3-5.
合流四日目で撮影スケジュールの組み直しがほぼ完了した。その間、星野は一度しか家に帰っていない。目は常に充血していて、ときどき着替えてはいるものの、そのシャツも気づけばヨレヨレになっている。
「星野さん、一回帰った方が……僕ら、順番に休ませてもらいましたし」
小林が声をかけると、星野は疲れの見える顔のままにこりと笑う。
「ありがとうございます。でも、かなりの大幅変更しちゃったから色んな手配が終わるまでは頑張りたいんですよね。計画、実行できないと意味ないんで」
ははっと笑った後で、星野がぐるりと首を回すと途切れることなく骨がボキボキと鳴った。反対周りで戻ってくるときは石臼のようなゴリゴリ音に変化していて、そちらの方が何だか怖い。
「それは……僕、頑張ります」
実際のところ、撮影計画の変更の余波として大量のスケジュール再調整、告知、契約の変更等がなだれ込んでおり、制作チームのタスク表は終わりが見えない状況である。しかもテトリス状態の撮影を迫られている撮影チームにそのパズルを完遂させるために必要な手配を期日までに確実にこなさなければならない。小林も現実が見えているだけに任せてくださいとは言い切れず、星野が数時間の仮眠をとることで話しは決着した。
その日の撮影終わりに水島がやってきた。しばらく椅子に腰かけて電話に次ぐ電話、連絡に次ぐ連絡で忙しい制作チームを眺めていたが、誰の手もなかなか空かない。やっと電話を切った星野が水島に声をかけた。
「監督、何かありました?」
水島の方に歩み寄って、近くの椅子に腰かける。
「いや、予定通りに終わった。今日はちょっと巻いたな」
「良かったじゃないですか」
「みんなさ、気分が上がってんだよ。できそうな感じになってきたから」
「ははは、あるあるですね。悪い方に向かってるときはNGが嵩んで、いい方に向かいだすと急によくなる」
「うん」
「お疲れさまでした。早く帰って休んだ方がいいですよ」
星野が机の上にあったお菓子をいくつか手渡してやると、水島は立ち上がり、それでもすぐには扉に向かわずにぐずぐずとしている。それぞれの作業をしながら二人の会話を聞いている渡辺も小林も、そんな水島の態度を見たことがないので、言い出しにくいことでもあるのかと勘ぐってしまう。ここから、まさかのスケジュール大どんでん返しは勘弁してほしい。怯える二人とは対照的に星野は落ち着いていた。
「そんなにまだ働きたいんですか?」
呆れたような声をかけて、自分の席へ戻ると手早くメモに何か書きつけて戻ってくる。
「はい。おつかいメモです。明日でいいんで、これお願いします」
メモを押し付けられた水島はぱっと中身を確認すると大変不満そうな表情を浮かべたが、黙ってそれをポケットに押し込んだ。
(監督に……おつかいメモ?)
ちょっと意識が宇宙まで飛びそうになった小林が電話応対をミスったことで、その場はがやがやとし始めて、みんなの意識がそれている間に水島は帰っていった。
夜半。制作部屋に残っているのは星野だけになった。日中は関係各所への手配に追われて後回しになっている撮影終了後のスケジュール見直しのためである。少し進めたら帰るから、と嘘をついて渡辺と小林を追い返したが、実際のところは帰宅するための時間が惜しい。さらにいえば、最低限の体裁のための着替えさえ億劫なのに移動なんて全くやる気が出ない。最初から泊まる気しかなかった。
一人でモニタに映像を映し出し、確認する。編集計画の参考にと一部だけ観るつもりが、再生し始めると手が止まらなくなった。映し出されるのは水島の描く世界で、18歳の星野に映画の道で生きると決意させた彼の美学が12年の年を経て磨かれた姿でそこにある。滴るように鮮やかな色彩、人の心を繊細に拾い上げるズーム、嘘を許さない役者の表情の追求。
寝ているのか、起きているのか、星野が意識朦朧としながら魅入っていると扉が開く気配がした。
「星野」
低い声は水島のもので、星野はぼんやりと振り返った。
「……戻ってきちゃったんですか?」
「おつかい」
そういって水島は星野の隣に腰かけながら紙袋を差し出した。
「ありがとうございます。朝で良かったのに」
帰りしなに渡したメモに書いたのは星野の着替えだ。受け取ろうと手を伸ばせば、触れた水島の指先が冷たい。冬の夜道で冷えたのだろう。あるいは半分寝ていた星野の手が温かいのかもしれない。
「水島さんの手の方が冷たいの、珍しいですね」
星野は水島の手を握って、そのまま自分の頬に押し当てた。手と頬で挟むようにして温める。そして視線は流したままだったモニタに戻った。水島も黙ったまま、二人でしばらく画面を眺める。
「……ここ、好きです」
星野の言葉に水島は少し眉を寄せた。
「光が足りなかった。晴れるまで待てなかった」
「薄日が当たるくらいにしたかったんでしょう? 加工できる範囲らしいですよ」
「これでも?」
「カメラさん達が請け負ってくれたから、大丈夫だと思います」
「それ、全部やったのか? 初日に」
咎めるような響きを持った質問に、星野は握ったままの水島の手で自分の目を隠した。
「そこまで詳しく見たのは、特に大事そうなところだけです。全部はさすがに無理でした」
「十分無理だよ……なんだよ、あのスケジュール」
「撮影のコスト、かなり下がりました」
「そうじゃない。お前、全然寝てないだろ」
「大丈夫ですって。そこらへんで適当に寝てますから」
星野の目隠しに使われていた手を引っぱった水島は星野を体ごと自分に向き直らる。昼間の堂々とした態度が嘘のように所在無げな星野と目が合うまで待った。
「明日は帰ってこい」
「……善処します」
「無理やり抱えて帰るぞ」
「ダメですよ。まだ、トータルで黒字に戻せてないんです。打てる手を早く打たないとどんどん難しくなっちゃうから」
「……一人でやることじゃないだろ」
「僕の仕事です」
まだ少し眠たそうな目つきのまま星野はもう一度ゆっくり繰り返した。
「あなたの映画を実現させるのは、僕の仕事です」
水島は天井を仰いでうめき声をあげた。
「それ言われたら、持って帰れねえだろ」
星野は少し不満そうに返した。
「……持ち物じゃないです」
顔を覆ってのけ反る水島からため息が漏れる。
「持って帰りたい……」
そのままの姿勢で止まってしまった水島に星野は静かに問いかけた。
「どうして、僕、呼んでくれなかったんですか?」
水島は手を下ろし、星野に向き直った。じっと星野を見つめたあとで耐えきれないように俯いて答える。
「……呼べないだろ。……映画と、お前と、一度みんな放り出して逃げたのに。お前とこうなったからって、しれっと困ってるから手伝ってくれとか」
「もう一回、一緒にやろうって言ってくれたのに」
ほんの少し、でも、確実に責める口調の星野に水島は顔を上げて「それは」と言いかける。星野の顔を見た途端に勢いを失いながら、でも、言葉はきちんと続けられた。
「ちゃんとゼロから始めるときにしたかった」
静かな室内で隣り合う星野にはもちろんすべて聞こえていたが、彼は逸らさない視線と沈黙で説明を要求し続けた。だから水島は本当は隠しておきたかったことまで話さなければいけなくなった。
「お前が一人でちゃんとやって、結果出してんの知ってる。それに見合う状態で始めたかったんだよ」
白状させられた本音に水島が自分自身で項垂れていると、ぼそりと低い声が返ってきた。
「18歳かよ、水島」
突然の呼び捨てにぎょっとして顔を上げると、星野はわざとらしく水島を睨んでみせてからちょっと笑った。
「って、赤城さんが言ってました」
いかにも言いそうな奴の、いかにも言いそうな発言だ。二人がいつそんな話をしていたのかが気になる。何か問いかけようとする水島の気配を制するように星野は続けた。
「見栄はってくれてたんですね」
星野は言葉を飲み込んだままの水島を覗き込むように「惚れてるから?」と問いかける。二人の再会の日の、新しい始まりになった言葉は、お互いの記憶に刻まれている。
「お前、それ、いじるか?」
半ば頭を抱える水島に対して、星野は椅子の背もたれに身を預け、足も伸ばしてぐるぐると椅子を回し始める。
「かっこつけて……赤城さんには頼ったくせに」
拗ねている。背けたままの顔を見るまでもなく、明らかに。状況を振り返れば水島は言い逃れのしようがない。
「あいつは……」
「特別扱い」
分が悪いのを承知で自分なりの正解を説明しようとした試みは、一言発したところで叩き落された。今この場に必要なのは、正当性の主張ではない。水島は降参した。
「悪かった。次は最初から一緒にやろう」
足で椅子をつつくと、やっと星野は振り返った。まだ少し不満そうだが顔は見せてくれる程度には許されたらしい。
「会社にかけあって、予定あけます」
ぶすっとしたまま、返事はちゃんと前向きだった。水島はやっとほっとして少し口が軽くなる。
「大丈夫かよ、売れっ子」
「大丈夫ですよ。ここぞというときに我儘を聞いてもらえるように、来た仕事はちゃんと受けてきましたから」
信頼の積み上げがある。それは疑う必要はないだろう。今回の現場でやっているように、どこへ行っても星野はきっときちんと仕事をやり遂げてきたはずだ。それについて水島には自分のことのように自信がある。我儘に仕事を選んだり、手を抜いたりしていない。
「……18歳か」
「え?」
小さなつぶやきを拾い損ねたらしい星野に、水島は別の言葉で返した。
「俺も少しは大人になった気でいたんだけどなあ。全部お前に先を越されてる気がする」
「そんなこと、ないと思いますけど。でも、水島さんは変な風に大人にならない方がいい映画撮れると思います」
本気そうな星野の表情を見て、水島は諦めた。
「……意地悪いな」
かっこいい姿を見ていてほしいと足掻いているのに。そんなもの求めていないなんていうのは意地が悪い。かっこ悪いままでいた方がいいなんて言われたら、うっかり嬉しくなってしまう。水島がわざと眉をしかめると、星野はわずかに微笑んでモニタに向き直った。水島が暗いと思ったシーンの続きが流れている。
「今のままでも、好きですよ」
モニタに向かったまま告げられたのは映画のことか、水島自身のことか。それきり星野は仕事に戻ってしまった。水島はその横顔を眺めて、ため息をつく。再会して以降ずっと思っていることだが、全然、勝てる気がしない。
翌朝、制作部屋に入ってきた小林は長椅子で寝ている星野と、その長椅子を背もたれに床に座ったまま寝ている水島を発見して混乱した。星野が後で帰るといったのが嘘である可能性は薄々感じていたが、先に帰ったはずの水島がここで寝ている理由がさっぱり分からない。しかし、スケジュールがひっ迫してきて以来、誰かが突然寝ているのが当たり前になってしまっていたので、深く考えることもせずに通り過ぎた。長椅子からはみ出した星野の足を避けながら、この寝方は全然羨ましくないけど、その長さだけは羨ましいと思った。
小林の後にやってきた保科も同様に二人の様子に一瞬びくっと立ち止まったが、一通りしげしげと眺め終わるとそれきり見向きもしなかった。
最後にやってきた渡辺は星野の乱れたブランケットだけをそっと直してから自分の仕事へ向かった。水島の方は特に気にならなかったらしい。




