第4話 ヨコハマ港跡地
海の匂いがした。
潮の匂い、と言えば綺麗に聞こえる。けれど、ケイが最初に感じたのは、もっと重く、湿って、錆びて、腐った鉄と油の混じった匂いだった。
風が吹くたびに、その匂いは荒野を越えて流れてくる。乾いた土と焼けた草の匂いに慣れかけていた鼻には、海の匂いは異物のように強かった。
「海……」
ケイは呟いた。
丘の上から見下ろす先に、ヨコハマ港跡地が広がっていた。
かつて、そこは港町だったのだろう。
けれど、ケイの知る横浜ではなかった。
海沿いの半分は沈んでいる。高層ビルだったらしい建物は、下層階を水に呑まれ、上だけが錆びた島のように突き出していた。クレーンは首を折った巨大な鳥の骨みたいに傾き、コンテナ群は水没した墓標のように並んでいる。かつて道路だった場所には海水が入り込み、波がガードレールの残骸を洗っていた。
もう半分は、鉄骨の都市になっていた。
錆びた足場、仮設橋、廃船をつなぎ合わせた桟橋、沈んだビル同士を結ぶ吊り通路。赤茶けた鉄の階段が何層にも絡み合い、倉庫の屋根には不揃いな天幕が張られている。港というより、海にしがみついて生き延びた巨大な巣だった。
その沖合を、何かがゆっくり動いていた。
最初、ケイは船だと思った。
だが、船にしては曲線が柔らかすぎる。黒い背中が海面を割り、側面に巨大な鰓のような隙間が開いている。背には金属の甲板が取りつけられ、そこに小型のクレーンと貨物用の檻が並んでいた。
クジラ。
けれど生き物としてのクジラではない。
魔導装甲と肉の膜と骨格が混じり合った、巨大な輸送体。
ケイの胸の奥が、ぞくりとした。
「……あれも、デーモン?」
隣にいた風羅が、目を細める。
「たぶんね。政府の輸送用。噂では聞いてたけど、実物は初めて見る」
風鈴が、口元を押さえた。
「大きいなあ。あれなら、みんな乗れるんかな」
「乗れたら、だけどね」
風羅の声は軽いが、目は笑っていなかった。
ヴァナディースの隊列は、丘の影に身を潜めていた。
第3話の襲撃から丸一日が経っている。全員が疲れ切っていた。荷車の一つは車輪を失い、臨時の丸太を組んで何とか動かしている。怪我人は増えた。食料も減った。風鈴は記録拘束具の網を受けた痕がまだ消えず、首筋に薄い赤い文字のような痣を残している。風羅は偽装を使いすぎたせいで、目の下に濃い隈ができていた。
それでも、誰も引き返さなかった。
ここまで来たのだ。
ヨコハマ港跡地。
亡命作戦の入口。
国外へ出るための、唯一の可能性。
「国外って、本当にあるんですか」
ケイは、思わず聞いてしまった。
風鈴と風羅が振り向く。
少し離れたところで颶鳴空がホーヴヴァルプニルの首を撫でながら、静かに答えた。
「国はある。少なくとも、魔都の記録ではそうなっている」
「記録では?」
「この世界で、記録と現実が一致するとは限らない」
颶鳴空の言い方は淡々としていたが、内容は穏やかではなかった。
ケイは海を見た。
濁った水の向こうに、水平線がある。水平線の先には、本当に他の国があるのだろうか。そこには人が住んでいるのだろうか。魔都エデンの支配が届かない場所があるのだろうか。
それとも。
この世界そのものが、閉じた何かの底なのだとしたら。
胸骨の紋様が、わずかに熱を持つ。
ケイは外套の上からそこを押さえた。
「考えすぎると、足が止まるよ」
炎麗夜が背後から声をかけた。
彼女は相変わらず堂々としていた。傷ついた者たち、怯える者たち、荷物を失った者たちの先頭に立って、海を見下ろしている。
「国外があるかどうかなんて、海に出てみなきゃわからない。わからないなら、出るしかない。ここで魔都に捕まるよりは、ずっといい」
「炎麗夜さんは、怖くないんですか」
「怖いよ」
即答だった。
ケイが驚くと、炎麗夜は笑った。
「怖くないなんて言う奴は、だいたい嘘つきか、何もわかってない馬鹿さ。おいらはどっちにもなりたくない」
彼女は港を指差した。
「でも、怖くても行く。あそこに船がある。あそこに罠がある。あそこに魔都の腹の中が見える。なら、行く価値はある」
「罠って、わかってるんですか」
「わかってるよ」
炎麗夜は苦く笑った。
「ただ、どんな罠かまではわからない。だから、わかる奴に会いに行く」
「その人が、シキ?」
「ああ。なんでも屋シキ。胡散臭さなら魔都の聖堂にも負けない女……いや、あいつの場合、女って言っていいのかも怪しいけどね」
「え?」
「会えばわかる」
炎麗夜はそう言って、隊列へ振り返った。
「全員、ここで待機! 颶鳴空、守りを頼む。風羅、偽装を薄く広げておけ。風鈴、子どもたちから目を離すな。ケイはおいらと来る」
「私も?」
「元の世界へ帰る手がかり、探したいんだろ」
ケイは息を呑んだ。
炎麗夜は海の方へ向き直る。
「シキは、嘘つきだけど何かは知ってる。知らない時でも、知ってる顔で嘘をつく。だから、嘘の形を見れば手がかりくらいは拾える」
「信用してないんですね」
「信用と利用は別腹さ」
炎麗夜はフレイの頭を軽く叩いた。
黄金の猪は鼻を鳴らし、丘を下り始める。ケイは慌ててその後を追った。
*
ヨコハマ港跡地の入口は、検問と市場と墓場が混ざったような場所だった。
半分沈んだ道路の上に、鉄板を渡した仮設橋がある。その両側には、屋台のような店が並んでいた。乾いた魚、錆びた銃、魔導炉の部品、旧時代の缶詰、見たことのない硬貨、粗悪な義体部品、名前を書き換えた身分札。
人の声が多い。
だが、明るい賑わいではなかった。
誰もが周囲を警戒している。売る者も買う者も、値段だけでなく相手の背後を見ている。魔都の兵士らしき者もいる。外国人らしき者もいる。顔の半分を金属に置き換えた男、両腕が触手のような義肢になった女、背中に鳥籠を背負った子ども。
ケイは外套の前をきつく握った。
ここでは、誰が味方で誰が敵なのか、まったくわからない。
「見るな。見られるよ」
炎麗夜が小さく言った。
「でも、見ないとぶつかります」
「じゃあ、田舎者みたいに口を開けて見るな」
「それ、今たぶん私の顔のこと言ってますよね」
「言ってる」
ケイは慌てて口を閉じた。
フレイは小型化して、炎麗夜の足元を歩いている。港の人間たちは黄金の猪を見ると、一瞬だけ道を開けた。炎麗夜の名を知っている者もいるのだろう。視線が集まるが、声をかけてくる者はいない。
錆びた鉄骨の階段を上り、吊り橋のような通路を渡る。
下では、海水に沈んだ道路の上を小舟が行き来していた。油膜の張った水面に、赤や青の魔導灯が滲んでいる。遠くで、クレーンが何か巨大な檻を持ち上げていた。
檻の中には、人影があった。
ケイは足を止めかけた。
炎麗夜が腕を掴む。
「今は見るだけだ」
「でも」
「今飛び込めば、ケイも檻の中だ」
その声は厳しかった。
ケイは唇を噛む。
檻の中の人影は、動かない。首元に札のようなものが掛けられている。荷物の番号札ではない。名前札のように見えた。
だが、遠くて読めなかった。
「魔都は鎖国してるって聞きました」
ケイは低く言った。
「なのに、ここは貿易してるんですね」
「民間人には鎖国。政府には港。そういうものさ」
「ずるい」
「国家ってのは、だいたいずるいもんだよ」
炎麗夜は歩き続けた。
やがて二人は、半分沈んだ倉庫街の一角へ着いた。
倉庫番号は読めない。かつて白かった壁は錆と海水で茶色く染まり、屋根には穴が開いている。扉の上には、古い看板が斜めにぶら下がっていた。
その下で、誰かが椅子に座っていた。
テンガロンハット。
古い革のコート。
膝の上には、時代遅れの長い銃。
顔は帽子の影に隠れている。青年のようにも、少女のようにも見える。細い指で銃の弾倉をいじりながら、彼あるいは彼女は、こちらを見ずに言った。
「遅かったね。潮が三回変わった」
炎麗夜が鼻を鳴らす。
「こっちは魔都の凶鳥と紅い月に追われながら来たんだ。茶くらい出しても罰は当たらないよ、シキ」
「罰は当たらないけど、茶葉がない」
「なら水」
「水は高い」
「相変わらずけち臭いね」
「なんでも屋は、なんでもただではやらないのさ」
シキはようやく顔を上げた。
整った顔だった。
だが、美しいというより、輪郭が曖昧だった。年齢も性別も、表情の温度も掴みにくい。笑っているようで、目は笑っていない。親しげなのに、距離がある。そこにいるのに、少しだけそこにいないような、不思議な人間だった。
ケイは見つめてしまう。
シキはその視線に気づき、にっこり笑った。
「初めまして。キミが予言の少女?」
ケイは一歩引いた。
「その呼び方、やめてください」
「じゃあ、アインじゃない子」
「もっと嫌です」
「胸に面倒なものを抱えた迷子」
「悪化してます」
「なら、ケイ」
シキは軽く帽子を持ち上げた。
「ボクはシキ。密輸、情報、偽造通行証、迷子案内、デーモン部品の仲介、探し物、なくし物、忘れ物。だいたい何でも扱うなんでも屋さ」
「忘れ物も?」
「この世界では、名前を忘れる人間が多いからね」
ケイの顔がこわばる。
シキはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「ごめん。冗談にするには、まだ早かったかな」
炎麗夜が腕を組む。
「仕事の話だ。船は」
「あるよ」
「本当に?」
「本当に」
「罠じゃないだろうね」
「罠だよ」
シキはあっさり言った。
炎麗夜の額に青筋が浮かぶ。
「シキ」
「怒る前に最後まで聞きなよ。亡命船として流れている話は罠。姫核持ちを国外へ逃がすと言って集め、魔都政府へ売る。買い手はバベル管理局、仲介は港湾自治組合、護衛はバイブ・カハ。実にわかりやすい構図だ」
「わかりやすいなら、なぜ先に言わなかった」
「言ったら来なかっただろ?」
「当たり前だ!」
「でも来なきゃ、罠を仕掛けた相手には会えない」
シキは笑った。
「それに、罠に使われる餌は偽物とは限らない。政府のクジラ型デーモン輸送体は実在する。今夜、ここで積み荷を受け取る。亡命者を売るための船であり、魔都の密貿易船であり、キミたちが奪えば本当に海を渡れる船でもある」
炎麗夜はしばらくシキを睨んでいた。
その目は怒っている。けれど、完全に否定はしていない。
ケイは小さく聞いた。
「密貿易って、何を運んでるんですか」
シキはケイを見た。
いつもの軽さが、少しだけ薄くなる。
「見たい?」
「見たくはないです」
「でも、知らないままではいられない」
ケイは息を止めた。
シキは椅子から立ち上がる。
「じゃあ、案内しよう。ヨコハマ港跡地名物、魔都エデンの胃袋ツアーだ。吐きたくなったら海に向かってね。床に吐かれると掃除代を取られる」
「この状況で軽口叩けるの、才能ですね」
「褒められた」
「褒めてないです」
シキは楽しそうに笑い、倉庫の奥へ歩き出した。
*
倉庫の地下には、港の別の顔があった。
沈んだ道路の下、旧地下鉄の跡と、倉庫の基礎部分と、海水が入り込んだ暗渠が複雑につながっている。そこに鉄板の通路が渡され、魔導灯が点々と吊るされていた。
空気は重い。
海水の匂い。血の匂い。薬品の匂い。古い機械油の匂い。何かが腐る匂い。
ケイは何度も口元を押さえた。
シキは迷いなく進む。
「港の上は市場。港の下は本当の市場。表で売れないものは、だいたいここを通る」
炎麗夜が低く言う。
「人もか」
「人は軽い。高く売れる。保存も簡単。嫌な商品だよ」
「冗談にするな」
「してないさ」
シキは振り返らなかった。
最初の扉の隙間から見えたのは、檻だった。
人が入っている。
子ども。若者。老人。義体をつけた者。背中に聖痕の光を隠す布を巻かれた少女。
首には札。
札には名前が書かれている。
いや、書かれていたのだろう。
いくつかは黒く滲み、読めなくなっている。いくつかは番号に置き換えられている。いくつかは、空白だった。
ケイは立ち止まった。
「これ……」
「姫核保持者。あるいは、その疑いがある者。あるいは、そういう名目で売れる者」
シキの声は静かだった。
「魔都政府はヒミカ症候群対策を掲げる。港湾業者は隔離輸送という名目で檻を出す。外国商人は労働力や実験素材を求める。バベル管理局は記録核を欲しがる。全員が自分の言葉で正当化する」
「正当化なんかできない」
「できるんだよ。紙の上ではね」
別の区画では、巨大な骨のようなものが布に包まれていた。
その隣には、透明な液体に浸された羽根。人間の腕ほどの太さがある触手。黒い鉱石のような心臓。割れた仮面。名のない小さな棺。
「ソエル残骸」
シキが言った。
「あるいは、そう呼ばれているもの。実際にはデーモンの破片、ラエル残滓、死都東京から流れてきた封印器、バベルが吐き戻した記録核の殻。港では全部まとめて高級品だ」
ケイは吐き気をこらえた。
この世界は、死者の名前だけではなく、死者の身体も売っている。
さらに奥へ進むと、コンテナの側面に魔都政府の紋章が刻まれていた。
女帝の光輪を模した印。
それを見た炎麗夜が歯を食いしばる。
「政府公認か」
「非公認の公認さ。書類上、この荷は農業用魔導炉部品。中身は姫核保持者三十七名、デーモン素材十一箱、名前剥離済み児童記録札二百四枚」
ケイは思わず叫んだ。
「名前剥離済みって何ですか!」
シキは少しだけ黙った。
そして、近くの棚を指差した。
そこには、小さな金属札が並んでいた。
子どもの名札のような形をしている。
ミツ。
サナ。
ハルト。
リオ。
マユ。
読めるものもあった。
読めないものもあった。
名前の上に黒い線が走り、文字が崩れ、ただの傷のようになっている札もあった。
ケイはその棚の前で動けなくなった。
名札だけが残っている。
持ち主はいない。
いや、どこかにいるのかもしれない。檻の中か、バベルの中か、デーモンの腹の中か。
ケイの胸骨が熱くなった。
ミライ。
葬儀の煙。
村人が顔を忘れた瞬間。
名前から消えていく、と村長は言った。
この港では、その消えかけた名前すら商品棚に並べられている。
「ふざけないで」
ケイの声は、自分でも驚くほど低かった。
炎麗夜が彼女を見る。
ケイの胸元から、外套越しにもわかるほど赤い光が漏れていた。
シキが小さく呟く。
「怒りで起きるタイプか。厄介だね」
「厄介とか、そういう話じゃない」
ケイは棚の名札を見つめた。
「この子たち、名前があったんですよね。誰かに呼ばれてたんですよね。それを、こんなふうに」
「だから来たんだ」
シキは言った。
ケイは振り返る。
「罠だと知っていて、あえて連れてきた理由?」
「そう。罠を避けるだけなら、別の道を選べばいい。でも、この港を壊さない限り、別の誰かがまた檻に入る。キミたちが逃げても、次のミライが売られる」
その名に、ケイの胸が痛んだ。
炎麗夜はシキの胸倉を掴んだ。
「それを先に言え!」
「言ったら、姐さんは少人数で突っ込んだだろう。今はヴァナディース全体が近くにいる。危険だけど、戦力もある。船を奪えば、逃げ道もできる」
「おまえ、自分がどれだけ危ない賭けをしてるかわかってるのか」
「賭けは負ける可能性があるから楽しいんだ」
炎麗夜の拳が飛びかけた。
颶鳴空の声が、通信札から響く。
『炎麗夜、港外周に動きがある。魔都兵が増えている』
シキが、帽子のつばを軽く上げた。
「ほら、罠の仕掛け人が動いた」
炎麗夜はシキを突き飛ばすように離した。
「全員へ伝えろ。作戦変更。亡命船を待つんじゃない。奪う」
「やっぱりそう言うと思った」
「黙れ」
ケイは名札の棚を見つめたままだった。
胸の赤い光は、まだ消えない。
シキが横に立つ。
「ケイ」
「何ですか」
「怒るなら、ちゃんと見て怒りな。怒りは便利だけど、見ない怒りは簡単に誰かに使われる」
ケイは唇を噛んだ。
そして、名札を一枚だけ手に取った。
文字は半分消えている。
それでも、最後の一文字だけは読めた。
――リ。
誰の名前かは、わからない。
けれど、誰かだった。
ケイはその札を棚に戻し、深く息を吸った。
「行きます」
炎麗夜が頷く。
「なら走るよ。ここから先は、考える時間より先に敵が来る」
*
港の上へ戻った時、ヨコハマ港跡地はすでに包囲されていた。
市場の喧騒は消えている。
屋台は畳まれ、一般の商人たちは姿を消していた。代わりに、鉄骨の通路、倉庫の屋根、半沈みの道路、クレーンの上に、魔導装甲兵が配置されている。
空には赤い羽根が舞っていた。
マッハ。
彼女はフェザーアローの背に立ち、こちらを見下ろしている。
「やっぱり来たね、ヴァナディース。港の匂いに釣られると思ってたよ」
その隣に、二つの影があった。
一人は黒い軍服を着た長身の女。
髪は鋼のような灰色。表情は硬く、背筋はまっすぐ。肩には戦女神を思わせる黒い羽根飾り。腰には長剣。彼女の周囲には、規律正しく整列した兵士たちがいた。
「モーリアン」
炎麗夜が低く言った。
もう一人は、紫の薄衣を纏った女だった。
優雅に笑っている。だが、その笑顔は柔らかすぎて、逆に不気味だった。黒い髪を片側へ流し、指先には鈴のような小さな魔導具をいくつも下げている。足元の影が、水面のように揺れていた。
「ネヴァンまで」
風羅の声が固くなる。
バイブ・カハ。
マッハ。
モーリアン。
ネヴァン。
三人が揃っていた。
モーリアンが一歩前へ出る。
「魔都エデン政府直属、姫核対策執行部隊バイブ・カハ。ヒミカ症候群発症者および協力者を拘束する。抵抗した場合、危険個体として処理する」
炎麗夜は大剣を肩に担いだ。
「お役所言葉で人攫いを飾るな」
ネヴァンがくすくす笑う。
「人聞きが悪いわ。私たちは秩序を守っているだけ。逃亡者たちを安全な場所へ運んであげるの」
「バベルの腹の中が安全かい」
「あら、少なくとも野盗に売られるよりは清潔よ」
ケイはネヴァンを睨んだ。
ネヴァンの目が、ケイを捉える。
その瞬間、頭の中が少し揺れた。
周囲の声が歪む。
炎麗夜が敵に見え、マッハが味方に見え、シキの顔が知らない誰かに変わりかける。
「ケイ、目を合わせるな!」
風羅の声で、ケイは我に返った。
ネヴァンは楽しそうに笑った。
「あら、惜しい」
「ムゲン〈混乱〉」
シキが低く言った。
「視線、声、影、名前の認識を揺らす。まともに食らうと、敵味方どころか自分の立ち位置までわからなくなる」
「詳しいですね」
「なんでも屋だから」
シキは軽く言ったが、ケイにはそれだけではない気がした。
モーリアンが剣を抜く。
「全方位封鎖。対象は生捕り。ただし炎麗夜、颶鳴空、シキは戦闘不能にして構わない」
マッハが唇を尖らせた。
「アタイはケイを狙うよ。あの子、面白い反応するから」
「命令を守れ」
「守るって。壊さない程度に刺すだけ」
空気が張り詰める。
その時、沖合で低い音がした。
海面が盛り上がる。
黒い背中が、ゆっくり港へ近づいてくる。
クジラ型デーモン輸送体。
近くで見ると、あまりにも大きかった。全長は百メートル近い。外皮は黒く、ところどころに白い傷痕があり、その上に魔都政府の紋章を刻んだ金属甲板が増設されている。側面には巨大な貨物口。腹部には檻を収めるための区画。頭部には目のような青い魔導灯が二つ灯っていた。
それは船ではなかった。
生きた港だった。
炎麗夜の目が鋭くなる。
「あれを奪う」
颶鳴空が丘の上から通信を入れる。
『隊列は移動可能。だが包囲が狭い。突破口は海側のみ』
炎麗夜は笑った。
「なら、海側をこじ開ける」
「姐さん、無茶」
風鈴が呟く。
炎麗夜はフレイの額に手を置いた。
「無茶じゃない亡命なんて、聞いたことないね」
フレイが吼える。
黄金の光が炎麗夜の腕と脚を覆い、さらに背後に巨大な猪の影が膨れ上がる。
「ヴァナディース! 港を抜ける! 狙いはクジラ型輸送体! 荷を捨てるな、名前を捨てるな、足を止めるな!」
戦闘が始まった。
マッハの赤い矢が降る。
颶鳴空がホーヴヴァルプニルで空を駆け、矢の軌道を切り裂く。
風羅が隊列の幻影を作り、魔導装甲兵の照準を乱す。
風鈴が庇うを発動し、子どもたちに向かった網を自分へ引き寄せる。だが今度はすぐに風羅が網を切り、颶鳴空が兵士を蹴散らす。
ケイは走っていた。
戦えない。
けれど、ただ守られているだけではなかった。
泣きそうな子どもの手を引く。転んだ老人の荷を拾う。風鈴が網を受けた時には、札を剥がすのを手伝う。魔導装甲兵が近づけば、大声で叫んで炎麗夜へ知らせる。
それだけでも、何もしないよりはましだった。
クジラ型デーモンの貨物口が開く。
中は薄暗かった。
炎麗夜が叫ぶ。
「ケイ、風鈴、風羅! 中を確認! 人がいたら出せ! シキ、案内!」
「はいはい、命令が雑!」
シキが軽口を叩きながら走る。
ケイたちは、クジラ型デーモンの内部へ飛び込んだ。
*
中は、船倉ではなかった。
生き物の腹の中に、金属の檻を無理やり埋め込んだような空間だった。
壁は黒い肉膜と鉄板が混ざり合っている。足元は湿っていて、時々、脈打つ。天井には魔導灯が吊るされ、黄色い光が揺れている。奥から低い呼吸音が聞こえた。
檻が並んでいた。
いくつも。
いくつも。
檻の中に、人はいなかった。
いや、いた痕跡だけがあった。
毛布。小さな靴。割れた人形。食べ残しの硬いパン。壁に引っかいた文字。血の跡。
そして、名札。
檻の扉に、小さな金属札が下がっている。
ミツ。
サナ。
ハルト。
リオ。
マユ。
さっき地下倉庫で見た名前と、同じものもあった。
こちらでは、名札の下に小さな溝があり、そこから光の粒が吸い出された跡が残っていた。
ケイは檻の前で立ち尽くした。
風鈴が口元を押さえる。
「ここ、収容区画や」
風羅の顔が青ざめる。
「もう、運ばれた後……?」
シキは檻を一つずつ見て、目を細めた。
「違う。全員が運ばれたわけじゃない。名前だけ先に抜かれてる。身体は別区画か、すでにバベルへ送信済みか」
「送信って」
ケイの声が震えた。
「人を、荷物みたいに」
「この港では、人は荷物だよ」
「黙ってください」
ケイは強く言った。
シキは口を閉じた。
檻の一つに、小さな布切れが結ばれていた。そこには、子どもの字で何かが書かれている。
ケイは近づいた。
文字は震えていた。
おかあさんへ。
その先は、血で読めなかった。
ケイの胸の紋様が光った。
赤い光。
前より強い。
怒りが、胸の奥から湧き上がる。自分のものだけではない気がした。ミライの名を失いたくないという怒り。名札にされた子どもたちの声にならない怒り。知らない誰かの剣の記録。暗い底から伸びる影。
足元に、赤い狼の影が揺らめく。
風鈴がケイの肩に手を置いた。
「ケイちゃん」
その声で、ケイはぎりぎり戻った。
「……大丈夫」
「大丈夫な顔やないよ」
「でも、今は大丈夫って言わないと、動けない」
風鈴は何か言いかけて、飲み込んだ。
シキが奥を指差す。
「中枢区画へ行こう。クジラ型デーモンを奪うなら、命令核を抑える必要がある」
「命令核?」
「船で言えば操舵室。生き物で言えば脳。魔都政府で言えば嘘をつく舌」
「最後だけ悪口ですよね」
「真実だよ」
その時、外で爆音がした。
船体が大きく揺れる。
ケイは壁に手をついた。壁の肉膜が温かく、ぞっとする。
通信札から炎麗夜の声が響く。
『中の確認は!?』
シキが答える。
「収容区画あり。名前札多数。生存者は未確認。中枢へ向かう」
『急げ! モーリアンがこっちへ来る!』
炎麗夜の声の向こうで、剣戟の音が響いた。
シキは銃を抜いた。
「じゃあ、走ろう。ここからは腹の中を駆けるよ」
*
クジラ型デーモンの中枢へ向かう通路は、狭く、暗かった。
肉の壁に金属の管が走り、時々、透明な液体が流れている。通路の奥には青い光が見えた。そこが命令核らしい。
だが、そこへ辿り着く前に、紅い影が降り立った。
花魁のような衣装。
紅い唇。
美しすぎる顔。
低い男の声。
アカツキ。
ケイの足が止まった。
風鈴と風羅も身構える。
シキだけが、まるで待ち合わせ相手に会ったように軽く手を上げた。
「やあ、紅い月。港の中まで出張とは勤勉だね」
アカツキはシキを見た。
その目には、最初から敵意がある。
「どけ」
「どこへ行く気?」
「中枢だ。この鯨の腹に蓄えられた姫核記録を抜く」
「救済のために?」
「そうだ」
「便利な言葉だね、救済」
シキの口調は軽い。だが、銃口はすでにアカツキへ向けられていた。
ケイは叫んだ。
「また奪うつもりですか!」
アカツキの視線がケイへ移る。
一瞬、紅華の影が彼の袖の奥で揺れた。
「バベルに送られるよりは、俺様が眠らせる方がましだ」
「それ、何度言っても同じです」
ケイは檻の方を指差した。
「名札だけ残ってた。子どもの名前が。あなたが抜いても、魔都が抜いても、残された人は忘れていく。だったら、どっちがましとか、そんなの勝手に決めないでください」
アカツキの表情が微かに歪む。
だが、彼は刀を抜いた。
「貴様は知らぬ。バベルの底を。紅華がどうなったかを。喰われる前に眠ることが、どれほど慈悲かを」
シキが間に立った。
「それなら、まずボクを通ってからにしてもらおうか」
アカツキの目が細くなる。
「貴様、何者だ」
「なんでも屋」
「嘘だ」
「商売上手と言ってほしいな」
アカツキの瞳に、赤い光が宿った。
空気が変わる。
風鈴が小さく震えた。
「サトリ……?」
アカツキのムゲン。
相手の思考、記録、魂魄の表層を読む力。
彼はシキを見つめた。
長い沈黙。
ケイは息を詰める。
だが、アカツキの表情が変わった。
読めない。
彼の目が、困惑と警戒に細められる。
「貴様、人間ではないな」
シキは笑った。
いつもの軽い笑み。
けれど、その奥にあるものは、やはりケイには掴めなかった。
「ひどいな。ボクはこんなに人間っぽく嘘をついているのに」
アカツキの刀が跳ねる。
シキの銃が火を噴く。
狭い通路で、戦闘が始まった。
刀と銃弾。
紅い袖と黒いコート。
シキは軽口の印象に反して、異様に速かった。銃弾はただ撃つのではなく、壁や金属管に反射させてアカツキの死角を狙う。アカツキはそれを見ずに斬り落とす。彼の刀は、まるで相手の動きを先に知っているかのように動いた。
だが、シキの本心は読めない。
アカツキのサトリは、空を掴んでいるようだった。
「ケイ、行くよ!」
風羅が叫ぶ。
「でも、シキが!」
「シキなら死なない!」
「それ、根拠あるの!?」
「本人がよく言ってる!」
「それ根拠じゃない!」
風鈴がケイの手を引いた。
「中枢を止めな、みんな乗れへん!」
ケイは歯を食いしばり、走り出した。
背後でシキの笑い声が響く。
「紅い月、質問を変えようか。キミは誰を救いたいんだい? 姫核持ち? 紅華? それとも、救っているつもりの自分自身?」
「黙れ!」
アカツキの怒声が通路を震わせた。
ケイは振り返らなかった。
*
クジラ型デーモンの外では、戦場が広がっていた。
炎麗夜はフレイをムシャ化し、モーリアンの剣を受け止めていた。
黄金の装甲と黒い長剣がぶつかるたび、火花が港の空へ散る。モーリアンの動きは規律そのものだった。無駄がない。感情に任せた攻撃がない。炎麗夜の豪快な突進を、最小の動きで逸らし、反撃する。
「さすが戦女神の名を名乗るだけはあるね!」
炎麗夜が笑う。
モーリアンは表情を変えない。
「名乗っているのではない。与えられた任務名だ」
「なら、あんた自身の名前はどこにある!」
モーリアンの剣が一瞬だけ止まった。
だが、すぐに再び振るわれる。
「任務に不要だ」
「そういうところが嫌いなんだよ、魔都は!」
一方、マッハは颶鳴空と空中戦を繰り広げていた。
フェザーアローの矢が空を裂き、ホーヴヴァルプニルが風を蹴って回避する。颶鳴空は槍を構え、矢の雨を切り裂きながらマッハへ迫る。
「昨日よりしつこいね、馬乗り!」
「こちらには逃がすべき者がいる」
「アタイには捕まえるべき者がいる。仕事熱心同士、気が合うじゃないか!」
「合わない」
「冷たいねえ!」
ネヴァンは、戦場の端で鈴を鳴らしていた。
その音が響くたび、ヴァナディースの一部が進路を誤る。敵味方の位置を取り違え、海へ向かうはずが倉庫へ入りかける。ガンドが自分の影に向かって武器を構え、ナギが泣きそうな顔で義肢を押さえる。
風羅の偽装が、ネヴァンの混乱を必死に押し返す。
「この女、趣味悪すぎ!」
風羅が叫ぶ。
ネヴァンは微笑む。
「人の認識は、少し揺らすだけで美しく壊れるのよ」
港は炎と矢と幻影で満ちていた。
そこへ、低い唸りが響いた。
最初は、クジラ型デーモンが鳴いたのかと思った。
だが違う。
音は、もっと沖合から来ていた。
海が盛り上がる。
港の外、濁った海面がゆっくり膨れ上がる。
巨大な影が、水の下を横切った。
クレーンが軋む。
水没したビルの窓が割れる。
海鳥のような小型デーモンが、一斉に逃げ出す。
モーリアンが戦闘を止め、海を見る。
マッハも空中で眉をひそめた。
「何だい、あれ」
炎麗夜の顔から笑みが消える。
颶鳴空の声が低くなる。
「大海龍……」
海面が爆ぜた。
巨大な頭が浮上する。
龍。
そう呼ぶしかない形だった。
だが、それは神話の美しい龍ではない。水に腐食した骨格。黒い鱗と金属板が混ざり、背には沈没船の残骸を背負っている。眼窩には青黒い炎が灯り、口の中には無数の人の手のような触手が蠢いていた。
大海龍デーモン。
魔都政府製ではない。
もっと古い。
もっと深い。
海の底で、長いあいだ名前を失っていたもの。
それが、ヨコハマ港跡地の沖合から浮かび上がった。
クジラ型デーモン輸送体が、恐怖するように低く鳴いた。
ケイは中枢区画の入口で、その鳴き声を聞いた。
胸の紋様が、氷のように冷えた。
シキとアカツキの戦闘音が、遠くで響いている。
炎麗夜たちの叫びが、通信札から混線して聞こえる。
そして海の底から来た龍が、港を見下ろしていた。
亡命作戦は、始まる前から崩れかけていた。
それでも、もう戻れない。
ケイは中枢の青い光を見据えた。
「止めるんじゃない」
自分に言い聞かせるように呟く。
「奪う。みんなで、生きて出るために」
胸の奥で、赤い狼の影が静かに目を開けた。




