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第11話 バベル復活

 魔都エデンから、名前が剥がれていく。


 それは、光だった。


 綺麗な光だった。


 だからこそ、恐ろしかった。


 街路に立つ女帝像の前で、祈っていた老婦人が倒れた。握りしめていた数珠のような魔導具が床に落ち、澄んだ音を立てる。その額から、小さな光の玉が浮かび上がった。光の中には、文字のようなものが揺れている。名前。記憶。誰かに呼ばれてきた年月。手紙に書かれた署名。子どもの頃につけられたあだ名。夫が呼んだ声。孫が呼んだ声。それらが一つの玉になり、空へ吸い上げられていく。


 商店街の看板から、文字が消えた。


 甘味屋の名も、義体修理店の名も、薬局の名も、古い喫茶店の名も、光の粒となって剥がれていく。店主たちは呆然と立ち尽くし、自分の店が何だったのかを思い出せなくなった顔をする。


 学校の端末から、生徒名簿が白紙になった。


 病院の記録室では、患者の名前が次々と消えた。


 墓地では、石碑から刻まれた名が光になって浮かび上がり、死人の記録までもがバベルへ吸われていった。


 魔都エデンは、悲鳴を上げていた。


 だが、その悲鳴すら、空へ吸われていく光の柱の中で薄れていく。


 バベルは、死者だけを集めているのではなかった。


 生きている人間の名前も、いま呼ばれている声も、まだ誰かを呼ぼうとしている記憶も、すべて収穫していた。


 白い工房の割れた天井から、ケイはその光景を見上げていた。


 魔都全域に立ち上がる光の柱。


 偽りのヴァルハラ宮殿。


 その中心で、黒い塔が脈打っている。


 胸骨の紋様が焼けるように痛んだ。


 ケイは歯を食いしばる。


「あれじゃ弔いじゃない」


 炎麗夜が言った。


 彼女の声は低く、震えていた。


 黄金の猪フレイは、炎麗夜の足元で牙を剥いている。毛並みは逆立ち、喉の奥から唸り声が漏れていた。バベルの光に触れた市民たちが倒れていく様子を、炎麗夜はずっと見ていた。


「あれは、収穫だ」


 その言葉が、工房に重く落ちた。


 モーリアンは膝をついていた。


 黒い軍服の肩が震えている。


 彼女は、魔都の秩序を守るために戦ってきた。女帝の名を信じ、政府の命令を信じ、病を隔てることが民を守る道だと信じてきた。だが今、その魔都が、民を守るどころか、民の名を刈り取っている。


「これが……計画の本起動」


 モーリアンの声は掠れていた。


 マッハはフェザーアローを抱え込むようにしていた。


 赤いキツツキ型デーモンの羽根は、半分ほど白い光に侵食されている。内部に封じられたドライの記録核が、バベルに引かれているのだ。マッハは乱暴に笑おうとして、失敗した。


「冗談じゃないね。アタイの相棒を、鳥籠の中の名前みたいに持っていくつもりかい」


 フェザーアローが、小さく鳴いた。


 それは、かつてケイが聞いた泣き声に似ていた。


 アリス参式は、ケイのそばに立っていた。


 白い少女型機械人形の姿へ戻ってはいるが、胸部の水晶核にはまだ黒いノイズが走っている。彼女は自分で「アリス参式」と名乗った。だがバベルは、まだ彼女をノインの再現機として縛ろうとしている。


「市民記録の回収率、上昇中でございます」


 アリス参式は、震える声で言った。


「姫核保持者だけではございません。義体市民、一般市民、魔導炉登録者、死亡記録、建物識別名、地名まで……バベルは、魔都エデンを構成する名称情報を総回収しています」


「街そのものを食ってるってことか」


 シキが言った。


 彼の顔から、いつもの軽い笑みが消えていた。帽子のつばの下で、目だけが冷たい。


「死者の名前を集める偽天界。そこまでは聞いてた。でも、生者の名まで根こそぎ持っていくなら、これはもう天界じゃない。収穫炉だ」


 颶鳴空がホーヴヴァルプニルの首を撫でる。


「止める方法は」


「ある」


 シキは即答した。


 ケイが顔を上げる。


「あるんですか」


「たぶん」


「今、“たぶん”禁止です」


「じゃあ、ある。かなり無茶だけど」


「無茶はもう慣れました」


「頼もしくなったね」


「そういう頼もしさは欲しくなかったです」


 ケイは言い返したが、自分の声に余裕がないことはわかっていた。


 怖い。


 今も怖い。


 バベルに近づくほど、胸の紋様が熱くなり、白い宮殿の影が頭の奥にちらつく。アインの記録が、剣を取れと言っている。力を使えと言っている。自分一人の名前では届かない場所があると囁いている。


 その声は、悪意ではなかった。


 だから、余計に怖かった。


 守るために、名前を捨てる。


 その誘惑は、きっと誰にでもある。


 炎麗夜が女神を名乗ったように。


 リリカが都智治になったように。


 アカツキが救済者を名乗ったように。


 ケイも、アインになれば楽なのかもしれない。


 自分の弱さを捨て、誰かの強さを着れば。


 その瞬間、工房全体が大きく揺れた。


 バベルが、形を変え始めた。


     *


 黒い塔は、塔ではなくなっていった。


 魔都エデンの中心から、バベルの外壁が裂ける。黒い装甲が剥がれ、内側から巨大な骨格がせり上がる。塔の縦の線が、人型の背骨へ変わる。周囲の空中通路が千切れ、光の柱に吸われながら、巨大な肩と腕の輪郭を作っていく。


 それは、クリストスだった。


 ただし、デーモンの最終形態という言葉では足りない。


 都市そのものを器殻にした、巨大なクリストス。


 背には、裁きの門を模した巨大な輪。


 輪の周囲には、タルタロスの鎖が絡みついている。


 頭部には、女帝の王冠。


 肩には、九枚のワルキューレの翼。


 胸には、空の玉座。


 腕には、バベルへ吸い上げられた名前の光が血管のように流れている。


 足元では、魔都エデンの道路が砕け、建物が根ごと引き抜かれ、都市区画が黒い巨人の脚へ組み込まれていった。


 人々は逃げ惑う。


 だが、どこへ逃げればいいのかわからない。


 看板から名前が消え、通りの名が消え、避難経路の表示が白紙になり、自分の家の場所さえ思い出せなくなっていく。


 魔都エデンは、自分自身を失いながら、バベルという巨人へ変わっていった。


 その中枢に、赤い光が灯る。


 玉座のような空間。


 そこに、マダム・ヴィーが座っていた。


 車椅子の姿ではない。


 赤いドレスは、黒い塔の内壁と一体化し、ベールは無数の光の糸へ広がっている。彼女の身体もまた、ヴィー型記録義体の一つに過ぎないはずだった。だが今、その義体はバベルの中枢と接続し、都市全体の名を収穫する女王のように見えた。


 ヴィーの声が、魔都全域に響いた。


「ご覧なさい。これが、バベルの本当の姿。塔ではないわ。門を背負う巨人。死者と生者の名を束ね、偽りの天界へ導く、最も美しい器」


 ケイたちの前に、赤い映像が浮かぶ。


 ヴィーは、ケイを見て微笑んだ。


「いらっしゃい、ケイ」


「誰が」


 炎麗夜が唸る。


 ヴィーは彼女を見ない。


 ケイだけを見ていた。


「あなたが入れば、アインは完成する。アインが完成すれば、ワルキューレは揃う。ワルキューレが揃えば、女帝は戻る」


「本物じゃないんでしょう」


 ケイは言った。


「あなたが欲しいのは、本物のヌルでも、本物のワルキューレでもない。都合のいい神話の形なんでしょう」


「よく理解しているわ」


 ヴィーは嬉しそうに笑った。


「だからこそ、あなたが必要なの。自分が代用品ではないと叫びながら、死者の記録を受け取り、しかし器にはならない。あなたの矛盾は、とても美しい。アインという名を完成させる最後の筆致にふさわしい」


「私は、筆じゃない」


「では剣かしら。鍵かしら。器かしら。名前は自由に選んでいいわ。最終的に、あなたはアインになるのだから」


 胸骨が痛んだ。


 白い宮殿が、視界の奥で開く。


 アインの声が響く。


 ――私を使え。


 ケイは、息を呑んだ。


 ――皆を守るために。


 白い鎧の戦乙女が、宮殿の奥で剣を差し出す。


 ――名前を捨てれば、力を得られる。


 魔都の人々が倒れている。


 炎麗夜が歯を食いしばっている。


 マッハがフェザーアローを失いかけている。


 アリス参式がまたノインに縛られかけている。


 アカツキが紅華の影に沈みかけている。


 自分の力では届かない。


 ケイは知っている。


 ミライを救えなかった。


 風鈴と風羅を救えなかった。


 リリカを掴みきれなかった。


 なら、今度こそ。


 アインになれば。


 ケイという弱い少女を捨てれば。


「ケイ」


 炎麗夜の声だった。


 大きくはない。


 だが、真っ直ぐ届いた。


「あんたはケイだ」


 ケイは、震える息を吐いた。


 その瞬間、アカツキがふらりと前へ出た。


 彼は紅華の影を見つめている。


 目は、ここではないどこかを見ていた。


「待て、アカツキ」


 シキが声をかける。


 アカツキは答えなかった。


 紅華の影が、彼の背後で大きく揺れる。


 彼は自分の胸に刀の柄を押し当て、低く呟いた。


「紅華」


 紅い影が、彼を包み込んだ。


 アカツキの意識が、紅華の中枢へ沈んでいく。


     *


 そこは、花の檻だった。


 紅い花弁が舞っている。


 だが、香りはない。


 空はなく、地面もない。紅い布のような闇の中に、無数の灯火が浮かんでいる。灯火の一つ一つに、人の名がある。声がある。泣き声がある。祈りがある。


 アカツキは、その中心に立っていた。


「紅華」


 名を呼ぶ。


 返事はない。


 代わりに、誰かの声が聞こえた。


「ケイは、無事ですか」


 アカツキは振り向いた。


 そこに、ミライがいた。


 農村の少女。


 背中に聖痕を持ち、アカツキが最初にケイの前で姫核を抜いた少女。


 彼女は、あの時と同じように穏やかな顔をしていた。けれど、輪郭は淡く、今にも光へほどけそうだった。


 アカツキの喉が詰まる。


「貴様は……」


「ミライです」


 少女は静かに言った。


「村長の娘の、ミライです。忘れないでくれた人がいるから、まだ言えます」


 アカツキは、膝から崩れ落ちそうになった。


 彼の周囲に、さらに灯火が集まる。


 名前を抜かれた姫核保持者たち。


 アカツキが救ったと思っていた者たち。


 バベルに喰われるより、紅華の中で眠る方がましだと信じて奪ってきた者たち。


 少年。


 少女。


 老人。


 母親。


 兵士。


 農村の娘。


 港で名札にされた子。


 彼らの記録が、紅華の中に積み重なっていた。


 しかし、それらは紅華を修復していない。


 紅華の形へ溶けていない。


 ただ、一時的に保管されているだけだった。


 バベルへ送られる前の倉庫。


 アカツキの接吻は、救済ではなかった。


 収穫の前処理だった。


「違う」


 アカツキは呟いた。


「俺様は……俺様は、バベルに喰われる前に」


 ミライは、責めなかった。


 責めないことが、いちばん痛かった。


「痛くはありませんでした」


 ミライは言った。


「あの時、本当に眠るみたいでした。だから、あなたが全部嘘だったとは言いません」


「やめろ」


「でも、私は帰れませんでした。村にも、名前にも」


「やめろ!」


 アカツキは耳を塞いだ。


 だが、声は消えない。


 救われたと思っていた者たちが、そこにいた。


 誰も完全には救われていない。


 誰も紅華にはなっていない。


 誰も、彼の望む物語の部品になっていない。


 彼らは、彼らのまま、名を薄められ、ここに積まれていた。


「俺様は」


 アカツキの声が壊れた。


「俺様は、なんのために」


 紅い花弁が、ゆっくり集まる。


 その奥から、一人の女が現れた。


 紅華。


 生前のままではない。


 完全な姿でもない。


 顔は淡く、身体は花弁と光でできている。けれど、アカツキにはわかった。これは紅華の残響だ。彼がずっと呼び続けた名の、最後に残った返事。


「アカツキ」


 その声を聞いた瞬間、アカツキは息を忘れた。


「紅華」


「呼んでくれて、ありがとう」


 紅華は微笑んだ。


 昔と同じように。


 泥だらけでも笑っていた女と同じように。


 アカツキは手を伸ばした。


 触れられない。


 指先は紅い花弁をすり抜ける。


「俺様は、おまえを救いたかった」


「うん」


「おまえを戻したかった」


「うん」


「だから、集めた。姫核を。魂魄を。名を。俺様は、俺様は」


「知ってる」


 紅華は、怒らなかった。


「あなたが、ずっと呼んでくれたことも知ってる」


「なら」


 アカツキの声が震える。


「戻れ。戻ってくれ。俺様はまだ、まだ」


 紅華は首を横に振った。


「もう、戻らなくていい」


 アカツキの表情が止まった。


「何を」


「わたしは、わたしでなくなったら名前を呼んでって言った」


「ああ。だから呼んだ。ずっと呼んだ!」


「うん。ありがとう」


 紅華は、そっとアカツキを見つめた。


「でも、名前を呼ぶことと、死者を戻すことは違うよ」


 アカツキは何も言えなくなった。


「救うんじゃなくて、覚えていて」


 紅華の声は、静かだった。


「わたしがいたこと。あなたと出会ったこと。あなたに綺麗ねって言ったこと。あなたが怒ったこと。二人で逃げたこと。怖かったこと。笑ったこと。全部、戻さなくていい。覚えていてくれたら、それでいい」


「それでは」


 アカツキは歯を食いしばる。


「それでは、俺様は何になる。おまえを救えなかった俺様は、何だ」


「アカツキ」


 紅華は彼の名を呼んだ。


 紅い月。


 彼が自分で選んだ名。


「あなたは、わたしを呼んでくれた人」


 アカツキの目から、涙が落ちた。


 彼は初めて、紅華の復活を諦めた。


 それは、紅華を捨てることではなかった。


 戻らないと認めることだった。


 戻らなくても、名を弔うと決めることだった。


 ミライが、そっと頭を下げた。


「私の名前も、覚えていてくれますか」


 アカツキは、長い沈黙のあと、答えた。


「……ミライ」


 少女は微笑んだ。


 その名を呼んだ瞬間、灯火が少しだけ強く輝いた。


 アカツキは周囲の名を見回した。


 救えなかった者たち。


 利用してしまった者たち。


 バベルへ送られる前の一時保管庫に押し込められた者たち。


 彼は、ひとりずつ、名を聞いた。


 覚えた。


 すべてを覚えきれるかはわからない。


 それでも、聞いた。


 紅華は、その姿を見て微笑んでいた。


「行って」


 彼女は言った。


「まだ、生きてる人たちがいる」


「紅華」


「わたしを救うんじゃなくて、覚えていて」


 紅華の残響が、紅い花弁になってほどけていく。


 アカツキは手を伸ばした。


 今度は、掴もうとはしなかった。


 ただ、その名を呼んだ。


「紅華」


 花弁は消えた。


 けれど、名は残った。


     *


 現実に戻ったアカツキは、膝をついていた。


 紅華の影が、彼の背後で燃えている。


 だが、その炎はこれまでと違っていた。


 誰かを奪うための炎ではない。


 誰かを戻すための執着でもない。


 弔うための炎だった。


 アカツキは、ゆっくり立ち上がった。


 身体は限界だった。


 血は止まらず、呼吸も荒い。紅華の力を使えば使うほど、彼の肉体と名は削れていく。それでも、彼は刀を握った。


「紅華」


 彼が呼ぶと、紅い影が最後のムシャ化を始めた。


 花魁衣装の袖が炎に変わる。紅い装甲が腕を覆い、背に骨組みだけの翼が広がる。兜のような髪飾りが光り、刀身には無数の小さな名が刻まれた。


 それは、復活の装甲ではなかった。


 墓標の装甲だった。


 アカツキはケイを見た。


 その目から、以前の狂気は薄れていた。


 代わりに、深い疲労と、痛みと、決意があった。


「ケイ」


 初めて、彼はアインではなく、ケイと呼んだ。


 ケイは息を呑む。


「死者は戻らん」


 アカツキは言った。


「だが、名は残せる。貴様は、貴様の名を捨てるな」


 その言葉は、ケイの胸にまっすぐ届いた。


 白い宮殿の中で、アインの声がまだ囁いている。


 ――私を使え。


 ――皆を守るために。


 ――名前を捨てれば、力を得られる。


 ケイは目を閉じた。


 白い宮殿に立つ。


 アインの影が剣を差し出している。


 ケイは、その剣を見た。


「力は借りる」


 ケイは言った。


「でも、名前はあげない」


 アインの影が静かに揺れる。


「私はあなたにはならない。あなたをなかったことにもしない。あなたの力を、ケイとして使う。あなたの名前は、あなたのもの。私の名前は、私のもの」


 長い沈黙。


 やがて、アインの影が剣を下げた。


 その姿が、少しだけ軽くなったように見えた。


「ならば、持っていきなさい」


 アインの声が響く。


「器ではなく、手として」


 白い剣が、赤い狼の背へ宿る。


 ケイは目を開けた。


 現実の工房。


 バベルの巨人。


 魔都エデンを貫く光。


 仲間たちの声。


 足元に、赤い狼が現れる。


 その背には、白い剣光。


 隣で、フェザーアローが高く鳴いた。


 マッハが驚く。


「フェザーアロー?」


 キツツキ型デーモンの中で、ドライの記録が震えている。バベルに引かれるのではなく、ケイの拒絶に共鳴していた。


 炎麗夜のフレイが黄金の炎を上げる。


 アリス参式の水晶核が白く輝く。


 アカツキの紅華が紅い花弁を散らす。


 ホーヴヴァルプニルの蹄が風を鳴らす。


 ネヴァンの紫の影が、一瞬だけ混乱ではなく空間の歪みを整える方向へ流れる。


 すべてのデーモン記録が、一瞬だけ同期した。


 赤い狼。


 キツツキ。


 猪。


 白い戦乙女。


 紅華の炎。


 馬型の風。


 それぞれが別の名を持ち、別の傷を持ち、別の役割を押しつけられてきた記録たちが、ケイの「名前は渡さない」という拒絶に呼応する。


 バベルの鎖が、軋んだ。


     *


「今だ!」


 シキが叫んだ。


 バベルの巨大クリストスが、魔都の中央で動き出す。門を背負った巨人の足が、都市区画を踏み砕こうとしている。


 炎麗夜が飛び出した。


「フレイ!」


 黄金の猪がクリストス化する。


 巨大な突撃獣となったフレイが、バベルの足へ真正面から突っ込んだ。衝突の瞬間、魔都の地面が波のように盛り上がる。炎麗夜はその背に立ち、黄金の装甲を全身に纏って叫んだ。


「止まれ、偽神!」


 フレイの牙が、バベルの足首に食い込む。


 黒い装甲が軋む。


 マッハが空へ上がる。


「フェザーアロー、落とされるなよ!」


 赤い翼が広がる。


 キツツキ型デーモンは、バベルから伸びる空の鎖へ突っ込んだ。以前ならバベルに引かれていたドライの記録が、今はフェザーアロー自身の名として鳴いている。マッハはその振動を利用し、鎖の結び目を高速で打ち抜いていく。


「一本! 二本! 三本! ああもう、何本あるんだい!」


 文句を言いながらも、彼女は笑っていた。


 恐怖は消えていない。


 だが、狩られる恐怖を知った彼女は、もうただの狩人ではなかった。


 アリス参式は、工房の端末群へ両手を接続した。


「バベル命令回路へ逆流を開始いたします」


 シンの声が端末から響く。


《アリス参式、君の自我層はまだ不安定だ。深く入りすぎると、またノインコードに引かれる》


「承知しております」


「無理しないで」


 ケイが声をかける。


 アリス参式は振り返り、ほんの少しだけ微笑んだ。


「わたくしは、まだ何になるか決めておりません。ですから、ここで勝手に決められるわけにはまいりません」


「いい返事です」


「ケイ様に学習いたしました」


「様はいらないです」


「検討いたします」


 そのやり取りに、ケイは一瞬だけ笑った。


 すぐに、アリス参式の全身から白い光が流れ、バベルの命令回路へ逆流していく。ノイン再現機として作られた彼女だからこそ、バベルの支配コードに接続できる。だが、今はノインとしてではない。アリス参式として、命令を逆に食い破っている。


 シキは銃を構えた。


「中枢への道を開くよ」


 彼の背後に、狼のような影が一瞬だけ現れた。フェンリル。旧帝都エデンの記録傀儡である彼の奥に残る、光の子の影と、闇の獣の輪郭。その正体はまだ完全には見えない。だが、今はそれで十分だった。


 シキはバベル中枢の壁に向けて、三発撃った。


 一発目が、空間の鍵を外す。


 二発目が、記録層の縫い目を撃つ。


 三発目が、偽りの天界へ続く扉を開く。


 白い工房の奥に、黒い門が現れた。


 その向こうには、心臓のように脈打つ赤い光が見える。


 バベルの心臓部。


 マダム・ヴィーの玉座。


 ケイは一歩踏み出した。


 隣に、アカツキが並ぶ。


 紅華の最後の炎を纏った男は、もう以前のように笑わなかった。


「行くぞ、ケイ」


「はい」


「足を引っ張るな」


「そっちこそ倒れないでください」


「生意気を言う」


「言います。私はケイなので」


 アカツキは一瞬だけ目を見開いた。


 そして、小さく笑った。


「そうだったな」


 炎麗夜がバベルの足を押さえながら叫ぶ。


「ケイ! アカツキ! 行け!」


 マッハが空の鎖を切りながら怒鳴る。


「早くしな! こっちの羽根が全部ハゲる前に!」


「キツツキって羽根がなくてもキツツキなんですか!」


「今聞くことかい!」


 アリス参式が端末から声を上げる。


「中枢門、開放維持。残り二百秒でございます」


 シキが帽子を押さえた。


「二百秒もある。走れば十分」


「普通、二百秒しかないって言うんですよ!」


 ケイはそう叫びながら、黒い門へ走った。


 赤い狼が先に飛び込む。


 紅華の炎が、その後を追う。


 バベルの心臓部へ。


     *


 そこは、静かだった。


 外では魔都エデンが崩れ、バベルの巨人が動き、名前の光が空へ吸われている。それなのに、心臓部の中は奇妙なほど静かだった。


 黒い床。


 赤い糸。


 無数の名札。


 天井から垂れる光の鎖。


 壁一面に浮かぶ、死者と生者の名前。


 その中央に、玉座があった。


 女帝ヌルを模した空の玉座。


 白く、美しく、何も座っていない。


 その前に、マダム・ヴィーがいた。


 赤いドレス。


 薄いベール。


 紅い唇。


 車椅子ではない。


 彼女は自分の足で立っていた。だが、その足元からは無数の赤い糸が伸び、バベルの床へ接続されている。彼女もまた、バベルの心臓に飾られた作品の一部なのだと、ケイは直感した。


 ヴィーは、ゆっくり振り返った。


「ようこそ」


 その声は、甘く、穏やかで、吐き気がするほど美しかった。


「最後の幕へ」


 ケイは赤い狼を従え、アカツキは紅華の炎を纏い、空の玉座の前へ進んだ。


 ヴィーの背後で、女帝の席はまだ空だった。


 その空席が、まるでケイを待っているように白く光っていた。

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