2-2.
仕事の終わりが少しだけ遅くなった。すっかり暗くなってしまった駅までの道を歩きながら星野は「外で食べてから帰ります」とだけ連絡する。平日は夕飯時に二人が家にそろう方が珍しい。たまたま帰り時間が合えば落ち合って外で食べる日もあるし、どちらかがまとめて総菜を買って帰る日もある。運よく水島が先に帰宅していると、夕飯を作ってくれることもある。でも、それはどれも稀なケースだ。
駅前の定食屋で夕食を済ませて家に帰ってみても、まだ水島は帰宅しておらず、スマホを確認してもメッセージは未読のままだった。
部屋干ししたままだった洗濯物をしまい、風呂に入り、ラジオを流しながら、資料を読む。
テーブルに出したままのスマホは静かだ。今日はだいぶ忙しいらしい。ポンと音が鳴って「了解」のスタンプだけが返ってきた。少しだけスクロールすると、毎日繰り返されるお互いの帰宅報告が続いている。一度大きな喧嘩をして以来、水島は帰宅時間の予告を忘れたことがない。
水島が現在取り組んでいる仕事が忙しい時期に入っていることは聞いている。どこかの企業のPR映像らしくカットは単純でいいが素人ばかりの出演者によるNG連発とピンポイントでしか入れない工場や倉庫の撮影日程の組み合わせが上手くいかず、撮影期間が長引いた。そこで消費してしまった時間を取り返すためにポストプロダクションの編集作業を急ピッチで進めなければならないと言っていた。水島曰く「目玉から血が出そう」な集中度合いらしい。
だから、たぶん今日も編集室だ。会社によっては個人使用の通信機器の現場への持ち込みが禁止されることもあるから、工場の管理が厳しかったという話を踏まえれば、仕事中に急にスマホを取り出せない状況になる可能性もある。
だから、タイミングが捕まらないままこんな時間になってしまったのだろう。
星野は時計を確認する。もう24時を過ぎている。
「終電、無理だな」
この時間に職場を離れられていなければ、電車での帰宅は無理だ。
星野は部屋に引き上げて寝ることにした。資料はもう三周は読んだので、明日の準備としては十分だろう。
夜中、着信音で目が覚めた。波の音を電子音で再現した水島専用の着信音に、星野は目もろくに開けないまま通話ボタンを押した。
「もしもし……」
ほぼ出ていない声で答えると、電話の向こうから水島の声が返ってくる。
『ごめん、寝てた?』
「…はい」
『俺も。それで連絡遅れた』
言われてみれば水島の声もほぼ寝起きだ。かすれて、低くて柔らかい。お互い寝ぼけ声で話しているので隣の部屋を訪ねたら水島がベッドに寝ているような気がしてしまう。
「今日は……泊まりですか?」
『……うん、ごめん』
「忙しそうだったから、そうかなとは思ってました。お疲れ様です」
『うん、ありがとう』
「うん」
まだぼんやりしたまま、瞼が完全に落ちそうになるのをこらえる。目を閉じたらたぶんすぐ寝てしまう。眠気を耐える沈黙をどう受け取ったのか、水島が聞いてくる。
『泣いた?』
「……ふふ、大丈夫ですよ」
心配されたら急に泣きたくなるからやめてほしい。星野は息を詰めたのが伝わらないようにスマホを少し顔から遠ざけた。
『今顔見えないから、嘘つくの無し』
問い詰める口調ではない。どちらかと言えば、甘い口調だ。それでもやっぱり泣きたくなる。寝起きに恋人の優しい声を聴いて、でも見ることも触ることもできない距離にいると思うと寂しくなるから。星野は声が震えないように少し力を込めて返した。
「本当に」
『本当?』
「泣いてません」
電話の向こうは沈黙している。水島の前で泣くことが続いたから信用がないらしい。普段は泣いたりしないのに、水島が絡むとどうしても感情の箍が外れてしまう。たぶん、五年も押し込めていたから圧縮度合いが強すぎるのだ。少しずつ、もとに戻るまではどうにもならないのかもしれない。
水島からさらなる確認が来る前に、就寝前、自分に言い聞かせていたことをを繰り返す。
「ちゃんと、しばらく大変そうって教えてくれてたでしょう。だからきっと忙しくて連絡の隙がないんだろうなってわかりましたよ。だから大丈夫。……明日は、帰れそうですか?」
『うん』
「じゃあ、待ってますね」
『待ってて』
帰ってくると約束されただけで唇の端が上がるのを感じる。
『おやすみ』
「おやすみなさい」
電話を切って目を閉じる。さっきまでは目を閉じたら寝てしまうと思っていたのに、体を溶かしそうだった眠気は少し遠くへ行ってしまった。星野はもう一度眠りに落ちるまで、水島の声を思い返して過ごした。




