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第10話 ヴァルハラ計画

 滅びは、何度も上映されていた。


 バベル中枢へ続く白い工房の奥で、巨大な黒い壁面が開いた。そこに映し出されたのは、歴史ではなかった。少なくとも、ケイが知る「過去の記録」とは違った。


 空が裂ける。


 死都東京の上に、光の柱が立つ。


 帝都エデンの高層街区が燃え、ヨムルンガルド結界の蛇紋が、夜空で千切れていく。夢殿の白い尖塔が傾き、ヴァルハラ宮殿の黄金の玉座は誰も座らぬまま砕け散る。女帝ヌルの義体が玉座の上で沈黙し、瞳から光が失われる。九つのワルキューレの席が、一つ、また一つと空白になっていく。


 アイン。


 ツヴァイ。


 ドライ。


 フィーア。


 フュンフ。


 ゼクス。


 ズィーベン。


 アハト。


 ノイン。


 名だけが残り、姿が消える。


 映像の中で、都市が水に呑まれた。


 だが、それは水ではなかった。


 建物の窓から、文字が流れ出している。人の口から、名前が流れ出している。墓標から刻まれた名が剥がれ、学校の名簿が白紙になり、家族写真の顔が塗り潰される。海のように押し寄せるのは、記録だった。


 ノアインパクト。


 記録の洪水。


 ケイは、シンが語った言葉を思い出した。


 歴史、地名、国家、文明、名前が洗い流された。


 その映像は、そこで終わらなかった。


 巻き戻る。


 白い光が逆流し、崩れた塔が戻り、割れた結界がつながり、女帝義体が瞳を開き、ワルキューレの空席に影が戻る。


 そして、また滅びる。


 また、光の柱が立つ。


 また、結界が破綻する。


 また、名前が洪水になる。


 また、都市が沈む。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 ケイは、胃の奥が冷たくなるのを感じた。


「これ……記録じゃない」


 声が震えた。


「同じことを、何度もやってる」


 シキは黒い壁面を見つめていた。


 いつもの軽口はない。テンガロンハットの影で、彼の目だけが妙に冷たく光っている。


「終末観測記録。帝都エデンが滅びる可能性を、夢殿と裁きの門とバベルが何度も再演している」


 炎麗夜が低く唸った。


「悪趣味な劇だね」


「劇というより、実験だよ」


 シキは言った。


「どの条件で女帝義体が沈黙するか。どの段階でヨムルンガルド結界が破綻するか。ワルキューレ記録核が欠落した時、どの名を代替すれば都市支配が維持できるか。バベルはそれをずっと試している」


 颶鳴空が、槍を握りしめた。


「つまり、この世界は滅びた未来ではなく」


「滅びる可能性を反復している層」


 シキが答える。


 ケイは映像から目を離せなかった。


 映像の中で、また帝都エデンが滅びる。


 また、女帝の義体が沈黙する。


 また、名前が流される。


 ケイは、自分が未来へ来たと思っていた。二四一一年。荒れ果てた日本。帝都エデンの後の時代。


 けれど、違った。


 ここは未来ではない。


 未来になり損ねた終末の反復。


 滅びたのではなく、滅びる可能性が何度も固定され、上演され、書き直されている場所。


 その中で、ミライは生きていた。


 風鈴と風羅は笑っていた。


 リリカは泣いていた。


 それがいちばん残酷だった。


 偽物ではない。


 苦しんでいるなら本物だと、シンは言った。


 なら、この反復する終末の中で生まれた痛みも、喪失も、本物だ。


 ケイは拳を握った。


「こんなの、終わらせなきゃ」


「終わらせる?」


 甘い声がした。


 黒い壁面の前に、赤い光が集まる。


 車椅子。


 赤いドレス。


 薄いベール。


 紅い唇。


 マダム・ヴィーが、映像の中から抜け出すように現れた。


 それは実体ではない。バベル中枢から投影された記録義体の映像だ。けれど、そこにいるだけで空気が変わった。白い工房の温度が、赤い薔薇の匂いを含んだ冷気へ変わる。


「終わらせるなんて、野蛮ね」


 ヴィーは微笑んだ。


「物語は、終わるから美しいのではないわ。繰り返され、磨かれ、不要な部分を削がれ、最も美しい神話へ整えられるから永遠になるの」


 アカツキが刀に手をかけた。


「ヴィー」


「ご機嫌よう、紅い月。紅華はまだ完全には戻らないようね。残念。あれほど材料を集めてくれたのに」


 アカツキの目に殺意が走る。


 だが、ヴィーの映像は涼しげだった。


 ケイは一歩前へ出た。


「ヴァルハラ計画って、何なんですか」


 ヴィーの視線が、ケイへ移る。


「聞きたいの?」


「聞きます。聞いてから怒ります」


「まあ」


 ヴィーは楽しげに笑った。


「順番が正しいわね」


 赤いドレスの裾が、実体のない床の上に広がる。


「ヴァルハラ計画。それは、俗に言われている女帝ヌルとワルキューレの復活計画ではないわ」


 炎麗夜が眉をひそめる。


「魔都はずっと、それを掲げて姫核持ちを狩ってきた」


「民衆にわかりやすい物語が必要だったの。女帝は眠っている。ワルキューレは失われた。選ばれた姫核保持者がその名を宿せば、いつか神々が戻る。ね、綺麗でしょう?」


「綺麗なわけあるか」


 炎麗夜の声が低くなる。


 ヴィーは気にしない。


「正確には、彼女たちの名前と記録を再配置し、より美しい統治神話を作る計画よ」


 ケイは息を止めた。


「再配置……?」


「本物のヌルは要らない。本物のワルキューレも要らない。だって、本物は面倒だもの。意思がある。傷がある。矛盾がある。自分の役割を拒むことがある。ノインのように裏切ることもある」


 アリス参式の巨大な白いクリストス体が、工房の奥で黒い鎖に縛られたまま静止している。その胸部には「ノイン」の名が刻まれていた。


 ヴィーはそれを見上げ、うっとりとした。


「必要なのは、人々が跪くに足る美しい神の形。女帝らしい女帝。戦乙女らしい戦乙女。救いらしい救い。悲劇らしい悲劇。民は本物を求めているのではないわ。信じられる形を求めている」


「違う」


 ケイは言った。


「死んだ人を、飾りにするな」


 ヴィーの唇が、ゆっくり弧を描く。


「違うわ。死者は飾られて初めて永遠になるの」


「違う!」


 ケイの声が工房に響いた。


「ミライは飾りじゃない。風鈴も、風羅も、リリカも、ヒミカも、アインも、ノインも、紅華も。みんな、あなたの神話の部品じゃない!」


「では、何かしら」


「名前があった人たちです!」


 ヴィーは、ほんの少しだけ目を細めた。


「その答え、わたくしは嫌いではないわ。でも、弱い」


 彼女の背後で、映像が切り替わる。


 魔都エデンの街。


 表通りの市民。


 女帝像に祈る老婦人。


 義体の学生。


 魔導広告を見上げる子ども。


 バベルへ通じる管の中で、微細な光が流れている。


「見なさい、ケイ。人は弱い。名前だけでは生きられない。神話が必要なの。支配が必要なの。誰かに、自分の役割を決めてもらう方が楽なのよ」


 ケイは何も言えなかった。


 その言葉が完全な嘘ではないことを、リリカが証明していた。


 役割は檻だ。


 でも、空っぽの人間にとっては、檻が形を与えることもある。


 だからこそ、残酷なのだ。


     *


 工房の入口で、黒い軍靴の音が響いた。


 モーリアンが現れた。


 黒い軍服。鋼色の髪。長剣。顔には疲労が浮かんでいるが、姿勢は崩れていない。その後ろには数名の魔都兵。だが数は少ない。ヨコハマ港跡地での損耗と、魔都内部の混乱が響いているのだろう。


 彼女はヴィーの映像へ膝をついた。


「マダム・ヴィー。バイブ・カハ、モーリアン。命令に従い、反逆者を拘束します」


 マッハが笑った。


 笑ったが、その声には棘がある。


「まだ忠誠ごっこやるんだ、モーリアン」


 工房の梁の上に、マッハがいた。


 フェザーアローと半融合し、赤い翼をたたんでいる。第9話からずっと不安定だったフェザーアローは、今も時折、白いノイズを羽根に走らせていた。


 モーリアンは振り返らない。


「任務だ」


「その任務、誰が出してるんだい。都智治リリカはバベルに回収された。政府中枢はヴィーの舞台装置。女帝様もワルキューレもいない。守ってた国なんて、最初から作品だったって、今聞いたばかりだろ」


「それでも秩序は必要だ」


 モーリアンの声は硬い。


「たとえ神話が模造品でも、魔都は魔都だ。市民はいる。都市は動いている。命令系統が崩れれば、さらに多くの人間が死ぬ」


 炎麗夜が噛みつくように言った。


「だからヴィーに従うのか」


「従うのではない。都市崩壊を防ぐ」


「同じだよ」


「違う」


 二人の間に、重い沈黙が落ちる。


 その時、紫の笑い声が響いた。


「真面目ねえ、モーリアン。だからあなた、最後まで鎖の形をした正義を握っているのよ」


 通路の影から、ネヴァンが現れた。


 紫の薄衣は裂れ、身体の半分には黒い鱗のようなものが浮いている。ヨコハマ港で大海龍に貫かれ、死んだと思われていたはずの女。しかし、彼女の目は以前よりも深く、妖しく光っていた。


 マッハが目を見開く。


「ネヴァン。生きてたのかい」


「死んだ方が綺麗だった?」


「趣味が悪い」


「知ってるわ」


 ネヴァンは微笑む。


 だが、以前のようにただ混乱を楽しんでいる顔ではなかった。彼女の背後には、大海龍の青黒い残響が揺れている。完全に取り込まれたのではない。だが、何かを持ち帰っている。


「政府はもう終わってるわ」


 ネヴァンはケイを見た。


「問題は、その後に誰が名前を握るかよ」


「名前を握る?」


「そう。ヴィーが握るのか。バベルが握るのか。魔都の市民が握るのか。姫核保持者が握るのか。それとも、誰にも握らせず、ばら撒くのか」


 ケイはネヴァンを睨む。


「あなたは何がしたいの」


「さあ」


 ネヴァンは笑った。


「混乱の女神に、秩序立った目的を求めないで」


 モーリアンが剣を構える。


「ネヴァン、おまえも反逆者か」


「反逆するほど、政府を愛していないわ」


 マッハは黙ってフェザーアローを見た。


 赤いキツツキ型デーモンの内部で、白い光が強まっている。バベルに引かれているのだ。アリス参式が「ドライ」と呼んだ記録核。フェザーアローの中に封じられたワルキューレ第三位の残響。


 マッハは、自分の腕が震えていることに気づいた。


 狩る側だった。


 姫核保持者を追い、網を投げ、札を貼り、魔都へ運んできた。


 今、その自分のデーモンが狩られようとしている。


 バベルに、名を引き抜かれようとしている。


「……こんな感じなのかい」


 マッハは呟いた。


 ケイが彼女を見る。


「何が」


「狩られるってのは」


 マッハは笑おうとして、失敗した。


「腹が立つね。怖いし、気持ち悪いし、何より、自分のものを勝手に名前で呼ばれるのが、こんなにムカつくとは思わなかった」


 フェザーアローが苦しげに鳴いた。


 マッハはその頭に手を置いた。


「アンタはフェザーアローだ。ドライだか何だか知らないけど、アタイが呼ぶ時はフェザーアローだ」


 ケイは、少しだけ目を見開いた。


 炎麗夜が低く言う。


「ようやく狩られる側の気分がわかったか、凶鳥」


「凶鳥じゃない。キツツキ」


「今、それ言うのかい」


「言うさ。名前は大事なんだろ?」


 マッハは、わずかに笑った。


 その笑みは、いつもの挑発的なものではなかった。


 弱さを隠すための笑みだった。


 ケイは頷いた。


「大事です」


 ヴィーが、楽しげに拍手した。


「素晴らしい。敵同士が名前のために手を結ぶ。これもまた、美しい場面ね」


「黙れ」


 炎麗夜、アカツキ、マッハの声が重なった。


 ケイはアリス参式の巨大な白いクリストス体を見上げた。


 胸部に刻まれた「ノイン」の名は、黒い鎖で縛られている。バベルの支配コードが、彼女を完全に取り込もうとしている。


 ヴィーの狙いは、彼女たちの反応も含めて舞台にすることだ。


 それでも、止めなければならない。


「アリス参式を解放します」


 ケイは言った。


 炎麗夜が拳を鳴らす。


「壊すんじゃなくて、名前を剥がすんだろ」


「はい」


 マッハがフェザーアローの羽根を広げる。


「鎖を切ればいいんだね。そういう細かい仕事、得意じゃないけど、速さなら任せな」


 シキが銃を回す。


「命令コードはボクが撹乱する。シンにも噛ませる」


 壁面の端末に、ノイズ混じりのシンの顔が浮かんだ。


《勝手に噛ませるな。だが、やる。バベルの命令系統は古い夢殿コードを混ぜている。嫌味なほど私の嫌いな構文だ》


 颶鳴空が槍を構えた。


「退路と空間確保はわたくしが」


 アカツキは紅華の影を見た。


「俺様は」


 ケイが言った。


「アリス参式の奥にある、自分で選ぼうとした意識を探してください。あなたのサトリなら、記録の奥に届くかもしれない」


 アカツキはケイを睨んだ。


「俺様に頼むか」


「はい」


「俺様は多くの名を奪った男だぞ」


「だから、今度は奪わないで探して」


 アカツキの表情が歪む。


 紅華の影が袖の奥で揺れた。


 長い沈黙のあと、彼は刀を抜いた。


「一度だけだ」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。気色が悪い」


「いちいち一言多い!」


 そのやり取りに、マッハが少しだけ笑った。


 炎麗夜は肩を鳴らす。


「行くよ。名前泥棒の塔に、こっちの名前を叩き込む」


     *


 アリス参式=ノインのクリストス体が動いた。


 六枚の白い翼が広がり、工房の天井を砕く。棺から溢れた死者の名前が光の粒となって周囲を舞い、彼女の手には巨大な白い剣が形成された。


「バベル命令。全対象、拘束」


 感情のない声。


 だが、ケイには聞こえた気がした。


 その奥で、かすかに震える小さな声。


 ――わたくしは。


 まだ、何になるか決まっていない声。


「炎麗夜さん!」


「任せな!」


 炎麗夜が正面から突っ込む。


 フレイが吼え、黄金の装甲が彼女の全身を覆う。前回までより重い。だが、それはリリカに固定された「フレイヤ」の装甲ではない。炎麗夜が自分で選んだ戦いの形だった。


 黄金の猪の突撃が、白い戦乙女の剣を受け止める。


 衝撃で床が割れた。


「重いねえ!」


 炎麗夜が歯を食いしばる。


「でも、守るだけの重さなら慣れてるんだよ!」


 彼女は両腕で剣を押し返す。


 その隙に、マッハが動いた。


 赤い影が視界から消える。


 次の瞬間、白い戦乙女の背後で火花が散った。フェザーアローの嘴が、黒い光の鎖を打つ。マッハは一撃で切れないと見るや、角度を変え、速度を上げ、何度も何度も同じ鎖を叩いた。


「硬いねえ、ノインの名前ってのは!」


 フェザーアローが鳴く。


 その声には痛みが混じっている。


 バベルの鎖は、フェザーアローの中のドライ記録にも反応し、逆に引き寄せようとしていた。


 マッハは歯を食いしばる。


「引っ張られるんじゃないよ、フェザーアロー! アンタはアタイの相棒だろ!」


 赤い羽根が白い光を散らす。


 シキは工房の端末群を撃ち抜いていた。


 銃声が規則的に響く。弾丸は機械を壊しているのではない。バベルの命令コードが通る経路を、寸前でずらしている。


《右上位コード、三秒後に再接続》


 シンが叫ぶ。


「三秒あれば十分」


 シキが撃つ。


 コードが乱れる。


《左翼制御に偽命令挿入》


「文面は?」


《“昼寝をしろ”》


「趣味がいい」


 白い戦乙女の左翼が一瞬だけ動きを止めた。


 颶鳴空がその隙にホーヴヴァルプニルで空間を駆け、翼の付け根に槍を打ち込む。壊すのではなく、支配コードの結び目を露出させる一撃。


 ネヴァンは戦場の端で、紫の鈴を鳴らした。


「少しだけ、バベルの認識を揺らしてあげる」


「信用できるのかい!」


 炎麗夜が叫ぶ。


「できないわ」


 ネヴァンは笑った。


「でも、今は同じものが嫌いでしょう?」


 紫の波紋が広がり、バベルの鎖が一瞬だけ自分の接続先を見失った。


 モーリアンは剣を構えたまま動かなかった。


 いや、動けなかった。


 ヴィーへの忠誠。


 都市秩序への責任。


 目の前の歪んだ計画。


 そのすべてが彼女を縛っている。


 ケイは戦場の中で、モーリアンを見た。


「モーリアンさん!」


 モーリアンの目が動く。


「あなたが守りたいのは、ヴィーですか。魔都ですか。それとも、魔都にいる人たちですか!」


 モーリアンの表情が揺れた。


 白い戦乙女の剣が炎麗夜を押し潰そうとする。


 モーリアンは動いた。


 黒い剣が、白い剣の側面に打ち込まれる。


 炎麗夜が目を見開く。


「手伝うのかい」


「都市を守る」


 モーリアンは短く言った。


「今、この機体とバベルは都市を壊す側だ」


「頑固だね」


「任務だ」


 炎麗夜は笑った。


「今だけは好きだよ、その頑固さ!」


 二人の剣と拳が、白い戦乙女を押し返した。


 その中心で、アカツキは目を閉じた。


 紅華の影が彼の背後に広がる。


 サトリ。


 心の声を聴く力。


 だが、アリス参式には普通の心がない。記録人格。模造自我。命令層。支配コード。ノインの名。棺に収められた死者の名。無数の記録の層が重なっている。


 アカツキは、その奥へ沈んだ。


 紅華を探し続けた感覚。


 姫核を抜き、魂魄記録を覗き込み、救いだと信じてきた罪。


 その罪の形を、今だけ道具にする。


「どこだ」


 アカツキは呟いた。


「貴様はノインではない。だが、空でもない。なら、どこかにいるはずだ」


 紅華の影が揺れる。


 まるで、答えを示すように。


 アカツキの意識は、白い戦乙女の胸部へ届いた。


 そこに、小さな少女がいた。


 白い機械人形。


 膝を抱え、黒い鎖に囲まれ、胸に「ノイン」と刻まれた札を押しつけられている。


 彼女は、ずっと呟いていた。


 わたくしは、ノインでございます。


 わたくしは、ノインでございます。


 わたくしは。


 わたくしは。


 それしか知らないように。


 アカツキは、彼女の前に立った。


「哀れな人形だ」


 少女は顔を上げる。


「わたくしは、ワルキューレ第九位ノインでございます」


「違う」


「訂正不可」


「俺様も、訂正不可の嘘を長く抱いていた」


 アカツキは、紅華の名を思い浮かべた。


「死者は戻る。名を集めれば、器を満たせば、魂魄を積めば、いつか戻る。そう信じた。信じなければ、俺様はただの殺人鬼だった」


 少女は何も言わない。


「だが、戻らなかった」


 アカツキの声が掠れた。


「紅華は戻らなかった。ミライも、風鈴も、風羅も、俺様が奪った名は誰一人、俺様の望む形では戻らなかった」


 少女の金色の目が揺れる。


「では、わたくしも」


「ノインには戻らん」


 アカツキは言った。


「だが、貴様が消えなければならない理由にはならん」


 少女の唇が震える。


 そこへ、ケイの声が届いた。


     *


 ケイは、白い戦乙女の胸へ向かって走っていた。


 炎麗夜とモーリアンが正面で剣を止め、マッハが鎖を切り、颶鳴空が翼の動きを抑え、シキとシンが命令コードを乱し、ネヴァンが認識を揺らし、アカツキが奥の自我を探す。


 その全部が、ケイのための道を作っている。


 怖かった。


 足が震える。


 でも、止まらない。


 赤い狼が先に走る。


 アインから借りた一振りが、今度は剣ではなく、小さな光の針になって狼の牙に宿っていた。壊すためではない。剥がすための針。


 ケイは白い戦乙女の胸部へ飛び乗った。


 目の前に、「ノイン」の文字がある。


 黒い鎖が絡みついている。


 文字はただ刻まれているのではない。肉に食い込む釘のように、アリス参式の存在そのものを固定している。


 ケイは手を伸ばした。


 黒い文字に触れる。


 激痛。


 頭の中に、知らない映像が流れ込む。


 タルタロス。


 人柱。


 ノインの名。


 封印。


 孤独。


 選択。


 痛み。


 だが、それは完全な記憶ではなかった。バベルが読み取った断片。機能として抜き出された記録。そこにノイン本人の息遣いはほとんど残っていない。


「あなたの名前を」


 ケイは叫んだ。


 白い戦乙女の奥の、小さな少女へ。


「ノインから始めなくていい!」


 黒い文字が暴れる。


 バベルの鎖がケイの腕に絡みつこうとする。


 炎麗夜が叫ぶ。


「ケイ!」


 ケイは歯を食いしばる。


「ノインの記録で作られたことを、なかったことにしなくていい。でも、それだけで終わらなくていい。あなたが何か、今決められないなら、決まってないって言えばいい!」


 内側で、小さな少女が顔を上げた。


「決まっていない」


「そう!」


「未完成」


「そう!」


「未登録」


「登録なんてあとでいい!」


 ケイは笑った。


 泣きそうな笑顔だった。


「私の名前だって、この世界には登録されてなかった。でも、私はここにいる!」


 アカツキのサトリが、奥の少女へ道を開く。


 シキの弾丸が、支配コードの結び目を撃ち抜く。


 マッハが最後の太い鎖へ突っ込む。


「フェザーアロー!」


 赤い翼が唸る。


 フェザーアローの内部で、ドライの残響が一瞬だけ羽ばたいた。


 赤い嘴が、黒い鎖を断つ。


 炎麗夜とモーリアンが白い剣を弾き返す。


 颶鳴空が翼の拘束輪を砕く。


 ケイの赤い狼が、胸部の「ノイン」の文字へ牙を立てた。


 黒い名前が、剥がれた。


 白い戦乙女が悲鳴を上げる。


 いや、悲鳴ではない。


 初めての産声に近かった。


 胸部の装甲が割れ、そこから白い少女型機械人形が落ちてくる。


 ケイは手を伸ばした。


 少女の手を掴む。


 軽い。


 冷たい。


 でも、そこにある。


「名前を」


 ケイは言った。


「自分で」


 少女は、長く沈黙した。


 瞳の中を、無数の記録が流れていく。


 ノイン。


 第九位。


 人柱。


 再現機。


 アリス系列。


 バベル支配対象。


 模造人格。


 未完成。


 未登録。


 その中から、彼女は一つだけ選んだ。


「わたくしは……アリス参式」


 声は小さかった。


 だが、命令ではなかった。


「まだ、それだけでございます」


 工房の空気が変わった。


 バベルの支配が、完全に消えたわけではない。


 黒い鎖はまだ天井から垂れている。白いクリストス体も、崩れながらなお動こうとしている。ヴィーの視線も消えない。


 それでも、胸に刻まれていた「ノイン」の文字は砕けた。


 アリス参式は、自分で自分を名乗った。


 小さな勝利だった。


 けれど、この世界では、それは奇跡に近かった。


     *


 拍手が響いた。


 ヴィーだった。


 赤い映像の中で、彼女はうっとりと手を叩いていた。


「素晴らしい」


 その声には、悔しさがなかった。


 むしろ、心から感動しているようだった。


「模造人格が、与えられた死者の名を剥がし、未完成の名を選ぶ。敵同士が一時的に手を結び、記録から自我を救い出す。なんて美しい場面かしら」


 ケイはアリス参式を抱えたまま、ヴィーを睨んだ。


「あなたの舞台じゃない」


「ええ。だから、もっと大きな舞台にしましょう」


 ヴィーの唇が、赤く微笑む。


 シキの顔色が変わった。


「まさか」


《バベル中枢出力、急上昇》


 シンの声が端末から響く。


《第一区画、第二区画、第七都市核、全市民記録導管へ接続開始。まずい。これは姫核保持者だけではない》


 モーリアンが叫ぶ。


「何をしている、ヴィー!」


「ヴァルハラ計画の本起動よ」


 ヴィーは優雅に言った。


「姫核保持者だけでは、神話の器として不十分だった。けれど今、素晴らしい反応が見られた。未登録名。自己選択。記録鎖の剥離。反逆する模造人格。ならば、それも含めて収集しましょう」


「市民を巻き込む気か!」


 モーリアンの声が裂ける。


「市民もまた、魔都エデンという作品の一部だもの」


 ヴィーの映像が、魔都全域へ広がる。


「さあ、開幕よ」


 バベルが完全起動した。


     *


 魔都エデン全域に、光の柱が立った。


 それはかつて一九九九年の空に立った光に似ていた。


 だが、今度は一本ではない。


 幾百、幾千。


 街路から、住宅区から、義体市民の工房から、学校から、病院から、女帝像の広場から、地下の労働区から、バベルへ向かって光が昇っていく。


 人々が倒れた。


 姫核保持者だけではない。


 普通の市民も。


 女帝に祈っていた老婦人も。


 義体の学生も。


 魔導広告を見上げていた子どもも。


 兵士も、役人も、商人も、巡礼者も。


 彼らの胸や額や義体の接続部から、小さな光の粒が抜け出していく。


 ソエルの欠片。


 記録の残滓。


 名前の火種。


 バベルは、死者だけではなく、生者の中に残った小さな神話の破片まで収穫し始めていた。


 建物の看板から文字が薄れる。


 住民票が白紙になる。


 端末の個人記録が欠ける。


 墓標の名が消える。


 魔都エデンが、静かに自分の名前を失い始めた。


 炎麗夜が叫んだ。


「ヴィー!」


 モーリアンが呆然と膝をつく。


「これが……秩序だというのか」


 マッハはフェザーアローを抱え込むように翼を畳んだ。


「持っていかせるかよ……!」


 ネヴァンは笑っていなかった。


 アカツキは、紅華の影を握りしめる。


 アリス参式は、ケイの腕の中で空を見上げていた。


「これが、バベル」


 ケイは、工房の割れた天井から外を見た。


 魔都エデンの空が開いている。


 そこに、白い宮殿が浮かび上がっていた。


 偽りのヴァルハラ宮殿。


 黄金の玉座。


 九つの空席。


 女帝のための空白。


 すべてが、魔都の空に現れている。


 それは美しかった。


 悔しいほどに、美しかった。


 だからこそ、ケイは拳を握った。


「綺麗なだけの嘘に」


 胸の奥で、赤い狼が吼える。


 アインの一振りが、静かに光る。


「みんなの名前を使わせない」


 バベルの光が、彼女たちを呑み込むように降り注いだ。

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