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第7話 魔都エデン

 魔都エデンは、まるで勝ち誇る死体だった。


 外縁門を抜けた瞬間、ケイはそう思った。


 光に満ちている。


 荒野でも、農村でも、沈んだ港でも見たことのない光だった。街路樹の代わりに、銀色の柱が等間隔に並び、その先端から青白い魔導灯が降り注いでいる。道路は滑らかで、罅割れ一つない。足元には自動床が敷かれ、人々は歩くというより、光る帯の上を流されるように移動していた。


 頭上には空中通路が幾重にも交差している。


 透明な筒の中を、義体市民が無音で運ばれていく。壁面には巨大な魔導広告が浮かび、女帝ヌルの名を讃える文字が輝いていた。


 ――女帝は眠り、民は夢を見る。


 ――ワルキューレの加護は魔都にあり。


 ――ヒミカ症候群を隔離し、清浄なる未来へ。


 その光景だけを見れば、魔都エデンは楽園だった。


 だが、ケイは息苦しかった。


 光が多すぎる。


 音が綺麗すぎる。


 すれ違う人々の服は整い、顔も整い、歩き方も整っている。けれど、目だけがどこか空っぽだった。笑顔はある。会話もある。親子連れもいる。店の前で立ち止まる若者もいる。けれど、そのすべてが、誰かの作った演出の上に置かれているように見えた。


 地方の村では、人々は疲れていた。


 沈んだ港では、人々は疑っていた。


 ここでは、人々は信じていた。


 だからこそ、怖かった。


「口を開けて見上げるな」


 炎麗夜が低く言った。


 ケイは慌てて口を閉じた。


「開いてました?」


「さっきからずっとね。田舎者丸出しだ」


「田舎者どころか、四百年前の人間なので」


「そういう顔をするな。もっと、何も見ていない顔をしろ」


「無理です。全部見たことないです」


「だったら、見慣れているふりをしな」


 炎麗夜の声には苛立ちが混じっていた。


 彼女は外套のフードを深く被り、顔を半分隠している。黄金の猪フレイは小型化し、荷物運搬用の魔導獣に偽装されていた。颶鳴空も同じく目立たない旅装に着替え、ホーヴヴァルプニルを封印布で覆っている。生き残ったヴァナディースの大半は外縁の廃棄区画に潜伏し、魔都内部へ入ったのは少数だけだった。


 ケイ、炎麗夜、颶鳴空、シキ。


 そして数人の協力者。


 少なすぎる。


 だが、大勢で入れば目立ちすぎる。


 ケイは外套の胸元を握った。


 そこには、風鈴の鈴紐と風羅の風車飾りが入っている。


 魔都の光を浴びても、その小さな遺品だけは温かくならなかった。


 シキは先頭を歩いていた。


 テンガロンハットを少し傾け、古い銃を隠し、まるでこの街に慣れた商人のように人波を抜けていく。門の認証も、検問も、彼は古いコードと軽口でくぐり抜けた。どういう仕組みなのか、ケイにはもう聞く気力もなかった。聞いても、きっと半分しか答えない。


「見てごらん」


 シキが、通りの中央を指差した。


 巨大な像が立っていた。


 白い少女の姿。


 頭上に光輪を戴き、片手を民へ差し伸べるようにしている。足元には蛇の意匠が巻き付き、背後には九つの翼が広がっている。


 女帝ヌル像。


 ケイは、その名を何度も聞いていた。


 旧帝都エデンの支配者。


 光の子。


 この魔都が復活させようとしている神格。


 だが、像を見た瞬間、ケイは眉をひそめた。


「顔が……」


「気づいた?」


 シキが言う。


 像の顔は、美しく作られていた。


 けれど、ぼやけている。


 目鼻立ちは整っているのに、見つめようとすると輪郭が曖昧になる。少女にも見える。大人にも見える。優しくも見える。残酷にも見える。見る人間の願望に合わせて、表情が勝手に変わるようだった。


「本当の顔を知らないんだ」


 シキは軽く言った。


「だから、みんなが信じたい女帝の顔を重ねている」


 像の前では、市民たちが祈っていた。


 老婦人が手を合わせる。


 若い義体の男が頭を垂れる。


 子どもが母親に手を引かれながら、祝詞を唱えている。


「眠れる女帝よ、我らの病を隔てたまえ。九つの戦乙女よ、魔都を守りたまえ」


 その祝詞に、ケイの胸が小さく痛んだ。


 九つの戦乙女。


 ワルキューレ。


 街の壁面には、その名が刻まれている。


 アイン。


 ツヴァイ。


 ドライ。


 フィーア。


 フュンフ。


 ゼクス。


 ズィーベン。


 アハト。


 ノイン。


 だが、いくつかの表記が変だった。


 発音が違う。


 順番が違う。


 説明文では、アインが女帝の娘になっていた。ドライは病を狩る鳥の聖女と書かれ、ノインは裏切り者として小さく扱われている。炎麗夜の顔が歪んだ。


「間違ってる」


 ケイは小さく言った。


 自分でも、なぜそう思ったのかわからなかった。


 帝都エデンを知らない。


 ワルキューレの本当の歴史も知らない。


 それなのに、胸の奥の記録が、これは違うと訴えていた。


 アインの記録。


 そう考えた瞬間、ケイはぞっとした。


 自分ではない何かが、自分の感情より先に怒っている。


「ケイ」


 炎麗夜が呼んだ。


 ケイははっと顔を上げる。


「あんたはケイだ。像に睨まれても、石像に食われるな」


「……はい」


「胸の中の誰かが怒っても、まずはあんたが怒るかどうか決めろ」


 ケイは深く息を吸った。


 胸の痛みが少しだけ引く。


 シキはそんな二人を見て、帽子の下で微かに笑った。


「いいね。魔都の入り口で名前の確認。観光案内より大事だ」


「観光で来たわけじゃない」


 炎麗夜が吐き捨てる。


「知ってる。だから急ごう。ここは表通りだ。女帝信仰の展示場で、清潔な檻だ。本当に見せたいものは、もっと奥にある」


     *


 旧帝都エデン遺産管理区は、魔都の中心部から少し外れた場所にあった。


 そこへ入るには、三重の検問と、二つの地下回廊を抜ける必要があった。シキは古い認証札と、現代魔都の偽造通行証と、どこで入手したのかわからない管理官の声紋記録を使って、そのすべてを抜けた。


 ケイは何度も心臓が止まりそうになった。


 けれど、シキは終始、軽い調子だった。


「検問というのは、疑うためにあるんじゃない。自分たちが管理していると思い込むためにある。だから、相手が見たい答えを出してあげれば、だいたい通れる」


「犯罪者の理論ですよね」


「なんでも屋の処世術だよ」


「境界が薄い」


「この街にぴったりだ」


 最後の扉が開いた時、空気が変わった。


 外の魔都エデンは、光と広告と人の流れに満ちていた。


 だが、この区画は静かだった。


 広大な地下空間。


 天井は高く、光は抑えられている。壁には白い石材が使われていたが、その裏に剥き出しの金属骨格が見える。まるで、神殿の皮を被った機械室だった。


 中央には、崩壊した宮殿を模した儀礼施設があった。


 白い柱。


 金の装飾。


 割れた玉座。


 床に描かれた蛇の紋様。


 壁面には九つの空席が並んでいる。それぞれにワルキューレの名が刻まれているが、椅子は空だった。花が供えられている。人工の花だ。枯れない。香りもしない。


「ヴァルハラ宮殿の模造区画」


 シキが言った。


「旧帝都エデンの記録と発掘資料を元に、魔都政府が復元した。実際の寸法や配置はかなり怪しいけど、儀礼用には十分らしい」


 炎麗夜が歯を食いしばった。


 彼女はその白い柱に手を触れた。


 表面は綺麗に磨かれている。


 だが、柱の内部には古い骨材が混じっていた。白い石の下に、黒ずんだ金属片、割れた魔導回路、焼けた骨のような素材が埋め込まれている。


「こんなの」


 炎麗夜の声が低く震えた。


「死んだ人間の骨で作った神殿じゃないか」


 誰も反論しなかった。


 ケイは、玉座を見た。


 黄金の玉座。


 夢で見たものに似ている。


 けれど違う。


 夢の中の玉座はもっと遠く、もっと冷たく、もっと圧倒的だった。ここにある玉座は、ただ綺麗に作られた舞台装置のようだった。


 なのに、懐かしかった。


 見たことがないはずなのに。


 胸の奥が引かれる。


 足が、無意識に玉座へ向かいそうになる。


「ケイ」


 颶鳴空の声で、ケイは止まった。


 ホーヴヴァルプニルの封印布の下で、魔導反応がざわめいている。


「近づきすぎるな」


「すみません」


 ケイは後ずさった。


 だが、視線は玉座から離れない。


 白い宮殿。


 九つの影。


 アインではない者よ。


 あの声が、また聞こえそうだった。


 儀礼施設の奥には、さらに別の模造聖域があった。


 夢殿のコピー。


 名も無き大聖堂の模造聖域。


 そう説明されても、ケイには本物がわからない。ただ、そこには眠る神を崇めるための冷たい寝台があった。寝台の上には誰もいない。代わりに、女帝ヌルを模した小さな義体人形が安置されている。


 その顔も、やはりぼやけていた。


 炎麗夜は吐き捨てるように言った。


「本物がいないのに、寝床だけ作ってる」


「いないから作るんだよ」


 シキが言った。


「空席は、人を信仰深くする。誰かが座るべき場所が空いていると、人はそこに自分の望みを置く」


「魔都は望みで人を縛るのか」


「望みと恐怖は、支配の両輪だ」


 ケイは、空席のワルキューレ椅子を見た。


 アインの席。


 そこだけ、わずかに光っているように見えた。


「……私は、座らない」


 小さく呟く。


 炎麗夜が隣で聞いていた。


「座らせないよ」


 その言葉が、少しだけケイを現実へ戻した。


 シキは施設のさらに奥へ向かった。


 そこには、神殿に似合わない扉があった。


 旧式の金属扉。


 表面には古い帝都エデンの認証紋。魔都政府の新しい紋章で覆い隠そうとした跡があるが、下から旧い印が透けている。


「ここからが本題」


 シキは銃のグリップで扉を軽く叩いた。


「起きてる?」


 反応はない。


「起きてるよね。ボクだ」


 扉の向こうから、古いスピーカーのノイズが響いた。


《その“ボクだ”で通る知り合いは、三百年の間にだいぶ減ったぞ。名を名乗れ、迷子案内》


 シキは笑った。


「なんでも屋シキ」


《肩書きが増えたな。昔はもっと可愛げがあった》


「そっちは相変わらず口が悪いね、シン」


 ケイは、その名に反応した。


「シン?」


 扉がゆっくり開く。


 中は、小さな情報室だった。


 中央に古い端末がある。周囲には魔導ケーブルが無数に垂れ、壁には壊れた演算盤、旧式のモニター、結晶記録媒体が積み重なっていた。バベル中枢から切り離された古い部屋、という印象だった。


 端末の画面に、一人の少年の姿が映っていた。


 年齢は十代後半くらい。黒髪。皮肉げな目。制服のような衣装を着ている。けれど、その姿は粗い映像で、時々ノイズが走る。


《初めまして、予言の少女。あるいは一九九九年固定起点から落下した異常観測体。あるいはアイン型記録の不法占拠先。好きな呼び方を選んでくれ》


 ケイは顔をしかめた。


「全部嫌です」


《では、ケイ》


 シンはすぐに言い直した。


《その反応はいい。自分を表す不快なラベルを拒否できる人間は、まだ自分の名前を失っていない》


 ケイは少しだけ黙った。


「あなたは、何なんですか」


《旧エデンコンピューター〈シン〉。ただし、魔都エデンの現行統制システムからは切り離された古い情報人格だ。昔は都市交通、通信、魔導炉補助制御、迷子案内、非合法アニメ鑑賞支援など幅広く担当していた》


「最後、要ります?」


《重要だ。人間性の証明だ》


 炎麗夜が腕を組む。


「こいつが、魔都を支えてる超頭脳かい?」


《今は支えていない。正確には、魔都は私の残骸を支柱の一つとして使っている。バベル中枢は私を嫌ってね。口うるさい良心回路など、支配装置には不要らしい》


 シキが肩をすくめる。


「口うるさいのは事実だね」


《君に言われたくない、シキ。いや、今はシキと名乗っているんだったか。昔の名で呼ぶと怒るか?》


 シキの笑みが少しだけ止まった。


「怒りはしない。でも、今はその話じゃない」


《では本題に入ろう》


 シンの画面に、地図が表示された。


 ヴァルハラ層。


 魔都エデン。


 死都東京。


 裁きの門。


 タルタロス接触層。


 バベル中枢層。


 それらの言葉が、幾何学的な図として重なり合う。


 ケイは息を呑んだ。


 その図は地図ではなかった。


 世界の断面図に見えた。


《まず、君は未来へ来たわけではない》


 シンは言った。


 ケイの心臓が跳ねた。


「……え?」


《少なくとも、単純な意味での未来ではない。ここは地上正史の二四一一年ではない。魔都エデンは、本物の帝都エデンが必ず行き着く未来ではない》


「でも、ここは二四一一年だって」


《この層の内部時刻ではそうだ。だが、外部時間とは同期していない。君が落ちたのは、トキオ聖戦、死都東京、夢殿、裁きの門、タルタロス、バベルが干渉して生まれた終末記録層――通称〈ヴァルハラ層〉だ》


 ケイは、言葉を失った。


 シキが言った言葉が蘇る。


 世界の底。


 地図が違うんじゃない。世界の記憶が雑なんだよ。


「じゃあ、ここは……異世界?」


《異世界という言葉は便利すぎる。正確には、帝都エデンが滅びた場合に発生する終末可能性、死者の記録、女帝不在の未来、ワルキューレ復活計画、裁きの門の誤作動、タルタロスから漏れた名なき断片、それらが折り畳まれて固定された疑似現実だ》


「全然わからない!」


《正直でよろしい》


「褒めないで!」


 ケイは画面に詰め寄った。


「じゃあ、ここにいる人たちは何なの? 炎麗夜さんも、颶鳴空さんも、ミライも、風鈴も風羅も、みんな記録なの? 偽物なの?」


 声が震えた。


 怒りなのか、恐怖なのか、わからない。


「ミライは水をくれた。風鈴は私の名前を呼んでくれた。風羅は笑ってた。炎麗夜さんは今ここにいる。なのに、ここが記録からできた世界なら、みんな偽物なの?」


 シンは、すぐには答えなかった。


 画面にノイズが走る。


 やがて、彼は静かに言った。


《偽物ではない》


 ケイは息を止める。


《記録から生まれたとしても、苦しんでいるなら本物だ。痛みを覚え、名を呼び、喪失を嘆き、明日を選ぼうとしているなら、それは存在だ。君の言う本物と、何が違う?》


 ケイは答えられなかった。


《ただし、この世界は不安定だ。ノアインパクトは水の洪水ではない。記録の洪水だ。歴史、地名、国家、文明、名前。それらが洗い流され、混ざり、再配置された。バベルはその洪水で散った名前を集めている》


「バベルが……」


《死者の名前を集める偽天界。ワルキューレ記録核の回収装置。女帝ヌル再現計画の演算炉。裁きの門を模倣した人工門。そして、ヴァルハラ層を固定する柱だ》


 炎麗夜が低く唸る。


「つまり、魔都の繁栄は、その黒い塔の上にある」


《正確には、その中に吸われた名前の上にある》


 炎麗夜の拳が震えた。


 颶鳴空は目を閉じた。


 ケイは胸元を押さえた。


 名前。


 ミライ。


 風鈴。


 風羅。


 バベルに近づいた時の痛みは、あの塔の中で呼ばれている名前の声だったのか。


「じゃあ、私の中のアインは」


《アイン型ワルキューレ記録。あるいは、それに誤認されるほど近い何か。さらに闇性反応も混在している。君はアインの転生ではない。器でもない。ただ、最悪に相性の良い受信機だ》


「受信機……」


《そして、バベルは君を欲しがる。君を使えば、女帝再現計画とワルキューレ復元計画が大きく進むからだ》


 ケイは、拳を握った。


「私は誰の代わりにもならない」


《それを忘れないことだ。忘れた瞬間、バベルは君の名前を別の名で上書きする》


 部屋の空気が重くなる。


 その時、シンの画面に警告が走った。


《侵入者》


 シキが銃を抜く。


「魔都兵?」


《違う。紅色高濃度姫核抽出術式反応。紅い月だ》


「アカツキ……!」


 炎麗夜の目が、一瞬で変わった。


     *


 アカツキは、旧帝都遺産管理区の回廊を歩いていた。


 花魁衣装の裾が、白い床を擦る。


 警備デーモンが三体、彼の前に立ちはだかった。宮殿守護を模した人型デーモン。顔には女帝の仮面、背には折れた翼。魔都政府の儀礼警備用だ。


 アカツキは足を止めない。


 刀が抜かれる。


 一閃。


 仮面が割れる。


 二閃。


 翼が落ちる。


 三閃。


 命令核が砕ける。


 デーモンたちは声もなく崩れた。


 彼の目的は一つだった。


 バベル中枢。


 マダム・ヴィー。


 紅華の記録を修復する方法。


 それ以外はどうでもいい。


 そう思うたび、ミライの名が胸の奥で痛んだ。


 風鈴と風羅の光が、紅華の器の奥で沈んでいる。


 俺様が救ったわけではない。


 俺様が奪ったわけでもない。


 そう言い聞かせる。


 だが、ケイの声が蘇る。


 ――救うって言うなら、ちゃんと相手の名前を聞いてからにして。


 アカツキは舌打ちした。


「うるさい娘だ」


 その声に、回廊の奥から炎のような気配が返ってきた。


「うるさくしてるのは、あんたの方だよ」


 炎麗夜が立っていた。


 フードを外し、赤みがかった髪を揺らし、腰の大剣を抜いている。足元には黄金の猪フレイ。彼女の目には、怒りが燃えていた。


 アカツキは足を止めた。


「炎麗夜」


「その名で呼ぶな」


「では、フレイヤか」


「それも、あんたが呼ぶな」


 フレイが吼える。


 炎麗夜の両腕と両脚に、黄金の装甲が展開する。ムシャ化。猪の牙を思わせる刃が腕に走り、脚甲が床を砕いた。


 アカツキの袖から、紅華の影が滲む。


 紅い炎の装甲が彼を包み込む。


 フレイヤ対アカツキ。


 黄金の猪と紅い炎。


 次の瞬間、二人は激突した。


 炎麗夜の拳が、アカツキの刀とぶつかる。


 火花が白い回廊に散る。


 アカツキは受け流す。炎麗夜は構わず踏み込む。拳、蹴り、肩、牙状の刃。力と勢いで押し潰す戦い方。だが、それはただ乱暴なだけではなかった。風鈴と風羅を失った怒りが、すべての一撃に乗っている。


「風鈴の名を覚えているか!」


 拳が振るわれる。


 アカツキは刀で受ける。


「風羅の名を覚えているか!」


 蹴りが床を割る。


 アカツキは身を翻す。


「ミライの名は! あんたが眠らせた子たちの名は! 覚えてるのか、紅い月!」


 アカツキの表情が歪んだ。


 だが、反撃は浅い。


 致命傷を狙っていない。


 炎麗夜はそれに気づいて、さらに激怒した。


「手加減するな!」


「貴様を殺しに来たわけではない」


「こっちは殺しに来たんだよ!」


 黄金の拳が、アカツキの脇腹へ入った。


 アカツキが吹き飛び、白い柱に叩きつけられる。柱に罅が入り、模造神殿の天井から白い粉が落ちた。


 アカツキは血を吐いた。


 それでも立つ。


 紅華の装甲が彼を支える。


 だが、その装甲を使うほど、彼の身体は削れている。ケイにはそれが見えた。紅い光が、アカツキの傷口から漏れ、紅華の影へ吸われていく。


 ケイは走り出した。


「やめて!」


 シキが止めようとしたが、間に合わない。


 ケイは炎麗夜とアカツキの間へ飛び込んだ。


 炎麗夜の拳が寸前で止まる。


「ケイ、どけ!」


「嫌です!」


「あいつは殺した!」


「知ってます!」


「なら、どけ!」


「今ここで殺したら、何もわからないまま終わる!」


 炎麗夜の目が怒りで揺れる。


「わからなくていい! あいつは殺した! 風鈴も、風羅も、ミライも、たくさんの子も!」


「でも、殺された人の名前を取り返す方法を、あいつは知ってるかもしれない!」


 炎麗夜が息を呑んだ。


 アカツキも、動きを止めた。


 ケイは振り返り、アカツキを睨んだ。


「あなたが姫核を抜いて、紅華に集めてるなら。あなたがバベルに喰われる前に眠らせてるって言うなら。そこには、まだ何かが残ってるんじゃないの」


 アカツキは黙っている。


「戻せるかもしれない。名前を呼べるかもしれない。全部は無理でも、一つでも、誰かの名を取り戻せるかもしれない。だったら、今ここで殺すだけじゃ終われない」


 炎麗夜の拳が震えた。


「ケイ……あんた、それを言うのか」


 その声には、怒りだけではない。


 悲しみがあった。


「風鈴と風羅を見たあんたが、それを言うのか」


 ケイは泣きそうになった。


 でも、目を逸らさなかった。


「言います。二人が、名前を呼んでって言ったから」


 炎麗夜の表情が崩れそうになる。


 その時だった。


 回廊の奥から、拍手が聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 ゆっくりと。


「すてき」


 少女の声だった。


 甘く、幼く、そして底なしに空虚な声。


「名前。代わり。器。取り戻す。みんな、好きね。そういう言葉」


 白い回廊の奥から、少女が現れた。


 都智治リリカ。


 白い儀礼服。


 細い身体。


 虚ろな目。


 だが、背後には巨大な影がついていた。


 ヒミカのデーモン。


 眠れる姉の成れの果て。


 リリカの背中から無数の接続管が伸び、ヒミカのデーモンとつながっている。管の中を金色の液体が流れ、聖痕の光が脈打っている。


 リリカが微笑む。


「見つけた」


 その瞬間、ヒミカのデーモンがムシャ化した。


 巨大な触手がリリカの背から広がる。


 花の蕾のような装甲が肩を覆い、胸元には聖痕の紋様が咲く。腰から下には白い外殻が重なり、足元に金色の魔導陣が広がった。まるで、聖女像と怪物を無理やり重ね合わせた姿だった。


 炎麗夜が身構える。


 アカツキも刀を構えた。


 シキが静かに銃を上げる。


 ケイの胸骨が、激しく痛んだ。


 リリカはケイだけを見ていた。


「お姉様の代わり」


 声が甘い。


「女帝様の代わり」


 触手が床を撫でる。


「アインの代わり」


 ケイの身体が震える。


 怖い。


 この少女は、自分を見ていない。


 ケイという人間を見ていない。


 胸の中にある記録と、器としての形だけを見ている。


 リリカは微笑んだ。


「来て。あなたなら、きっと入るわ。姉様よりも、私よりも、綺麗に」


 ケイは、胸元を握りしめた。


 鈴紐。


 風車飾り。


 ミライの名。


 炎麗夜の声。


 シンの言葉。


 記録から生まれたとしても、苦しんでいるなら本物だ。


 そして、自分の名。


「私は」


 声が震える。


 でも、出た。


「私は、誰の代わりでもない」


 リリカは、きょとんとした。


 そして、笑った。


「みんな、そう言うの」


 次の瞬間、触手が一斉に襲いかかった。


 白い回廊が砕ける。


 黄金の猪が吼える。


 紅い炎が舞う。


 銃声が響く。


 ケイの足元で、赤い狼の影が目を開けた。

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