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第5話 沈む亡命船

 クジラの腹の中は、泣き声で満ちていた。


 壁が脈打っている。


 鉄板と黒い肉膜が継ぎ接ぎされた通路は、外からの衝撃を受けるたびに低く鳴った。床に敷かれた金属板の隙間から、ぬるい蒸気が吹き上がる。海水の匂い、油の匂い、血の匂い、そして生き物の内臓に似た湿った匂いが混じって、息をするたび喉の奥に張りついた。


 それでも、そこは今、逃げ場だった。


「こっち! 小さい子から奥へ!」


 ケイは叫んでいた。


 自分の声が、こんなに大きく出ることを知らなかった。


 泣きじゃくる子どもの手を引き、震えて動けない老人の背を押し、荷車から落ちかけた布袋を拾い、床に散らばった名札を踏まないように足を避ける。胸骨の紋様は、外套の下で熱を持っていた。だが、今はそれを気にしている余裕がない。


 クジラ型デーモン輸送体。


 亡命船として奪うはずだったそれは、まだ完全にはヴァナディースのものになっていなかった。中枢区画を押さえたとはいえ、命令核は魔都政府の封印に縛られ、通路の一部は閉じたまま。内部にはまだ檻が残り、名札だけになった子どもたちの痕跡があった。外ではバイブ・カハと魔導装甲兵が包囲し、さらに沖合から大海龍デーモンが浮上している。


 最悪だった。


 けれど、最悪でも、動くしかなかった。


「ケイちゃん、右の通路はあかん! そこ、まだ政府封鎖残ってる!」


 風鈴の声が、騒音の中を抜けて届く。


 彼女は通路の分岐に立ち、襲いかかってくる金属網を片っ端から引き受けていた。ムゲン〈庇う〉が発動するたび、本来なら子どもや怪我人へ向かうはずの網、札、衝撃波が、見えない糸に引かれるように風鈴の方へ曲がる。


 そのたび、彼女の身体に赤い文字の痣が増えた。


 それでも風鈴は笑っていた。


「大丈夫、大丈夫。ウチ、けっこう丈夫やから」


「全然大丈夫そうに見えない!」


 ケイが叫ぶと、風鈴は困ったように笑う。


「そら、見た目まで大丈夫にする余裕はないなあ」


 そのすぐ横で、風羅が両手を広げていた。


 通路全体に薄い霞のようなものがかかっている。風羅のムゲン〈変化〉だ。人の姿を変えるだけでなく、魔導反応や熱源、名前の反響まで微妙にずらしているらしい。


 魔都兵が通路を覗き込んでも、そこには空の檻しか見えない。子どもたちの泣き声は、金属の軋みに聞こえる。姫核保持者の聖痕反応は、クジラ型デーモン自身の神経反応に偽装される。


 風羅の額には汗が滲んでいた。


「長くは無理! みんな、早く奥へ!」


「奥ってどこまで!?」


 ケイが聞く。


「たぶん安全な方!」


「たぶん禁止!」


「この船に確実な安全地帯なんかないの!」


 風羅の声は軽いが、顔は青い。


 遠くで轟音がした。


 船体が大きく傾く。


 子どもたちが悲鳴を上げ、荷車が滑る。ケイはとっさに一人の少年を抱き寄せた。少年の首には布が巻かれている。布の下から、淡い聖痕が漏れていた。


「大丈夫?」


「こわい」


「うん。怖いね。でも、今は走ろう」


「お姉ちゃんも怖い?」


「めちゃくちゃ怖い」


 少年が、泣きながら少しだけ笑った。


「うそつかないんだ」


「今、嘘つく余裕がない」


 ケイは少年の手を握り、通路の奥へ走らせた。


 助けられる側ではなく、助ける側。


 それがこんなに怖いことだとは、知らなかった。


 守ると決めた瞬間、世界中の危険が自分の背中に乗る。逃げたいのに、逃げたら誰かが転ぶ。泣きたいのに、自分が泣くと子どもがもっと泣く。何もできないと思っていた昨日より、何かをしようとしている今の方が、ずっと怖い。


 けれど、足は止まらなかった。


『右舷甲板、敵兵上陸!』


 颶鳴空の声が通信札から響いた。


『ホーヴヴァルプニルで進路を開く。内部組、第三収容区へ移動しろ。そこから中枢区画へ抜けられる』


 炎麗夜の声が続く。


『外はおいらが持たせる! フレイ、もう一段上げるよ!』


 直後、船の外から凄まじい衝撃音が響いた。


 黄金の猪が甲板を駆ける音。


 フレイをムシャ化した炎麗夜が、甲板で魔導装甲兵とモーリアンを押し返している。ケイには見えない。だが、その轟音だけでわかる。彼女は今、船全体の盾になっている。


 シキの声も混じった。


『中枢の制御は半分取った。残り半分はクジラ本人が嫌がってる』


「本人って、これ生きてるんですか!?」


 ケイが叫ぶ。


『生きてるよ。だから面倒で、だから奪える。完全な機械なら魔都の命令を切れないけど、生きてるなら説得の余地がある』


「説得できるんですか!?」


『銃を向けながら優しく話す予定』


「それ脅迫!」


『広義の説得だよ』


 こんな状況でも軽口を叩くシキに、ケイは怒ればいいのか安心すればいいのかわからなかった。


 船体が再び揺れる。


 今度は、下から突き上げるような衝撃だった。


 水音ではない。


 何か巨大なものが、船底に触れた音。


 クジラ型デーモンが、苦しげに鳴いた。


 低く、深く、腹の奥に響く声だった。


     *


 海が、割れていた。


 甲板上で炎麗夜は、黄金の装甲を纏った両脚を踏ん張りながら、沖合を睨んだ。


 大海龍デーモン。


 それは港の外から、ゆっくり近づいていた。浮上した頭部だけで、クジラ型輸送体の甲板より高い。黒い鱗と腐食した金属板が混じった外皮。背中には沈没船の残骸、古い鉄骨、割れた魔導炉の輪が食い込んでいる。眼窩には青黒い炎。口の中からは、無数の白い手のような触手が伸び、海面を撫でている。


 魔都政府製ではない。


 それは、誰が見てもわかった。


 凡庸デーモン部隊のような命令札もない。識別紋もない。バイブ・カハの指揮系統にも乗っていない。もっと古い。もっと深い。海の底で、旧帝都エデンの残骸と、タルタロス接触層から漏れた名のない記録が絡み合い、長い時間をかけて怪物になったもの。


 野良デーモン。


 あるいは、名前を失ったソエルの残骸。


「なんてものを港の下に飼ってやがったんだい」


 炎麗夜が吐き捨てる。


 甲板の反対側で、モーリアンが部下へ命じていた。


「全隊、後退。大海龍は我々の管理個体ではない。捕獲対象を維持しつつ、港湾防衛線まで撤退する」


 その声には、初めて焦りが混じっていた。


 マッハが空中で舌打ちする。


「おいおい、モーリアン。せっかく獲物を追い詰めたんだよ。ここで引くの?」


「状況が変わった。野良デーモンとの交戦は任務外だ」


「真面目だねえ」


「任務を軽んじるな」


 マッハは返事の代わりに、フェザーアローを旋回させた。


 その視線は、甲板ではなく、クジラ型デーモンの内部へ向いている。


「アタイは本命を取りに行くよ」


「マッハ!」


 モーリアンの制止を無視し、マッハは赤い翼を翻して船内へ飛び込んだ。


 一方、ネヴァンは笑っていた。


 紫の薄衣を海風に揺らし、鈴を鳴らす。彼女の周囲では、味方であるはずの魔導装甲兵たちまで足元をふらつかせていた。混乱のムゲンが港全体へ広がっている。


「撤退なんてもったいないわ。こんなに綺麗に壊れているのに」


 モーリアンが鋭く振り向く。


「ネヴァン、何をしている」


「何って、収穫よ」


 ネヴァンの足元の影が広がる。


 その影は、甲板の隙間から船内へ流れ込み、避難中の姫核保持者たちの方へ伸びていた。


「大海龍が暴れて、あなたが撤退を命じて、マッハが勝手に本命を追う。炎麗夜は守るので手いっぱい。なら、その隙に私が少しもらっても怒られないでしょう?」


「命令違反だ」


「命令は秩序のためにある。秩序が崩れている時は、先に拾った者の勝ちよ」


 ネヴァンは艶やかに笑った。


 その笑みを見て、炎麗夜の背筋が冷えた。


「あの女、内部の子たちを狙ってる!」


 炎麗夜は駆け出そうとした。


 だが、モーリアンの剣が前に立ちはだかる。


「行かせない」


「どけ!」


「こちらも行かせるわけにはいかない」


「ネヴァンを止める気はないのか!」


「止める。だが、まずおまえを止める」


「融通の利かない鳥女!」


 黄金の拳と黒い剣がぶつかる。


 その瞬間、大海龍が吼えた。


 海が膨れ上がる。


 無数の触手が、クジラ型デーモン輸送体へ伸びた。


     *


 船内の通路に、紫の影が流れ込んだ。


 風羅がいち早く気づいた。


「ネヴァン!」


 通路の壁に、紫の波紋が広がる。そこから女の笑い声が染み出した。


『見つけた』


 子どもたちが悲鳴を上げる。


 風羅は両手を広げ、変化の膜を重ねた。


 通路の景色が揺れる。右へ曲がる通路が左に見え、子どもたちの姿が檻の影に変わり、姫核反応がクジラ型デーモンの神経反応へ紛れ込む。


 だが、ネヴァンの影はそれを笑うようにすり抜けた。


『隠すのが上手ね。でも、隠れる子ほど見つけたくなるの』


 紫の影が、額に布を巻いた少年へ伸びる。


 ケイは少年を抱き寄せた。


「来ないで!」


 胸の紋様が熱を持つ。


 足元の影が赤く震えた。


 だが、ネヴァンの影は真正面から来なかった。壁を這い、床を回り込み、ケイの背後から手の形になって伸びる。


 風鈴が叫んだ。


「ケイちゃん、後ろ!」


 同時に、風鈴のムゲン〈庇う〉が発動する。


 ケイへ伸びていた紫の影が、風鈴へ引き寄せられた。影の手が風鈴の胸元を掴む。


「うっ……!」


 風鈴の身体から、淡い光が引き出されかける。


 名前を掴まれている。


 ケイには、なぜかそう見えた。


「風鈴!」


 ケイが駆け寄ろうとする。


 だが、通路の反対側から赤い羽根が飛んできた。


 マッハだった。


 彼女は狭い通路の中を、フェザーアローと半ば融合するように滑り込んできた。翼を折り畳み、身体を低くし、赤い髪をなびかせて、獣のように笑っている。


「見つけたよ、ケイ!」


 赤い羽根がケイの足元を縫う。


 床が爆ぜ、ケイは転倒した。抱えていた少年が転がり、泣き出す。ケイは慌てて手を伸ばすが、その前にマッハの影が迫った。


「動くな。殺しはしない。たぶんね」


「その“たぶん”やめて!」


「気に入ってるんだ」


 マッハが手を伸ばす。


 その腕には、フェザーアローの嘴のような装甲が展開されていた。赤い金属の先端が、ケイの胸元へ触れる。


 瞬間。


 フェザーアローが悲鳴を上げた。


 鳥の声ではなかった。


 人の悲鳴に似ていた。


 マッハの顔色が変わる。


「フェザーアロー?」


 赤い装甲の内側から、光が漏れた。


 ケイの胸骨の紋様が、フェザーアローの中にある何かへ共鳴している。赤い光ではない。白でもない。もっと古い、名前になる前の記録のような淡い輝き。


 ケイの頭の中に、断片が流れ込む。


 風。


 血。


 黒い羽根。


 誰かが笑っている。


 ワルキューレ第三位。


 ドライ。


 その名が、音ではなく痛みとして胸に刺さった。


 フェザーアローの中に、誰かがいる。


 完全な人格ではない。壊れた記録。削られたアニマ。魔都に加工され、デーモンの制御核にされ、それでもまだ、どこかで泣いているもの。


 マッハも同じものを感じたらしい。


「なに、これ」


 彼女の声から、初めて余裕が消えた。


 フェザーアローの嘴が震える。


 赤い羽根が、ケイに向けたまま動かなくなる。


 マッハは歯を食いしばった。


「動け、フェザーアロー。命令だ」


 だが、デーモンは動かない。


 ケイは胸元を押さえながら、かすれた声で言った。


「この子……泣いてる」


 マッハの目が鋭くなる。


「黙れ」


「あなたのデーモンの中に、誰かが」


「黙れ!」


 マッハの拳がケイの頬を打った。


 視界が白く弾ける。


 ケイは床に倒れた。


 けれど、マッハの手はそれ以上伸びなかった。フェザーアローが激しく震え、翼を壁に叩きつける。内部のアニマが、ケイのM因子に触れて暴れている。


 その隙に、風羅が叫んだ。


「ケイ、下がって!」


 風羅の変化が通路全体を歪める。


 マッハの目の前に、ケイが三人現れた。さらに風鈴の姿も、少年の姿も、檻の影も、名札も、すべてが重なり合う。


「小細工!」


 マッハが矢を放つ。


 幻影が砕ける。


 だが、本物のケイは風鈴に引きずられるように後退していた。


 風鈴は、まだネヴァンの影に半身を捕まれたままだった。


「風鈴、手を――」


「ええから、走って!」


「嫌だ!」


「嫌でも走るんよ!」


 風鈴は笑った。


 泣きそうな笑顔だった。


「ウチは庇う者や。こういう時に前に出るために、この力がある」


「そんなの、死ぬための力じゃない!」


「死なんために使う力やよ」


 風鈴はケイの肩を押した。


「ケイちゃんは、まだ行かなあかん」


 その言葉を聞いた瞬間、ケイの胸が痛んだ。


 まだ行かなければならない。


 帰るために。


 知るために。


 でも、行くたびに誰かが残るのか。


 その時、船体全体が大きく傾いた。


 大海龍の触手が、船腹に巻きついたのだ。


     *


 アカツキは、海を見上げていた。


 クジラ型デーモンの外殻上。甲板と肉膜の境目に立ち、花魁衣装を海風にはためかせている。シキとの戦闘で袖は裂け、白い肌には傷が走っていた。唇の端には血が滲んでいる。


 それでも、彼は美しかった。


 呪いのように。


 シキは少し離れた場所で銃を構えていた。


「大海龍を斬る気?」


「邪魔だ」


「港ごと沈める怪物を邪魔の一言で済ませるの、さすが紅い月」


「黙れ」


 アカツキの袖の奥から、紅い影が滲み出した。


 紅華。


 デーモンの器。


 かつて彼が愛した存在の残響。


 紅華の影がアカツキを包み込む。花魁衣装の裾が燃えるように広がり、布が装甲へ変わる。赤い炎のような金属が腕を覆い、肩を覆い、胸を覆う。髪飾りは刃となり、高下駄は脚甲となる。背には不死鳥を思わせる紅い翼。


 ムシャ化。


 紅い炎の装甲を纏ったアカツキは、もはや人というより、舞台に立つ災厄だった。


 だが、ケイは見ていた。


 船内の裂け目から、甲板を。


 アカツキが装甲を纏う瞬間、その身体がひどく震えたのを。


 紅華の力が彼を強くしているのではない。


 削っている。


 皮膚の下から光が漏れ、血に混じって赤い粒子が散る。彼の名そのものが、少しずつ紅華の器へ吸われているように見えた。


 アカツキは、平然としているふりをしていた。


 だが、限界が近い。


 紅華を使えば使うほど、彼の身体と名前が削れていく。


 ケイは、息を呑んだ。


 この男は、ただの殺人鬼ではない。


 そう認めたくはなかった。


 ミライを奪った。風鈴たちを狙った。姫核保持者を眠らせると称して、名前から消してきた。それは許せない。


 けれど、彼もまた、何かに喰われている。


 死者を救うつもりで、死者の残響に自分を差し出している。


 アカツキが大海龍へ向かって跳んだ。


 紅い翼が開く。


 大海龍の触手が何十本も伸びる。アカツキは空中で回転し、刀を振るった。紅華の炎が刃にまとわりつき、触手を焼き斬る。


 海が赤く光る。


 大海龍が吼えた。


 その声は、怒りでも痛みでもなかった。


 名前を失った者たちの叫びの集合体のようだった。


 シキが、珍しく笑っていなかった。


「まずいな。あれは倒せる相手じゃない。起きてはいけない層のものが、港の底から浮いてきてる」


「層……」


 ケイはその言葉を聞き逃さなかった。


 だが、問いただす時間はない。


 船内から、風羅の声が響いた。


「中枢信号、まだ魔都識別のまま! このままだとクジラが港湾封鎖線に戻る!」


 炎麗夜の通信が割り込む。


『変えられるか!?』


「変えるだけなら! でも、外から大海龍に掴まれてる! 逃走経路が開かない!」


 颶鳴空の声。


『進路を海側へ取れ。ホーヴヴァルプニルで外部索道を切る』


 シキが通信へ入った。


「無理だ。大海龍の触手が船体識別に絡んでる。中から偽装して、クジラ自身に“ここは安全な海路だ”と思わせる必要がある」


「何それ、船に嘘つくってこと!?」


 風羅が叫ぶ。


「得意分野だろ」


「規模が違う!」


「できる?」


 シキの声は軽い。


 だが、その奥にある緊張をケイは感じた。


 風羅は一瞬だけ黙った。


 そして言った。


「できるかじゃなくて、やるんでしょ」


 風鈴が、それに続いた。


「ウチが攻撃を引き受ける。その間に風羅が変える」


 ケイの血の気が引いた。


「何言ってるの」


 風鈴は振り返った。


 ネヴァンの影から半ば抜け出し、傷だらけになりながら、それでも笑っている。


「ケイちゃん、みんなを奥へ」


「嫌だ。そんな言い方、絶対だめなやつでしょ」


「言い方で結果は変わらんよ」


「変わる! 変えてよ!」


 ケイは風鈴の腕を掴んだ。


「一緒に行くって言って。あとで笑って、ウチ丈夫やからって言ってよ!」


 風鈴の目が、少しだけ揺れた。


 それでも、彼女はケイの手をそっと外した。


「ケイちゃん」


「嫌」


「名前、呼んでくれてありがとう」


 その一言で、ケイの胸が凍った。


「やめて」


 風羅が隣に立つ。


 彼女はいつものように軽く笑おうとしていた。だが、うまく笑えていなかった。


「風鈴一人じゃ無理。私がクジラの識別信号を変える。魔都所属じゃなく、漂流個体でもなく、自由航行体に見せる。ついでに大海龍の触手に“もう掴んでるものは岩だよ”って思わせる」


「そんなことできるの?」


「普通はできない」


「じゃあ」


「普通じゃないことするために、私たちいるんでしょ」


 風羅はケイの額を指で軽く弾いた。


「ケイ。自分の名前、忘れないでね」


「やめてって言ってる!」


「やめない。こういう時は言っておくものなの」


 風鈴が、通路の中央へ歩き出した。


 彼女の身体から、淡い光が広がる。


 ムゲン〈庇う〉。


 本来なら船体へ向かうはずの衝撃。


 大海龍の触手から流れ込む侵食。


 ネヴァンの影。


 魔都兵の記録拘束札。


 それらの攻撃線が、見えない糸に引かれるように風鈴へ集まっていく。


「風鈴!」


 風羅が彼女の背に手を添えた。


 そして、自分のムゲンを広げた。


 〈変化〉。


 クジラ型デーモンの内部が歪む。


 通路が海に見える。海が空に見える。魔都政府の識別紋が、古い自由航行体の紋へ変わる。バベルへつながる命令線が、一瞬だけただの海流に偽装される。大海龍の触手が掴んでいる船体は、風羅の変化の中で巨大な岩礁へ書き換えられていく。


 シキが通信越しに呟いた。


『見事だ』


 炎麗夜の声が怒鳴る。


『風鈴! 風羅! 戻れ! 命令だ!』


 風鈴は笑った。


「炎麗夜さまの命令、たまには破ってみたかったんよ」


 風羅が肩をすくめる。


「私はしょっちゅう破ってるから、今さらかな」


『ふざけるな! 戻れ!』


 炎麗夜の声が、初めて泣きそうに歪んだ。


 大海龍が吼える。


 青黒い光が、口内に集まる。


 それは砲撃ではなかった。


 名前を奪う光。


 触れたものの記録を削り、存在を海の底へ沈める光。


 風鈴が両手を広げた。


 風羅がその背後で、クジラ型デーモンの識別信号を最後まで変え切る。


「ケイちゃん」


 風鈴が言った。


「ウチらの名前も、呼んでな」


 ケイは走ろうとした。


 だが、颶鳴空が背後から彼女を抱え込んだ。


「離して!」


「だめだ」


「離してよ! まだ――」


「もう間に合わない」


 颶鳴空の声も震えていた。


 光が来た。


 青黒い光が、通路を呑み込む。


 風鈴の〈庇う〉が、その大半を引き受ける。


 風羅の〈変化〉が、残りを海路の偽装へ変える。


 二人の姿が、光の中で揺らいだ。


 風鈴が笑っていた。


 風羅が、最後まで何かを操作するように指を動かしていた。


 次の瞬間。


 二人は光に呑まれた。


 クジラ型デーモンが、自由を得たように大きく身を捩った。


 大海龍の触手が外れる。


 船体が海へ滑り出す。


 だが、その代償として、通路の中央には何も残らなかった。


 風鈴も。


 風羅も。


 そこにいた証は、鈴の紐と、風車型の飾りだけだった。


 ケイは、声にならない叫びを上げた。


     *


 亡命作戦は、失敗した。


 クジラ型デーモンは一度だけ港の包囲を破った。


 しかし、大海龍に船腹を裂かれ、バイブ・カハの追撃を受け、内部の制御も完全には戻らなかった。海へ出るはずだった巨体は、港外縁の沈没ビル群へ激突し、半分沈む形で停止した。


 亡命者たちは散り散りになった。


 ある者は甲板から海へ落ちた。


 ある者は魔導装甲兵に捕らえられた。


 ある者はバベルの回収光に吸われた。


 ある者は、誰かの名前を叫びながら、クジラ型デーモンの裂けた腹から逃げ出した。


 颶鳴空はホーヴヴァルプニルで可能な限り人を拾った。炎麗夜はフレイを限界まで走らせ、沈みかける甲板から子どもたちを投げ渡した。ガンドは義肢の少女ナギを背負い、血まみれになりながら瓦礫の上を渡った。シキは中枢区画から最後まで制御信号を撃ち抜き、船が完全にバベルへ回収されるのを防いだ。


 それでも、全員は救えなかった。


 救えるはずがなかった。


 海面には、木箱、布袋、名札、折れた武器、壊れた義肢、そして誰のものかわからない靴が浮かんでいた。


 ネヴァンは、混乱の中で大海龍の触手に貫かれた。


 紫の薄衣が裂け、彼女の身体は海へ落ちた。マッハが一瞬だけ手を伸ばしかけたが、フェザーアローがまだ異常を起こしていて間に合わなかった。


 海面に、紫の光が一度だけ浮かんだ。


 それきり、ネヴァンの姿は消えた。


 モーリアンは撤退を命じた。


 魔都部隊は港湾防衛線まで下がる。マッハは最後までケイを睨んでいたが、フェザーアローがケイに近づくことを拒み、彼女自身も追撃できなかった。


 戦場には、敗北だけが残った。


     *


 沈みかけた倉庫街の裏手で、生き残ったヴァナディースが集まっていた。


 人数は、半分以下になっていた。


 荷車は二台しか残っていない。


 食料はほとんど失われた。


 子どもたちは泣き疲れて眠り、怪我人は呻き、誰もが濡れた服のまま震えていた。


 風鈴と風羅は、戻らなかった。


 ケイは、二人の残した鈴の紐と風車型の飾りを握りしめていた。


 手が震える。


 名前を呼べと言われた。


 だから呼ばなければならない。


 でも、呼んだら本当にいなくなったことを認めるようで、声が出なかった。


 炎麗夜は、少し離れた場所に立っていた。


 全身傷だらけだった。黄金の装甲は解除され、フレイも足元でぐったりしている。彼女の髪は海水と血で濡れ、顔には煤がついていた。


 その前に、アカツキがいた。


 紅い装甲はすでに解けている。


 花魁衣装は裂け、肩から血が流れていた。唇は青白く、顔色も悪い。彼は何かを手の中に持っている。


 小さな光の核。


 姫核記録。


 誰のものかはわからない。


 炎麗夜の目が、それを捉えた。


「あんたが来なけりゃ」


 声は低かった。


 アカツキは何も言わない。


「あんたが来なけりゃ、あの子たちは死ななかった!」


 炎麗夜が叫んだ。


 その叫びに、眠っていた子どもがびくりと震える。颶鳴空が目を閉じた。ガンドが歯を食いしばる。


 アカツキは、炎麗夜を見なかった。


 ただ、手の中の光を見つめている。


 炎麗夜は大剣を抜いた。


「何とか言えよ、紅い月」


 アカツキは黙っている。


「風鈴は、風羅は、あんたが狩ろうとした子たちを逃がすために消えた! あの子たちは、自分の名前を残して逝ったんだ! あんたみたいに、人の名前を奪って救った顔をする奴のせいで!」


 アカツキの指が、わずかに震えた。


 ケイは立ち上がった。


 足元がふらつく。


 颶鳴空が止めようとしたが、ケイは首を振った。


 アカツキの前へ出る。


 彼の顔を見上げる。


 昨日までなら、恐怖だけだったかもしれない。


 今は違った。


 恐怖もある。


 怒りもある。


 でも、それだけではない。


 彼が紅華の力で削れていく姿を見てしまった。彼が救済という言葉に縋っていることを見てしまった。だからこそ、余計に腹が立った。


 許せないのに、ただの怪物として憎めない。


 それが苦しかった。


「何か言いなさいよ!」


 ケイは怒鳴った。


 声が震えた。


「炎麗夜さんに。風鈴に。風羅に。みんなに。あなたがやってることが救いだって言うなら、言い返しなさいよ!」


 アカツキは、ようやくケイを見た。


 その目は、ひどく疲れていた。


 紅い月などと呼ばれる男の目ではなかった。


 何かを失い続けた人間の目だった。


 彼は小さく言った。


「言えば、戻るのか」


 ケイは息を呑んだ。


「謝れば、死者が立ち上がるのか。弁解すれば、名は戻るのか。俺様が悪かったと言えば、紅華は笑うのか」


 アカツキの声は静かだった。


 静かすぎて、怒鳴り声より痛かった。


「戻らぬものに、言葉は届かん」


 炎麗夜が剣を振り上げた。


「それでも言うんだよ! 生きてる奴は!」


 颶鳴空が炎麗夜を止めた。


「今はだめだ」


「離せ!」


「今、斬れば全員が動けなくなる。魔都が戻る」


「知るか!」


「炎麗夜!」


 颶鳴空の声が鋭く飛ぶ。


 炎麗夜は歯を食いしばり、剣を下ろさない。


 長い沈黙。


 やがて、炎麗夜は剣を地面へ叩きつけた。


 石が砕ける。


「覚えてろ、アカツキ」


 炎麗夜は低く言った。


「あたしは、あんたを殺す。紅華のためでも、魔都のためでも、バベルのためでもない。風鈴と風羅のために。あの子たちの名前を、あんたの勝手な救済に踏ませないために」


 アカツキは何も言わなかった。


 ただ、手の中の光を袖の奥へしまった。


 紅華の影が、一瞬だけ揺れた。


 ケイには、その影が泣いているように見えた。


     *


 夜が来た。


 ヨコハマ港跡地の遠くでは、まだ火が燃えていた。


 大海龍デーモンは海の底へ沈んだのか、姿を消していた。だが、海面には巨大な渦が残り、時折、青黒い光が水底で瞬く。魔都部隊は一度退いたが、戻ってくるのは時間の問題だった。


 生き残ったヴァナディースは、港を離れた廃ビルの陰に身を潜めていた。


 亡命作戦は終わった。


 国外へ行く船は沈んだ。


 逃げ道は消えた。


 ケイは、壁にもたれて座っていた。


 風鈴の鈴紐と、風羅の風車飾りを膝の上に置いている。


「風鈴」


 声に出す。


 喉が痛い。


「風羅」


 名前を呼ぶと、涙が出た。


 今度は止められなかった。


 ミライの時も泣いた。


 でも、今回は違う。


 ミライは、この世界に来て最初にケイの名前を呼んでくれた人だった。


 風鈴と風羅は、ケイが自分で歩こうとした時に隣にいてくれた人たちだった。


 自分の名前を呼べと言ってくれた人たちだった。


 その二人が、ケイの目の前で光に呑まれた。


 帰りたい。


 それはまだ消えていない。


 むしろ、今すぐ帰りたかった。全部夢だったことにして、1999年の自分の部屋で目を覚ましたかった。コンビニのアイスを食べて、ユカとミホにくだらない話をして、宿題に文句を言いたかった。


 けれど。


 もう、それだけでは終われない。


 ミライ。


 風鈴。


 風羅。


 名札だけになった子どもたち。


 フェザーアローの中で泣いていた誰か。


 紅華に縋るアカツキ。


 名前を売買する港。


 バベルに吸われる光。


 全部を見てしまった。


 見てしまったものは、なかったことにはできない。


 シキが隣に座った。


 いつものテンガロンハットは濡れ、コートも破れている。片腕に包帯を巻いているが、本人は気にしていないようだった。


「泣く時は、目を開けて泣く方がいい」


 シキが言った。


「何ですか、それ」


「目を閉じて泣くと、世界が見えなくなる。目を開けて泣くと、嫌でも次に行く道が見える」


「今、そういう名言っぽいのいらないです」


「じゃあ、実務的な話をしよう」


 シキは海の方を見た。


「魔都エデンへ行こう」


 ケイは顔を上げた。


「魔都へ?」


「うん。国外は無理になった。ヨコハマ港の亡命路は潰れた。バイブ・カハは再編して追ってくる。魔都に背を向けて逃げても、いずれまた狩られる」


「だから、こっちから行く?」


「そう」


 シキは軽く笑った。


「答えはあそこにある。ヒミカ症候群、姫核、バベル、アイン、フェザーアローの中のアニマ、アカツキが何に利用されているのか。そして、キミが未来へ来たのか、世界の底へ落ちたのか。その答えもね」


 ケイは、シキを見つめた。


「あなたは、何を知ってるんですか」


「いろいろ」


「ちゃんと答えて」


「ちゃんと答えるには、場所が足りない」


「場所?」


「魔都の中枢。旧帝都エデンの記録。バベル管理局。そこまで行けば、ボクの嘘も少しは形になる」


「また嘘」


「ボクはこんなに人間っぽく嘘をついているからね」


 ケイは、昨日のアカツキとの会話を思い出した。


 貴様、人間ではないな。


 シキは、否定しなかった。


 ケイは問い詰めたかった。


 けれど、今はその力がなかった。


 少し離れた場所で、炎麗夜が立ち上がった。


 彼女の顔には、泣いた跡がなかった。


 けれど、泣いていない人間の顔ではなかった。


「魔都へ行く」


 炎麗夜は言った。


 颶鳴空が静かに頷く。


「目的は」


「アカツキを殺す」


 その場の空気が重くなる。


 炎麗夜は続けた。


「それだけじゃない。バベルも叩く。魔都の姫核狩りも終わらせる。ヨコハマを使った人売りも潰す。けど、まずはアカツキだ。あいつは、あたしの前で風鈴と風羅の名前を踏んだ」


 ケイは立ち上がった。


 膝が震える。


 それでも立った。


「私も行きます」


 炎麗夜がケイを見る。


「あんたは帰る方法を探すんだろ」


「探します。でも、それだけじゃない」


 ケイは、風鈴の鈴紐と風羅の風車飾りを握った。


「知りたい。全部。アインって何なのか。私の中にあるものが何なのか。バベルが何をしてるのか。アカツキが本当に何を救っているつもりなのか」


 声が震える。


 でも、止まらなかった。


「それを知らないまま帰ったら、たぶん私は、私の名前をちゃんと持って帰れない」


 炎麗夜は、少しだけ目を細めた。


 やがて、苦い笑みを浮かべる。


「いい目になったね」


「いい目って、どんな目なんですか」


「後戻りできない目」


「褒めてます?」


「半分」


「残り半分は」


「心配してる」


 炎麗夜は、ケイの頭に軽く手を置いた。


「でも、来な。もうあんたは客じゃない」


 ケイは頷いた。


 遠く、廃墟の屋根の上に紅い影が立っていた。


 アカツキ。


 彼は炎麗夜たちとは別の方角を見ている。


 魔都エデンの方角。


 その袖の奥で、紅華の影が揺れる。


 彼もまた、魔都へ向かうのだろう。


 目的は違う。


 救済のつもりで姫核を狩る男。


 その男を殺すために進む炎麗夜。


 元の世界へ帰る答えを求めるケイ。


 嘘の奥に何かを隠すシキ。


 バイブ・カハも、マダム・ヴィーも、リリカも、バベルも、きっと同じ場所で待っている。


 それぞれの目的は違っていた。


 けれど、道は一つに収束していく。


 魔都エデン。


 バベル。


 死者の名前を集める偽りの天界。


 夜の海から、沈んだ亡命船の低い呻きが聞こえた。


 ケイは、鈴紐と風車飾りを胸元に抱いた。


「風鈴。風羅」


 もう一度、名前を呼ぶ。


 涙はまだ止まらない。


 でも、目は閉じなかった。


 泣きながら、ケイは魔都の方角を見た。

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