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第12話 魔導姫譚ヴァルハラ

 そこは、偽りの天国だった。


 バベルの心臓部の奥に広がっていたのは、黄金の広間だった。


 天井は高く、どこまでも上へ伸びているように見える。だが、空ではない。そこに刻まれているのは、無数の名前だった。光の文字。黒く塗り潰された文字。途中で崩れ、読めなくなった文字。子どもの名。兵士の名。母の名。誰かのあだ名。墓標から剥がされた名。名札だけが残った子どもの名。デーモンの器にされた者の名。ワルキューレの名。ソエルの欠片に残った、もはや発音できない古い名。


 そのすべてが、天井に星座のように刻まれていた。


 美しかった。


 吐き気がするほどに。


 広間の左右には、九つの席が並んでいる。


 ワルキューレの席。


 アイン。


 ツヴァイ。


 ドライ。


 フィーア。


 フュンフ。


 ゼクス。


 ズィーベン。


 アハト。


 ノイン。


 椅子はすべて空だった。けれど、それぞれの席には、誰かを座らせるための光の鎖が垂れている。そこに座る者の名前など関係ない。ただ、席にふさわしい役割を持つ者がいればいい。そう言っているようだった。


 広間の最奥には、玉座がある。


 女帝ヌルを模した空の玉座。


 白く、冷たく、完璧な形をしている。


 そこには誰も座っていない。


 だからこそ、誰かを待っている。


 ケイは、その空席を見て、胸骨の奥が痛むのを感じた。アインの記録が反応している。白い宮殿の夢。黄金の玉座。九つの影。自分ではない誰かの記憶が、この偽りの広間に呼ばれている。


 けれど、ケイは足を止めなかった。


 赤い狼が、彼女の足元にいる。


 背には、アインから借りた一振りの光。


 隣にはアカツキが立っていた。


 紅華の最後の炎を纏った彼は、今にも崩れそうだった。紅い装甲は美しい。だが、それは生者のための鎧ではなく、弔いのための火葬の衣のようだった。刀身には、彼が紅華の中で聞いた名前が刻まれている。ミライ。名を剥がされた子どもたち。姫核保持者たち。読み切れないほどの光の文字。


 その先に、マダム・ヴィーが立っていた。


 赤いドレス。


 薄いベール。


 紅い唇。


 背後には、女帝の空の玉座。


 彼女は、まるで自分の美術館に招いた客人を迎えるように、両手を広げた。


「見なさい」


 ヴィーの声が、黄金の広間に甘く響く。


「これが美しい死者たちの宮殿。誰も老いず、誰も裏切らず、誰も変わらない。完璧な永遠よ」


 天井の名前が、星のように瞬いた。


 ケイは、その光を見上げた。


 ミライの名がある気がした。


 リリカの名がある気がした。


 風鈴と風羅の名が、どこかで微かに揺れている気がした。


 でも、それは綺麗な星ではなかった。


 釘だ。


 名前を天井に打ちつけて、動けなくしている。


 ケイは、ヴィーを見た。


「それ、死んでるだけじゃない」


 ヴィーは嬉しそうに目を細めた。


「死んでいるから美しいの。生者は変わるでしょう。泣く。怒る。老いる。裏切る。役割を嫌がる。名前を捨てたり、逆にしがみついたりする。完成しない」


「完成しなくていい」


「いいえ。完成こそ救いよ」


 ヴィーの足元から、黒い影が広がった。


 赤い糸が床を這い、玉座の下へ、九つの席へ、天井の名前へと伸びていく。その影の中から、巨大なものがせり上がった。


 サソリ型デーモン。


 ただの獣ではない。尾は黒い塔のように長く、鋏は裁きの門の輪郭を刻み、背には小さな玉座がいくつも並んでいる。甲殻の表面には、無数の名前が釘で打ち込まれていた。


 毒針の先端には、赤い光。


 それは肉体を刺すための針ではなかった。


 名前を刺す針だった。


 ヴィーは、サソリ型デーモンの背にそっと手を置いた。


「さあ、最後の修正を始めましょう。あなたたちの余分な名前を削ぎ落とし、最も美しい役割だけを残してあげる」


 針が振るわれた。


     *


 黄金の広間の外側では、まだ戦いが続いていた。


 バベルの巨大クリストスは魔都エデンの中心で足を踏み出そうとしていた。炎麗夜とフレイが、その足首へ食らいついている。黄金の猪の牙が黒い装甲に食い込み、炎麗夜は全身の骨が軋むほどの力で押し返していた。


「動くんじゃないよ、偽神!」


 だが、バベルの光は容赦なく降り注ぐ。


 その中に、赤い毒針の影が混じった。


 心臓部から伸びたヴィーのサソリ毒が、戦場の仲間たちを同時に刺した。


 炎麗夜の肩に、赤い光が突き立つ。


 彼女の目が見開かれる。


「っ……!」


 黄金の装甲が膨れ上がった。


 炎麗夜の身体から、炎麗夜という名が一瞬だけ遠ざかる。


 代わりに、役割が降ってくる。


 フレイヤ。


 戦場の女神。


 泣かない者。


 倒れない者。


 死者を選ぶ者。


 守るために戦い続ける者。


 炎麗夜の表情から、人間らしい痛みが消えかけた。


「私は……フレイヤ……」


 颶鳴空が叫ぶ。


「炎麗夜様!」


 だが、声が届きにくい。


 別の光針が、空中のマッハへ刺さった。


 マッハがフェザーアローの背で呻く。


 赤い翼が白く染まり、フェザーアローの中に封じられたドライの記録が強く浮かび上がる。


「ドライ……ワルキューレ第三位……狩猟翼……」


 マッハの瞳から、いつもの乱暴な生気が消えていく。


 彼女は狩る者ではなく、バベルに登録された第三位の羽根になろうとしていた。


 アリス参式の胸部にも、針が刺さる。


 彼女は端末へ接続したまま、身体を震わせた。


「わたくしは……ノインでございます」


 水晶核に黒い文字が浮かぶ。


 ノイン。


 せっかく剥がした名が、再び刻まれようとしている。


 アカツキにも、針が伸びた。


 彼は刀で受けようとしたが、針は肉体ではなく名を刺す。紅い光が彼の胸を貫いた瞬間、紅華の炎がざわめいた。


 紅華の狩人。


 救済者。


 魂魄を集める者。


 死者を戻すために殺す者。


 アカツキの目に、かつての狂気が戻りかけた。


「俺様は……紅華を……」


 そして、ケイ。


 毒針は、彼女の胸骨を刺した。


 肉体の痛みはなかった。


 だが、名前の底を突かれた。


 白い宮殿が開く。


 黄金の玉座。


 九つの席。


 アインの剣。


 役割が、洪水のように押し寄せる。


 ワルキューレ第一位。


 女帝の剣。


 器。


 鍵。


 バベルを完成させるための最後の名。


 アイン。


 アイン。


 アイン。


 ケイという名が、遠ざかっていく。


 ヴィーが微笑む。


「さあ、みんな綺麗な役割になりなさい」


 ケイの膝が揺れた。


 自分の名前を思い出そうとする。


 螢。


 ケイ。


 でも、白い声がそれを塗り潰す。


 アインになれば楽だ。


 炎麗夜はフレイヤになれば迷わない。


 マッハはドライになれば恐れない。


 アリス参式はノインになれば未完成でなくなる。


 アカツキは狩人になれば罪を見なくて済む。


 ケイはアインになれば、力を得る。


 全員、完成する。


 その誘惑は甘かった。


 しかし、ケイの胸元で、小さな鈴紐が揺れた。


 音は鳴らない。


 でも、そこにある。


 風車飾りが、ほんの少し指に触れた。


 風鈴。


 風羅。


 名前を呼んで。


 ケイは歯を食いしばった。


「……炎麗夜さん!」


 声を振り絞る。


 黄金の戦女神になりかけた炎麗夜が、わずかに反応した。


「炎麗夜さん! フレイヤじゃない! 病名でも、女神でも、役割でもない! あなたは炎麗夜さん!」


 炎麗夜の瞳が揺れる。


 黄金装甲の隙間から、赤い髪がこぼれる。


「炎……麗夜……」


「風鈴と風羅が呼んだ名前です! 颶鳴空さんが呼んだ名前です! 私が呼ぶ名前です!」


 颶鳴空も叫ぶ。


「炎麗夜様!」


 フレイが吼える。


 黄金の装甲が砕けるように縮み、炎麗夜の顔に人間の怒りと悲しみが戻った。


「……ああ、そうだ」


 炎麗夜が歯を見せて笑う。


「あたしは炎麗夜だ。女神なんて、名乗りたい時だけ名乗るんだよ!」


 次に、ケイは空へ叫んだ。


「マッハ!」


 白く染まりかけた赤い翼が震える。


「ドライじゃない! あなたはマッハ! 乱暴で、口が悪くて、しつこくて、キツツキにこだわる、バイブ・カハのマッハ!」


「最後の紹介、悪口多くないかい……?」


 マッハの声が戻った。


 フェザーアローが高く鳴く。


 彼女は頭を振り、白い光を振り払った。


「そうだよ。アタイはマッハ。ドライなんて上品な名前、似合わないね!」


 ケイはアリス参式を見る。


「アリス参式!」


 白い機械人形の水晶核が点滅する。


「ノインじゃない! ノインの記録で作られたとしても、あなたはアリス参式! まだそれだけでいいって、自分で選んだでしょう!」


 アリス参式の唇が震えた。


「わたくしは……」


 黒い文字がひび割れる。


「アリス参式。まだ、それだけでございます」


 ケイは、最後にアカツキを見た。


 彼は紅い炎の中で、刀を握りしめている。今にも、また誰かの名を奪う狩人へ戻ろうとしていた。


「アカツキ!」


 ケイは叫んだ。


「あなたは紅華の狩人じゃない! 救済者でも、回収係でもない! 紅華を呼んで、ミライの名前を覚えた、アカツキでしょう!」


 アカツキの目が、ケイを捉えた。


 紅い炎が一瞬、激しく燃えた。


「俺様は……」


 彼の唇が震える。


「紅華を救えなかった」


「でも、覚えてる!」


 ケイは言った。


「紅華を。ミライを。あなたが聞いた名前を。だから、戻ってきて!」


 アカツキは目を閉じた。


 紅華の声が、彼の中で響いたのだろう。


 ――覚えていて。


 アカツキが、ゆっくり目を開く。


「アカツキ」


 彼は、自分で自分の名を呼んだ。


「俺様は、アカツキだ」


 紅華の炎が、狩りの色から弔いの色へ戻る。


 最後に、ケイ自身の名が残った。


 アインの器。


 白い宮殿。


 剣。


 玉座。


 ヴィーが囁く。


「あなたは?」


 毒針が、ケイの胸の奥でさらに深く沈む。


「あなたは何になるの、ケイ。アイン? 器? 鍵? それとも、ただの迷子の少女?」


 ケイは息を吸った。


「私は」


 声が震える。


 でも、折れない。


「螢。ケイ」


 赤い狼が吼えた。


 白い宮殿の影が、ゆっくり遠ざかる。


「私は、ケイ」


     *


 ヴィーは、初めて不愉快そうに眉を動かした。


「未完成な名前ばかり」


「完成しなくていいって言ったでしょ」


 ケイは言った。


 胸の痛みは消えていない。


 むしろ強くなっている。


 バベルの玉座が彼女を呼んでいる。アインの名が、まだ力を差し出している。ここで器になれば、もしかしたら本当に、この層は安定するのかもしれない。


 ヴィーは、その迷いを見逃さなかった。


「ケイ」


 彼女の声が柔らかくなる。


「あなたがアインになれば、この層は安定する。皆が救われる。死者も戻る。あなた一人が消えるだけよ」


 ケイの心臓が跳ねた。


 あなた一人が消えるだけ。


 それで、魔都の人々が倒れずに済むなら。


 風鈴と風羅が戻るなら。


 ミライが村に帰れるなら。


 リリカがヒミカと笑えるなら。


 アカツキが紅華に会えるなら。


 ケイ一人くらい。


 その考えが浮かんだ瞬間、ケイは自分が本当に揺れていることを知った。


 元の世界へ帰っても、友人たちはもういないかもしれない。


 1999年に戻れないかもしれない。


 自分がいた世界すら、あの日の光の柱で変わってしまったかもしれない。


 だったら。


 ここで、誰かの役に立つ形で消えた方が。


「ケイ」


 声がした。


 ミライの声だった。


 黄金の天井に刻まれた無数の名前の中から、淡い光が一つ降りてくる。


 ミライがそこにいた。


 完全な身体ではない。


 けれど、村で初めてケイに水をくれた時のように、穏やかに笑っていた。


「名前、聞いてくれてありがとう」


 ケイの目に涙が滲む。


「ミライ」


「私を戻さなくていいよ」


「でも」


「呼んでくれたから、私はいたことになる」


 次に、紅い花弁が舞った。


 紅華の声がする。


「覚えていて」


 アカツキが目を閉じる。


 紅華の残響は、ケイにも微笑んだ。


「戻らなくても、名は残るから」


 そして、白い宮殿の奥から、アインの声が聞こえた。


 今度の声は、剣を差し出す声ではなかった。


 長い戦いに疲れた者の声だった。


「私を終わらせて」


 ケイは、息を止めた。


 アインの影が立っている。


 ワルキューレ第一位。


 女帝の剣。


 バベルが欲しがる名。


 けれど、その影はもう、ケイを器にしようとしていなかった。


「私は、もう役割として呼ばれたくない」


 アインの声が響く。


「復活ではなく、終わりを」


 ケイは涙を拭った。


 ヴィーが眉をひそめる。


「何を聞いているの」


「名前」


 ケイは答えた。


「死者の名前」


「死者は戻りたがっているわ」


「違う」


 ケイは、はっきり言った。


「復活じゃない。終わらせる。終わらせて、覚えてる」


 ヴィーの顔から、笑みが消えた。


 ケイは赤い狼の背に手を置いた。


 アインから借りた一振りの光が、狼の背で静かに輝く。


「バベルは名前を集める場所だった。復活材料として。器へ上書きするために。神話を作るために」


 ケイは天井の無数の名を見上げた。


「でも、もう違う」


 胸骨の紋様が光る。


 それはアインの器としての光ではない。


 ケイの名で、アインの記録を使う光だった。


「書き換える」


 シキの声が通信越しに飛ぶ。


『ケイ、バベルの中枢書式に触れる気? 無茶だよ。失敗したら、君の名前ごと塔に持っていかれる』


「無茶は慣れました」


『そういう慣れ方はしてほしくなかったな』


「シキさんにだけは言われたくないです」


 シキが、ほんの少し笑った気がした。


『なら、道を開く。三秒だけ』


「十分です」


『普通は短いって言うんだけどね』


 黒い床に、白い線が走った。


 シキとシンとアリス参式が外部から命令回路を逆流させ、バベルの中枢書式に亀裂を開いたのだ。黄金の広間の中央、空の玉座の前に、巨大な魔導陣が現れる。


 ヴィーが叫んだ。


「やめなさい」


 サソリ型デーモンが尾を振り上げる。


「それでは作品が完成しない!」


 ケイは、ヴィーを見た。


「人は、あんたの作品じゃない」


 赤い狼が跳んだ。


 白い剣光が、バベルの中枢書式へ突き立つ。


 ケイは、両手を魔導陣へ押し当てた。


 膨大な名前が、彼女の中へ流れ込もうとする。


 ミライ。


 ヒミカ。


 紅華。


 風鈴。


 風羅。


 リリカ。


 名もなき姫核保持者たち。


 デーモンにされた人々。


 ラエルの欠片。


 ソエル残骸。


 ワルキューレの残響。


 アイン。


 あまりにも多い。


 人ひとりが抱えられる量ではない。


 抱えようとすれば、潰れる。


 だから、ケイは抱えなかった。


 器にならない。


 受け皿にならない。


 ただ、呼ぶ。


 通す。


 覚える。


 そして、放つ。


「あなたたちは、誰かの材料じゃない」


 ケイは叫んだ。


「戻らなくていい。器に入らなくていい。神話にならなくていい。でも、いたことは消えない。名前は、誰かに呼ばれたら残る!」


 天井の名前が、ひとつずつ釘から外れていく。


 光の文字が揺れ、解け、空へ昇り始めた。


 ミライ。


 淡い水色の光。


 ヒミカ。


 白い花のような光。


 リリカ。


 その隣に寄り添う小さな金色の光。


 紅華。


 紅い花弁の光。


 風鈴。


 小さな鈴の音を残す光。


 風羅。


 風車のようにくるりと回る光。


 名もなき子どもたち。


 失われた兵士たち。


 港で売られた人々。


 デーモンの器にされた者たち。


 ドライの残響が、フェザーアローの中から一度だけ羽ばたいた。


 ノインの記録が、アリス参式の胸から静かに離れ、彼女を縛るのではなく、遠い空へ昇る光になった。


 アインの影が、白い宮殿の奥でケイへ向き直る。


 ケイは、その名を呼んだ。


「アイン」


 戦乙女の影が微笑んだように見えた。


 それは復活ではない。


 終わりだった。


 弔いだった。


 アインの光は、ケイの胸から抜け、空へ昇っていった。


 力は消えた。


 でも、名は残った。


 ケイの中に、記憶として。


 ヴィーの絶叫が響いた。


「やめなさい! やめなさい、ケイ! それでは、死者が形を失う! 作品が完成しない! 永遠にならない!」


「永遠にしなくていい」


 ケイは言った。


「終わるから、覚えられるんだよ」


 ヴィーのサソリ型デーモンが暴れた。


 毒針が再びケイへ向かう。


 しかし、その前に紅い炎が立ちはだかった。


 アカツキ。


 彼は最後の力で刀を構えた。


 紅華の炎ではない。


 紅華の名を弔ったあとに残った、彼自身の炎。


 紅い月の炎。


「紅華」


 アカツキは言った。


 声は静かだった。


「見ていろ。これが、俺様の幕引きだ」


 サソリ型デーモンの毒針が迫る。


 アカツキは踏み込んだ。


 花魁衣装の裾が炎となって広がり、刀身に刻まれた名が光る。ミライ。紅華。彼が聞いたすべての名。その光が、彼自身の炎と重なった。


「火剣――」


 彼は一瞬だけ笑った。


 かつての芝居がかった笑みではない。


 自分の罪と名を抱えた男の笑みだった。


「弔月」


 紅い刀が、サソリ型デーモンの胸を貫いた。


 毒針が砕ける。


 甲殻に刻まれた名前が一斉に剥がれ、空へ昇る。


 ヴィーの記録義体が悲鳴を上げた。


「わたくしの作品が!」


「違う」


 アカツキは刀を押し込む。


「これは、こいつらの名だ」


 紅い炎が爆ぜた。


 サソリ型デーモンが崩壊する。


 同時に、バベルの中枢が大きく亀裂を走らせた。


 黄金の広間が揺れる。


 九つの席が崩れ、空の玉座にひびが入る。


 ヴィーは倒れなかった。


 赤いドレスの裾を翻し、亀裂の中でなお笑おうとする。


「いいわ……とてもいい。未完成のまま壊れる作品。弔いによって神話を拒む少女。復活を諦めた狩人。ああ、これもまた――」


 ケイは、ヴィーの言葉を遮った。


「作品じゃない」


 赤い狼が最後に吼える。


 白い剣光はもうない。


 アインは弔われた。


 だから、これはケイ自身の影だった。


 狼が、空の玉座へ駆け上がる。


 その牙が、玉座の中心に刻まれた偽女帝の紋を砕いた。


 バベルの心臓部が、光に包まれた。


     *


 ヴァルハラ層が揺らいだ。


 魔都エデンの空に浮かんでいた偽りのヴァルハラ宮殿が、ひび割れていく。黄金の柱が崩れ、九つの空席が光の粒になり、女帝のための空の玉座が溶けるように消えていった。


 魔都全域の光の柱が、逆流する。


 人々から吸い上げられていた名前の光が、雨のように降り始めた。


 看板に文字が戻る。


 墓標に名が戻る。


 端末の記録が、すべてではないが、いくつかの名前を取り戻す。


 倒れていた人々が、ゆっくり目を覚ます。


 完全ではない。


 失われたものは戻らない。


 消えてしまった記録もある。


 けれど、バベルによる収穫は止まった。


 黒い巨人は、魔都エデンの中央で膝をつき、塔としての形を失っていく。巨大な門の輪郭は砕け、タルタロスの鎖は地面へ落ち、女帝の王冠は光の塵になった。


 魔都エデンの人々は、空を見上げていた。


 誰もすぐには歓声を上げなかった。


 何が起きたのか、誰もわからない。


 ただ、自分の名前を口にする者がいた。


 隣の誰かの名前を呼ぶ者がいた。


 泣き崩れる者がいた。


 怒る者がいた。


 呆然とする者がいた。


 世界が救われた、というには、あまりにも傷だらけだった。


 それでも、終末の反復は止まった。


 バベルの夢は、終わった。


     *


 崩れた心臓部の外で、ケイは目を覚ました。


 黄金の広間はもうない。


 そこは、壊れた塔の残骸だった。黒い床は割れ、赤い糸は灰になり、天井に刻まれていた無数の名前は空へ昇って消えている。


 隣でアカツキが倒れていた。


「アカツキ!」


 ケイは駆け寄る。


 彼は血まみれだった。紅華の装甲は消え、花魁衣装もほとんど原形を留めていない。だが、目は開いていた。


「うるさい……まだ死んでおらん」


「死んでそうな見た目です!」


「見た目で判断するな」


「無理です!」


 ケイは泣きそうになりながら怒った。


 アカツキはかすかに笑う。


「泣くな。締まらん」


「泣いてません」


「嘘が下手だ」


 そこへ、炎麗夜が駆け込んできた。


 黄金の装甲は砕け、フレイも小型化してふらふらしている。それでも、彼女は生きていた。


「ケイ!」


 炎麗夜はケイを抱きしめた。


 強すぎて、息が止まりそうだった。


「痛い、痛いです、炎麗夜さん!」


「生きてるなら痛いくらい我慢しな!」


「理屈が乱暴!」


「生きてる証拠だよ!」


 炎麗夜の声は震えていた。


 ケイは、その震えに気づいて黙った。


 少し離れた場所で、マッハがフェザーアローの背から転げ落ちていた。


「いてて……羽根が本当に何枚かハゲたじゃないか」


 フェザーアローが抗議するように鳴く。


「わかってるよ。アンタも頑張ったって」


 マッハは、その赤い頭を乱暴に撫でた。


 アリス参式は、崩れた端末の前で自分の水晶核を確認していた。


「ノイン支配コード、沈黙。アリス参式自我層、継続。未登録項目、多数」


 シキが隣で言う。


「未登録があるのはいいことだよ。未来の空き容量ってやつだ」


「未来」


 アリス参式は、その言葉を繰り返した。


「わたくしに、未来がございますか」


「君が決めるんだろ」


 アリス参式は、しばらく黙り、それから小さく頷いた。


「検討いたします」


「いい返事だ」


 モーリアンは、壊れた魔都を見下ろしていた。


 その剣は下ろされている。


 彼女が守ろうとした政府は崩れた。女帝の神話も、都智治の権威も、バイブ・カハの正義も、バベルの夢と共に砕けた。残ったのは、市民と、瓦礫と、責任だけだった。


 ネヴァンは、その背後で紫の薄衣を揺らしていた。


「どうするの、忠義の鳥」


「秩序を作り直す」


 モーリアンは言った。


「今度は、名前を奪わない秩序を」


「あら。つまらないくらい真面目ね」


「おまえはどうする」


「混乱を見届けるわ。新しい秩序が腐り始めたら、鈴を鳴らしに来る」


「来るな」


「嫌よ」


 そのやり取りに、マッハが笑った。


 完全な和解ではない。


 けれど、バイブ・カハはもう、同じ形ではいられない。


 シキが、ケイの隣に立った。


「消えはしないよ」


 ケイは顔を上げる。


「ヴァルハラ層のことですか」


「うん。ここで生きている人間がいるからね」


 シキは、崩れたバベルの残骸を見上げた。


「この世界は、終末記録として固定されていた。バベルが柱で、ヴィーが美学を与えて、魔都エデンが支配していた。でも、今は違う。バベルの夢ではなくなる」


「じゃあ、この世界は」


「独立した異位相世界として安定し始める。完璧じゃない。傷だらけで、地図も雑で、名前を失った場所も多い。けれど、生きている人間が明日を選べるなら、それはもう単なる記録じゃない」


 ケイは、瓦礫の向こうに広がる魔都を見た。


 支配は崩壊した。


 姫核狩りは終わるだろう。


 でも、それですべてが解決するわけではない。


 荒野は残る。


 沈んだ港も、名を失った村も、壊れた街道もある。


 家族を奪われた人がいる。


 デーモンにされた人がいる。


 魔都の市民は、自分たちの信じていたものが偽物だったと知る。


 再建しなければならない日常がある。


 炎麗夜が、ケイの視線を追って言った。


「あたしは残るよ」


 ケイは振り返る。


「炎麗夜さん」


「ヴァナディースは、逃げるための組織だった。でも、逃げる先があるかどうかもわからなかった。なら、これからは守る。姫核持ちも、そうじゃない奴も、魔都に残る奴も、荒野に戻る奴も。名前を奪われないように」


 颶鳴空が静かに頭を下げた。


「お供いたします」


 炎麗夜は苦笑する。


「知ってるよ。あんたは言わなくてもついてくる」


「はい」


 マッハが翼を鳴らした。


「アタイは旅に出るよ」


 炎麗夜が睨む。


「逃げるのかい」


「違うね。バイブ・カハの名前は捨てる。フェザーアローと一緒に、どこまでがアタイで、どこからがドライなのか見に行くのさ」


 フェザーアローが鳴く。


「あと、壊れた飲み屋を探す。弔い酒がいる」


「そこは相変わらずだね」


「変わりすぎると自分じゃなくなるからね」


 アリス参式は、ケイの前に立った。


「ケイ」


「はい」


「わたくしは、ノインではありません」


「はい」


「ですが、ノインの記録で作られたことも、消えません」


「消さなくていいと思います」


「では、わたくしは、アリス参式として生きます。いつか、参式ではない名を選ぶ可能性も検討いたします」


 ケイは笑った。


「その時は、教えてください」


「はい。登録いたします」


「登録しなくてもいいです」


「検討いたします」


 アカツキは、瓦礫に背を預けていた。


 彼は遠くを見ている。


 紅華の炎は消えた。


 けれど、その名は彼の中に残っている。


「俺様は、巡る」


 彼は言った。


「紅華を復活させる旅は終わった。これからは、紅華の名を弔う。俺様が奪った者たちの名も、聞ける限り聞いて、覚える」


 炎麗夜が腕を組む。


「それで許されると思うなよ」


「思っていない」


「ならいい」


「殺したければ、いつでも来い」


「今はやめとく。忙しいからね」


 アカツキは、少しだけ笑った。


「忙しいなら仕方ない」


 そのやり取りに、ケイは胸が痛んだ。


 許しではない。


 救済でもない。


 でも、憎しみだけで終わらない道がある。


 それを、たぶん弔いと呼ぶのだ。


     *


 方舟は、バベルの地下に眠っていた。


 それは宇宙船には見えなかった。


 ケイが想像していたようなロケットでも、巨大な船でもない。黒い石の円環と、白い棺のような座席と、無数の古い魔導回路でできた装置だった。周囲には、旧帝都エデンの印と、夢殿の紋様、そして裁きの門に似た輪が刻まれている。


「方舟って、本当に船じゃないんですね」


 ケイが言うと、シキは装置の端末を操作しながら答えた。


「層を越えるための古い脱出装置だよ。もともとは火星移住計画だの、深層避難だの、いろいろな名前がついていた。どれが本当かは知らない。少なくとも今は、君を元の層へ押し戻すくらいはできる」


「押し戻す」


「優しく言うと送還。正直に言うと、次元の隙間へ投げる」


「優しくしてください」


「努力する」


「努力でどうにかなるんですか」


「祈りも混ぜる」


「不安しかない」


 シキは笑った。


 その笑いに、いつもの軽さが戻っていた。


 けれど、ケイはもう知っている。


 このなんでも屋は、人間ではない。


 旧帝都エデンの記録傀儡で、光の子の影を少しだけ宿し、人間っぽく嘘をつく存在。


 それでも、ここで何度も道を開いてくれた。


「シキさんは、これからどうするんですか」


「迷子案内を続けるよ」


「この世界で?」


「ここでも、別の層でも。迷子はどこにでもいる」


「自分は迷子じゃないんですか」


 シキは、少しだけ黙った。


 そして、帽子のつばを下げる。


「だから案内人をしてるのかもね」


 ケイはそれ以上聞かなかった。


 方舟の周囲には、仲間たちが集まっていた。


 炎麗夜。


 颶鳴空。


 マッハ。


 フェザーアロー。


 アリス参式。


 アカツキ。


 モーリアンも、少し離れた場所で見送っている。ネヴァンは姿を見せたり消したりしていたが、最後には柱の影から手を振った。


 ケイは迷っていた。


 帰りたい。


 ずっと帰りたかった。


 1999年の学校へ。


 ユカとミホのいる帰り道へ。


 コンビニのアイスへ。


 夏休みの宿題へ。


 くだらない冗談へ。


 でも、この世界にも、まだやるべきことがある。


 魔都は壊れた。


 ヴァナディースはこれからが大変だ。


 アリス参式も、マッハも、アカツキも、それぞれ危うい道を歩く。


 自分だけ帰っていいのか。


 そう思ってしまう。


 炎麗夜が、そんなケイの額を軽く小突いた。


「何て顔してんだい」


「痛いです」


「痛くしたんだよ」


「ひどい」


「帰りな」


 炎麗夜は言った。


 あまりにもあっさりと。


 ケイは言葉を失う。


「でも」


「あんたの名前は、あんたの世界にもあるんだろ」


 ケイは息を呑んだ。


「ここで誰かのために残るのも、選択だ。でもね、帰りたい場所があるなら帰れ。帰れるのに帰らないのは、時々、別の名前に逃げるのと同じになる」


「別の名前に」


「救世主とか、仲間とか、責任とか。そういう名は便利だ。でも、あんたはケイだ。帰りたいなら、ケイとして帰れ」


 ケイの目に涙が滲んだ。


「炎麗夜さん」


「泣くな。いや、泣いてもいいけど、鼻水はつけるな」


「そこで台無しです」


「台無しにしないと、別れは重すぎるんだよ」


 ケイは笑ってしまった。


 泣きながら。


 アカツキが近づいた。


 彼は包帯だらけだったが、自分の足で立っていた。


「忘れるな」


 アカツキは言った。


「死者は戻らん。だが、名は残せる」


 ケイは頷く。


「忘れません。ミライも、紅華も、アインも。この世界のことも」


「俺様のことも忘れるな」


「そこ、自分で言うんですね」


「当然だ。俺様ほど美しい男を忘れるなど、世界の損失だ」


 炎麗夜が横から言う。


「怪我人は黙ってな」


「嫉妬か」


「今ここで殴るよ」


 ケイはまた笑った。


 アリス参式が、両手を前で揃えて頭を下げる。


「ケイ。あなたの帰還を記録します」


「記録しなくても覚えてくれたら嬉しいです」


「覚えます」


 彼女は少し考えてから言った。


「登録ではなく、記憶として」


「はい」


 マッハはフェザーアローの背から手を振った。


「帰ったら、キツツキを見てもアタイを思い出しな」


「たぶん日本のキツツキは人を矢で撃たないです」


「つまらない世界だね」


「平和なんです」


「なら、大事にしな」


 その言葉は、意外なほど優しかった。


 颶鳴空は静かに頭を下げた。


「どうか、あなたの道に風がありますように」


 ネヴァンが柱の影から囁く。


「そして、少しの混乱もね」


「いらないです」


「人生には必要よ」


 モーリアンは短く言った。


「借りは、いずれ返す」


「借りとかじゃないです」


「では、記録しておく」


「みんな記録したがりますね」


 シキが笑う。


「この世界の癖だね」


 方舟が起動する。


 白い円環に光が走り、ケイの足元に魔導陣が広がった。胸骨の紋様は、もう消えかかっている。アインの力はない。赤い狼の影も、足元で静かに薄れていく。


 でも、名前は残っている。


 ケイは最後に、みんなを見た。


「ミライ」


 呼ぶ。


「風鈴。風羅。リリカ。ヒミカ。紅華。アイン」


 呼ぶ。


「炎麗夜さん。颶鳴空さん。マッハ。フェザーアロー。アリス参式。アカツキ。シキさん」


 ひとりずつ、呼ぶ。


「忘れません」


 炎麗夜が笑う。


「行ってきな、ケイ」


 白い光が、ケイを包んだ。


     *


 夕暮れだった。


 蝉の声がしている。


 アスファルトの熱が、靴底から伝わってくる。


 遠くで自転車のベルが鳴った。


 ケイは、道の真ん中に立っていた。


 手の中には、壊れた眼鏡の片方がある。


 胸元に手を当てる。


 胸骨の紋様は、消えていた。


 制服は、終業式の日のままだった。袖に少し埃がついている。鞄は肩にかかっている。空は青く、夕焼けに染まりかけている。世界はまだ、滅びていない。


 ここは、1999年。


 事故の直前なのか。


 事故の後なのか。


 それとも、何かが少しだけ変わった世界なのか。


 ケイにはわからなかった。


 ただ、心の奥に、たくさんの名前が残っている。


 夢ではない。


 夢だったとしても、名前は残っている。


「ケイ?」


 友人の声がした。


 ユカだった。


 隣にはミホもいる。


 二人とも、夏休み前の浮かれた顔をしていた。何も知らない顔。世界がまだ滅びていないことを当たり前に信じている顔。


「どうしたの? 急に立ち止まって」


 ミホが覗き込む。


「顔、変だよ。熱中症?」


 ケイは、少しだけ泣きそうになった。


 ユカも、ミホも、ここにいる。


 名前を呼べる。


 返事がある。


 それが、こんなに奇跡みたいなことだとは、知らなかった。


「ううん」


 ケイは笑った。


 うまく笑えたかはわからない。


「ちょっと、長い夢を見てた」


「はあ? 歩きながら寝たの?」


「器用すぎない?」


 二人が笑う。


 ケイも笑った。


 空は青い。


 夕暮れの雲が、夏の光を受けてゆっくり流れている。


 世界はまだ滅びていない。


 けれど、ケイは知っている。


 世界は、名前を奪われた時に滅びる。


 街が壊れるより先に。


 空が裂けるより先に。


 誰かが誰かの名前を呼べなくなった時、世界は少しずつ終わっていく。


 だから、呼ぶ。


「ユカ」


「何?」


「ミホ」


「だから何?」


 二人が不思議そうに振り向く。


 ケイは笑った。


「何でもない」


「変なの」


「ほんと変」


 三人は歩き出す。


 夏休み前の夕暮れ。


 コンビニへ寄るか、宿題をどうするか、ノストラダムスの予言なんて結局どうなったのか、そんな話をしながら。


 ケイは、心の中でもう一度呼んだ。


 ミライ。


 風鈴。


 風羅。


 リリカ。


 ヒミカ。


 紅華。


 アイン。


 炎麗夜。


 颶鳴空。


 マッハ。


 フェザーアロー。


 アリス参式。


 アカツキ。


 シキ。


 ヴァルハラ。


 それは、死者を戻す呪文ではない。


 失われたものをなかったことにしないための、弔いの言葉だった。


 ケイは壊れた眼鏡の片方をポケットに入れた。


 そして、自分の名前を小さく呼ぶ。


「ケイ」


 返事は、自分の足音だった。


 夏の道を、彼女は歩いていく。


 世界はまだ滅びていない。


 だから、これから出会う誰かの名前も、ちゃんと呼べるように。

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