3-3.
完全に夜が更けてから、本日の撮影を終えたスタッフたちが制作部屋にやってきた。プロデューサーがテコ入れメンバーの参画を通達していたため、普段は素通りで帰っていくスタッフも含めて新入りの顔を見ようとドヤドヤと現れる。
引き上げてきた集団の中ほどいた水島は挨拶しようと前に出てきたところで、テーブルに陣取って書類に囲まれている星野を見て、ぴたっと歩みを止めた。
「星野?」
見間違えるはずもないのに問いかければ、星野はパソコンから顔を上げた。もちろん、見間違いではない。
「なんで……」
呆然とする水島とは対照的に星野は落ち着いていた。昨日、どう伝えようかと考えていたときには恋人であった水島も職場で向かい合えばちゃんと監督に見える。映画制作者である星野にとって水島監督は積み上げてきた信頼関係のある仲間だ。怖がる相手ではない。
「今日から制作に入ってます。立て直し計画が作れるまで現場の全権委任だそうで」
「聞いてない」
まだ理解が追い付かない様子の水島の横に赤城がひょいと顔を出して顔の前で合わせて見せる。
「俺が口止めしてました。ごめんなさい」
「は?」
明らかに怒気を孕んだ水島に周りにいたスタッフが一瞬で委縮する。でも目の前の赤城は胸を張って言い返した。
「だってお前に言ったら、絶対反対するから! でも、もう契約終わってるし、上の方もOK出してるから。ひっくり返せねえから」
そこで赤城は星野を振り返って片手をあげた。
「だから、後は頼んだ!」
水島に異論を差しはさむ隙も与えずに、星野は「もちろん」と答える。話の流れについていけない他のスタッフを置き去りにして星野は水島に声をかけた。
「それで監督、いくつか確認したいことがあります。今からいいですか?」
落ち着き払った星野の表情を見た水島は、大きく息をつく。
「…分かった」
仕事だ。水島にもプロとしての矜持がある。個人的な感情の処理は後回しにすべきだ。
「一瞬だけ待ってくれ。赤城……てめえ、覚えてろよ」
手っ取り早く個人的な感情を拳に込めて赤城に伝えると、星野の机の前に座った。後ろで赤城とスタッフたちがざわついているのは放っておく。机に積み上げられた資料のあちこちに見慣れた星野の手書きの文字が飛び散っている。本気でやっているのはすぐに分かった。
星野は資料を示しながら、水島にいくつかの質問をした。シーンごとの撮影の意図、どうしてロケでなければならないのかなど、質問は的を射ていたし関心の方向も制作の守備範囲内だ。そこに違和感はないが、やりとりに使われる言葉は最小限で、周りで聞いているスタッフがこれは暗号だろうかと疑うほどには、二人の会話は圧縮されていた。
おかげで、それほど時間をかけずに質問は終わった。
「分かりました。明日の朝は一部撮影を止めましょう。10時開始でお願いします」
連日の長時間労働をこなしてきたスタッフから安堵の吐息が漏れる。その上に重ねるように星野の声が続く。
「午前の撮影が終わるまでに改訂版のスケジュール出しますから、午後からは予定変更になると思っておいてください」
「朝イチで撮るはずだったシーンはどうすんだ」
水島の質問に星野は「リスケします」と事もなげに答えた。
「理由は」
「台本に変更が出る可能性が高いからです。あと、スタッフの休息時間も確保する必要があります」
星野の答えに、スタッフへの配慮を感じたのか部屋の空気は明るくなった。軽くなった空気の中にやや尖った助監督の声が響いてまた空気が張り詰める。。
「明日午後から変更ってそんな急にいけますか?」
質問したのは撮影の進行を担うファースト助監督で、本来であれば香盤表は彼の管轄だ。事前に赤城からプロデューサー肝いりのテコ入れが入ると耳打ちされていたものの、合流初日にギリギリで積み上げてきたスケジュールを一気に書き換えられては気が気ではない。お互いの自己紹介もしていない星野だったが、その出で立ちから話し相手は助監督だと察した星野は「勝手に香盤表に手をつけてすみません」ひとこと謝罪した。
「一応、上の許可は出てるし、時間も惜しいのでこちらでたたき台を作らせてもらいました。それに、綺麗に計画が整うのを待ってる余裕ないですよね? 切れるシーンを一つでも無駄に撮ったらそれだけコストが出ていきます。不要なシーンがあれば削って、その分別のシーンを繰り上げないと」
「でも急に変更したら役者がきませんよ」
「それはもちろん見ます。その時に手配できる人員でできることをやります。できないことはやらせません。後で一緒に見てください」
助監督は「はあ」といったん引き下がる。助監督自身、今の計画のままで走り続けることの危険性をひしひしと感じていたのだ。頭ごなしに却下はできない。物わかりのよさそうな星野の回答を聞いてほっとした顔をしていた若手スタッフに赤城は小声で注意を促した。
「今のは言い訳は許さないって意味だぞ」
「え?」
何度も星野と同じ現場に入ったことがある赤城は知っている。先ほどの発言は星野がやれと言った指示に対して「できない」は受け付けないという意味だ。どう言い返しても「できるはずです。なぜならば」と返される。実際に星野は物理的にできないことは要求しない。そこが怖いのだ。赤城の忠告は割と重要な内容だったのだが、スタッフ達の関心は別の方に向いていた。シーンを切ると言われて黙っている監督はいない。皆、恐る恐る監督の様子をうかがっていた。ところがドスのきいた声を予想していた彼らに聞こえてきたのは、冷静な確認だった。
「明日の10時からは予定通りだな?」
「はい。12時より早いタイミングでの変更はさすがに間に合いませんし、見る限りそこは必要です」
「午後分で切るつもりなのはどこだ」
「56は確実にカットです。あと、まだ細かく見きれてないですけど、61以降にも削れる可能性のあるところはあります」
小林は聞いているだけで胃が痛くなると思いながら星野の提案を聞いた。でも、具体的なカット対象を聞いてなお水島は不愉快な様子さえ見せない。
「56なしで、どうやって主人公の心情の変化を納得させる気だ」
「インサートの後ろにセリフだけ別撮りします」
「説明になるだろ」
「セリフ変えれば問題ないです」
「セリフ変えたら伏線とぶぞ」
「そこは拾います」
「セリフ、どうすんだ」
水島は淡々と提案を検証していく。これまでの渡辺と水島の交渉では見たことのない光景だ。
そして誰もがセリフの改変などという制作の職分を大きく超えた提案を星野がどう回収するつもりか緊張して待っていると、彼はストップウォッチを握るなり水島の方を向いたまま短いセリフをいくつか口にした。感情も抑揚もない棒読みだが、内容は成立している。言い終わったところでピッとストップウォッチの音がして、星野はその画面を水島に示して見せた。
「今ので20秒。元のシーンで2分50秒割いてるから、これなら2分30秒は削れます」
ファースト助監督が慌てて台本をめくって前後関係を確認する。
「すげえ……繋がる」
水島には台本を見るまでもないことだ。
「……分かった」
数秒の吟味で受け入れた。驚きに言葉もないスタッフの人垣の向こうから「救世主……」という鈴木のつぶやきが漏れ聞こえ、それにつられるようにざわめきが起きる。星野と水島がさらに残りシーンについて話す隙に赤城は手近なスタッフに声をかけた。
「今夜のうちに彼女に電話して、それからしっかり寝といた方がいいぞ」
「明日、撮影減るんじゃ?」
「減るもんか。あいつに火消しさせたらスケジュールなんか隙間ゼロでテトリスみたいに突っ込んでくるぞ」
アドバイスを受けたスタッフが真に受けていない様子を見て、それ以上は言わないことにしたらしい赤城は「今日のうちに風呂もはいりてえな。温泉の素買ったのに風呂に入る暇もねえから肩がもう……」などと独り言に変わっている。そのまま部屋を去ろうと踵を返したところで星野が声を上げた。
「カメラと音声、それから編集できる人と記録さん、残ってください」
赤城の足がぴたりと止まる。
「え……」
ゆっくりと振り返ると自分を見ている星野と目が合った。
「撮影済みの素材に確認したいところがあります」
「今から?」
「確認が必要なところは絞ってあるんで。確認の上で明日の朝までに不要なシーンを全部洗い出します」
赤城は食い下がった。
「今から?」
「やります。僕、技術系は分からないので皆さんのご協力が不可欠です」
星野を呼んできた本人が半泣きになる中、指名を受けた技術スタッフがそれぞれに絶望の面持ちを浮かべている。赤城は悪あがきを試みた。
「……目薬だけ、買ってきていい?」
「買ってあります」
星野はにべもない。
「他に何あるか教えて……」
星野の指示の下、小林が買いそろえておいてくれた物資のラインナップは完全に徹夜覚悟だった。用意周到すぎて有り難くない。ちょっとコンビニに行くという脱出理由も残されていない。
「俺の聞き間違いじゃなければ……明日の午前中って撮影はあるよね……」
赤城が肩を落として聞くと、初めて星野は少し困ったような表情を浮かべた。
「はい。十時開始にはしましたけど、それなりの仮眠がとれる時間には終わらせたいですね。体調が整わないとミスも増えますし」
あ、人間は寝ないと働けないってことは覚えてるんだ。赤城はわずかに安堵して、瞑目した。
技術チームがそれぞれに自分の今夜の行く末を噛みしめていると、作りかけの香盤表を眺めていた水島が顔を上げた。
「俺は?」
視線の先は星野である。スタッフたちは風音が立つほどの速さで星野と水島を見比べた。
あの水島監督が、やってきたばかりの制作に指示を仰いでいる。ありえない。
今日一日で星野を見慣れつつあった小林ですら目玉が落ちそうになった。水島が渡辺に指示を求めるところなど見たこともないし、それどころか渡辺の懇願を聞き入れることすら稀なのに。
星野は何の驚きもない様子で答えた。
「監督には別にやっていただきたいことがあります」
さっと台本を差し出して付箋を示して見せる。
「こことここ、エピソード全カット前提で脚本直してください。二日以内に」
うわ、と声を漏らしたのが誰だったか。それをかき消す音量で水島が「はあ?」と声を上げる。さすがに苛立ちが混じった様子で、とうとうきたかと小林は一歩、二歩と壁際に下がった。
「もう撮り始めてんだぞ」
低音でなかば凄まれても星野は全く動じる気配がない。
「分かってます。これでも一番傷が浅くなるところを選んでます。このまま残りを撮り切るとコストがかさみすぎます」
「ダメだ。エピソードごと抜いたら話が成立しない。人間も成立しない」
「できます」
「できない。必要だから入れてる」
「この一連のエピソードで言いたいことって無償の愛ですよね。瀬尾っていうパターンを示してるだけで、コアのメッセージは繰り返し出てます。一つ削ってもストーリー全体の骨格はずれない」
「薄まりすぎる。パターンが多様であること自体に意味がある」
「瀬尾は残します。出会いのシーンで十分インパクトがある。これ以上具体的なエピソード足さなくても後ろまで繋げます」
星野に断言されて、とうとう水島が黙った。お互い声を荒げてもいないのに部屋に残っていた面々は全員息を詰めて見守っている。厳しい表情で黙ったままの水島に星野が畳みかけた。
「書いて下さい。瀬尾は残していい。出会いのシーンも今のまま使っていい。確かにエピソード切った分だけ距離感にジャンプするところが出るから、そこを繋いでください。条件は、瀬尾を画面に出さないことです」
「無理だろ」
「瀬尾の出番はもう増やせません。役者のリリースも視野に入れないと予算が間に合わない」
「……こっちのエピソードも同じか」
「基本は」
「何分削る?」
「二つで8分」
「……とりあえず書く。だが8分は約束できん」
「分かりました。まず書きましょう。こっちも他で何秒削れるかまだ押さえきってないですから」
水島が制作部屋に戻ってきてからまだ十分しか経っていない。小林は時計を見て呆然と口を開いた。
「10分で監督から10分もぎ取った……。マジ神……」
一方で助監督たちは台本を覗き込んで囁きかわしている。
「このエピソード削ったら、外ロケのでかいのかなり減る……エキストラがいるシーン狙い撃ちしてるんじゃね? ほら、こっちも」
「うわ、だとしたら神……」
「星野君……、いい……」
結局一日中、制作部屋でコツコツ自分の仕事をしながら星野を眺めていた鈴木は星野をうっとりと見上げていた。
技術班は泊り確定だが、水島の作業は自宅の方が捗る。帰り支度を整えた水島は廊下に出る前に視線で星野を呼んだ。
「お前、急に泊りとか。大丈夫か」
廊下を並んで歩きながら尋ねると、星野は「はい」と軽く答えた。
「瀕死と聞いてましたから、最低限の準備はしてきてます。……驚かせてごめんなさい」
「本当だよ。言えよ」
「ごめんなさい」
「……赤城だろ、どうせ」
「はい」
水島は、長い溜息をついた。こんなところで、これ以上話せることもないし、話せるほど自分の中の感情を掴めてもいない。
「明日」
「はい」
「持ってきてほしいもんあったら連絡しろ」
「……はい」
出口のすぐそばまで来たところで星野が口を開いた。
「リビングの……」
「ん?」
「いや、なんでもないです。電気、消し忘れたかもって」
「ん。じゃあ。……ほどほどにな」
「それはお約束できません」
「知ってる」
星野はそこで立ち止まり、軽く手を挙げて出ていく水島を見送った。
落ち着かない気持ちを抱えていたはずなのに、電車で運よく座れた途端に意識が飛んだ。水島は何かを考える気力も途切れたまま家についた。玄関を開ければ、家の中は暗く、星野は電気を消したことを覚えていなかっただけらしい。体が覚えている場所に手を伸ばして電気をつける。部屋はいつもよりも綺麗に片付いていて、星野が今朝の時点で泊まり込み前提で家を出たらしいと分かった。とりあえず荷物を放り出し、シャワーを浴びる。それでようやく目が覚めた。目が覚めたら、腹が減った。
「なんか食うか」
冷蔵庫の残り物をかき集めてチャーハンとスープを作り、リビングまで運んできたところで気が付いた。リビングのテーブルにメモが残されている。トレーを下ろしてメモを見れば、星野の字でたった二行。
「おかえりなさい」
「ごめんなさい」
一行目と二行目の間に大きな空間が残っている。おかえりなさいだけが妙にメモの上端に寄っているのは、きっと書き始めたときにはもう少し長く書くつもりだったから。でも、続くメッセージはごめんなさいだけだ。
水島は床に座り込んで立てた膝の間に頭を落とした。そしてスープの湯気が消えるくらいまで、そうしていた。




