1-1.
その朝、星野良樹はさっきまで見ていた夢が砂の山のように崩れて消えていく感覚とともに目を覚ました。何かを見ていた。それは間違いない。けれど、それがなんだったかはもう分からない。ただ、崩れていく景色が灰色で、だからたぶんあの日の夢だったんだろうと思った。
目に映る世界から色が崩れ去っていった、あの日の景色を今でも覚えている。
スマホのアラームを止めて、手早く朝の支度をする。今日から新しい案件に入るのだから遅刻は厳禁だ。顔合わせから始まるので襟のついたシャツを羽織り、いきなりトップギアを要求されても走り出せるようにスーツは避ける。大きな鞄には昨夜までに目を通した一通りの資料が既に収められている。忘れ物の心配はない。
「えーっと、六本木…六本木……」
プライベートでは縁のない街への行き方を確認して家を出る。空を覆う雲の色が濃い。折り畳み傘は鞄の底に入っていただろうかと考えてみるが、よく思い出せない。鞄を多少揺らしたところで台本やらスケジュールやら、とにかく紙の資料が多すぎて重さからは全く判断がつかない。
「ま、いっか」
今日はいったん、目的地についたら帰宅まで外に出る予定はなかった。打合せがすべて終わるころに、雨が降っていたら傘を買おう。判断は早く、星野はすぐに空模様の心配を頭から追い出した。
小さな映像制作会社に勤める星野は、会社の意向によってあちこちの制作現場に参加する。大学の映画研究会時代から、小さな自主制作映画、小遣い稼ぎのMVや中小企業向けCM制作などを経て養った「どこに、いつから参加しても、だいたいできる」スキルは非常に重宝されて、ありがたいことに仕事が途切れることは少ない。
今回は珍しくテレビ局の制作部の下請けで単発ドラマの制作の仕事が来ていた。最初の発注元からいくつの段階を踏んで星野のところまで話が来たか分からないが、そうした仕事が流れ着いてくるのも星野にとってはよくあることだ。一緒に仕事をした相手が、顔と名前を憶えて帰って、次の仕事で呼んでくれる、というサイクルをずっと繰り返している。おかげで所属会社では「営業いらず」の評価をもらっている。放っておいても売れるのだ。
「星野! 星野!」
テレビ局での正式な顔合わせが終わって、会議室の場が緩んだところで大声で呼びかけられた。今回の仕事は局の何かの記念企画というだけあって、なかなか重厚な布陣が組まれており、会場には百人近い関係者が集まっていた。普段テレビとは縁が薄い星野は知り合いを探す気もなかったから見落としていたが、その場に知人がいたらしい。あちこちで小さな輪を作っている人々をかき分けて寄ってきたのは学生時代の友人の小森だった。
「小森。あれ? ここの社員?」
「そうそう。って言っても、本体じゃなくて関連会社だけど。お前は? なんか前の方に座ってるやつ、知ってる顔してんなと思ってよく見たら星野良樹ってあるからさあ」
小森が示したスタッフ表の一枚目、制作班の一覧の中ほどに星野の名前があった。
「僕はただの派遣」
言いながら、スタッフ表の上に視線を滑らせていっても小森の名前は見当たらない。星野は三枚目あたりにまとまっていた社内調整や広報周辺かなとあたりを付ける。技術屋というには小森の服装は小奇麗すぎた。スーツを着こなし、ちゃんとした社会人に見える。
「すげえ久しぶりじゃん。ていうか仕事で絡むの初めてだな。いやあ、まさかここでお前に巡り合うとは……後でさ、ちょっと一杯いこうぜ。いろいろ話したいし」
「うん、連絡先変わってないから」
「おっけ。じゃ、こっちから連絡するわ」
続けて別の予定があるという小森はバタバタと去っていく。人ごみを上手によけながら走る紺色のスーツはすぐに見えなくなった。星野はふっと息をつく。先ほどまでよりも肩が軽くなった気がした。
自分のチームに所属してそれなりに気心知れたメンバーで仕事ができたのはほんの駆け出しの頃。今の会社に正式に就職してからは単身貸し出されていく仕事ばかりで、いつも初日は緊張する。今日は思いがけず旧友に救われた。星野は深呼吸すると新たな仕事仲間に改めて挨拶すべく、人の輪の中へ戻っていった。
小森とゆっくり話す機会が訪れたのは翌週に入ってからだった。諸々の作業が滑り出し、かつ、まだ撮影が本格化する前の比較的余裕のある時期を狙って二人は夜のコーヒーショップにいた。小森が言っていた「一杯」はコーヒーのことだったらしい。聞けば妻が妊娠中なので、自分も飲酒を控えているそうだ。
「小森がお父さんかあ。早いねえ」
「俺らも三十だから、特別早くはないけどな」
「まあ、そうなんだけど」
若い頃からの友人が父親になると聞くと、もう自分もそんな年齢になったのかとはっとするものだ。
「お前はどっかの女の子に押し切られて早めに結婚するって線もあると思ってたけど、いまだに逃げ切ってるのか」
「別に追いかけられてないよ、誰からも」
小森の思い込みに星野は苦笑いを返す。恋人自体、もうずっといないと続けると、小森は「もったいね」と返した。
「別に欲しいと思ってないから、いいんだよ」
「かーっ、若いうちにモテ散らかした奴はよ! あの、二回生のときの伝説の主演があってもまだモテるとか、反則なんだよ」
星野が非常に情けない表情を浮かべたのを見て、小森の口調は穏やかなものに戻った。
「いや、責めてるんじゃない。あのときのお前の演技が俺たち42期生の結束を固めたんだから、俺は今でも感謝してる。顔だけで主演を抜擢したらどんなひどい目に遭うか早いうちに経験できてよかった」
言いながら思い出し笑いで言葉を切ってしまった小森に、星野は「もう。何年そのネタ言い続ける気だよ」と力なく言い返した。大学の映画研究会時代に同期だけで作品に取り組んだことがある。そこで無理やり主演を張らされた星野の惨憺たる出来は同期どころか映画研究会全体の語り草になるレベルだった。憧れていた先輩が「お前の居場所はカメラのこっち側だな」とスタッフとしての適性を認めてくれたことが唯一の意味があるフォローだった気がする。
「お前、演者方向にさえいかなければ良いんだけどな」
「僕は演者やりたいなんて一回も言ってないんだけどね」
星野の反論は、綺麗に無視されて小森は「ほら、あれ」と話を変える。
「前にさ、うちの嫁さんと映画見に行ってさ、『明日と綺羅星』。エンドロールに星野の名前が出てきたから「うおっ」てなったよ。全国公開の作品のエンドロールに自分の仲間の名前があるの、鳥肌立ったぜ。お前と一緒に映画作ってたこと、その場ですぐ自慢した。ちょっとテンション上がりすぎてウザがられたわ」
はははと笑う小森に、星野は「何やってんの」とあきれた後で小さく首を横に振った。
「あれは本当にたまたま呼んでもらったんだよ、前に一緒にやってた人に。上にも下にも頼れる人がたくさんいたし。実際にはあっちこっちで使い走りしてるだけだから、昔とそんなに変わらないっていうか」
小森は目をカッと開いて身を乗り出した。
「ばっか言えよ。俺だって並び順見りゃ何番手かくらい分かるわ。あんなでかい作品でも自主制作の頃と変わらないポジションもらえんのがすげえんだろお……まあ、そういうとこが、お前らしいんだけどな。売れようが、売れなかろうが、お前は絶対に映画から離れないと思ってた。あと、あの人」
そこで小森は親指で唇を強くなぞって見せた。
見覚えのある、忘れられない、その仕草。目の前の小森は彼とは似ても似つかないのに、その仕草一つで星野は一瞬、息が詰まった。
「水島さん。あの人とお前は、石にかじりついてでも映画撮り続けるタイプだよ。卒業してからもしばらく自主制作とか一緒にやってたろ。最近は? 連絡とってる?」
小森はちろりと上目遣いに星野を見る。どこか気づかわし気な小森に星野は柔らかな眼差しだけを返した。
「ほら、あの件以来、あの人、OB会も誰かの新作の試写とかも、全然来なくなっちゃったからさ。元気かなって」
「……ごめん、僕もあれ以来連絡とってないんだ」
星野の返事に小森は肩を落とした。
「……そっか。星野でダメなら、きっとダメだな」
「それは、分からないけど」
もし、そうならば、ほかの誰にも連絡をしていないのならば。ほんの少しだけ報われる。星野の胸の中でさえ囁くように思う。
「まあ、制作打ち切りってのはキツイよな。水島さん、監督だけじゃなくてプロデューサーも兼任してたんだろ? そりゃあ、責任感じただろうなあ……。しかも、スポンサーとかなり揉めたって聞くし。でも、一応は丸く収まったってことでいいんだよな?」
「うん。裁判沙汰とか、賠償とか、そういうのはね。なくて済んだ。多少は経費持ち出しになったけど、その程度だよ」
「そっか。……映画では名前、聞かないけど、映像関係のなんか続けてるって噂ない? 俺、たまに聞くんだけど」
「うん、僕もたまに見かけたって話は聞くけど。それだけ」
「業界内にいる気配だけはするんだよなあ。なかなか尻尾まで掴めないんだけどさ。って、幻の獣かよ……。でも、ちょっと似合うな。あの人に」
確かに似合う。気高くて、気まぐれで、何よりも強い。星野はくすっと笑った。
「気配が残ってるっていうか、あの人の場合は気配が強烈すぎて遠くにいても感じちゃう人が多いのかもね」
小森も小さく笑う。
「分かる」
だからこそ、あのときの彼の離脱はチームにとっても星野個人にとっても致命傷だった。そこにいることを意識せずにはいられないような、強い存在だったから、その不在も強烈だった。手がけていた作品が撮れなくなった後で彼を失ったときに、星野の心には埋めようのない穴が開いてしまった。
セットが組みあがり、撮影が本格化すると星野の稼働時間は早朝に偏ったり、深夜に及んだりと一般的な会社員とはかけ離れていく。撮影の進行を裏から支える制作班にいる星野と、対外的な広報が中心の小森とはばったり会うこともほとんどなかった。けれど、呼び起された記憶は、カチンコのなる音やカットのかけ声、強い照明の光の端々に滲み出てきた。水島が、あの頃、どんな風に指示を飛ばしていたか。二人で顔を寄せ合って覗き込んだモニターに映っていた海辺の景色。カメラを通してわずかな勇気を拾い上げていく優しい演出。
目の前の仕事に集中しようと何度も振り払い、必要な仕事を重ねていく。
なんてことはない。ずっとそうやって乗り越えてきた。思い出さなくなる日まで、何度でも振り払い続けるだけ。
ドン、ガシャーン!
不意に休憩中のはずの現場に大きな音が響いた。ガランガランと倒れた何かが転がる音が続く。星野はハッと息を吸うと音のした方へ全力で駆け出した。
「大丈夫ですか?! けが人は?!」
撮影スタジオに駆け込み、ざわついているスタッフを乱暴にかき分けていくと、音声用クレーンがバランスを失って、カメラが倒れていた。
「岡本さん! 近藤さん!」
カメラスタッフの名前を呼べば、一人は人の輪の中から片手を軽く上げて無事を知らせてきた。もう一人は尻もちをついたまま、自分の足の間に倒れたカメラを見つめている。
「近藤さん!」
もう一度名前を呼ぶと、驚きから立ち直ったらしい近藤が星野の方に視線を向けた。
「ああ、びっくりしたあ……」
心からの声を漏らしながら立ち上がろうとする近藤が腕に力をかけたところで、わずかによろめく。それでも、そのまま彼は慎重に立ち上がり腕を軽く振った。星野はまっすぐ彼に歩み寄ると半ば強引に腕をとった。
「手、見せてもらいます」
「いや、大したことないよ。驚いて転んだだけだから。それより機材……」
「怪我が先です」
「でも」
近藤は未練がましく倒れているカメラを見やるが、星野はカメラなど見向きもしないまま言った。
「捻挫っぽいですね。病院に行って診断書とってきてください」
「え。そんな大げさにしないでも」
「ダメです。労災申請に必要になります。すぐ行って、ちゃんと診てもらってください」
「でも、次のシーン……」
いつもは柔和な星野が、頑として譲らない。近藤は助けを求めるように別の撮影スタッフに視線をやったが、彼らもこれまでにない星野の強硬な態度に戸惑ったように口ごもっている。場を動かしたのは騒ぎを聞きつけてきた監督だった。
「近藤、星野君の言うとおりにして。今どき、コンプラもうるさいから、危機管理。危機管理。機材は岡本に任せて。それより何より、クレーンの安全確保。それ終わったら制作チーム集合。誰かたなPに連絡入れて」
監督が矢継ぎ早に指示を出すと、ようやくスタッフが動き出す。星野は近藤に「重いもの、持ったら駄目ですよ」と念を押してようやく彼のもとを離れた。事故現場の確認に加わろうとしたところを監督に呼び止められた。
「星野君、Good JOB」
星野が頭を軽く下げると、監督はポンっと背中を叩いて、それから別のスタッフから電話を手渡されて去って言った。事故の報告とおそらく変更を余儀なくされる撮影スケジュールの調整が待っている。カメラの無事が確認できなければ、かなり面倒なことになるだろう。
結局、カメラ自体には致命的な問題はなかったがカメラの点検と、本格的に壊れていたクレーンの交換で半日近くが潰れてしまい、撮影スケジュールも改変された。主要キャストの調整の都合でその日の午後から翌日の夕方まで、撮影は休止となった。
スケジュール変更にまつわる連絡を終えた星野も解放され、久しぶりに昼過ぎの明るい時間にテレビ局を出た。食べ損ねていたお昼ご飯を食べてしまうと、もうすることがない。いつもの駅で、なんとなく家に向かうのとは反対向きの電車に乗った。




