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第6話 魔都へ続く死の街道

 道は、死んでいた。


 かつては高速道路だったのだろう。二本の車線を示す白線が、ところどころに乾いた皮膚の傷跡のように残っている。アスファルトはひび割れ、そこから背の低い草が生え、錆びたガードレールは半ば砂に埋もれていた。道路標識は曲がり、文字は剥がれ、矢印だけがまだどこかを指している。


 その矢印の先に、本当に町があるのかどうかは、誰にもわからない。


 ヴァナディースは、沈んだ港から離れ、魔都へ続く旧街道を歩いていた。


 隊列は、もう軍と呼ぶにはあまりにも小さくなっていた。荷車は二台。歩ける者は歩き、怪我人と子どもは交代で乗せる。水袋は半分以下。食料も少ない。半デーモンの老人は背中の装甲を割られ、義肢の少女ナギは右腕の駆動音に雑音を混ぜている。誰も口数が多くない。


 風鈴と風羅がいない。


 その不在は、隊列の形そのものを変えていた。


 風鈴がいれば、誰かが転びかける前に気づいた。風羅がいれば、冗談みたいな偽装で検問をすり抜ける策を出した。誰かが泣けば風鈴が隣に座り、誰かが沈黙すれば風羅が少し意地悪な言葉で笑わせた。


 今は、その声がない。


 ケイは、二人の遺した鈴紐と風車飾りを布に包み、胸元にしまっていた。


 歩くたびに、小さく触れる。


 音はしない。


 鈴は鳴らない。


 風車は回らない。


 それでも、そこにある。


「ケイ、足元」


 炎麗夜の声に、ケイははっとした。


 目の前のアスファルトが大きく崩れていた。気づかず踏み込んでいれば、乾いた排水溝の穴に足を取られていたかもしれない。


「すみません」


「謝るより、次を見な」


「はい」


 炎麗夜は前を向いたまま歩いている。


 フレイは彼女の横で小型の猪の姿を取っていた。黄金の毛並みはくすんでいる。昨日の戦いで、彼も深く消耗していた。時折、足を引きずるような仕草をする。それでも、炎麗夜が歩けばフレイも歩いた。


 ケイは、視線を遠くへ移した。


 地図上ではニホン。


 そう聞いている。


 だが、ケイの知る日本とは違う。


 昨日まで、ノアインパクトという災厄で地形が変わったのだと思っていた。大洪水があり、文明が崩れ、海岸線がずれ、山が削れ、町の名前が変わったのだと。


 でも、違和感はそれだけではなかった。


 海岸線が違う。


 山の位置が違う。


 知っているはずの町の名前がない。


 逆に、聞いたことのない地名が、古い標識に当然のように刻まれている。


 ケイは、シキから渡されたぼろぼろの紙地図を広げた。


 地図は継ぎ接ぎだった。旧時代の地図、魔都政府の補給路図、港の密輸業者が使っていた裏街道図、どれも縮尺が違う。それを無理やり貼り合わせている。


 神奈川らしき場所はある。


 東京らしき場所もある。


 横浜らしき港もあった。


 だが、境界が違う。海が深く入り込み、山が近すぎる。知っている駅名はなく、代わりに「旧帝都下層」「ノア残丘」「灰川」「旧ミヤ埋没区」といった文字がある。


「変ですよね」


 ケイは、隣を歩くシキに言った。


 シキはテンガロンハットのつばを指で上げ、地図を覗き込んだ。港での戦いでコートは破れ、片腕にはまだ包帯が巻かれている。けれど相変わらず、どこか飄々としていた。


「何が?」


「この地図。ノアインパクトで地形が変わったにしても、変わり方が変というか。私の知ってる地名が妙なところにあったり、あるはずの山がなかったり」


「よく気づいたね」


「馬鹿にしてます?」


「少しだけ褒めてる」


「少しだけ」


 シキは笑った。


 その笑い方がいつも通りだったので、ケイは少し苛立った。昨日の港で、あれだけの人が沈んだ。風鈴と風羅が消えた。それなのに、シキは世界の縁を歩くような顔で笑っている。


 けれど、それが本当に平気だからなのか、平気なふりをしているだけなのか、ケイにはまだわからなかった。


 シキは地図の破れた端を指でなぞった。


「地図が違うんじゃない」


「じゃあ何が違うんですか」


「世界の記憶が雑なんだよ」


 ケイは足を止めかけた。


「……何ですか、それ」


「世界もね、ちゃんと覚えていないことがある。ある町がここにあったはずだ、でもこっちにもあった気がする。海はこの辺まで来たはずだ、いや、もっと内側まで呑んだかもしれない。神奈川は帝都だった。東京は死都だった。横浜は港だった。けれど、どこまでがどれだったか、記憶が混ざる」


「世界が記憶違いするんですか」


「人間だってするだろ?」


「規模が違いすぎます」


「規模が違うだけで、性質は似てる」


 シキは、遠くの曇った空を見た。


「ここは、そういう場所だ」


 ケイの胸が、また少し熱くなる。


「シキさんは、この世界が何なのか知ってるんですか」


「少し」


「少し?」


「全部知ってると言う人間は、たいてい何も知らない。少し知ってると答える人間は、少し多めに知ってる」


「つまり、けっこう知ってるってことですよね」


「ボクはこんなに正直に嘘をついているのに、疑い深いなあ」


 ケイはじっとシキを見た。


「シキさん、本当に人間なんですか」


 シキは足を止めた。


 炎麗夜も少しだけ振り向く。颶鳴空は何も言わないが、馬型デーモンのホーヴヴァルプニルの耳がこちらを向いた。


 シキは数秒、黙っていた。


 やがて、帽子のつばを下げる。


「人間っぽくはしている」


「それ、答えになってません」


「答えにならない答えも、時には答えだよ」


 ケイは苛立ちを飲み込んだ。


 問い詰めたい。


 けれど、シキを問い詰めるには、今の自分はまだ何も知らなさすぎる。


 隊列は再び歩き出す。


 空は灰色に濁っていた。


 風は乾いているのに、どこか水の底を歩いているような気がした。


     *


 検問は、昼前に現れた。


 旧街道を塞ぐように、魔都政府の簡易ゲートが立っている。半壊した料金所跡を利用したものだった。左右には魔導障壁の杭が打たれ、赤い札が帯のように空中を結んでいる。ゲートの上には、女帝の光輪を模した紋章と、魔都エデン政府の標語が掲げられていた。


 ――女帝の名のもとに、病を隔て、民を守る。


 ケイはその文字を見て、胃の奥が冷たくなった。


 病。


 あの言葉で、ミライは連れていかれそうになった。風鈴と風羅も追われた。名札だけになった子どもたちも、きっとそう呼ばれた。


 ゲートの前には、魔導装甲兵が六人。さらに、識別装置らしきものが中央に置かれている。旧時代の金属探知機に似ているが、輪の内側には小さな魔導文字が流れていた。


 姫核保持者を見つける装置。


 ケイは直感した。


「風羅がいればな」


 ガンドが苦く呟いた。


 誰も返事をしなかった。


 その沈黙が、風羅の不在をさらに濃くする。


 風鈴がいれば、誰かの緊張を軽くしてくれただろう。風羅がいれば、あの装置の前で別人に見せかけるくらいの無茶をしてくれたかもしれない。


 だが、二人はいない。


 炎麗夜は隊列を止め、シキを見た。


「どうする」


「通る」


「それはわかってる。どうやってだ」


「正面から」


 炎麗夜の眉がぴくりと動く。


「シキ」


「大丈夫。たぶん」


「たぶんで子どもの命を賭けるな」


「じゃあ、七割くらい大丈夫」


「残り三割をどうする気だ」


「そこは愛と勇気で」


 炎麗夜が本気で殴りそうになったので、ケイは少しだけ慌てた。


 シキは懐から古い金属札を取り出した。


 細長い認証札だった。表面は傷だらけで、魔都政府のものとは違う紋章が刻まれている。輪のようで、蛇のようでもあり、どこか古い神殿の門を思わせる印。


 炎麗夜の目が鋭くなる。


「それは何だ」


「古い通行証」


「魔都政府のものじゃないね」


「そう。もっと古い」


「旧帝都エデンか」


 シキは笑っただけだった。


 答えない。


 だが、その沈黙が答えだった。


 颶鳴空が静かに言う。


「旧帝都エデンの認証コードなど、今の魔都政府で通るのか」


「魔都は旧帝都の残骸でできている。新しい鍵穴に見えても、中の歯車は古いままだったりする」


「失敗したら」


「走る」


 あまりにもあっさりしていた。


 炎麗夜は額に手を当てた。


「本当におまえを信用したくない」


「でも利用する」


「そこが腹立つんだよ」


 ケイは、自分の外套を強く握った。


 胸の紋様が、すでにわずかに反応している。ゲートの識別装置に近づくほど、熱が増していくようだった。


「私、通れるんでしょうか」


 ケイが小声で聞くと、シキは少し考えた。


「通れるようにする」


「できるって言わないんですね」


「できると言うと嘘になる」


「やっぱり怖いです」


「怖いのは正しい」


 シキは、珍しく軽口を弱めた。


「だから、名前を握っておきな」


 ケイは胸元の布包みに触れた。


 鈴紐と風車飾り。


 風鈴。


 風羅。


 そして、自分の名。


「螢。ケイ」


 小さく呟く。


 それから隊列は、検問へ向かった。


 先頭はシキ。


 その後ろに炎麗夜。


 ケイは中央、荷車と子どもたちの間。颶鳴空は最後尾でホーヴヴァルプニルに跨り、いつでも突破できるようにしている。


 魔導装甲兵が槍を交差させた。


「停止。通行目的を述べよ」


 シキはにこりと笑った。


「旧市街補修資材の搬送。港湾事故による避難民を伴う。認証はこれ」


 金属札を差し出す。


 兵士はそれを受け取り、端末へかざした。


 端末が一瞬、沈黙する。


 空気が張り詰める。


 ケイの背中に汗が流れた。


 端末が青く光った。


『認証確認。旧帝都補助管理権限。区分――』


 そこまで言って、端末が激しくノイズを吐いた。


 兵士が眉をひそめる。


「旧帝都補助管理権限? 何だこれは」


 シキは顔色一つ変えない。


「古い規格だよ。今の若い兵士さんは知らないかもしれないね」


「誰が若い」


「褒め言葉さ」


「黙れ。識別検査を行う」


 兵士が手を上げる。


 隊列の中央に置かれた識別装置が起動した。


 輪の内側に赤い光が走る。


 ケイの胸が熱くなった。


 痛い。


 思わず膝が揺れる。


 隣にいたナギが小声で言う。


「ケイ」


「大丈夫」


「大丈夫に見えない」


「最近そればっかり言われる」


 ケイは笑おうとしたが、失敗した。


 識別装置の光が、隊列を撫でるように流れてくる。


 姫核保持者の反応を探している。


 風羅の偽装はない。


 シキの古い認証札だけが頼りだった。


 光が炎麗夜に触れる。


 装置が一瞬、黄色く点滅した。


 兵士が端末を見る。


「ヒミカ反応、微弱」


 炎麗夜が笑う。


「昔の怪我だよ。魔都の機械は古傷まで病気にするのかい?」


 シキがすぐ続ける。


「港湾事故でデーモン汚染を受けている。旧帝都補助管理権限下の搬送対象だ。記録を見ればわかる」


 端末が再びノイズを吐いた。


 なぜか、黄色の警告が青へ変わる。


 兵士は納得していない顔だったが、次へ進めた。


 光が荷車を撫でる。


 子どもたちが身を縮める。


 ナギの義肢が小さく震える。


 ケイの番が来る。


 赤い光が胸元に触れた瞬間、紋様が激しく痛んだ。


「っ……!」


 声を殺しきれなかった。


 装置が甲高い音を立てる。


 赤い警告。


 兵士たちが一斉に武器へ手を伸ばす。


「反応あり」


 マズい。


 ケイの頭が真っ白になる。


 その瞬間、シキが認証札を端末へ叩きつけるように押し当てた。


「旧帝都避難記録、優先照合」


 端末が暴れた。


 青、赤、白、黒。


 魔導文字が乱れ、装置の輪が一瞬だけ暗くなる。


 どこか遠くで、鐘のような音が鳴った。


 ケイは、自分の背後に巨大な街の影を見た気がした。


 きらびやかな魔導科学都市。


 白い宮殿。


 蛇のような結界。


 眠る女帝。


 だが、その景色は一瞬で消えた。


 端末の警告が青に変わる。


『避難記録照合。旧帝都災害残留者。通行許可』


 兵士が目を細めた。


「災害残留者だと? こんな若い娘が?」


 シキは肩をすくめる。


「旧帝都絡みの記録に年齢を期待するのは、歴史に礼儀を求めるようなものだよ」


「どういう意味だ」


「意味を調べるには上に問い合わせが必要だ。でも、問い合わせると旧帝都補助管理権限が自動で監査記録を開く。港湾事故後の現場判断遅延として、君の名前も残るかもしれない」


 兵士が顔をしかめた。


 魔都の人間は、名前が記録に残ることを恐れる。


 ケイは、それを初めて実感した。


 兵士は舌打ちした。


「通れ。ただし、魔都外縁で再検査を受けろ」


 シキは帽子を軽く上げた。


「ご協力感謝するよ」


 隊列は、ゆっくりとゲートを抜けた。


 最後尾の颶鳴空が通過するまで、誰も息をしなかった。


 検問が遠ざかり、丘の影へ入った瞬間、炎麗夜がシキの胸倉を掴んだ。


「説明しろ」


「何を?」


「とぼけるな。旧帝都補助管理権限? 避難記録? 災害残留者? あんた、いったい何者だ」


 シキは掴まれたまま、いつもの軽い笑みを浮かべた。


「昔、ちょっとね。帝都の迷子案内をしていたんだ」


「旧帝都のか」


「迷子に時代は関係ないよ」


「シキ」


 炎麗夜の声が低くなる。


「これ以上はぐらかすなら、置いていく」


「置いていけば困るのはキミたちだ」


「腹立つね」


「よく言われる」


 シキは、炎麗夜の手をそっと外した。


「今は魔都へ行く。それで十分だ。ボクの正体を知るより、目の前の門を越える方が先だよ」


「その“先”がいつまで続く」


「バベルに着くまでかな」


 その言葉で、ケイの胸が強く痛んだ。


 バベル。


 名前を集める黒い塔。


 そこへ近づくほど、自分の中の何かが起き上がる。


 アイン。


 その名が、また胸の奥で揺れた。


     *


 夜は、廃れた茶畑の跡で迎えた。


 茶畑といっても、ケイの知る整った畝ではない。枯れた低木が斜面に残り、その間を雑草が覆っている。近くには古い休憩所の跡があり、屋根だけがかろうじて残っていた。


 隊列はそこで火を小さく焚いた。


 魔都に近づいているため、大きな火は使えない。食事も簡単なものだった。硬い豆を湯でふやかし、塩を少し入れただけ。子どもたちには先に配り、大人たちは残りを分けた。


 風鈴がいれば、味が薄いと冗談を言っただろう。


 風羅がいれば、豆を肉に見せる変化くらいできると嘘をついたかもしれない。


 ケイは、椀の中を見つめたまま、なかなか食べられなかった。


 炎麗夜が隣に腰を下ろした。


「食え」


「それ、村長さんにも言われました」


「いい人はだいたい同じことを言う」


「炎麗夜さん、自分でいい人って言います?」


「おいらは自分に甘い」


 ケイは少し笑った。


 少しだけ、食べた。


 豆は固かった。


 それでも、喉を通った。


 炎麗夜は火の向こうを見ている。フレイは彼女の膝元で丸くなっていた。黄金の毛並みは、火の光を受けてもいつもほど輝かない。


 しばらく沈黙が続いた。


 ケイは、勇気を出して聞いた。


「炎麗夜さん」


「何だい」


「フレイヤって、呼ばれることありますよね」


 炎麗夜の手が少しだけ止まった。


「誰から聞いた」


「港で、バイブ・カハの人たちが。あと、ヴァナディースの人も時々」


「そうか」


「本名なんですか」


 炎麗夜は笑った。


 けれど、その笑いはいつもの豪快なものではなかった。


「本名は、別にある」


 ケイは黙って待った。


 炎麗夜は、焚き火へ小枝を一本投げ入れた。


「でも、魔都政府の記録には残ってない。ヒミカ症候群の発症者として登録された時点で、本名は病名に置き換えられた」


「病名に……」


「そうだ。役所の端末には、こう出る。個体番号、発症区分、危険度、隔離優先順位。名前の欄には、ヒミカ症候群適合者。家族の記録からも、学校の記録からも、村の戸籍からも、おいらの名前は削られた」


 炎麗夜の声は静かだった。


 静かだからこそ、怒りが深い。


「ある日、自分の名前がなくなった。呼んでくれる人間はいたよ。家族も、友達も。でも紙の上では、おいらはもう病気だった。人間じゃなく、症例だった」


 ケイは拳を握った。


「そんなの、ひどい」


「ひどいさ」


 炎麗夜は笑う。


「だから決めた。向こうがあたしを病人にするなら、あたしは女神になってやる。そう決めたんだ」


「それで、フレイヤ」


「ああ。古い神話の女神の名だ。美と戦と死者を選ぶ女。おいらには似合いすぎて困るだろ?」


 いつもの調子に戻そうとする言い方だった。


 ケイは少し考えてから言った。


「炎麗夜さんの方が似合ってます」


 炎麗夜は目を瞬いた。


「おや、そう来たか」


「フレイヤもかっこいいと思います。でも、私には炎麗夜さんの方が、ちゃんと炎麗夜さんです」


 炎麗夜は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく笑う。


「そうか」


「はい」


「なら、あんたが呼ぶ時は炎麗夜でいい」


「呼び捨てはちょっと」


「こういう時だけ礼儀正しいね」


「育ちがいいので」


「自分で言うかい」


 二人は少しだけ笑った。


 それから、ケイは自分の胸元に触れた。


「私も、怖いです」


 炎麗夜は黙って聞いた。


「アインって名前。夢の中で呼ばれるんです。私は違うって言ってるのに、胸の中から誰かの声がする。戦ったことなんてないのに、赤い狼みたいな影が出る。フェザーアローに触れた時も、知らない名前が見えて……」


「ドライか」


 ケイは頷いた。


「たぶん。誰かが泣いてました。あのデーモンの中で。私、知らないはずなのに、痛かった」


「姫核持ちにはよくある。自分じゃない記録が入ってくる」


「それって、いつか私じゃなくなるってことですか」


 声が震えた。


「私がアインになるんですか。ミライみたいに名前を失って、風鈴や風羅みたいに光に呑まれて、誰かの器になるんですか」


 炎麗夜はすぐには答えなかった。


 その代わり、ケイの頭に手を置いた。


 大きくて、温かい手。


「あんたはケイだ」


 炎麗夜は言った。


「アインだか何だか知らないけど、あたしが呼ぶ時はケイだ」


 ケイの目に涙が滲んだ。


「でも、もし私が私じゃなくなったら」


「その時は、名前を呼ぶ」


「戻れなかったら」


「戻るまで呼ぶ」


「それでも」


「それでもだ」


 炎麗夜の声は、揺るがなかった。


「名前ってのは、本人だけで持つには重すぎる時がある。だから誰かに呼んでもらうんだ。風鈴も、風羅も、あんたにそう言っただろ」


 ケイは、布包みを握った。


「はい」


「だったら覚えておけ。あんたはケイだ。帰りたいなら帰れ。戦いたいなら戦え。泣きたいなら泣け。でも、名前だけは他人に渡すな」


 ケイは涙を拭いた。


「炎麗夜さん」


「何だい」


「私、帰りたいです」


「うん」


「でも、帰るだけじゃ、もう嫌です」


「うん」


「ミライのことも、風鈴と風羅のことも、名札だけだった子どもたちのことも、知らなかったことにはできない」


 炎麗夜は、静かに頷いた。


「それでいい」


「でも、何ができるかわかりません」


「誰だってそうさ。できることがわかってから動く奴なんて、だいたい間に合わない」


「無茶なこと言いますね」


「無茶な時代だからね」


 炎麗夜は火を見つめた。


「魔都へ行けば、もっと嫌なものを見る。バベルに近づけば、あんたの中のアインも強くなるかもしれない。それでも来るかい」


 ケイは、しばらく目を閉じた。


 ミライの声。


 風鈴の笑顔。


 風羅の軽口。


 フェザーアローの中で泣いていた誰か。


 そして、自分の名前。


 目を開ける。


「行きます」


 炎麗夜は笑った。


「いい返事だ」


「怖いですけど」


「それもいい返事だ」


 夜風が、枯れた茶畑を揺らした。


 その音は、遠くで誰かが名前を囁いているようにも聞こえた。


     *


 同じ夜。


 旧街道から外れた山あいに、朽ちた茶屋があった。


 屋根は半分落ち、看板は読めない。土間には割れた湯呑みが散らばり、囲炉裏はとうに冷えている。かつて旅人が腰を下ろし、茶を飲み、団子を食べ、天気の話でもしたのだろう場所は、今では風と獣の通り道になっていた。


 その奥で、アカツキは倒れていた。


 花魁衣装は裂け、紅い布は泥と血で黒ずんでいる。白い肌は死人のように青い。唇から血が流れ、肩と脇腹には深い傷があった。


 彼の傍らに、紅い影がいる。


 紅華。


 人の形をしているようで、していない。炎のような髪。女の輪郭。けれど顔はぼやけ、瞳は空洞だった。その影は、アカツキを抱き起こそうとするように揺れていた。


 アカツキは、かすれた声で笑った。


「心配するな。まだ死なん」


 紅華は答えない。


「……いや。おまえは、心配などせぬか」


 紅華は答えない。


 アカツキは目を閉じた。


 痛みと熱が、彼を過去へ引きずり込む。


     *


 彼は、農村の子どもだった。


 まだアカツキという名ではなかった。


 本名はあった。


 父が呼び、母が呼び、姉が呼び、村の子どもたちが呼んだ名。


 だが、その名は今、ほとんど思い出せない。


 思い出そうとすると、代わりに紅い月が浮かぶ。


 子どもの頃から、顔だけは綺麗だと言われた。


 男の子にしては白すぎる肌。女の子のような目。村の祭りで女物の衣を着せられると、大人たちは笑い、旅商人は値踏みするような目をした。


 美しさは、守りではなかった。


 値札だった。


 ある年、飢饉が来た。


 村の蔵は空になり、税は重く、魔都へ納める穀物は減らせなかった。


 彼は売られた。


 家族が悪人だったわけではない。


 泣いていた。


 母は彼の手を離さず、父は土下座した。姉は最後まで村の外れまで走ってきた。けれど、商人の荷車は止まらなかった。


 彼は、その日、自分の名前が金に換わる音を聞いた。


 売られた先で、彼は女物の衣を着せられた。


 逃げるためだった。


 男の子として探されるなら、女の姿をすれば見つかりにくい。最初はそうだった。やがて、それは仮面になった。仮面は鎧になった。鎧は舞台になった。


 美しさは、奪われる理由だった。


 ならば、美しさで奪い返せばいい。


 そう思った頃、彼は紅華と出会った。


 紅華は笑う女だった。


 粗末な服を着ていても、髪が乱れていても、泥だらけでも、彼女は笑った。


「あなた、綺麗ね」


 最初に言われた時、彼は相手を睨んだ。


「それが何だ」


「怒った顔も綺麗」


「黙れ」


「じゃあ、怖い顔も綺麗」


「貴様、喧嘩を売っているのか」


「ううん。褒めてる」


 紅華は本当にそう思っている顔だった。


 彼は毒気を抜かれた。


 紅華は姫核保持者だった。


 当時はまだ、ヒミカ症候群という言葉が今ほど広まっていなかった。だが、魔都はすでに発症者を集めていた。紅華の背中には、赤い花のような聖痕があった。


 彼女は、それを隠さなかった。


「怖くないのか」


 彼が聞くと、紅華は少し考えて言った。


「怖いよ。でも、怖がっても消えないから」


「魔都に見つかるぞ」


「その時は逃げる」


「逃げ切れなかったら」


「その時は、名前を呼んで」


 彼は眉をひそめた。


「名前?」


「うん」


 紅華は、自分の胸に手を当てた。


「わたしがわたしでなくなったら、名前を呼んで」


 その時、彼は笑った。


「名前を呼べば戻るのか」


「戻るかもしれない」


「戻らなかったら」


「それでも、誰かが呼んでくれたなら、わたしはいたことになる」


 紅華は、そう言って笑った。


 数年後、紅華は狩られた。


 魔都政府の姫核部隊。


 バベル管理局。


 赤い札。


 記録拘束具。


 彼は彼女を守ろうとした。刀を取った。血を浴びた。逃げた。隠れた。祈った。


 だが、紅華は捕まった。


 戻ってきた時、彼女は人ではなかった。


 デーモンの器。


 記録核の殻。


 自我はなく、呼びかけても答えない。魔都は言った。適合不全。人格崩壊。けれど、完全消失ではない。姫核記録を補填すれば、再構築できる可能性がある。


 彼は、その言葉に縋った。


 紅華を救うために、魔導手術を受けた。


 自分の身体を紅華のリンガにした。


 紅華と接続し、姫核を受け入れる器にした。


 口づけで魂魄記録を抜く術式を、身体に刻んだ。


 誰かを眠らせるたび、紅華に近づくと思った。


 誰かの名が消えるたび、紅華の名が戻ると思った。


 そう信じなければ、自分はただの殺人鬼になる。


 だから、信じた。


 信じ続けた。


     *


 アカツキは目を覚ました。


 朽ちた茶屋の天井が見える。


 夜明け前の冷たい空気が、破れた屋根から流れ込んでいた。


 紅華の影が、彼の横にいる。


 アカツキはかすれた声で呼んだ。


「紅華」


 返事はない。


「紅華」


 返事はない。


「……わたしがわたしでなくなったら、名前を呼んで、か」


 アカツキは笑った。


 笑おうとして、血を吐いた。


「呼んでいるさ。ずっと。ずっと呼んでいる」


 紅華は答えない。


 ただ、その器の奥で、無数の姫核記録が微かに光っていた。


 ミライ。


 港で抜いた名も知らぬ子。


 そして、彼が救ったと思い込んできた数えきれない名前。


 紅華の名は、その中で埋もれている。


 アカツキは、紅い袖で口元の血を拭った。


「魔都へ行くぞ」


 紅華は答えない。


「バベルに、答えがある」


 紅華は答えない。


「戻るのだろう。おまえは。俺様が、必ず」


 その言葉は、もはや紅華に向けられているのか、自分自身に向けられているのか、アカツキにもわからなかった。


 夜の底で、彼はもう一度だけ名を呼んだ。


「紅華」


 返事は、やはりなかった。


     *


 魔都エデン外縁が見えたのは、翌日の夕暮れだった。


 最初に見えたのは、光だった。


 地平線の向こうに、夕日とは違う輝きが立っている。青白く、金色で、時々赤く瞬く光。近づくにつれ、それが無数の塔と空中通路と魔導広告と結界柱の集合だとわかってきた。


 そして、都市が現れた。


 巨大だった。


 ケイの知るどんな都市よりも巨大に見えた。高層建築が空へ伸び、その間を透明なチューブのような空中通路が結ぶ。塔の上部には光の輪が回り、壁面には女帝ヌルを讃える文字が流れている。遠くの門には、ワルキューレらしき像が並んでいた。都市全体が、古い神殿と未来都市を無理やり重ね合わせたような姿をしている。


 地方の荒野とは、あまりにも違う。


 飢えた村。


 沈んだ港。


 死んだ街道。


 その果てに、こんな光がある。


 ケイは言葉を失った。


「綺麗……」


 口から漏れた言葉に、自分で少し驚いた。


 炎麗夜が隣で言う。


「綺麗だろ」


「はい」


「だから腹が立つ」


 その声は低かった。


「こんなものを作れる力があるのに、地方の子どもに粥も食わせない。病気だと言って名前を奪う。死者の名を飾って、自分たちは光の中で笑う」


 颶鳴空が静かに続ける。


「魔都エデン。旧帝都エデンを模して造られた、偽りの楽園」


 ケイは都市を見つめた。


 何かがおかしい。


 帝都エデンを知らないのに。


 本物を見たことなどないのに。


 それでも、あの都市は偽物だと、胸の奥が囁いていた。


 白い宮殿の夢。


 黄金の玉座。


 九つの影。


 アインではない者よ、と呼ぶ声。


 それらが、魔都の光に反応している。


 そして、都市の中心。


 すべての塔よりも高く、すべての光よりも暗いものが立っていた。


 黒い塔。


 雲を貫くように伸び、周囲の光を吸い込んでいる。塔の表面には、無数の文字が走っているように見えた。名前かもしれない。祈りかもしれない。悲鳴かもしれない。


 バベル。


 その名を心の中で思った瞬間、ケイの胸骨が激しく痛んだ。


「っ……!」


 膝が折れる。


 炎麗夜が支えた。


「ケイ!」


 胸が焼ける。


 いや、焼けるだけではない。


 内側から開かれようとしている。


 門。


 あの日、空に立った光の柱。


 ――門が開く。


 ケイの視界が白く霞む。


 バベルの黒い塔が、遠くにあるのに、すぐ目の前にあるように見えた。塔の内側で、無数の名前が囁いている。


 ミライ。


 風鈴。


 風羅。


 知らない子どもたち。


 フェザーアローの中のドライ。


 紅華。


 アイン。


 名前が、名前を呼んでいる。


 ケイは歯を食いしばった。


「私は……ケイ」


 炎麗夜の手が、肩を強く握る。


「あんたはケイだ」


 その声で、痛みがわずかに引いた。


 ケイは荒い息を吐き、顔を上げた。


 魔都エデンは、夕暮れの中で輝いている。


 その中心で、バベルだけが夜のように黒かった。


     *


 同じ瞬間。


 地上正史の帝都エデン。


 夢殿の最深部。


 名も無き大聖堂のさらに奥、誰の祈りも届かない眠りの座で、女帝ヌルの本体は眠っていた。


 白い装置。


 幾重にも重なる結界。


 ヨムルンガルドの蛇紋。


 思念を義体へ送るための巨大な夢通信回路。


 その中心で、光の子は静かに目を閉じている。


 都市は眠らない。


 だが、彼女は眠っている。


 帝都エデンの繁栄と封印を背負い、夢の底で、ずっと。


 その眉が、一瞬だけ動いた。


 ほんのわずかに。


 誰も気づかないほど小さく。


 だが、夢殿の深層記録に、一行だけノイズが走った。


 ――ヴァルハラ層、バベル反応上昇。


 ――アイン型記録、未登録個体と接触。


 ――闇性反応、混在。


 眠る女帝の唇が、声にならない名を形作った。


 それは、ヌル自身の名ではなかった。


 遠い終末の層で、ケイはまだ、魔都エデンを見上げている。


 黒い塔は、彼女を待っていた。

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