第9話 アリス参式=ノイン
バベルの下層は、塔の中というより、墓の底だった。
魔都エデンの上層で見た白い回廊や模造聖域とは違う。ここにある白は、祈りの白ではなかった。消毒された白。漂白された白。死者の骨から色を抜いて、均一な素材として並べ直したような白だった。
ケイたちは、シキの案内で旧帝都遺産管理区のさらに下へ降りていた。
道は階段ではない。
巨大な縦穴の内壁に沿って、螺旋状の通路が続いている。外側は黒い空洞。底は見えない。壁には無数の管が走り、その管の中を淡い金色の光が流れていた。名札のような小さな金属片が、ときおり光の流れに混じって運ばれていく。
ミライ。
風鈴。
風羅。
リリカ。
ヒミカ。
知らない子どもたち。
ここを流れる光の一粒一粒に、誰かの名があるのではないかと思うと、ケイは足を止めそうになった。
だが、止まれない。
バベルへ行くと決めた。
名前を取り返すと決めた。
胸の奥で、赤い狼の影が静かに呼吸している。アインの記録から借りた一振りは、まだケイの中にあった。だが、それは以前のようにケイを呑み込もうとはしていない。鞘に納まった剣のように、彼女の意志を待っている。
炎麗夜は無言で歩いていた。
フレイは小型の猪の姿で、彼女の足元を進む。だが、その毛並みは逆立っている。黄金の獣が警戒しているのだ。颶鳴空も槍を握り、ホーヴヴァルプニルの封印布を緩めている。
アカツキは少し後ろを歩いていた。
紅い花魁衣装の袖は裂れ、顔色は悪い。それでも、背筋だけは崩さない。袖の奥では紅華の影が揺れている。以前ならその影を見るだけで怒りが湧いた。今も怒りはある。ミライを、風鈴を、風羅を、彼が狩ってきた名を思えば、許せるはずがない。
けれど、バベルの通信でマダム・ヴィーが告げた言葉が、アカツキの背中にずっと突き刺さっている。
――あなたが集めた魂魄も、全部そこにあるわ。
彼は救済者ではなく、回収係だった。
それを知った男の沈黙は、戦場の怒号より重かった。
「ここから先は、機械人形製造施設だよ」
シキが言った。
テンガロンハットのつばを指で押さえながら、彼は通路の先を見た。
「旧帝都エデン時代のセーフィエル系技術、魔導人形の基礎フレーム、夢殿の観測模倣、ワルキューレ記録核、バベルの名前回収機能。そういうものを雑に煮込んだ場所」
「雑に煮込むな」
炎麗夜が低く言った。
「たとえとしては正確だよ。丁寧に作ったなら、もう少し美しかった」
「美しさの問題じゃない」
「ヴィーは美しさの問題だと思ってる」
シキの声は軽かったが、目は笑っていなかった。
「だから、ここは趣味が悪い」
通路の先に、大きな扉があった。
扉の表面には、古い文字が刻まれている。
機械人形統合工房。
夢殿接続実験区。
ワルキューレ第九位再現計画。
そして、黒い線で上書きされた文字。
――アリス参式。
ケイは、その文字を見た瞬間、胸がざわついた。
「アリス」
聞いたことがある名前だった。
この世界で聞いたのではない。帝都エデンの話の中で、シキやシンが時折口にした。機械人形。零式。人として生きることを選んだ人形。死者の代用品ではなく、自分の名を選ぶ存在。
だが、扉に刻まれた「参式」は、ケイの胸に冷たい予感を落とした。
シキが扉へ手を当てる。
「開けるよ」
「待て」
アカツキが低く言った。
「この奥に、何がいる」
「ノイン」
シキは短く答えた。
炎麗夜が眉をひそめる。
「ワルキューレ第九位?」
「正確には、その再現機」
シキは扉を見上げた。
「本物じゃない。でも、本人だと記録されている」
ケイは唇を噛んだ。
それがどれほど残酷な言葉なのか、もう少し前の自分ならわからなかったかもしれない。
本物じゃない。
でも、本人だと記録されている。
リリカの顔が浮かんだ。
都智治として祭り上げられた少女。
ヒミカの代わり。
女帝の代わり。
アインの代わり。
この世界には、誰かの代わりにされる者が多すぎる。
扉が開いた。
*
中は、巨大な工房だった。
天井は高く、白い梁が幾重にも交差している。その梁から、無数の機械腕が吊り下がり、眠るように静止していた。床には魔導陣と配線が複雑に走り、中央へ向かって集束している。周囲には、棺が並んでいた。
棺。
そうとしか呼べなかった。
白い金属でできた細長い箱。蓋には名前が刻まれている。人の名前もあれば、ワルキューレのコードもある。番号だけのもの、黒く塗り潰されたもの、途中で文字が崩れたもの。棺の中には、死者の身体ではなく、記録核や魔導人形の部品が収められているらしい。
その奥に、夢殿のコピーがあった。
小さな白い祭壇。
眠るための寝台。
その周囲に、裁きの門を模した輪が浮かんでいる。
そして中央に、少女が眠っていた。
白い機械人形。
年はケイと同じくらいに見える。肌は陶器のように白く、髪は銀に近い淡色。瞼は閉じられ、胸の中央には小さな水晶の核が埋め込まれている。関節部には精巧な継ぎ目があるが、遠目には生身の少女にしか見えない。
彼女の眠る台座には、こう刻まれていた。
アリス参式=ノイン。
ワルキューレ第九位再現機。
ケイは息を呑んだ。
美しかった。
だが、その美しさはリリカの痛々しい美しさとも、紅華の影の燃えるような美しさとも違う。誰かが「完璧な死者」を作ろうとして、死者から傷だけを削ぎ落とし、整え、磨き、神聖な人形として組み上げたような美しさだった。
シキが一歩進む。
床の魔導陣が光った。
白い少女の胸の水晶核が、淡く輝く。
機械腕が一斉に動き出す。
ケイは身構えた。
少女の瞼が開く。
瞳は、淡い金色だった。
彼女はゆっくり身体を起こした。動作にはぎこちなさがない。眠りから覚めた人間のようであり、起動した機械のようでもあった。白い衣装が肩から滑り、背中に折り畳まれていた小さな翼状の装甲が展開する。
少女は、ケイたちを見た。
そして、丁寧に頭を下げた。
「起動確認。記録核安定。自我模倣層、同期完了」
声は澄んでいた。
どこまでも礼儀正しく、どこまでも空虚だった。
彼女は胸に手を当てる。
「わたくしは、ワルキューレ第九位ノインでございます」
その場の空気が凍った。
嘘ではない。
ケイには、なぜかそうわかった。
彼女は本当に、自分をそう記録されている。
彼女の中のシステムも、記録核も、名札も、棺も、すべてが「ノイン」だと告げている。
ただし。
本物ではない。
それもまた、同じくらいはっきりしていた。
アカツキの指が刀の柄にかかる。
炎麗夜は黙っている。
颶鳴空は槍を構えたまま、息を殺していた。
白い少女――アリス参式は、まずケイを見た。
瞳の中に光の文字が走る。
「ワルキューレ第一位アイン。帰還を確認いたしました」
彼女は台座から降り、ケイの前で跪いた。
ケイは反射的に一歩下がった。
「違う」
声が強く出た。
「私はアインじゃない」
アリス参式は顔を上げる。
「否定記録を確認。ですが、胸骨聖痕、アイン型戦闘記録、ヴァルハラ宮殿接続夢、バベル反応、照合率七十八・九。あなた様は、アインでございます」
「違うって言ってるでしょ!」
ケイの胸が痛んだ。
怒りだけではない。
怖かった。
目の前の少女は、ケイを見ているのに、ケイを見ていない。リリカと同じ。役割を、記録を、適合率を見ている。
ケイという名前が、存在しないかのように。
アリス参式は首を傾げた。
「では、登録名をご提示ください」
「螢。ケイ」
ケイは言った。
「私は、ケイ」
アリス参式の瞳に文字が走る。
数秒。
長い沈黙。
そして彼女は、淡々と言った。
「該当名は登録されておりません」
その言葉は、刃より深く刺さった。
ケイは息を止めた。
該当名は登録されておりません。
魔都の端末が言いそうな言葉。
バベルが言いそうな言葉。
世界そのものから、自分の名前が存在しないと言われたようだった。
炎麗夜が怒鳴る。
「登録されてなくても、ここにいるだろ!」
アリス参式は炎麗夜へ視線を移した。
「ワルキューレ第二位ツヴァイ。記録核欠損、デーモン〈フレイ〉経由の代替接続を確認」
炎麗夜の顔が歪む。
「違う。あたしは炎麗夜だ」
「該当名は登録されておりません」
フレイが低く唸った。
その時、工房の入口で羽音がした。
赤い羽根が舞い落ちる。
マッハだった。
彼女はフェザーアローと半ば融合するように、工房の梁から降り立った。顔色は悪い。第5話でケイに触れて以来、フェザーアローの様子がおかしいのだろう。赤い翼の一部が白く変色している。
「やれやれ、勝手に面白そうなところへ入ってるじゃないか」
マッハは笑ったが、その笑いは少し硬い。
アリス参式が彼女を見た。
正確には、フェザーアローを見た。
「ワルキューレ第三位ドライ。記録核損傷。制御人格上書き。救済優先度、中」
マッハの表情が消えた。
「……何だって?」
フェザーアローが、かすかに鳴いた。
その声は鳥ではなく、人の呻きに近い。
ケイの胸が痛んだ。
やはり、あのデーモンの中には誰かがいる。
アリス参式はさらに、床に残っていた金色の破片へ視線を落とした。リリカがバベルへ回収された時、この工房へ流れ込んだ残響の一部。シキが拾い上げて持っていた、ズィーベン記録の欠片。
「ワルキューレ第七位ズィーベン。記録核回収済み。残響、微弱」
ケイは拳を握った。
リリカの泣き顔が蘇る。
「やめて」
声は低く震えた。
「みんなを、ワルキューレの名前で呼ばないで。炎麗夜さんは炎麗夜さん。マッハはマッハ。フェザーアローの中の人がドライだとしても、それだけじゃない。リリカはリリカだった。私はケイ」
アリス参式は、また首を傾げた。
「記録に存在しない名を、優先する理由が不明です」
「記録より先に、ここにいるからだよ!」
ケイの声が工房に響いた。
白い棺が、かすかに震えた。
*
「本物のノインじゃない」
シキが言った。
彼の声は、いつもの軽さを少しだけ失っていた。
「彼女は、旧帝都エデンの封印記録から作られた再現機だ。タルタロスの人柱となったノインの記録を、バベルが無理やり読み取って組み上げた模造人格。機械人形アリス系列の技術を使って、ワルキューレ第九位の戦闘記録と人格断片を入れたもの」
アリス参式は、シキを見た。
「訂正。わたくしはノインでございます」
「そう記録されているだけだ」
「記録は存在証明です」
「記録は存在の一部であって、全部じゃない」
シキの声は静かだった。
「本物のノインは、人柱になった。タルタロスを封じるために、自分の名と魂を使った。彼女には痛みがあった。選択があった。罪があった。愛があった。誰かを守るために、自分が消えることを選んだ」
アリス参式は瞬きをしない。
「該当情動記録は不完全です」
「そうだろうね」
シキは苦く笑った。
「バベルが読み取れたのは、戦闘記録、封印術式、ワルキューレ名、そして人柱としての機能だけだ。痛みも、迷いも、誰を愛したかも、誰に名前を呼んでほしかったかも、抜け落ちている」
「機能が一致すれば、存在は一致します」
「しないよ」
ケイは言った。
シキより先に、言葉が出ていた。
アリス参式がケイを見る。
「アイン、説明を」
「私はケイ」
「該当名は」
「登録されてなくても、ケイ!」
ケイは叫んだ。
胸が痛い。
でも、その痛みを言葉に変える。
「あなたはノインの記録で作られたかもしれない。ノインって名前で登録されてるかもしれない。でも、それだけで本物になるわけじゃない。リリカは都智治として登録されてた。でも、あの子はリリカだった。炎麗夜さんはフレイヤを名乗ったけど、炎麗夜さんでもある。私はアインの記録を持ってる。でも、私はケイ」
アリス参式の瞳に、再び文字が走る。
「矛盾」
「矛盾してても、人はそうやって生きてるんだよ」
その言葉に、アカツキがわずかに反応した。
彼はずっと、紅華の影を見ていた。
アリス参式の白い顔。
ノインとして作られた機械人形。
死者を再現したもの。
それは、紅華とあまりにも似ていた。
紅華もまた、生前の紅華ではない。
デーモンの器になった残響。
アカツキが姫核を集め、修復できると信じたもの。
彼は、長いあいだ認めたくなかった。
死者を再現しても、本人は戻らない。
その現実が、目の前の白い機械人形の姿を借りて立っていた。
「黙れ」
アカツキが低く言った。
誰に向けたのかわからない言葉だった。
アリス参式か。
ケイか。
シキか。
それとも、自分自身か。
アリス参式は、静かに両手を広げた。
「バベル中枢命令を受信。アイン型未登録個体を捕獲。ツヴァイ、ドライ、ズィーベン残響、紅華器、旧エデン記録傀儡を優先拘束。抵抗を排除します」
床の魔導陣が一斉に光った。
棺の蓋が開く。
中から白い武器が浮かび上がった。
剣。
槍。
鎖。
弓。
盾。
それらはすべて、ワルキューレの戦闘記録を模した兵装だった。
アリス参式の背中の翼が展開する。
彼女の瞳から感情が消えた。
いや、最初からなかったのかもしれない。
ただ、今は完全に命令だけが残っていた。
「戦闘を開始します」
*
速かった。
アリス参式の動きは、誰よりも速いというより、戦闘そのものを先に知っているようだった。
炎麗夜がフレイをムシャ化して踏み込む。
黄金の拳が床を砕きながら迫る。
だが、アリス参式はすでに横にいた。炎麗夜の肩に白い指を当て、力の流れをずらす。炎麗夜の突進がわずかに逸れ、壁へ叩きつけられた。
「ツヴァイ戦闘記録との差異、八十二パーセント。補正不要」
「勝手に採点すんな!」
炎麗夜が吼える。
颶鳴空がホーヴヴァルプニルを展開し、空中から槍を突き込む。
アリス参式は見上げもしない。
背中の翼から白い鎖が放たれ、ホーヴヴァルプニルの脚に絡む。颶鳴空は即座に手綱を切り、風で鎖を振り払ったが、その一瞬でアリス参式の白い槍が彼女の肩を掠めた。
「フュンフ相当機動、確認」
「わたくしをその名で呼ばないでいただきたい」
颶鳴空の声が冷える。
「わたくしは颶鳴空です」
「該当名は登録されておりません」
「ならば、今ここで登録なさい」
颶鳴空の槍が風を裂く。
だが、アリス参式はそれを盾で受け、槍の軌道を利用して颶鳴空を床へ落とした。
マッハが上空から矢を放つ。
赤い羽根が雨のように降る。
アリス参式は白い弓を展開し、一本の光矢を放った。
それだけで、マッハの矢の群れが撃ち落とされる。
「ドライ記録核損傷により出力低下」
「うるさいねえ!」
マッハは怒鳴ったが、フェザーアローが震えていた。
ケイはその震えを感じる。
フェザーアローの中の誰か――ドライの残響が、アリス参式に呼ばれている。記録としての仲間。ワルキューレ第三位としての役割。マッハがそれを押さえ込もうとしている。
「フェザーアロー、言うこと聞きな!」
だが、デーモンは苦しげに鳴くだけだった。
アカツキが紅華をムシャ化し、紅い炎で斬り込む。
アリス参式は白い剣で受けた。
紅い炎と白い光がぶつかる。
工房全体が揺れる。
「紅華器、魂魄保管反応多数。バベル回収対象」
アリス参式が言う。
アカツキの目が細くなる。
「貴様も、紅華を記録としてしか見ぬか」
「紅華。該当名、姫核保管器。個別人格不完全」
アカツキの刀が震えた。
「それ以上言うな」
「個別人格不完全」
アリス参式は繰り返す。
「復元不能」
アカツキの表情が、痛みに歪んだ。
一瞬の隙。
白い剣が彼の胸を裂いた。
「アカツキ!」
ケイが叫ぶ。
アカツキは倒れない。
だが、膝が揺れる。
ケイは走った。
赤い狼の影が足元から飛び出す。アインから借りた一振りが、狼の背に白い線として走る。ケイは白い棺の間を抜け、アリス参式の側面へ回り込んだ。
アリス参式は、すでにこちらを見ていた。
「アイン型未登録個体。捕獲優先」
「私はケイ!」
赤い狼が跳ぶ。
アリス参式は白い鎖で狼を絡め取る。
ケイは剣を呼んだ。
本物の剣ではない。
アインの戦闘記録から借りた、一瞬だけ形になる白い刃。
ケイの手に光が宿る。
だが、アリス参式はその刃を見た瞬間、最小の動きで避けた。白い指がケイの手首を打つ。刃が消える。次に胸元へ手が伸びる。
捕まる。
そう思った瞬間、シキの銃弾が間に入った。
弾丸はアリス参式の腕を撃ったのではない。
腕を動かすはずだった魔導陣の一点を撃ち抜いた。
アリス参式の動きが、ほんの一瞬遅れる。
ケイは転がるように距離を取った。
「助かりました!」
「お礼はあとで。今のは八割まぐれ」
「二割実力なんですね!」
「そこは褒めて」
シキは軽口を叩いたが、額には汗が浮かんでいた。
アリス参式は強い。
あまりにも強い。
だが、ケイは違和感を覚えた。
戦い方は完璧だった。
誰かの攻撃に対する反応も、次の動作も、武器の選択も、すべてが最適だった。
でも、空っぽだった。
炎麗夜が怒りに任せて突っ込む時、その奥には風鈴と風羅への想いがある。
颶鳴空が槍を振るう時、その軌道には守るべき隊列がある。
マッハが矢を放つ時、その乱暴な笑いの奥に、フェザーアローとの歪んだ関係がある。
アカツキが刀を振るう時、紅華への執着と罪が燃えている。
シキが撃つ時、嘘の奥に何か隠している。
でも、アリス参式にはそれがない。
すべてが記録通り。
すべてが再現。
そこに、彼女自身の迷いがない。
ないのではなく、許されていないのかもしれない。
ケイは、胸の奥が痛んだ。
「あなた」
ケイは叫んだ。
アリス参式の視線が向く。
「あなたはノインじゃない!」
白い工房が、一瞬静まった。
アリス参式の瞳にノイズが走る。
「訂正要求。わたくしは、ワルキューレ第九位ノインでございます」
「違う!」
ケイは一歩踏み出した。
「でも、だからって何もないわけじゃない!」
アリス参式の動きが止まった。
初めて。
ほんの一瞬だが、彼女は命令ではなく、その言葉に反応した。
「ノインでなければ」
アリス参式の声が、わずかに揺れた。
「わたくしは、何でございますか」
ケイは息を吸った。
答えを持っているわけではない。
でも、言わなければならない。
リリカに言ったように。
自分に言い聞かせるように。
「それを、今から自分で決めるんだよ」
アリス参式の瞳に、さらに激しいノイズが走った。
「自分で」
「そう。バベルが決めた名前じゃなくて。ノインの代わりでもなくて。あなたが、自分で」
「選択権限」
アリス参式が呟く。
「未登録」
「未登録でも、選んでいい」
「命令記録と矛盾」
「矛盾してもいい」
「機能定義、崩壊」
「崩れても、そこから始められる」
ケイは手を伸ばした。
「あなたはノインじゃない。でも、ノインの記録で作られたあなたは、ここにいる。なら、その先を選べる」
アリス参式は、白い手を見下ろした。
その手は機械の手だった。
しかし、震えていた。
戦闘記録では説明できない揺れ。
迷い。
初めて生まれた、彼女自身の迷いだった。
「わたくしは」
アリス参式は口を開いた。
「わたくしは――」
その時、バベルが鳴った。
*
工房の天井が黒く裂けた。
そこから、無数の光の鎖が降りてくる。リリカを奪った時と同じ、記録回収の鎖。だが今回は、もっと太く、もっと冷たい。
アリス参式の身体が硬直する。
胸部の水晶核が、黒く染まった。
「支配コード、起動」
アリス参式が、感情のない声で言った。
いや、言わされた。
「再現機自律判断、危険。バベル中枢権限により、クリストス化を強制実行」
「まずい!」
シキが叫んだ。
アリス参式の背中が割れた。
白い翼が巨大化し、工房の天井へ突き刺さる。腕が伸び、装甲が展開し、棺から飛び出した白い武器が次々と彼女の身体へ融合していく。機械腕が彼女を中心に組み替わり、夢殿コピーの祭壇が砕け、裁きの門を模した輪が背部へ接続された。
少女の姿が、巨大な戦乙女機体へ変わっていく。
白い鎧。
六枚の翼。
背後に輪。
胸部には、大きく刻まれた名前。
ノイン。
その文字が、黒い光で輝いていた。
ケイはそれを見て、息を呑んだ。
名前が、鎖になっている。
ノインという名が、彼女を縛っている。
アリス参式の顔だけが、巨大な白い戦乙女機体の胸部に残っていた。目は開いている。だが、そこにはさっき生まれかけた迷いが、黒い支配コードに塗り潰されている。
「バベル命令」
巨大な白い戦乙女が告げる。
「全対象、拘束。抵抗、排除」
炎麗夜が舌打ちした。
「今度はでかくなったか!」
フレイが吼え、黄金の装甲がさらに厚くなる。
颶鳴空がホーヴヴァルプニルを完全展開する。
マッハは顔をしかめ、フェザーアローの震えを押さえ込む。
アカツキは胸の傷を押さえながら、白い戦乙女を見上げていた。
その目には、紅華が映っているのだろう。
名を刻まれ、役割に縛られ、本人ではないものとして使われる器。
アリス参式は、紅華の別の姿だった。
死者を復活させようとすれば、こうなる。
名前が鎖になる。
記録が檻になる。
本人ではないものが、本人として使われる。
ケイは拳を握った。
「壊すのか」
アカツキが低く言った。
ケイは首を振った。
「壊すんじゃない」
胸の奥で、アインの一振りが静かに光る。
赤い狼が、足元で姿勢を低くする。
ケイは白い戦乙女の胸部を見上げた。
そこに刻まれた、ノインという黒い文字を。
そして、その奥に閉じ込められているアリス参式の震える手を思い出した。
「名前を剥がす」
その言葉に、アカツキの顔が微かに歪んだ。
紅華。
彼の袖の奥で、紅い影が揺れる。
死者は戻らない。
だが、名を鎖にしたままにはしない。
ケイは一歩前へ出た。
「アリス参式!」
巨大な白い戦乙女の目が、わずかにこちらを向く。
「あなたが何になるか、まだ決まってない。バベルにも、ノインの名にも、決めさせない」
黒い塔の底で、白い戦乙女が翼を広げる。
無数の棺が開き、死者の名前が光となって舞い上がる。
ケイの赤い狼が吼えた。
その声は、工房に眠る名のない記録たちを震わせた。




