3-2.
星野が合流を指定された場所は撮影スタジオに借りられた会議室で、いわゆる制作部屋だった。呼び寄せた本人である赤城は同じスタジオ内で撮影中で身動きが取れないため、現在の制作担当の連絡先が伝えられている。星野の呼び出しに応じて出てきたのは、四十代半ばほどの男性で渡辺と名乗った。全身から疲労感が漂っていて、赤城に「死にかけ」と言われていなくても、深いくまや乱れた服装から彼のおかれた状況は十分察せられた。
初対面の挨拶もそこそこに渡辺は廊下を先導しながら話し始めた。
「急な話を受けていただいてありがとうございます。状況どの程度お聞きかアレなんですけど、今はとにかく監督と予算の折り合いをつけないとでして……水島監督の理想は分からないではないんですが、もういかんせん先立つものが」
「分かります。結局いつもそこですよね。監督の理想と予算の現実」
「そうなんですよ……本当に。マサダ乳業の担当の方、鈴木さんっておっしゃるんですけど、最近ずっと制作部屋にプレッシャーかけに来てるんで、あの、怖い人じゃないんですけど……でも、あの人、割と数字に明るいから領収書とかパラパラやられると……もう」
「スポンサーさん常駐ですか。なかなかですね」
「なかなかどころか、いよいよ、ですよ」
状況の説明なのか、愚痴なのか。胃のあたりをさすりながらこぼす言葉に乗ってずっとコーヒーの香りがしている。
「今、監督はセット入ってて演出チームはみんなそっちなんです。星野さん来るの伏せとけって赤城さんからお達しがあったから、監督は多分本当に知らないです。あがってきたらご紹介……は、いらないか」
「はい。でも、すごく怒るかもしれないから、しばらく荒れたらごめんなさい」
星野を振り返った渡辺の顔色が一段悪くなっている。
「え、でも、赤城さんは仲良しって……」
「仕事はちゃんとやりますから」
断言して星野は渡辺の質問を打ち切った。
制作部屋は特筆すべきところもない、よくある制作用の作業ベースだった。ろくな窓もない部屋に長机がコの字に並び、その上に資料が山積している。ホワイトボードはスケジュール表や、その他の撮影に関する情報で埋め尽くされ、それでも足りない分は壁にテープで貼り付けられている。壁際に並んだ長椅子の上にブランケットが乱れたまま丸まっているのは泊まり込みが常習化したときの定番の眺めだ。ゴミ箱からあふれんばかりの弁当殻がとエナジー飲料の空き瓶から、なんだかわからない臭いが漂っている。
要するに、よくある修羅場だった。
その部屋の中にいたのは三人で、奥の方に明らかに自分の区画を作って住み着いている感がある女性、よれよれの服装で渡辺と変わらない疲労度合いをにじませている若者、そして一人、スーツ姿の中年男性。
女性が経理周りを中心に担当するデスクの保科、疲れ切っているのが渡辺の手足である制作進行の小林、そしてスーツの男性はスポンサーの鈴木と紹介された。
「今日から制作に入ります。星野です。よろしくお願いします」
星野が一礼して頭を上げると、先ほど見た位置よりもだいぶ近くに鈴木が移動してきていた。星野の胸ほどの高さで、小さな目が爛々と光っている。
「星野君! 待ってたよ。赤城君から話は聞いてる。本当に、ほんっとうに、よろしく頼む。水島監督には我が社のCMを何年も撮ってもらっててね、長い付き合いなんだ。だから、私もね、この映画、ぜひとも成功させたいと思っているし、何よりもね……これ以上予算超過したら僕のクビもね!」
そこで鈴木は親指で首をかっきる動作をしながら白目をむいて見せた。
「私はね、映画とともに死ぬことなんかにロマンを見出せないんだよ。ぜひに。ぜひに。完成させてほしい。私も死にたくない。そのために私ができる支援は惜しまないからね。もうお金はないけど。アイスなら、いくらでも都合するから」
スポンサーのマサダ乳業の主力商品はアイスクリームを中心とした氷菓である。星野も水島が監督したCMをいくつも覚えている。そのままにじり寄ってしがみつかん勢いの鈴木を星野は会釈の動作で遠ざけてから答えた。
「僕も、この作品を死なせるつもりはありません」
そこでバタンと扉が開いてもう一人、男が入ってきた。それが赤城が「滅多にみかけない」と評していたプロデューサーだった。星野の合流に合わせて顔を出してくれたらしい。
「今日から、立て直しの計画立つまで星野君に現場任せるから。みんなそのつもりでお願いね。ちょっと俺、よそ回ったらその足で京都戻らないとだから演出部には言うこと聞くように先に伝えてきたから。なんか文句言ったらこっちに電話させて」
「はあ……」
星野があっけにとられている間にプロデューサー氏は既に扉に向かっている。
「制作はもちろんだけど、あれでしょ? 星野君、けっこう手広くできる人でしょ? あちこちから噂聞いてるよ~。テコ入れに必要なら遠慮なくやって。ね、お願いね!」
嵐のように彼は去った。部屋に残ったスタッフの誰も声をかけないところをみると、人望はないらしい。星野は小さなため息を無理やり飲み下した。
「……とにかく、よろしくお願いします」
改めて頭を下げると、続いて部屋を見回して一番乱れの少ない机を見定めた。
「ここ、僕使っていいですか?」
「はい、もちろん」
渡辺の返事と同時に机に歩み寄り、作業場所を作り始める。慌てて駆け寄ってきた小林に手伝ってもらって机が整うとパソコンをセットアップして指示を出す。
「とりあえず、現状把握したいんで決定台本とオリジナルの香盤表ください。それからラッシュも直接見たいので用意してください。同時に現場の記録も見たいな。メモ、集められます? あと、リース関連の契約書一式も出してください。予算はデータでください。紙が乗り切らないかな? 机もう一つもらえます?」
矢継ぎ早の要求に小林が目を白黒させて、渡辺に縋るような視線を投げると彼は既に指示を遂行すべく動き出していた。慌ててそれに追随する。保科は自区画を出ていくつかのファイルを星野の前に積み上げると、共有サーバーへのアクセス権を付けるためにと星野から名刺を受け取ってさっさと自席へ戻った。鈴木は「……星野君、……いい」と呟いて、相変わらず目を輝かせるだけで何もしない。そのまま適当な椅子に座って今日も居座るつもりらしい。鈴木の現業はそんな調子で大丈夫なのかわからないが、少なくともこの場にいる誰も鈴木の社内評価のことなど思いやる余裕はない。
ある程度の資料が揃うと星野は猛然と作業を始める。保科はいつも通り自分の区画に引きこもって領収書処理に没頭し、渡辺は途中からかかってくる電話の対応にかかりきりになってしまったので、小林は一人でカオス化した部屋から資料をかき集めることになった。
崩れそうな山から発掘されたいくつもの資料が、星野が確認を終えて積み上げるたびに正しい順序に並び、意味を持って再編成されていく。午前中は完全に資料係となっていた小林は途中から処理前、処理後の書類の違いに気が付いた。気が付いてみると、自分が星野に差し出している資料のまとめ方のいい加減さが気になってくる。小林は段々と書類を差し出す前の整理に気を使うようになり、集めたつもりの書類の抜けや、並び順の間違いが減った。
「記録表です。先月分、撮影順です。こっちにおいときます」
もはや書類に没頭している星野からはいちいち返事もない。そのまま立ち去って、そろそろ昼食のケータリングを受け取りに出ようとかと時計を見ていたところで後ろから声をかけられた。
「小林さん、ありがとうございます」
振り返ると、星野が一番最後に置いた資料をぱらぱらとめくっている。
「見やすいです」
端的な声かけに、小林は「はあ」と小さく頭を下げた。思いがけず、嬉しくて、最近謝られたり、感謝されたりはあっても、褒められたことはなかったなと思った。
「ちょっと昼飯とってきます」
部屋を出る足が、軽くなった気がした。
昼食の手配をしていた小林がしばらくして制作部屋へ駆け戻ってきた。
「監督、午後のシーンのカット変えるって言ってます!」
「えっ、また?」
自分の弁当から顔を上げた渡辺が箸が転がり落ちるのも構わずに慌てて撮影スタジオに連絡を入れる。マイクの向こうからは混乱した現場の様子が伝わってきた。カットが変更されれば撮影順や回数も変わる。消費される小道具の数も変わる。当然撮影時間も変わる。すべてが組み直しだ。
「え、それもう決まりなの? どうにも……ええ? 赤城さんは? ダメ?」
渡辺が誰かに食らいついているが、流れが止められそうな気配はない。
昼食を続けていた保科が、バチンといささか乱暴に弁当箱の蓋を閉じた。昼休憩を切り上げることにしたのか、ため息交じりにパソコンを起動しなおしている。
小林はとりあえず影響が出る範囲を把握しようと渡辺の下へスケジュール表を持って走った。既に真っ赤なスケジュールに埋もれないように紫のペンを添える。こんな気の遣い方を覚えたくはなかった。
ざわつく部屋の中で星野だけは今の優先順位はキャッチアップと割り切ったように資料の読み込みを続けている。その星野に熱い視線を注いでいた鈴木だから気が付いた。視線をパソコンのモニタに向けたままの星野の口元にうっすらと笑みが浮かんでいる。
「え……?」
思わず零れ落ちたつぶやきは渡辺の電話から漏れてくる現場の怒鳴り声にかき消された。
昼休憩も急な撮影変更も我関せずで自分の作業を貫いた星野は、既に昼とは呼び難い時間になってようやくおにぎりをかじりだした。それでも手は休ませずに撮影済みシーンとスケジュールの照らし合わせや、各シーンでの支出を突き詰めていく。手元の資料には大量の書き込みが入り、同時並行で新規の撮影スケジュールの素案がパソコンの中に組みあがる。
横からちらっと作業をのぞいた渡辺がしばらくそのまま硬直していた。ふらふらと戻ってきた渡辺に小林が何かあったのかと小声で聞いていると、鈴木が当たり前のような顔で聞き耳を立てにきた。
「……もう香盤表、書き換えてる」
「え、でも」
撮影の進行とタイムスケジュールをまとめた香盤表は複雑で、役者や機材、ロケ地、注意事項などすべての情報を統合して管理する撮影の命綱だ。本来は助監督が管理する領分だが、権限という点ではプロデューサーからの委任宣言が有効なのだろう。しかし問題はそこではない。そもそも今朝来た人間が数時間後に触れるような資料ではないのだ。そんな馬鹿なと思った小林がさりげなさを装って星野の後ろを通ると、確かにパソコンの画面には香盤表らしきものが展開されている。しかも、ぱっと見る限り、でたらめではない。
「……な?」
戻ってきた小林に渡辺が声をかけると、小林は赤べこのように首を縦に降った。
「え、赤城さんが声かけたのって昨日ですよね?」
「契約書来たの夜だった」
「信じられない……」
二人が救世主降臨の予感を感じている隣で、鈴木も小さく「……星野君、……いい」と呟いていた。
星野の作業は急ピッチで進み、夕方に渡辺が呼ばれた。
「撮影スケジュール、助監督に回す前に一緒に確認してください。見落としがあるといけないんで」
差し出されたのは更新された香盤表で、渡辺は泡でも吹いて倒れたくなった。一部、空白や未定と記されたままの部分があるにせよ、この速度は異常だ。しかも。
「え、シーン……いくつ切ったんですか?」
「うーん、まだ足りないですよね。もうちょっと減らせると思うんですけど、しっかり見れてないから分からないところがあって」
星野は何でもないような調子で言うが、もうスケジュールも予算もないと渡辺が散々騒いで泣きついて、水島の譲歩をギリギリ引き出したものが現在の香盤表だ。そこからばっさりシーンが消えている。とても水島が納得するとは思えない。
「これ、無理ですよ……監督が」
「え? でも元の計画じゃ絶対完成しませんよ。これでもまだ足りない」
「っ、それは、そうですけど」
「尺も、撮影期間も、美術も、全部切らないと」
「そう、ですけど……」
分かっていてもできていないのだ。水島が納得しないから。同業者で理解してくれると思っていた星野に静かに詰め寄られて渡辺の疲れ切った頭はほぼ真っ白になった。そこに天使のような声が響く。
「監督の説得は僕がします」
助かった。プライドもへちまもない。この状況を引き受けてくれる人がいるなら、全力で乗る。渡辺はもうすべて終わった気分になって、星野の発言の続きをほぼ聞いていなかった。
「渡辺さんは計画に穴がないかを見てください。急いで作ってるから、見落とし絶対あると思うんで……うーん、明日にしましょうか。渡辺さん、少し寝た方がいいです。いったん帰って、しっかり家で寝てから帰ってきてください」
「え?」
帰って寝ていい。その言葉に敏感に反応した渡辺の意識が覚醒する。
「そのまま続けても効率上がらないでしょう。まず休んで、戻ってきたら、その時点の計画の見直しお願いします」
天使どころか悪魔の囁き級に魅力的な申し出だ。それでも、心の片隅に残っている責任感が渡辺を引き留めた。撮影と演出は監督の独壇場であるとしてもロジスティクス面でプロジェクト全体の進行を支えるのは自分である。今日来たばかりの星野にすべて押し付けて帰るわけにはいかない。
「え、でも……」
「今晩、電話鳴らしてきそうなところ、どこかありますか?」
「それは……いつも思ってもないところからトラブルやクレームが来るから……」
「想定できないクレームはこっちで拾えないから、かかってきちゃったら一次受けはお願いします。取引先ならこちらで引き取ります。今から一斉に連絡入れます」
てきぱきと進められる引継ぎに渡辺の責任感はあっという間に溶けて消えた。
「ありがとうございます……」
何日ぶりのまともな時間の帰宅か。渡辺はよろよろと荷物をまとめて去った。その後ろ姿を見送る小林と保科にも星野は声をかける。
「小林さんと保科さんは、家、帰れてます?」
「いや、まあ、ぼちぼち……」
つかれ具合は渡辺よりはわずかにマシ。でもそれはたぶん小林がまだ若くて体力があるから。かかっている負荷は同じ程度。黙って下した星野の評価は外れていない。
「保科さんは?」
「私は夜は帰ります。泊りは嫌なんで」
彼女の線引きは徹底している。毎日、何が何でも帰宅する。保科の揺るぎない返答を聞いた星野は頷いて、小林に視線をずらした。
「順番に回せるようにしますから、もうちょっと頑張ってください」
他の誰かに言われても信じなかったかもしれないが、今、目の前で渡辺が帰宅していったところだ。次は自分が家に帰ってゆっくり眠れる。確信をもった小林はもうひと踏ん張り頑張るぞと気合を入れ直した。




