第8話 都智治リリカ
姉様は、いつも光の中にいた。
都智治リリカが最初に覚えているヒミカの姿は、白い検査室の中だった。
壁も床も天井も白い部屋。窓はなく、光源は見えないのに、どこからともなく淡い光が降っていた。その中央に、姉ヒミカは座っていた。背中まで流れる髪は黒く、肌は透けるように白く、瞳は穏やかで、何を見ても怯えない人だった。
リリカは、検査室の外側にいた。
透明な隔壁の向こう。
小さな手をガラスに押しつけ、姉を見上げていた。
「ヒミカ様、適合率九十七・四」
白衣の研究官が言った。
「M因子反応、安定。ワルキューレ記録核との共鳴、想定値を超過」
「女帝ヌル再現計画の中核に据えられる」
「最初の姫核保持者として、これ以上の素体はありません」
素体。
中核。
適合率。
リリカには意味がわからなかった。
ただ、姉が褒められているのだと思った。
ヒミカは、透明な隔壁越しにリリカへ笑いかけた。
それだけで、リリカの世界は満たされた。
姉は美しかった。
聡明だった。
誰にでも優しかった。
検査で身体中に針を刺されても泣かなかった。バベル接続実験のあと、意識が戻らず三日眠り続けた時も、目を覚ますと最初にリリカの心配をした。研究官たちが女帝の器だと囁くたび、ヒミカは困ったように笑い、リリカの髪を撫でた。
「わたしは、わたしよ。リリカの姉様」
その言葉が、リリカは好きだった。
同時に、憎かった。
姉様は、どうしてそんなふうに言えるのだろう。
みんなに見られて、選ばれて、特別で、女帝様の代わりになると言われて、それでも自分の名前を持っていられる。
リリカは、姉を愛していた。
誰よりも愛していた。
だからこそ、羨んでいた。
自分も見てほしかった。
リリカという名前で。
ヒミカの妹ではなく。
女帝の器の予備でもなく。
あの子も適合するかもしれない、と研究官に囁かれるだけの存在ではなく。
「リリカ」
ある夜、ヒミカが言った。
バベル接続実験の前日だった。
ヒミカは、いつものように笑っていなかった。白い寝台に座り、首筋から伸びる接続管を指で触りながら、リリカを見ていた。
「もし、わたしがわたしでなくなったら、名前を呼んで」
リリカは笑った。
「姉様まで、変なこと言うの?」
「大事なことよ」
「ヒミカ姉様は、ヒミカ姉様でしょう?」
「そうだといいな」
「そうだよ」
リリカは強く言った。
「だって、リリカが呼ぶもの。何回でも呼ぶもの」
ヒミカは少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう」
翌日、ヒミカはバベルへ接続された。
そして、戻ってこなかった。
身体は戻った。
白い寝台の上に横たえられた姉の身体は、確かにヒミカだった。髪も、顔も、指先も、リリカの知っている姉のものだった。
けれど、目が違った。
リリカを見ても、名前を呼ばなかった。
ヒミカ姉様、とリリカが呼んでも、返事をしなかった。
研究官たちは言った。
人格崩壊。
過剰接続。
女帝ヌル再現炉との不適合。
姫核記録核の損傷。
成功例の失敗。
失敗を隠せ。
バベル計画を止めるな。
代替素体を用意しろ。
そして、彼らはリリカを選んだ。
「あなたはヒミカ様の妹です」
「血縁適合があります」
「女帝の血統として発表できます」
「民は物語を必要としている」
「ヒミカ様は病に倒れた。妹君リリカ様が後を継ぐ。美しい継承です」
リリカは叫んだ。
違う。
姉様は死んでいない。
姉様はそこにいる。
名前を呼べば戻る。
私が呼ぶ。
私が何度でも呼ぶ。
けれど、彼女は白い服を着せられた。
都智治の冠を被せられた。
女帝の血統だと発表された。
民の前に立たされた。
姉の代わりに。
リリカは、ヒミカを殺していない。
少なくとも、自分の手で殺してはいない。
けれど、都智治として玉座に座った瞬間、リリカは理解してしまった。
自分が姉の代わりになることで、姉が戻らないことを認めてしまったのだと。
姉の席に座ることは、姉の死を肯定することだった。
その罪悪感が、リリカの内側に小さな穴を開けた。
穴は、日ごとに広がっていった。
ヒミカ姉様。
私は、何になればよかったの。
妹?
代わり?
女帝?
器?
都智治?
それとも。
リリカ。
その名だけが、いちばん遠くなっていった。
*
白い回廊が砕けた。
リリカの背中から伸びる触手が、柱を抉り、床を裂き、模造されたヴァルハラ宮殿の壁を打ち砕く。ヒミカ・デーモンの聖痕装甲が脈打ち、金色の液体が接続管の中を走った。
リリカは笑っていた。
少女の顔で。
泣き腫らした子どものような目で。
都智治の声で。
「みんな、そう言うの」
彼女の声が、回廊全体に反響する。
「私は誰の代わりでもない。私は私。名前を呼んで。返事をして。そう言うの。でもね、そんなの最初だけ。痛くなったら、怖くなったら、空っぽになったら、みんな何かの代わりになるの。神様の代わり。お姉様の代わり。女帝様の代わり。死んだ誰かの代わり。役割がある方が、楽でしょう?」
触手が一斉に伸びた。
炎麗夜がフレイをムシャ化し、黄金の装甲で受け止める。
「黙れ!」
黄金の拳が触手を砕く。
だが、砕けた先からさらに細い触手が増える。まるでヒミカ・デーモンそのものが、リリカの言葉に合わせて役割を増殖させているようだった。
アカツキが紅華の刀で斬り払う。
紅い炎が走り、触手を焼く。
しかし、リリカはアカツキを見ると、うっとりと微笑んだ。
「紅華の狩人」
その言葉が、空気に刻まれた。
アカツキの身体が止まる。
目に紅い光が走った。
「……何を」
「あなたは狩人。救済者。紅華のために魂魄を集める人。殺さなければならない。眠らせなければならない。バベルに喰われる前に、あなたが奪わなければならない」
リリカのムゲン。
役割固定。
名前ではなく、肩書きや記録で相手を縛る能力。
その力が、アカツキの内側にある罪悪感を掴み、ねじ曲げた。
アカツキの刀が震える。
袖の奥で紅華の影がざわめいた。
「俺様は……」
「救うのよ」
リリカが囁く。
「あなたは救うために殺す。そういう役割でしょう?」
アカツキの目から焦点が薄れていく。
刀の切っ先が、ケイではなく、近くに倒れていた負傷者の方へ向きかけた。
「アカツキ!」
ケイが叫ぶ。
だが、今度は炎麗夜の身体が揺れた。
リリカが彼女へ顔を向ける。
「フレイヤ」
その名が、炎麗夜を縛った。
炎麗夜の黄金装甲が激しく輝く。フレイが苦しげに鳴いた。
「あなたは女神。戦う女神。選ぶ女神。守る女神。死者を選び、戦場を支配し、絶対に膝をつかない。泣かない。止まらない。戦い続ける。だって、女神でしょう?」
炎麗夜の呼吸が荒くなる。
黄金の装甲が増殖するように腕を覆い、脚を覆い、肩へ広がる。いつもの荒々しい力強さではない。誰かの期待する「戦女神」の形へ押し込められていくようだった。
「おいらは……」
炎麗夜が歯を食いしばる。
「おいらは、炎麗夜だ……!」
「でも、あなたが選んだのでしょう?」
リリカは無邪気に首を傾げた。
「向こうが病人にするなら、女神になってやるって。だったら女神でいなさい。泣いてはいけない。迷ってはいけない。怒り続けなさい。戦い続けなさい。フレイヤ」
炎麗夜の目に、怒りと苦痛が混じる。
彼女は一歩踏み出した。
床が砕ける。
「リリカ……!」
その声は、炎麗夜のものだった。
だが、黄金の装甲は彼女を戦場へ押し出そうとしている。
颶鳴空が飛び込んだ。
「炎麗夜様、名をお忘れなく!」
ホーヴヴァルプニルが風を蹴り、触手を蹴散らす。颶鳴空の槍が炎麗夜の装甲表面を軽く叩いた。衝撃ではない。呼びかけるための一撃。
「あなたは炎麗夜様です。わたくしがそう呼びます」
炎麗夜の瞳が、わずかに戻った。
だが、リリカの力は止まらない。
次に、彼女はケイを見た。
「アインの器」
その言葉が、ケイの胸に突き刺さった。
痛みではなかった。
落下だった。
白い回廊が消える。
砕けた柱も、触手も、炎麗夜の声も、アカツキの刀も、シキの銃声も、すべて遠ざかる。
ケイは、白い宮殿に立っていた。
*
黄金の玉座がある。
高い天井。
白い床。
九つの影。
何度も夢で見た場所だった。
だが、今回は違う。
九つの影のうち、一つだけがはっきりしている。
白い鎧をまとった戦乙女。
長い髪。
剣。
顔は霞んでいるのに、そこに強烈な意志があることだけはわかる。
アイン。
ケイは、その名を知っていた。
知っていたくないのに、知っていた。
「アイン」
呼ぶと、戦乙女の影が振り返った。
声は、宮殿全体から響いた。
「私の名を使えば、皆を救える」
静かな声だった。
威圧でも誘惑でもない。
ただ、事実を告げるような声。
「あなたの身体は私の記録に適合している。あなたは扉を開ける。あなたは剣を取れる。あなたは役割を引き受ければいい。そうすれば、倒れる者を減らせる。奪われる名を取り戻せる。炎麗夜を止められる。アカツキを斬れる。リリカを救える」
ケイの喉が鳴った。
「本当に?」
「可能性はある」
「じゃあ、私があなたになれば」
「あなたは強くなる」
アインの影が一歩近づく。
「弱いままでは、誰も救えない。名を守るには力がいる。あなたはすでに見たはずだ。ミライも、風鈴も、風羅も、力が足りなかったから失われた」
「違う」
ケイは反射的に言った。
「違う。風鈴と風羅は、力がなかったからじゃない。二人は選んだ。自分で選んで、みんなを逃がした」
「結果は同じだ」
「同じじゃない」
ケイの声が震える。
「同じにしないで」
アインは黙った。
白い宮殿の奥で、黄金の玉座が軋む。
「私の名を使いなさい」
アインが言った。
「あなた一人の名前では届かない場所がある」
「そうかもしれない」
ケイは認めた。
怖かった。
認めるのが怖かった。
自分は弱い。
戦い方を知らない。
魔導も知らない。
誰かを守ろうとしても、守れないことの方が多い。
でも。
ケイは、アインを見た。
「あなたは、救われたいの?」
アインは答えなかった。
宮殿が静まり返る。
ケイは一歩近づいた。
「あなたの名を使えば皆を救えるって言った。でも、あなたはどうなの? あなたは誰かに使われたいの? 女帝の剣として、ワルキューレ第一位として、器を探して、復活して、また戦いたいの?」
アインの影が揺れた。
「私は――」
そこで言葉が途切れる。
初めて、彼女の輪郭が乱れた。
ケイは気づいた。
アインもまた、役割に縛られている。
第一位。
剣。
女帝のために戦う者。
死んだあとも、バベルに記録として使われる者。
リリカと同じだ。
アカツキと同じだ。
炎麗夜と同じだ。
自分の名を呼ぶ声より、役割の方が大きくなってしまった存在。
「あなたも、疲れてるんじゃないの」
ケイは言った。
「アインでいろって、ずっと言われてるんじゃないの」
アインは答えない。
しかし、沈黙は拒絶ではなかった。
それは、答えられない沈黙だった。
ケイは手を伸ばした。
「私は、あなたにはならない」
アインの影が剣を構える。
ケイは逃げなかった。
「でも、あなたをなかったことにもしない。あなたの記録が私の中にあるなら、借りる。返すために借りる。あなたを私にするんじゃない。私が私のまま、あなたの技を使う」
白い宮殿が震えた。
「私は螢。ケイ」
ケイは言った。
「あなたはアイン。それでいいでしょう」
アインは長く沈黙した。
やがて、剣を下ろした。
「名を分ける者よ」
その声は、少しだけ柔らかかった。
「ならば、持っていきなさい。私のすべてではなく、一振りだけ」
アインの剣が光になった。
その光が、ケイの胸へ落ちる。
焼けるような痛み。
しかし、飲まれる感覚ではなかった。
自分の中に知らない剣が入ってくる。
だが、柄を握っているのは自分だ。
ケイは目を開けた。
*
現実の白い回廊では、リリカの触手がケイへ迫っていた。
その瞬間、銃声が響いた。
シキの弾丸が、触手の根元ではなく、空中の何もない一点を撃ち抜いた。
硝子が割れるような音がした。
リリカのムゲン術式が一瞬だけ乱れる。
炎麗夜を縛っていた「フレイヤ」の光が緩み、アカツキの目から紅い濁りが薄れ、ケイの身体が白い宮殿から引き戻された。
「役割固定の結び目は、名前と肩書きの間にある」
シキは銃口から煙を上げながら言った。
「そこを撃てば、少しは緩む。まあ、普通は見えないけどね」
リリカが、初めてシキを見た。
その表情が変わった。
笑みが消える。
虚ろな目の奥に、怯えが浮かぶ。
「光の子……?」
シキは動かなかった。
リリカの声が震える。
「違う。違う違う違う。あなたは、その影だけ。光の子じゃない。でも、光の子の残響がある。夢殿の欠片。方舟の管理影。シオンの糸。セーフィエルの匂い。違う。違うのに、似てる」
シキは顔色を変えなかった。
「正解率、七十三パーセントってところかな」
「シキさん」
ケイは息を呑んだ。
「あなた、本当に何なの」
「なんでも屋」
「今それで通ると思います?」
「通らないね」
シキは少しだけ笑った。
けれど、その笑みはいつもより薄かった。
「旧帝都エデンの記録傀儡。そう呼ぶのが近いかな。人間だったことはない。人間っぽく振る舞うのは得意だけどね」
炎麗夜が苦い顔をする。
「だからサトリが読めなかった」
「そう。魂の表層がないからね。アカツキのサトリは、心の声を読む。ボクには、読まれるべき普通の心がない」
アカツキが低く言う。
「傀儡風情が、人の名に口を出すか」
「傀儡だから言えることもある。役割として作られたものが、役割の外を歩く苦労は少し知ってる」
シキはリリカへ銃口を向けた。
「リリカ。キミの術式は、相手の弱さに名前を貼る。便利だけど、相手が自分の名を呼び返すと剥がれる」
リリカの顔が歪む。
「剥がれないわ」
触手が増える。
「剥がれない。剥がれない剥がれない剥がれない。みんな役割が欲しいの。空っぽより、誰かの代わりの方が楽なの。そうでしょう? そうじゃないと、私は、何のために」
ヒミカ・デーモンの胸部が開いた。
そこには、眠る女の顔があった。
ヒミカ。
閉じた目。
動かない唇。
リリカは振り返り、姉の顔を見上げた。
「姉様。ねえ、姉様。私は、ちゃんと都智治をやったよ。女帝様の代わりもしたよ。姉様の代わりもしたよ。なのに、どうして戻ってきてくれないの」
ヒミカは答えない。
リリカの目から、涙がこぼれた。
その涙のまま、彼女はケイを見た。
「あなたが入れば、きっと戻る」
触手が再び襲いかかる。
シキが撃つ。
颶鳴空が槍で払う。
炎麗夜が黄金の拳で砕く。
だが、ヒミカ・デーモンの再生は速い。リリカの役割固定が、触手一本一本に「姉を守るもの」「器を捕らえるもの」「女帝を迎えるもの」という機能を与えている。名前ではなく役割で構成された怪物。
ケイは、足元の赤い狼の影を見た。
そして、アカツキを見た。
彼もまた、苦しげに立っている。
リリカの術式は緩んだが、完全には消えていない。紅華の狩人という役割が、まだ彼の肩に食い込んでいる。
「アカツキ」
ケイが呼んだ。
アカツキは彼女を睨む。
「何だ」
「協力して」
「貴様と?」
「今だけでいいです」
「俺様が貴様に従う理由がない」
「従わなくていい。合わせて」
ケイは胸元を押さえた。
「あなたは紅華を戻したい。私はリリカを止めたい。今、ヒミカ・デーモンを止めなきゃ、誰の名前も残らない」
アカツキの目が細くなる。
「貴様、アインに呑まれたか」
「呑まれてません」
ケイは息を吸った。
「借りてきました。一振りだけ」
その言葉に、アカツキの袖の奥で紅華が反応した。
紅い影が揺れる。
ケイの足元から、赤い狼が現れる。
以前より輪郭がはっきりしていた。狼の背に、白い剣の光が一筋だけ走っている。アインの戦闘記録。その一部が、ケイの影に重なっていた。
アカツキは笑った。
疲れ切った、しかしどこか楽しげな笑みだった。
「面白い。アインの名を持ちながら、闇の狼を走らせるか」
「私にもよくわかってません」
「だろうな」
アカツキは刀を構えた。
紅華の炎が刀身に宿る。
「合わせろ、ケイ」
「はい!」
「返事だけはいい」
「いちいち一言多い!」
ケイが走る。
自分で走ったのに、身体が軽かった。
アインの記録が、床の角度、触手の軌道、リリカの視線、ヒミカ・デーモンの聖痕装甲の継ぎ目を読み取っていく。だが、身体を動かすのはケイ自身だった。
赤い狼が先行する。
触手をくぐり、床を蹴り、影のように走る。
アカツキの紅い炎がその後を追う。
紅華の炎と、ケイの赤い狼の影が重なった。
その瞬間、狼の輪郭が紅い花弁を纏う。
炎が影になり、影が刃になる。
リリカが目を見開く。
「どうして。どうして役割が混ざらないの。あなたたちは、互いの代わりじゃないのに」
「代わりじゃないから合わせられるんです!」
ケイは叫んだ。
「私はアインじゃない。アカツキは紅華じゃない。あなたもヒミカじゃない。だから、並べるんだよ!」
アカツキが低く笑う。
「言葉は甘いが、悪くない」
彼の刀が振るわれた。
紅華の炎が、ヒミカ・デーモンの触手を切り開く。
ケイの赤い狼が、その開いた道を走る。
狼の背に宿った白い剣光が、リリカの術式の結び目を斬った。
役割固定の糸が切れる。
炎麗夜の黄金装甲が、自分の形を取り戻す。
アカツキの目から紅い濁りが消える。
ケイの胸に貼られた「アインの器」というラベルが、剥がれて燃えた。
リリカが悲鳴を上げる。
「いや!」
ヒミカ・デーモンが暴れる。
だが、シキの弾丸が中枢接続管を撃ち抜き、颶鳴空の槍が背面の制御輪を砕き、炎麗夜の黄金の拳が聖痕装甲を真正面から割った。
「これは風鈴の分!」
一撃。
「これは風羅の分!」
二撃。
「これは、あんた自身の名前を踏みにじった連中への分だ!」
三撃目が、ヒミカ・デーモンの胸部を砕いた。
リリカとヒミカの接続管が、次々と千切れる。
金色の液体が床に散った。
ヒミカの眠る顔が、装甲の奥から露出する。
ケイの狼が、最後の術式核を噛み砕いた。
リリカは糸の切れた人形のように倒れた。
ヒミカ・デーモンも崩れ落ちる。
白い回廊に、急に静けさが戻った。
*
リリカは、床に倒れていた。
白い儀礼服は裂け、接続管は抜け、身体から金色の光が漏れている。ヒミカ・デーモンの残骸は彼女の背後で静かに横たわり、もう動かなかった。
リリカは手を伸ばした。
その先に、ヒミカの顔があった。
「ヒミカ姉様」
声は、都智治のものではなかった。
ただの妹の声だった。
「私は、何になればよかったの?」
誰も答えられなかった。
炎麗夜も、アカツキも、シキも、颶鳴空も。
リリカは泣いていた。
「姉様の代わりになれば、姉様が戻ると思った。女帝様の代わりになれば、みんなが許してくれると思った。都智治になれば、私にも意味があると思った。でも、何になっても、姉様は私を呼んでくれなかった」
彼女はケイを見た。
「ねえ。私は、何になればよかったの?」
ケイは、リリカのそばに膝をついた。
アカツキが何か言いかけたが、止めた。
炎麗夜も黙っている。
ケイはリリカの手を取った。
冷たい手だった。
管の痕が残り、細かく震えている。
「あなたは」
ケイの声も震えた。
「あなたは、リリカでよかったんだよ」
リリカの目が、大きく開いた。
「リリカ」
ケイはもう一度呼んだ。
「ヒミカ姉様の妹の、リリカ。誰かの代わりじゃなくて。女帝でも、都智治でも、器でもなくて」
リリカの唇が震える。
「でも、私……姉様の席に座った。姉様が戻らないことを、私が」
「それを選ばせたのは、あなたじゃない」
「でも、座ったのは私」
「うん」
ケイは逃げずに頷いた。
「それは、あなたの罪かもしれない。傷かもしれない。でも、罪があるからって、全部が代用品になるわけじゃない。リリカがリリカじゃなくなるわけじゃない」
リリカは声を上げて泣いた。
初めて聞く、子どもの泣き声だった。
都智治でもない。
女帝の血統でもない。
壊れた器でもない。
ただ、姉を失った妹の泣き声だった。
ヒミカ・デーモンの眠る顔が、ほんのわずかに動いたように見えた。
リリカが振り向く。
「姉様?」
その瞬間、天井が黒く光った。
バベル。
黒い塔から、光の鎖が伸びてきた。
それは物理的な鎖ではない。記録を捕える光。名前を回収する鎖。空間を貫き、白い回廊の天井から垂れ下がり、リリカとヒミカ・デーモンの残骸へ絡みつく。
シキが叫んだ。
「下がれ!」
アカツキが刀を振るう。
だが、光の鎖は切れない。
紅華の炎が弾かれる。
炎麗夜が黄金の拳で殴りつけるが、鎖はすり抜ける。
リリカの身体が浮き上がった。
「いや……」
ケイは手を伸ばす。
「リリカ!」
リリカも手を伸ばした。
指先が触れる。
けれど、鎖が彼女を引き上げる。
ヒミカ・デーモンの胸部から、巨大な記録核が抜き取られる。ヒミカの顔が光にほどけ、リリカの身体からもズィーベンの記録核が剥がされる。
「姉様、待って。私、まだ――」
リリカの言葉は、光に呑まれた。
彼女とヒミカの記録核は、バベルの鎖に絡め取られ、天井の黒い裂け目へ吸い上げられていった。
白い回廊に、リリカの涙の跡だけが残った。
ケイは床に膝をついたまま、手を握りしめていた。
ついさっきまで、そこに冷たい手があった。
リリカの手。
もう、ない。
*
拍手が響いた。
白い回廊の壁面に、赤い映像が浮かび上がる。
車椅子。
赤いドレス。
薄いベール。
紅い唇。
マダム・ヴィー。
彼女は、まるで劇場の最前列で名場面を見届けた観客のように、うっとりと微笑んでいた。
「素晴らしいわ」
ヴィーの声が、回廊に甘く広がる。
「代用品が、自分を代用品だと自覚した瞬間ほど美しいものはない」
アカツキの表情が変わった。
殺意が、紅い炎になって立ち上がる。
「ヴィー!」
「あら、アカツキ。まだ立っていられるのね。紅華の器も、なかなか頑丈に仕上がっているようで嬉しいわ」
「貴様……リリカも、ヒミカも、紅華も、全部」
「作品よ」
ヴィーは微笑んだ。
「失敗も、崩壊も、嫉妬も、罪悪感も、代用品も、愛も、救済ごっこも、ぜんぶ作品。人は自分だけでは美しくなれない。誰かに役割を与えられ、壊れ、泣き、自分の名前を探し始めた時、初めて美しくなるの」
炎麗夜が拳を握る。
「黙れ」
「あなたも素敵だったわ、フレイヤ。いいえ、炎麗夜と呼ぶべきかしら。自分で女神の名を選んだ少女が、その名に縛られかける。なんて美しい矛盾」
炎麗夜が一歩踏み出す。
颶鳴空が止めた。
「今は届きません」
炎麗夜は歯を食いしばる。
ヴィーの視線がケイへ移る。
「そして、ケイ。あなたは期待以上よ。アインを拒絶せず、器にもならず、一部だけ借りる。死者を材料にせず、記録として扱おうとする。その中途半端さ、実に人間らしいわ」
「褒められてる気がしません」
「褒めているのよ。わたくし、人間の中途半端さが大好きなの」
ケイは立ち上がった。
胸が痛む。
怒りで。
悔しさで。
リリカの手を取り戻せなかった痛みで。
「リリカを返して」
「返す?」
ヴィーは笑った。
「返す場所があるのかしら。彼女は都智治で、ヒミカの妹で、ズィーベンの失敗器で、女帝の偽血統で、バベルの回収対象で、代用品で、自分をリリカだと認めたばかりの美しい素材。今、最も価値が高いの」
「人を素材って言うな!」
ケイの足元で赤い狼が唸る。
ヴィーは楽しげに目を細めた。
「その怒りも素敵。でも、怒るならバベルへいらっしゃい」
アカツキが低く言う。
「紅華はどこだ」
「もちろん、バベルに」
ヴィーの唇が、赤く弧を描く。
「紅華を返してほしいのなら、バベルへいらっしゃい。あなたが集めた魂魄も、全部そこにあるわ」
アカツキの刀が震えた。
「全部……だと」
「ええ。あなたが接吻で抜き取り、紅華へ移したつもりの名前。ミライも、他の姫核保持者たちも。紅華の器を通して、すべてバベルへ流れている。あなたは救済者ではなく、回収係だったの」
その言葉は、刃より深くアカツキを切った。
彼の顔から血の気が引く。
紅華の影が、袖の奥で震える。
「嘘だ」
「嘘だったら、どれほど優しいかしら」
ヴィーは微笑む。
「さあ、いらっしゃい。紅華を取り戻したいなら。リリカを弔いたいなら。バベルの中の名前を見たいなら。ヴァルハラ計画の本当の美しさを、あなたたちにも見せてあげる」
通信が切れた。
赤い映像が消える。
白い回廊に、重い沈黙が落ちた。
アカツキは動かなかった。
炎麗夜も、颶鳴空も、シキも。
ケイは、リリカが消えた天井を見上げた。
代用品。
器。
役割。
神の名。
死者の名。
この世界は、それらで人を縛る。
そしてバベルは、そのすべてを集めている。
「行きます」
ケイは言った。
炎麗夜が彼女を見る。
「バベルへ」
アカツキが、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、怒りと絶望と、まだ消えない執着があった。
「俺様も行く」
炎麗夜の拳が震える。
だが、彼女はすぐには殴らなかった。
「勘違いするな。あんたを許したわけじゃない」
「許しなど求めていない」
「でも、バベルにある名前を取り返すまでは殺さない」
アカツキは低く笑った。
「それで十分だ」
シキが帽子を被り直した。
「決まりだね。次の目的地は、黒い塔。偽天界バベル」
颶鳴空が槍を握る。
「道は?」
シキは白い回廊の奥を指差した。
「上に行くほど遠回りになる。下に行こう。バベルは塔だけど、根は世界の底にある」
ケイは胸元に手を当てた。
鈴紐。
風車飾り。
そして、リリカの冷たい手の感触。
「リリカ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
でも、呼んだ。
「ヒミカ」
もう一つの名も呼ぶ。
白い回廊の奥で、黒い塔の低い脈動が響いていた。
ケイは顔を上げる。
「私は、誰の代わりにもならない」
赤い狼の影が、彼女の足元で静かに歩き出した。




