ちょっと戻っても良ければ、もう一つ心当たりがあります」
未練がましく元ピエロの中をうかがっている水島の背中に声をかけると、水島はすぐさま振り返った。
「さすが星野。そっち行ってみようぜ。それも駄目だったら、そんときはそんとき考えるってことで」
すぐに元来た道を戻ろうとする水島を「こっちからの方が近いです」と呼び止める。立ち止まった水島は目を細めて「おう」と答えた。見切り発車ばかりする水島を星野が呼び止める。こんなことは日常茶飯事だった。
星野の記憶を頼りにたどり着いた二軒目の喫茶店は、幸いなことに今でも営業していた。向かい合わせのソファー席に落ち着いて、今度は二人そろってホットコーヒーを注文する。春の夜はまだまだ冷える。日が暮れきるまで潮風に吹かれていた二人はすっかり冷え切っていた。
温かいコーヒーで一息ついたらしい水島が静かな店内を見回して嘆息する。
「よく覚えてるな。それ以前に、よく知ってんな。俺、当時もこんなとこまで来た覚えないぞ」
「そりゃあ、監督のこだわりで撮影がおして、せっかく予約しておいたいい感じの光が入る席のシーンが夜になるなんてこと、よくありましたからね。いくつか似たような雰囲気の店のストックは持ってましたよ」
「……星野はさあ、優秀だし、優しいんだけどさあ、意地が悪いよなあ」
「はあ?」
「意地が悪いっていうか。うん。意地が、なんていうかな」
ううん、と唸りながら水島の親指が唇に乗せられる。考え込むときの彼の癖。それほど悩みが深くない今はただ添える程度の力で指はそこに留まっている。
「そんな悩むとこですか?」
「表現が難しいんだよな。前に迂闊なこと言って怒らせたろ」
「迂闊なことって……どれです?」
「どれって……そんな山ほどあったみたいに言うなよ」
そこまでじゃないだろ、とぶつぶつ言う水島を星野がじいっと見つめていると、水島は気まずそうに見返してきた。
「え、本気で聞こうと思ってんの? いや俺はいいけど、言っても怒るなよ? 絶対に怒るなよ?」
「くどいなあ、分かりましたよ。気になるから言ってみてください」
「……素直じゃないって」
聞いた途端に星野は思い切りしかめ面になって周囲の客が振り返るほどの音量で舌打ちをした。
「お前……」
「怒ってないです」
「それは無理があるだろ」
呆れた様子で水島が言う。
「ちょっと機嫌を損ねているだけです。自分で回復可能な範囲です」
まだ不機嫌顔のまま、少しすんとした調子で返す星野をまじまじ見つめて水島は嘆息する。
「マジで変わんねえな」
そして少し目尻を下げてわずかに笑みの気配をにじませる。
「素直じゃないとか、素直になれとか。そもそも相手が心を開けるほどの信頼を得られてない自分のことを棚に上げて、相手を責める言い方で本音を簡単に差し出させようとする態度。そのものが気に入らないって。あれ、完全にキレてたよな」
「よく覚えてますね」
「忘れねえよ。あれ以来、脚本の中でも簡単に「素直になれ」なんて言わせられない。書きそうになると、問い詰める。お前は、そんなに偉そうに相手の心に踏み入れるほどの誠意を見せたのかって。で、たいていの場合、答えはNOなんだよな」
星野は首を深く縦に振った。腕組みをしたまま、唇は少しゆがめて結んだままだが、視線は柔らかい。自己申告の通り、自力で感情を回復している。水島が星野の視線をとらえようとすると、すんなりと目が合った。
「だから、まあ、俺が今、星野の前で見栄を張らないでいられるのはお前のおかげってことだな」
星野の唇がやっとほどけて、半開きになって、何か言う前に水島の言葉を聞いて止まる。
「そうじゃないときは……俺が、ただ見栄をはりたいだけだよ」
星野の半開きの口が、さらに開いて止まる。じっと見つめる先の水島はわずかに目を逸らして、その目尻が紅潮している。コーヒーカップを取り上げて視線を逃れた水島が、カップを下ろすのを待ってから星野は言う。
「ねえ、ソレ、……汐のセリフ?」
指摘された水島が何も否定しないので、星野はその意図を確信した。二人が撮っていた映画の主人公が「ただ見栄を張りたいだけだよ」に続けたのは「惚れた相手の前では」。
「本気ですか」
問いかける声が上ずった。テーブルの上に出したままだった星野の手に力がこもり関節が白くなるほど握りこまれる。それを見やりながら、水島の答えは静かだった。
「うん」
「なんで……」
重ねて聞きながら星野がまた泣きそうになると、水島は腕を伸ばして握られたままの手包んだ。
「言わなかったの、後悔してたから……気づきもしてなかった。会えなくなるまで」
星野は水島の手を押し返す。そのまま戻っていこうとする星野の指先に指を絡めるように、もう一度水島がつかまえた。決して強く掴んではいなかったけれど、星野は止まった。
「……もう遅い?」
「遅い…」
水島の指をぎゅっと指を掴み返した星野は、さらに力を籠める。水島が顔を歪めるのを睨みながら続けた。
「でも、間に合ってます」
水島は、しばらく息をつめてから、ぶはっと吐き出した。
「お前は、本当に……意地が悪いよな」
そのまま、テーブルの上で控えめに指を絡めたまま、水島は空いた方の手で顔を覆い天を仰いだ。
「寿命縮んだ……」
やがて聞こえた呟きに、星野は俯いたまま「こっちは心臓止まりかけました」と返した。
若い頃は平気で閉店まで粘った喫茶店も、少し視野が広がった大人になると最後の客として長居するのは居心地が悪くなる。夕飯代わりの軽食メニューを平らげて、食後のコーヒーのお代わりを勧められた時点でどちらともなく席を立った。店を出ると星野は黙って歩き出す。水島はポケットに両手を突っ込んで、迷いのない足取りで進む星野を追いかけた。二人は町の中心へと向かう。町の中心を抜けると目抜き通りの端に駅がある。地方の小さな駅の周りには夜中まで営業する小さな居酒屋やスナックが並ぶエリアがあるが、今からそこで飲みだしたら終電を逃すだろう。
ただ並んで黙って歩く。水島にとっては予想通りに、星野の足は飲み屋街には向かわない。ただ、街灯のひときわ明るい道に近づくにつれて少しずつペースが落ちる。それでも、振り返りも、話しかけもせずに前を見て歩く。前髪とマフラーで覆われた横顔からはほとんど表情はうかがえない。ただ少しずつ、歩幅が狭くなる。
駅へ続く道までの曲がり角の手前で水島が声をかけた。
「この辺で飛び込みでも泊まれそうなとこ、あるか?」
相変わらず振り返らないまま、星野は答えた。
「……ありますよ。綺麗じゃないけど」
「いいよ、どっちだ?」
曲がり角で水島が足を止めると、星野は駅とは反対側を指さした。
「ん」
星野の示した方へ水島が歩き出すと、今度は星野が付いてくる。先を歩いていく水島に「次、左です」と半歩遅れた星野が指示をして、たいした時間をかけずに知らなければ間違いなく見逃すであろう民宿にたどり着いた。
すでに時刻は十時近かったが幸い部屋は空いていて、二人はくたびれた畳の六畳間に収まった。さっさと布団を引き出して寝転がった水島は脱いだ靴下を部屋の隅に投げようと振りかぶってから、急に置きあがった。
「コンビニ、寄ってくりゃよかったな」
「そこらにありますよ。行ってきます?」
「うーん、小腹は減ってる。でも、もう一回出るほどかっていうとな。……もう面倒くさい」
また布団に倒れこんで、今度こそ靴下を放り出す。壁にもたれて座った星野は飛んでいく靴下を目で追って二つがばらばらに着地するのを見届けた。
「自動販売機なら下にありましたよ」
「それは見たけど、別に酒って気分じゃない」
狭いロビーに置かれていた自動販売機には簡単なつまみになりそうな乾きものしかなかったのを二人とも目の端で確認していた。
「まあ、確かに」
「早く寝て、早起きして、早く朝飯食おう。俺はそれにする」
「はいはい」
星野はゆっくり立ち上がって、チェックインのときに受け取った薄いタオルと歯ブラシをとると共同の水場へ向かった。出かけながら、転がっている水島の左右の靴下を足で寄せていく。その仕草を寝転がって見届けて、水島はそのまま目を閉じた。
星野が部屋に戻ってきたときには水島は本当に寝入っていて、星野はその枕元にしゃがみこんでじっと水島の寝顔を見下ろした。小さな町のはずれの民宿は静かで、どこかの部屋から漏れ聞こえるテレビの音だけが現実の気配を漂わせる。星野は薄く口を開いて、でも言葉はなく、細く息をついた。まつ毛が少し揺れて、水島が眉を寄せる。誰かが見ているバラエティ番組は面白いところに差し掛かったのか、どっと笑う声が遠く聞こえた。
「……歯くらい磨いてから寝てくださいよ」
「ん? ああ、寝てた」
「コーヒー飲んでそのまま寝ると、けっこうやばいですよ」
「んん、んだよ。どうせおっさんなんて、みんなから臭い臭いってよ……」
「ぐずぐず言ってないで、ほら。あ、ああー裾に砂入ったまま寝るからシーツが砂まみれじゃないですか。迷惑な客だなあ。こっち通らないでくださいよ」
「もー、うるせえなあ。分かってる……」
むっくりと身を起こした水島は自分の枕元に置いてあるコンビニのおにぎりとカップのみそ汁を見つけて黙った。
「お湯、ポットにありますよ」
申し訳程度の小さな冷蔵庫の上に寝る前にはなかった保温ポットが乗っている。
「星野」
振り返ると、星野は黙って小首をかしげて「ツナマヨですよ?」と返した。
「好きだよ。ツナマヨは好きだけど。そうじゃなくてさ。俺、甘やかされすぎじゃない?」
「……いけないですか?」
「いや、そうじゃないけど……きゅんとした」
「……馬鹿じゃないですか」
「……知ってる」
水島は立ち上がると、まずズボンを脱ぎだして「どういう手順?」と星野に呆れられながら、砂のついたズボンを丸めて靴下の上に放り出した。Tシャツにパンツ姿でみそ汁に湯を注ぎ、おにぎりのフィルムを剥いて嬉しそうに眺める。
「星野、ありがとう」
星野は窓際の壁にもたれて座ったまま、薄く微笑んだ。
「どういたしまして」
「いただきます」
それから水島はもそもそと夜食を食べながら、二人はこれまでの五年間でしてきた仕事の話をぽつぽつと話した。星野が映像制作会社に所属しているのに対して水島が完全にフリーランスで活動していること。最近の星野の仕事は映像制作の裏方中の裏方である制作が中心になっていること。水島は映画からはしばらく離れていてCMやMVの雇われ監督の仕事ばかりが続いていること。知らなかった共通の知人の存在も何人も明らかになった。業界は狭い。きっと、積極的に探そうとしていたら、もっと早く見つけられていただろうけれど知らないまま過ごしてきた。でも人づてに聞くのではなく、お互いの口から答え合わせするのがきっと正解だったから、遅すぎたわけではないと思えた。
夜食も、歯磨きも終わって、やっと電気を消すという頃になって水島がスマホに目覚ましをセットしながら星野を振り返った。
「今日、泊まっちゃって大丈夫だったか?」
「ダメなら来ませんでしたよ」
「朝早い?」
「いえ、ちょうど仕事がちょっと飛んだとこだから暇です。今日ここまで来られたのも、そのおかげで。明日も午後からで十分ですよ」
「そっか。じゃあ、よかった」
「そっちは? 何時ですか?」
「新宿に10時……半に戻っとけば」
「10時ですね」
「信用ねえな」
「実績がないからですよ。……せいぜいこれから積み上げてください。ここから朝ごはん食べてから電車に乗るなら、七時起きくらいかな」
星野がさっさとアラームをセットするのを見て、水島は自分のスマホを放り出してそのまま布団に転がった。
「……何年かかるかなあ」
水島は両手で顔を覆ってため息を漏らす。星野はそれを小さく微笑んで見下ろしてから部屋の電気を消した。蛍光灯のまぶしさから解放された水島は大の字になり、その手足が星野の陣地に飛び込んでいる。
「時間はたっぷりあります」
「だなあ。人生百年時代だもんな。半分以上残ってるよな」
星野は水島の手足を避けるように布団へ入った。昭和の規格なのかいささか小さい布団は長身の星野がまっすぐに寝ると足がはみ出そうになる。横を向いて少し丸くなると、ほどよい感じに収まった。そうすると投げ出された水島の手が星野の目の前にある。無防備に開いた手のひらに、そっと指先を重ねて目を閉じた。
「おやすみなさい」
返事の代わりにゆるく手が握りこまれた。
翌朝、早朝から営業している定食屋で朝食を済ませた二人は、通勤客で混み合う電車に乗って東京へ戻った。新宿駅で降りて改札を出る前に連絡先を確認する。互いにスマホを取り出そうとしたところで、どちらも連絡先が五年前から変わっていないと分かって、鞄やポケットに無駄に手を突っ込んだだけで終わった。「じゃあ」の一言だけを交わして人ごみの中をそれぞれの行く先へ歩き出す。次の約束はなかったが、それはこの先、連絡を取り合えると確信していたからだった。




