第10話 ヴァルハラ計画
滅びは、何度も上映されていた。
バベル中枢へ続く白い工房の奥で、巨大な黒い壁面が開いた。そこに映し出されたのは、歴史ではなかった。少なくとも、ケイが知る「過去の記録」とは違った。
空が裂ける。
死都東京の上に、光の柱が立つ。
帝都エデンの高層街区が燃え、ヨムルンガルド結界の蛇紋が、夜空で千切れていく。夢殿の白い尖塔が傾き、ヴァルハラ宮殿の黄金の玉座は誰も座らぬまま砕け散る。女帝ヌルの義体が玉座の上で沈黙し、瞳から光が失われる。九つのワルキューレの席が、一つ、また一つと空白になっていく。
アイン。
ツヴァイ。
ドライ。
フィーア。
フュンフ。
ゼクス。
ズィーベン。
アハト。
ノイン。
名だけが残り、姿が消える。
映像の中で、都市が水に呑まれた。
だが、それは水ではなかった。
建物の窓から、文字が流れ出している。人の口から、名前が流れ出している。墓標から刻まれた名が剥がれ、学校の名簿が白紙になり、家族写真の顔が塗り潰される。海のように押し寄せるのは、記録だった。
ノアインパクト。
記録の洪水。
ケイは、シンが語った言葉を思い出した。
歴史、地名、国家、文明、名前が洗い流された。
その映像は、そこで終わらなかった。
巻き戻る。
白い光が逆流し、崩れた塔が戻り、割れた結界がつながり、女帝義体が瞳を開き、ワルキューレの空席に影が戻る。
そして、また滅びる。
また、光の柱が立つ。
また、結界が破綻する。
また、名前が洪水になる。
また、都市が沈む。
何度も。
何度も。
何度も。
ケイは、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
「これ……記録じゃない」
声が震えた。
「同じことを、何度もやってる」
シキは黒い壁面を見つめていた。
いつもの軽口はない。テンガロンハットの影で、彼の目だけが妙に冷たく光っている。
「終末観測記録。帝都エデンが滅びる可能性を、夢殿と裁きの門とバベルが何度も再演している」
炎麗夜が低く唸った。
「悪趣味な劇だね」
「劇というより、実験だよ」
シキは言った。
「どの条件で女帝義体が沈黙するか。どの段階でヨムルンガルド結界が破綻するか。ワルキューレ記録核が欠落した時、どの名を代替すれば都市支配が維持できるか。バベルはそれをずっと試している」
颶鳴空が、槍を握りしめた。
「つまり、この世界は滅びた未来ではなく」
「滅びる可能性を反復している層」
シキが答える。
ケイは映像から目を離せなかった。
映像の中で、また帝都エデンが滅びる。
また、女帝の義体が沈黙する。
また、名前が流される。
ケイは、自分が未来へ来たと思っていた。二四一一年。荒れ果てた日本。帝都エデンの後の時代。
けれど、違った。
ここは未来ではない。
未来になり損ねた終末の反復。
滅びたのではなく、滅びる可能性が何度も固定され、上演され、書き直されている場所。
その中で、ミライは生きていた。
風鈴と風羅は笑っていた。
リリカは泣いていた。
それがいちばん残酷だった。
偽物ではない。
苦しんでいるなら本物だと、シンは言った。
なら、この反復する終末の中で生まれた痛みも、喪失も、本物だ。
ケイは拳を握った。
「こんなの、終わらせなきゃ」
「終わらせる?」
甘い声がした。
黒い壁面の前に、赤い光が集まる。
車椅子。
赤いドレス。
薄いベール。
紅い唇。
マダム・ヴィーが、映像の中から抜け出すように現れた。
それは実体ではない。バベル中枢から投影された記録義体の映像だ。けれど、そこにいるだけで空気が変わった。白い工房の温度が、赤い薔薇の匂いを含んだ冷気へ変わる。
「終わらせるなんて、野蛮ね」
ヴィーは微笑んだ。
「物語は、終わるから美しいのではないわ。繰り返され、磨かれ、不要な部分を削がれ、最も美しい神話へ整えられるから永遠になるの」
アカツキが刀に手をかけた。
「ヴィー」
「ご機嫌よう、紅い月。紅華はまだ完全には戻らないようね。残念。あれほど材料を集めてくれたのに」
アカツキの目に殺意が走る。
だが、ヴィーの映像は涼しげだった。
ケイは一歩前へ出た。
「ヴァルハラ計画って、何なんですか」
ヴィーの視線が、ケイへ移る。
「聞きたいの?」
「聞きます。聞いてから怒ります」
「まあ」
ヴィーは楽しげに笑った。
「順番が正しいわね」
赤いドレスの裾が、実体のない床の上に広がる。
「ヴァルハラ計画。それは、俗に言われている女帝ヌルとワルキューレの復活計画ではないわ」
炎麗夜が眉をひそめる。
「魔都はずっと、それを掲げて姫核持ちを狩ってきた」
「民衆にわかりやすい物語が必要だったの。女帝は眠っている。ワルキューレは失われた。選ばれた姫核保持者がその名を宿せば、いつか神々が戻る。ね、綺麗でしょう?」
「綺麗なわけあるか」
炎麗夜の声が低くなる。
ヴィーは気にしない。
「正確には、彼女たちの名前と記録を再配置し、より美しい統治神話を作る計画よ」
ケイは息を止めた。
「再配置……?」
「本物のヌルは要らない。本物のワルキューレも要らない。だって、本物は面倒だもの。意思がある。傷がある。矛盾がある。自分の役割を拒むことがある。ノインのように裏切ることもある」
アリス参式の巨大な白いクリストス体が、工房の奥で黒い鎖に縛られたまま静止している。その胸部には「ノイン」の名が刻まれていた。
ヴィーはそれを見上げ、うっとりとした。
「必要なのは、人々が跪くに足る美しい神の形。女帝らしい女帝。戦乙女らしい戦乙女。救いらしい救い。悲劇らしい悲劇。民は本物を求めているのではないわ。信じられる形を求めている」
「違う」
ケイは言った。
「死んだ人を、飾りにするな」
ヴィーの唇が、ゆっくり弧を描く。
「違うわ。死者は飾られて初めて永遠になるの」
「違う!」
ケイの声が工房に響いた。
「ミライは飾りじゃない。風鈴も、風羅も、リリカも、ヒミカも、アインも、ノインも、紅華も。みんな、あなたの神話の部品じゃない!」
「では、何かしら」
「名前があった人たちです!」
ヴィーは、ほんの少しだけ目を細めた。
「その答え、わたくしは嫌いではないわ。でも、弱い」
彼女の背後で、映像が切り替わる。
魔都エデンの街。
表通りの市民。
女帝像に祈る老婦人。
義体の学生。
魔導広告を見上げる子ども。
バベルへ通じる管の中で、微細な光が流れている。
「見なさい、ケイ。人は弱い。名前だけでは生きられない。神話が必要なの。支配が必要なの。誰かに、自分の役割を決めてもらう方が楽なのよ」
ケイは何も言えなかった。
その言葉が完全な嘘ではないことを、リリカが証明していた。
役割は檻だ。
でも、空っぽの人間にとっては、檻が形を与えることもある。
だからこそ、残酷なのだ。
*
工房の入口で、黒い軍靴の音が響いた。
モーリアンが現れた。
黒い軍服。鋼色の髪。長剣。顔には疲労が浮かんでいるが、姿勢は崩れていない。その後ろには数名の魔都兵。だが数は少ない。ヨコハマ港跡地での損耗と、魔都内部の混乱が響いているのだろう。
彼女はヴィーの映像へ膝をついた。
「マダム・ヴィー。バイブ・カハ、モーリアン。命令に従い、反逆者を拘束します」
マッハが笑った。
笑ったが、その声には棘がある。
「まだ忠誠ごっこやるんだ、モーリアン」
工房の梁の上に、マッハがいた。
フェザーアローと半融合し、赤い翼をたたんでいる。第9話からずっと不安定だったフェザーアローは、今も時折、白いノイズを羽根に走らせていた。
モーリアンは振り返らない。
「任務だ」
「その任務、誰が出してるんだい。都智治リリカはバベルに回収された。政府中枢はヴィーの舞台装置。女帝様もワルキューレもいない。守ってた国なんて、最初から作品だったって、今聞いたばかりだろ」
「それでも秩序は必要だ」
モーリアンの声は硬い。
「たとえ神話が模造品でも、魔都は魔都だ。市民はいる。都市は動いている。命令系統が崩れれば、さらに多くの人間が死ぬ」
炎麗夜が噛みつくように言った。
「だからヴィーに従うのか」
「従うのではない。都市崩壊を防ぐ」
「同じだよ」
「違う」
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
その時、紫の笑い声が響いた。
「真面目ねえ、モーリアン。だからあなた、最後まで鎖の形をした正義を握っているのよ」
通路の影から、ネヴァンが現れた。
紫の薄衣は裂れ、身体の半分には黒い鱗のようなものが浮いている。ヨコハマ港で大海龍に貫かれ、死んだと思われていたはずの女。しかし、彼女の目は以前よりも深く、妖しく光っていた。
マッハが目を見開く。
「ネヴァン。生きてたのかい」
「死んだ方が綺麗だった?」
「趣味が悪い」
「知ってるわ」
ネヴァンは微笑む。
だが、以前のようにただ混乱を楽しんでいる顔ではなかった。彼女の背後には、大海龍の青黒い残響が揺れている。完全に取り込まれたのではない。だが、何かを持ち帰っている。
「政府はもう終わってるわ」
ネヴァンはケイを見た。
「問題は、その後に誰が名前を握るかよ」
「名前を握る?」
「そう。ヴィーが握るのか。バベルが握るのか。魔都の市民が握るのか。姫核保持者が握るのか。それとも、誰にも握らせず、ばら撒くのか」
ケイはネヴァンを睨む。
「あなたは何がしたいの」
「さあ」
ネヴァンは笑った。
「混乱の女神に、秩序立った目的を求めないで」
モーリアンが剣を構える。
「ネヴァン、おまえも反逆者か」
「反逆するほど、政府を愛していないわ」
マッハは黙ってフェザーアローを見た。
赤いキツツキ型デーモンの内部で、白い光が強まっている。バベルに引かれているのだ。アリス参式が「ドライ」と呼んだ記録核。フェザーアローの中に封じられたワルキューレ第三位の残響。
マッハは、自分の腕が震えていることに気づいた。
狩る側だった。
姫核保持者を追い、網を投げ、札を貼り、魔都へ運んできた。
今、その自分のデーモンが狩られようとしている。
バベルに、名を引き抜かれようとしている。
「……こんな感じなのかい」
マッハは呟いた。
ケイが彼女を見る。
「何が」
「狩られるってのは」
マッハは笑おうとして、失敗した。
「腹が立つね。怖いし、気持ち悪いし、何より、自分のものを勝手に名前で呼ばれるのが、こんなにムカつくとは思わなかった」
フェザーアローが苦しげに鳴いた。
マッハはその頭に手を置いた。
「アンタはフェザーアローだ。ドライだか何だか知らないけど、アタイが呼ぶ時はフェザーアローだ」
ケイは、少しだけ目を見開いた。
炎麗夜が低く言う。
「ようやく狩られる側の気分がわかったか、凶鳥」
「凶鳥じゃない。キツツキ」
「今、それ言うのかい」
「言うさ。名前は大事なんだろ?」
マッハは、わずかに笑った。
その笑みは、いつもの挑発的なものではなかった。
弱さを隠すための笑みだった。
ケイは頷いた。
「大事です」
ヴィーが、楽しげに拍手した。
「素晴らしい。敵同士が名前のために手を結ぶ。これもまた、美しい場面ね」
「黙れ」
炎麗夜、アカツキ、マッハの声が重なった。
ケイはアリス参式の巨大な白いクリストス体を見上げた。
胸部に刻まれた「ノイン」の名は、黒い鎖で縛られている。バベルの支配コードが、彼女を完全に取り込もうとしている。
ヴィーの狙いは、彼女たちの反応も含めて舞台にすることだ。
それでも、止めなければならない。
「アリス参式を解放します」
ケイは言った。
炎麗夜が拳を鳴らす。
「壊すんじゃなくて、名前を剥がすんだろ」
「はい」
マッハがフェザーアローの羽根を広げる。
「鎖を切ればいいんだね。そういう細かい仕事、得意じゃないけど、速さなら任せな」
シキが銃を回す。
「命令コードはボクが撹乱する。シンにも噛ませる」
壁面の端末に、ノイズ混じりのシンの顔が浮かんだ。
《勝手に噛ませるな。だが、やる。バベルの命令系統は古い夢殿コードを混ぜている。嫌味なほど私の嫌いな構文だ》
颶鳴空が槍を構えた。
「退路と空間確保はわたくしが」
アカツキは紅華の影を見た。
「俺様は」
ケイが言った。
「アリス参式の奥にある、自分で選ぼうとした意識を探してください。あなたのサトリなら、記録の奥に届くかもしれない」
アカツキはケイを睨んだ。
「俺様に頼むか」
「はい」
「俺様は多くの名を奪った男だぞ」
「だから、今度は奪わないで探して」
アカツキの表情が歪む。
紅華の影が袖の奥で揺れた。
長い沈黙のあと、彼は刀を抜いた。
「一度だけだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。気色が悪い」
「いちいち一言多い!」
そのやり取りに、マッハが少しだけ笑った。
炎麗夜は肩を鳴らす。
「行くよ。名前泥棒の塔に、こっちの名前を叩き込む」
*
アリス参式=ノインのクリストス体が動いた。
六枚の白い翼が広がり、工房の天井を砕く。棺から溢れた死者の名前が光の粒となって周囲を舞い、彼女の手には巨大な白い剣が形成された。
「バベル命令。全対象、拘束」
感情のない声。
だが、ケイには聞こえた気がした。
その奥で、かすかに震える小さな声。
――わたくしは。
まだ、何になるか決まっていない声。
「炎麗夜さん!」
「任せな!」
炎麗夜が正面から突っ込む。
フレイが吼え、黄金の装甲が彼女の全身を覆う。前回までより重い。だが、それはリリカに固定された「フレイヤ」の装甲ではない。炎麗夜が自分で選んだ戦いの形だった。
黄金の猪の突撃が、白い戦乙女の剣を受け止める。
衝撃で床が割れた。
「重いねえ!」
炎麗夜が歯を食いしばる。
「でも、守るだけの重さなら慣れてるんだよ!」
彼女は両腕で剣を押し返す。
その隙に、マッハが動いた。
赤い影が視界から消える。
次の瞬間、白い戦乙女の背後で火花が散った。フェザーアローの嘴が、黒い光の鎖を打つ。マッハは一撃で切れないと見るや、角度を変え、速度を上げ、何度も何度も同じ鎖を叩いた。
「硬いねえ、ノインの名前ってのは!」
フェザーアローが鳴く。
その声には痛みが混じっている。
バベルの鎖は、フェザーアローの中のドライ記録にも反応し、逆に引き寄せようとしていた。
マッハは歯を食いしばる。
「引っ張られるんじゃないよ、フェザーアロー! アンタはアタイの相棒だろ!」
赤い羽根が白い光を散らす。
シキは工房の端末群を撃ち抜いていた。
銃声が規則的に響く。弾丸は機械を壊しているのではない。バベルの命令コードが通る経路を、寸前でずらしている。
《右上位コード、三秒後に再接続》
シンが叫ぶ。
「三秒あれば十分」
シキが撃つ。
コードが乱れる。
《左翼制御に偽命令挿入》
「文面は?」
《“昼寝をしろ”》
「趣味がいい」
白い戦乙女の左翼が一瞬だけ動きを止めた。
颶鳴空がその隙にホーヴヴァルプニルで空間を駆け、翼の付け根に槍を打ち込む。壊すのではなく、支配コードの結び目を露出させる一撃。
ネヴァンは戦場の端で、紫の鈴を鳴らした。
「少しだけ、バベルの認識を揺らしてあげる」
「信用できるのかい!」
炎麗夜が叫ぶ。
「できないわ」
ネヴァンは笑った。
「でも、今は同じものが嫌いでしょう?」
紫の波紋が広がり、バベルの鎖が一瞬だけ自分の接続先を見失った。
モーリアンは剣を構えたまま動かなかった。
いや、動けなかった。
ヴィーへの忠誠。
都市秩序への責任。
目の前の歪んだ計画。
そのすべてが彼女を縛っている。
ケイは戦場の中で、モーリアンを見た。
「モーリアンさん!」
モーリアンの目が動く。
「あなたが守りたいのは、ヴィーですか。魔都ですか。それとも、魔都にいる人たちですか!」
モーリアンの表情が揺れた。
白い戦乙女の剣が炎麗夜を押し潰そうとする。
モーリアンは動いた。
黒い剣が、白い剣の側面に打ち込まれる。
炎麗夜が目を見開く。
「手伝うのかい」
「都市を守る」
モーリアンは短く言った。
「今、この機体とバベルは都市を壊す側だ」
「頑固だね」
「任務だ」
炎麗夜は笑った。
「今だけは好きだよ、その頑固さ!」
二人の剣と拳が、白い戦乙女を押し返した。
その中心で、アカツキは目を閉じた。
紅華の影が彼の背後に広がる。
サトリ。
心の声を聴く力。
だが、アリス参式には普通の心がない。記録人格。模造自我。命令層。支配コード。ノインの名。棺に収められた死者の名。無数の記録の層が重なっている。
アカツキは、その奥へ沈んだ。
紅華を探し続けた感覚。
姫核を抜き、魂魄記録を覗き込み、救いだと信じてきた罪。
その罪の形を、今だけ道具にする。
「どこだ」
アカツキは呟いた。
「貴様はノインではない。だが、空でもない。なら、どこかにいるはずだ」
紅華の影が揺れる。
まるで、答えを示すように。
アカツキの意識は、白い戦乙女の胸部へ届いた。
そこに、小さな少女がいた。
白い機械人形。
膝を抱え、黒い鎖に囲まれ、胸に「ノイン」と刻まれた札を押しつけられている。
彼女は、ずっと呟いていた。
わたくしは、ノインでございます。
わたくしは、ノインでございます。
わたくしは。
わたくしは。
それしか知らないように。
アカツキは、彼女の前に立った。
「哀れな人形だ」
少女は顔を上げる。
「わたくしは、ワルキューレ第九位ノインでございます」
「違う」
「訂正不可」
「俺様も、訂正不可の嘘を長く抱いていた」
アカツキは、紅華の名を思い浮かべた。
「死者は戻る。名を集めれば、器を満たせば、魂魄を積めば、いつか戻る。そう信じた。信じなければ、俺様はただの殺人鬼だった」
少女は何も言わない。
「だが、戻らなかった」
アカツキの声が掠れた。
「紅華は戻らなかった。ミライも、風鈴も、風羅も、俺様が奪った名は誰一人、俺様の望む形では戻らなかった」
少女の金色の目が揺れる。
「では、わたくしも」
「ノインには戻らん」
アカツキは言った。
「だが、貴様が消えなければならない理由にはならん」
少女の唇が震える。
そこへ、ケイの声が届いた。
*
ケイは、白い戦乙女の胸へ向かって走っていた。
炎麗夜とモーリアンが正面で剣を止め、マッハが鎖を切り、颶鳴空が翼の動きを抑え、シキとシンが命令コードを乱し、ネヴァンが認識を揺らし、アカツキが奥の自我を探す。
その全部が、ケイのための道を作っている。
怖かった。
足が震える。
でも、止まらない。
赤い狼が先に走る。
アインから借りた一振りが、今度は剣ではなく、小さな光の針になって狼の牙に宿っていた。壊すためではない。剥がすための針。
ケイは白い戦乙女の胸部へ飛び乗った。
目の前に、「ノイン」の文字がある。
黒い鎖が絡みついている。
文字はただ刻まれているのではない。肉に食い込む釘のように、アリス参式の存在そのものを固定している。
ケイは手を伸ばした。
黒い文字に触れる。
激痛。
頭の中に、知らない映像が流れ込む。
タルタロス。
人柱。
ノインの名。
封印。
孤独。
選択。
痛み。
だが、それは完全な記憶ではなかった。バベルが読み取った断片。機能として抜き出された記録。そこにノイン本人の息遣いはほとんど残っていない。
「あなたの名前を」
ケイは叫んだ。
白い戦乙女の奥の、小さな少女へ。
「ノインから始めなくていい!」
黒い文字が暴れる。
バベルの鎖がケイの腕に絡みつこうとする。
炎麗夜が叫ぶ。
「ケイ!」
ケイは歯を食いしばる。
「ノインの記録で作られたことを、なかったことにしなくていい。でも、それだけで終わらなくていい。あなたが何か、今決められないなら、決まってないって言えばいい!」
内側で、小さな少女が顔を上げた。
「決まっていない」
「そう!」
「未完成」
「そう!」
「未登録」
「登録なんてあとでいい!」
ケイは笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「私の名前だって、この世界には登録されてなかった。でも、私はここにいる!」
アカツキのサトリが、奥の少女へ道を開く。
シキの弾丸が、支配コードの結び目を撃ち抜く。
マッハが最後の太い鎖へ突っ込む。
「フェザーアロー!」
赤い翼が唸る。
フェザーアローの内部で、ドライの残響が一瞬だけ羽ばたいた。
赤い嘴が、黒い鎖を断つ。
炎麗夜とモーリアンが白い剣を弾き返す。
颶鳴空が翼の拘束輪を砕く。
ケイの赤い狼が、胸部の「ノイン」の文字へ牙を立てた。
黒い名前が、剥がれた。
白い戦乙女が悲鳴を上げる。
いや、悲鳴ではない。
初めての産声に近かった。
胸部の装甲が割れ、そこから白い少女型機械人形が落ちてくる。
ケイは手を伸ばした。
少女の手を掴む。
軽い。
冷たい。
でも、そこにある。
「名前を」
ケイは言った。
「自分で」
少女は、長く沈黙した。
瞳の中を、無数の記録が流れていく。
ノイン。
第九位。
人柱。
再現機。
アリス系列。
バベル支配対象。
模造人格。
未完成。
未登録。
その中から、彼女は一つだけ選んだ。
「わたくしは……アリス参式」
声は小さかった。
だが、命令ではなかった。
「まだ、それだけでございます」
工房の空気が変わった。
バベルの支配が、完全に消えたわけではない。
黒い鎖はまだ天井から垂れている。白いクリストス体も、崩れながらなお動こうとしている。ヴィーの視線も消えない。
それでも、胸に刻まれていた「ノイン」の文字は砕けた。
アリス参式は、自分で自分を名乗った。
小さな勝利だった。
けれど、この世界では、それは奇跡に近かった。
*
拍手が響いた。
ヴィーだった。
赤い映像の中で、彼女はうっとりと手を叩いていた。
「素晴らしい」
その声には、悔しさがなかった。
むしろ、心から感動しているようだった。
「模造人格が、与えられた死者の名を剥がし、未完成の名を選ぶ。敵同士が一時的に手を結び、記録から自我を救い出す。なんて美しい場面かしら」
ケイはアリス参式を抱えたまま、ヴィーを睨んだ。
「あなたの舞台じゃない」
「ええ。だから、もっと大きな舞台にしましょう」
ヴィーの唇が、赤く微笑む。
シキの顔色が変わった。
「まさか」
《バベル中枢出力、急上昇》
シンの声が端末から響く。
《第一区画、第二区画、第七都市核、全市民記録導管へ接続開始。まずい。これは姫核保持者だけではない》
モーリアンが叫ぶ。
「何をしている、ヴィー!」
「ヴァルハラ計画の本起動よ」
ヴィーは優雅に言った。
「姫核保持者だけでは、神話の器として不十分だった。けれど今、素晴らしい反応が見られた。未登録名。自己選択。記録鎖の剥離。反逆する模造人格。ならば、それも含めて収集しましょう」
「市民を巻き込む気か!」
モーリアンの声が裂ける。
「市民もまた、魔都エデンという作品の一部だもの」
ヴィーの映像が、魔都全域へ広がる。
「さあ、開幕よ」
バベルが完全起動した。
*
魔都エデン全域に、光の柱が立った。
それはかつて一九九九年の空に立った光に似ていた。
だが、今度は一本ではない。
幾百、幾千。
街路から、住宅区から、義体市民の工房から、学校から、病院から、女帝像の広場から、地下の労働区から、バベルへ向かって光が昇っていく。
人々が倒れた。
姫核保持者だけではない。
普通の市民も。
女帝に祈っていた老婦人も。
義体の学生も。
魔導広告を見上げていた子どもも。
兵士も、役人も、商人も、巡礼者も。
彼らの胸や額や義体の接続部から、小さな光の粒が抜け出していく。
ソエルの欠片。
記録の残滓。
名前の火種。
バベルは、死者だけではなく、生者の中に残った小さな神話の破片まで収穫し始めていた。
建物の看板から文字が薄れる。
住民票が白紙になる。
端末の個人記録が欠ける。
墓標の名が消える。
魔都エデンが、静かに自分の名前を失い始めた。
炎麗夜が叫んだ。
「ヴィー!」
モーリアンが呆然と膝をつく。
「これが……秩序だというのか」
マッハはフェザーアローを抱え込むように翼を畳んだ。
「持っていかせるかよ……!」
ネヴァンは笑っていなかった。
アカツキは、紅華の影を握りしめる。
アリス参式は、ケイの腕の中で空を見上げていた。
「これが、バベル」
ケイは、工房の割れた天井から外を見た。
魔都エデンの空が開いている。
そこに、白い宮殿が浮かび上がっていた。
偽りのヴァルハラ宮殿。
黄金の玉座。
九つの空席。
女帝のための空白。
すべてが、魔都の空に現れている。
それは美しかった。
悔しいほどに、美しかった。
だからこそ、ケイは拳を握った。
「綺麗なだけの嘘に」
胸の奥で、赤い狼が吼える。
アインの一振りが、静かに光る。
「みんなの名前を使わせない」
バベルの光が、彼女たちを呑み込むように降り注いだ。




