3-9.
星野は契約満了を迎えて水島の現場を離れた。まだまだ『Melt』は道半ばだが、計画を引き直し、やれるだけの手配をつけた。後は実行部隊に任せるしかない。
最終日ギリギリまで関係各所への連絡に追われていた星野自身の身柄が空かないため送別会もなく、現場からの溢れんばかりの拍手と、鈴木からのしつこい握手で見送られての離任となった。
いつの間にか制作部屋に溜まってしまっていた星野の着替えは大きな紙袋二つ分になった。パソコンや資料の入った鞄も抱える星野に代わってスタジオの出口まで渡辺と小林が一つずつ運ぶと言い張り、見送りに来た。出口を前に立ち止まった星野に紙袋を引き渡した二人は目に涙を浮かべて、何度も感謝の言葉を述べた。
「荷物、増えちゃいますね」
同じように見送りに来ていた保科は小さな包みを差し出しかけて、星野の両手が埋まっているのに気がついて、中途半端な位置で止まってしまった。外装から見るにお菓子を用意していたらしい。
「そんくらい平気だろ。ほれ」
ちょうど自分も外に用事があるからと一緒に来ていた水島が保科の手から紙袋を受け取って星野の大きな荷物の上に放り込んだ。
「ありがとうございます」
荷物を引きずらないように腕を上げたまま、不格好に星野が頭を下げる。
「大変お世話になりました」
「こちらこそお世話になりました。後のこと、よろしくお願いします。監督をしっかり見張っておいてください」
星野が冗談めかして制作チームの面々に頭を下げると、彼らは一様に真剣な面持ちで礼を返し、それが別れのあいさつになった。
「星野さん、良く寝てくださいね。三日くらい起きちゃだめですよ」
小林の言葉に軽く頷いて星野が歩き出す。渡辺、小林、保科がエントランスに立ち止まって見送る脇を抜けて水島だけが当たり前のように星野についていった。そして三人が去りがたく見ている前で、二人は守衛の横を通り過ぎ、水島が星野の手から荷物を奪い取る。そのまま二人は歩き去り、カーブに差し掛かったところで何か話しながら笑っている二人の横顔がちらりと見えた。
「……監督、そこまで用事があるって嘘じゃないですかね」
小林がぼそりと言うのを聞き流して、渡辺と保科は踵を返した。
「赤城さんが仲良しって言ってたの、本当だったねえ」
「仲良しっていうか……」
保科が言葉を飲み込んだ後ろを継ぐように追いかけてきた小林が言う。
「似てない双子みたいですよね。脚本修正とかほぼテレパシーだったし」
指でぴぴぴ、と電波を飛ばす様を示す小林に渡辺は「確かに」と笑う。
「最後まで居てほしかったね」
「本当ですよ……星野さんいなくなって、水島監督大丈夫かなあ」
小林は不安気に後ろを振り返り、見えるはずもない星野の背中を求めた。その背中を渡辺が叩いて前へ進ませる。
「レールは敷いてもらったんだから、後は走るだけだ。頑張ろう」
「…はい!」
水島の帰宅は21時を過ぎた。
玄関を開けると、星野が持ち帰った着替え入り紙袋が迎えてくれた。それぞれの方向を向いて倒れていた袋を拾い上げて洗面所に運ぶ。その場に袋を下ろして振り返るとリビングに人の気配はない。ドアをあけ放ったままの星野の部屋を覗くとかろうじて部屋着に着替えたらしい星野がベッドに潜り込んで寝入っていた。脱ぎ捨てた服は椅子に積み上げたまま、部屋の電気も点いたまま。
「完全に力尽きたな」
枕元に歩み寄ってベッドのわきに膝をつく。寝顔にもくっきり浮かぶくまと、かさついた肌をそっと撫でても、星野の眠りは深くぴくりとも動かない。何度かその頬を撫でてから、立ち上がり、部屋の電気を消した。
薄暗い部屋の中で服を回収して洗濯機へ向かい、先ほどの紙袋の中身とまとめて放り込む。空になった紙袋を畳みながら、そういえば保科から受け取った包みがなかったことに思い当たる。家の中を探してみるとキッチンのシンクの脇にお菓子の包みが残っていた。水の入ったままのコップと併せて最低限のエネルギー補給をしてから倒れたと推測する。振り返って冷蔵庫を開けるとタッパーに作り置きしていた総菜はそのまま残っている。それだけ確認して水島はパタンと扉を閉めた。
星野が目を覚ましたのは翌日の昼近くで、水島は既に家を出ていた。
まだ寝不足なのか、寝すぎなのか、とにかく頭が痛い。ふらふらと部屋を出るとダイニングテーブルにお膳が整えてあり、伏せられた茶碗がメモ用紙を押さえていた。
「冷蔵庫にメシ。ちゃんと食え」
星野は冷蔵庫を開けて、積み上げられたタッパーをぼんやり眺める。
「……一人じゃ、こんなに食べられないのに」
一つ一つ取り出して中身を確認すれば、どれも星野の好物ばかりだ。
「自分だって忙しいくせに」
星野は小さく笑って冷蔵庫の扉を閉めると、コップに水を汲んで飲み干した。シンクの縁に手をついて大きく息をついてから、冷蔵庫を振り返る。
「今日、帰ってくるかなあ……」
見つめても冷蔵庫から返事はない。はあ、と息をついて首を乱暴に左右に振るとボキボキと派手な音が鳴った。まずはシャワーでも浴びようと向かった脱衣所で積み上げられた洗濯済みの衣類に出会った星野は畳まれたTシャツをぎゅっと抱きしめてから浴室に向かった。
星野は三日ほどの休暇を挟んで、新しい案件へ向かった。赤城に急な呼び出しを受ける前から決まっていた話で、小さなPVの制作が始まる。疲れは抜けきっていなかったが、幸い新規の仕事の立ち上がりは穏やかで、早寝早起きを励行しながら体調を戻していく余裕があった。一方の水島は星野が組んだスケジュールに従い、厳しい日程でのポストプロダクション作業が続く。朝、水島の淹れたコーヒーを一緒に飲む習慣だけは辛うじて守られたが、夜は顔を合わせられないことも多かった。たまに、ぽつりともたらされる節目の報告で水島たちが計画を守っていることが伝えられるものの日々の詳細についてはじっくり語る時間がとれないまま季節は少しずつ春に近づいていった。




