第3話 ヴァナディース
ヴァナディースの朝は、軍隊の朝ではなかった。
号令はない。整列もない。磨き上げられた武器も、揃いの制服も、勇ましい軍旗もない。
あるのは、まだ眠そうな子どもの泣き声と、焦げかけた豆粥の匂いと、荷車の車輪が外れたと騒ぐ男の怒鳴り声と、怪我人の包帯を替える女のため息と、誰かが鍋をひっくり返した音だった。
「ちょっと! それ、今日の昼飯だよ!」
「いや、鍋の足が折れてたんだって!」
「折れてたのは昨日からだろ!」
「じゃあ昨日直せよ!」
「誰が!」
「おまえが!」
壊れた高架の下に声が反響する。
ケイは薄い毛布を膝に掛けたまま、半分呆然とその光景を見ていた。朝日が、崩れた高速道路の隙間から斜めに差し込んでいる。光は埃を照らし、天幕の布を透かし、眠っている人々の顔に淡い影を落とした。
ここは、軍隊ではない。
どう見ても避難所だった。
いや、避難所というには動き続ける意思が強すぎる。逃げている。生き延びている。荷をまとめ、壊れた車輪を直し、デーモンの機嫌を取り、子どもを背負い、老人を荷車に乗せ、怪我人を数え、見張りを交代し、誰が水を持つかで揉めている。
難民の列。
その言葉が、ケイの頭に浮かんだ。
だが、誰かがそう呼ぶと炎麗夜は怒るのだろうと思った。
「ほら、起きたなら食え。今日から歩くよ」
炎麗夜が、木の椀を差し出してきた。
昨夜と同じような薄い煮込みだった。豆と根菜と、少しだけ塩。けれど、朝の冷えた空気の中ではありがたい温かさだった。
ケイは椀を受け取る。
「ありがとうございます」
「礼は昼まで取っときな。歩き出したら、たぶん文句しか出なくなる」
「たぶん?」
「十中八九」
「そこは断言するんですね」
炎麗夜は笑った。
朝の光を受けると、彼女の髪は本当に火のように見えた。昨日、野盗を吹き飛ばした時の荒々しさとは少し違う。今の彼女は、寝起きの子どもを叱り、荷物の割り振りを決め、誰の水袋が空かを確認する、集団の中心だった。
金色の猪フレイは、少し離れた場所で地面を掘っていた。
昨日ケイを助けた時には巨大な突撃獣に見えたのに、今は大型犬ほどの大きさに縮んでいる。黄金の毛並みはまだ眩しいが、鼻先を土に突っ込み、何か食べられる根でも探している姿は妙に愛嬌があった。
「フレイって、もっと大きくなかったですか」
「ああ。あれは戦闘形態。普段からあの大きさだと、飯も場所も食ってしょうがないからね」
炎麗夜が指笛を吹くと、フレイが顔を上げた。
黄金の猪は不満そうに鼻を鳴らしたあと、のそのそ歩いてくる。
「こいつは契約体だ。普段はこの姿。おいらがムシャ化すると、腕と脚に黄金の装甲を作る。さらにクリストス化すれば、昨日見たみたいな突撃獣になる」
「ムシャ、クリストス……」
ケイは聞き慣れない単語を舌の上で転がした。
「デーモンの形態名さ。魔都の教本だと難しい理屈が並んでるけど、うちでは簡単に覚えてる。小さい時は契約体。着る時はムシャ。でかくなったらクリストス」
「着る?」
「見たい?」
「今、見せられるものなんですか」
「ちょっとだけならね」
炎麗夜は椀を置き、フレイの額に手を当てた。
「フレイ」
黄金の猪が短く鳴いた。
次の瞬間、フレイの身体が光にほどけた。
毛並みが粒子になり、牙が金属の曲線へ変わる。蹄の音が消え、代わりに炎のような金色の紋様が空中に走った。それは炎麗夜の両腕と両脚へ巻きつき、硬質の装甲となって固定される。
腕には猪の牙を思わせる刃。
脚には蹄のような装甲。
肩から腰へ、赤い布が戦袍のように広がった。
炎麗夜は軽く拳を握る。
金属が鳴った。
「これがムシャ。全身じゃなく、必要なところだけ纏う。おいらの場合は突撃と打撃に寄せてる。小回りは効かないけど、壁を壊すにはちょうどいい」
ケイは目を丸くしていた。
「すごい……」
「だろ?」
炎麗夜は得意げに笑った。
だが、すぐに装甲を解く。光がほどけ、フレイが再び猪の姿に戻る。フレイは面倒くさそうに鼻を鳴らし、ケイの足元を嗅いだ。
「ひゃっ、また」
「気に入られてるね」
「これ、気に入られてるんですか。値踏みされてるんじゃ」
「どっちも似たようなもんさ」
炎麗夜は立ち上がり、大きく声を張った。
「聞け、ヴァナディース! 今日は日が高くなる前に旧街道を抜ける! 荷車は三列、子どもと怪我人は中央! 半デーモン組は後方、足の速い連中は左右を見る! ぐずぐずしてると魔都の犬が尻尾を嗅ぎつけるよ!」
野営地が一斉に動いた。
人々は文句を言いながらも、指示には従う。子どもを荷車へ乗せる者。水袋を配る者。壊れかけの魔導獣に荷を括りつける者。焚き火の痕を消す者。足跡を軽くならす者。
ケイは立ち上がり、慌てて自分の布袋を肩に掛けた。
炎麗夜が振り返る。
「ケイ」
「はい」
「あんたは中央。勝手に前へ出るな。後ろへ下がるな。叫ぶ時は大きく。倒れそうなら倒れる前に言う。倒れてから言っても聞こえないからね」
「倒れたあとに言えるほど器用じゃないです」
「その返事ができるならまだ歩ける」
炎麗夜はそう言って、にやりと笑った。
「さて、出るよ。これは逃亡じゃない。行軍だ」
誰かが後ろから言った。
「姐さん、それ毎朝言ってる」
「毎朝言わなきゃ忘れるだろ」
「忘れないよ」
「ならもっと軍隊らしく歩きな!」
笑い声が起きる。
ケイは、その笑いに少し救われる。
ここにいる人々は、怖がっていないわけではない。きっと誰よりも怖い。魔都に追われ、アカツキに狩られ、野盗に売られ、明日どこで眠れるかもわからない。
それでも笑っている。
笑わなければ、歩けないから。
崩れた高架の下から、ヴァナディースの移動隊列が動き出した。
荷車が軋む。
魔導獣が低く鳴く。
壊れかけたデーモンの関節が、ぎこちなく音を立てる。
子どもたちが眠そうに目を擦る。
老人が「腰が痛い」とぼやき、隣の少女が「昨日も言ってた」と返す。
彼らは難民だった。
けれど炎麗夜は、彼らを軍と呼んだ。
「逃げるにも戦う覚悟がいる」
彼女は、前を向いたまま言った。
「だったら、あたしたちは軍でいい」
ケイはその背中を見た。
強い。
それは、無傷でいる強さではなかった。
傷だらけのまま、それでも誰かを連れて歩く強さだった。
*
隊列は、古い街道を南東へ進んだ。
道はところどころ崩れ、かつてのアスファルトは草に呑まれている。錆びた標識には読めない文字が残り、電柱のようなものが倒れ、遠くには崩れた高層建造物の骨組みが見えた。
ケイは中央の荷車のそばを歩いていた。
荷車には、怪我をした老人と、幼い子ども三人と、機械の腕を抱いた少女が乗っている。少女の腕は人間のものではなかった。肩から先が銀色の義肢で、指の関節が細かく動くたびに小さな駆動音がする。
少女はケイに気づくと、じっと見つめてきた。
「新入り?」
「うん。ケイ」
「病気?」
「……たぶん、そう呼ばれてる」
「じゃあ仲間だ」
少女はあっさり言った。
その言い方に、ケイは言葉を失った。
荷車の後ろから、別の声がする。
「こら、初対面で病気かどうか聞かへんの」
柔らかい関西訛りのような響きだった。
振り向くと、背の低い少女が歩いていた。年はケイより少し下かもしれない。丸い目に、柔らかい頬。髪は短く、首元には鈴のついた紐を巻いている。荷車の車輪に手を添え、揺れすぎないよう支えていた。
彼女はケイへ笑いかけた。
「ウチは風鈴。こっちの口悪い子はナギ。悪気はあんまりないから、半分くらい許したって」
「半分なんだ」
「全部許すと調子に乗るんよ」
ナギと呼ばれた義肢の少女が舌を出した。
風鈴は笑い、そしてケイの胸元に一瞬だけ視線を落とした。すぐに逸らしたが、気づかなかったふりはしなかった。
「ケイちゃん、歩くのしんどなったら言うてな。ウチ、押すくらいならできるから」
「ありがとう。でも、私より荷車の方が大変じゃ」
「荷車は文句言わんから楽やよ。人間は遠慮するし、倒れるまで我慢するし」
風鈴は困ったように笑う。
その時、前方から軽い足音が近づいてきた。
「風鈴は人の心配ばっかりして、自分の膝が笑ってることは隠すからね」
声の主は、風鈴とよく似た少女だった。
同じくらいの背丈。同じような顔立ち。けれど髪は長く、目つきは風鈴より少し鋭い。首には風鈴と対になるような小さな風車型の飾りを下げている。
「風羅」
風鈴が少しむくれた。
「ばらさんといて」
「ばらさないと休まないでしょ」
風羅はケイを見て、ひらりと手を振った。
「私は風羅。こっちの世話焼きが風鈴。双子じゃないけど、だいたいセットで扱われる」
「双子じゃないんだ」
「よく言われる。血はつながってないよ。姫核狩りから逃げる途中で拾われた時期が近かっただけ」
風羅はさらりと言った。
拾われた。
逃げる途中。
その言葉の軽さに、ケイはまたこの世界の重さを思い知る。
「二人も、姫核持ち?」
尋ねてから、失礼だったかもしれないと思った。
けれど風鈴は気にした様子もなく頷いた。
「うん。ウチは薄いけどな。ムゲンは〈庇う〉」
「ムゲン?」
「デーモンや姫核持ちが出す、変な力のこと。ウチの場合、誰かに当たるはずの攻撃が、勝手にウチに来る」
ケイは眉をひそめた。
「それって、危なくない?」
「危ないよ」
風鈴はあっさり言った。
「でも、誰かが死ぬよりはええ時もある」
「そんな」
「だから使いすぎたら炎麗夜姐さんに怒られる」
風羅が横から口を挟む。
「怒られても使うけどね、この子」
「風羅かて、変化使いすぎて三日間顔戻らんかったやん」
「あれは潜入のため」
「おばあちゃん顔で三日過ごすんはしんどかったやろ」
「膝が痛い気がして大変だった」
ケイは思わず笑ってしまった。
風羅は胸を張る。
「私のムゲンは〈変化〉。姿、声、匂い、魔導反応。完全じゃないけど、ちょっと誤魔化すくらいならできる。魔都の検問を抜ける時とか、野盗に人数を多く見せたい時とか、寝坊した人の代わりに返事する時とか」
「最後、用途が小さい」
「日常利用は大事」
風鈴が苦笑する。
「風羅の変化は便利やけど、ずっと使うと自分の顔忘れそうになるんよ」
「風鈴の庇うも同じでしょ。誰かの痛みばっかり引き受けてると、自分がどこまで痛いのかわからなくなる」
二人は軽く言い合っているようで、その言葉の奥には本物の危うさがあった。
自分の顔を忘れる。
自分の痛みがわからなくなる。
ケイは、自分の胸元を押さえた。
自分の中に知らない誰かがいるような感覚。
アインという名。
あれも、同じものなのだろうか。
「前方、右側の崩落地を迂回する」
凛とした声が隊列の前から届いた。
見れば、馬のようなデーモンにまたがった女性がいた。
年は二十代半ばほど。背筋がまっすぐで、髪は黒く、後ろで高く結ばれている。表情は冷静で、無駄がない。身に纏う装束は旅装だが、軍人のように整っていた。
その下にいる馬型デーモンは、ただの馬ではなかった。
脚が長く、関節に銀色の機構が見える。たてがみは風のように揺れ、蹄は地面に触れているようで触れていない。背には翼の折り畳まれた骨組みがあり、尾は水のように透き通っていた。
そのデーモンが一歩踏み出すたび、地面に波紋のような光が広がる。
「颶鳴空だよ」
風羅が小声で教えてくれた。
「ぐめいくう?」
「そう。炎麗夜姐さんの右腕。ホーヴヴァルプニルの契約者」
「ホーヴ……」
「ホーヴヴァルプニル」
風鈴がゆっくり繰り返した。
「馬型デーモン。陸も海も空も行ける。すごいんよ」
ケイは颶鳴空を見上げた。
颶鳴空は隊列全体を見渡し、短く指示を飛ばす。荷車の間隔、見張りの位置、子どもの列、後方の半デーモン組。炎麗夜が大きな流れを作るなら、颶鳴空はその流れが崩れないよう細かな水路を作っているように見えた。
颶鳴空はケイの視線に気づき、馬型デーモンを寄せてきた。
「君がケイか」
「はい」
「颶鳴空だ。炎麗夜が拾ったと聞いた」
「拾われました」
「拾われたものには、拾われたなりの責任がある」
いきなり硬い。
ケイは少し背筋を伸ばした。
「責任、ですか」
「自分の足で歩くこと。倒れる前に申告すること。指示を聞くこと。勝手に英雄になろうとしないこと」
「英雄になる予定はないです」
「それはいい。英雄志望は隊列を乱す」
颶鳴空は真顔だった。
風羅が後ろで小さく笑っている。
颶鳴空はケイの胸元を一瞥した。
「君の姫核反応は強い。魔都の追跡に引っかかる可能性が高い。風羅の偽装をかけるが、完全には隠せない」
「すみません」
「謝ることではない。だが、事実として把握しておけ」
颶鳴空はホーヴヴァルプニルの首を撫でた。
「恐れるなとは言わない。恐怖を隠すな。隠した恐怖は、戦場で最も面倒な形で噴き出す」
ケイは小さく頷いた。
「はい」
「よし」
颶鳴空は馬首を返し、また前方へ戻っていく。
その背中を見送りながら、ケイは呟いた。
「先生みたい」
「元教師らしいよ」
風羅が言った。
「本当に?」
「嘘」
「嘘なんだ」
「でも似合うでしょ」
「似合う」
風鈴がくすくす笑った。
隊列は進む。
フレイが時々先頭へ走り、炎麗夜が誰かを叱り、颶鳴空が進路を調整し、風鈴が怪我人を気遣い、風羅が隊列の魔導反応を薄く誤魔化す。
ケイはその中に身を置きながら、少しずつ理解していった。
自分だけが異常なのではない。
この隊列には、誰かの名前を背負わされた人がいる。病気と呼ばれた人がいる。人間とデーモンの境目が曖昧になった人がいる。自分の顔を忘れかけた人がいる。痛みを引き受けすぎる人がいる。
みんな、それでも歩いている。
ケイは、自分の胸元を押さえた。
紋様はまだ怖い。
アインという名も怖い。
けれど、ここにはその怖さを少しだけ知っている人たちがいた。
*
昼過ぎ、隊列は古い料金所跡で休憩を取った。
屋根の半分が崩れた料金所は、風を避けるにはちょうどよかった。かつて車が並んでいたであろうレーンには、今は荷車と魔導獣が並んでいる。料金表示板は錆びつき、数字の一部だけが残っていた。
ケイは、風鈴からもらった水を少しずつ飲んだ。
「一気に飲んだらあかんよ」
「わかってる」
「昨日から来た子は、だいたい一気に飲むんよ」
「昨日から来た子って何」
「ケイちゃんみたいに、いきなりこの世界の旅に放り込まれた子」
「そんなにいるの?」
「いない」
「じゃあ何で言ったの」
「なんとなく」
風鈴は笑った。
その隣で、風羅がケイの外套の襟元に手を伸ばした。
「ちょっと偽装足すね」
「あ、はい」
「動かないで。変な顔になるから」
「顔も変わるの?」
「少しだけ。魔導反応をごまかすために、印象をずらす。目立つ姫核持ちは、顔の印象も残りやすいから」
風羅の指が、ケイの額に触れる。
冷たい。
次の瞬間、薄い膜のようなものが肌を撫でた。自分の輪郭が少しだけぼやける感覚。水面に映った顔を、指で軽く揺らされたような違和感。
「変な感じ」
「ちゃんと変な感じがするなら成功」
「成功の基準が不安」
風羅は笑いながら手を離した。
すると、ケイの視界の端で、何人かがこちらを見ているのに気づいた。
大人の男が二人。年配の女が一人。さらに、義肢の少女ナギも少し離れた場所からじっと見ている。
視線は友好的ではなかった。
「……私、何かしました?」
ケイが小声で聞くと、風鈴と風羅の表情が少し曇った。
炎麗夜は先頭で颶鳴空と話している。今は少し離れていた。
男の一人が近づいてきた。
痩せた中年の男だった。片目の下に古い傷があり、腕には焼けたような跡がある。歩き方にわずかな癖があった。元兵士かもしれない、とケイは思った。
「おまえ、本当に一九九九年から来たのか」
ケイは身構えた。
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「私にもわからないんです」
「胸のそれ、普通の姫核じゃないんだろ」
風鈴が間に入ろうとした。
「ガンドさん、今は」
「黙ってろ」
ガンドと呼ばれた男は、ケイを睨んだ。
「昨日拾われて、今日には隊列の真ん中だ。炎麗夜は甘すぎる」
別の女が続ける。
「マッハが追ってくるのは確実だよ。この子の反応、風羅の変化でも隠しきれてない。魔都に売るとは言わない。でも、別行動にしてもらうべきだ」
ケイの喉が乾いた。
別行動。
つまり、置いていく。
それは当然の意見かもしれない。
自分は厄介事だ。ミナセ村も自分がいたからまた狙われるかもしれない。ヴァナディースも同じだ。
ガンドはさらに低い声で言った。
「魔都政府はこの子一人に部隊を出す。なら、この子を餌にすれば、こっちはヨコハマへ抜けられる」
風鈴が顔色を変えた。
「ガンドさん!」
「本音を言っただけだ。みんな考えてる」
その言葉に、周囲の空気が凍った。
誰も肯定しなかった。
だが、誰もすぐには否定しなかった。
ケイの胸が、ぎゅっと痛む。
怖かった。
昨日まで普通の高校生だった自分が、急に誰かの重荷になっている。しかも、その重荷を自分で処理する力がない。
逃げたい。
その場から。
隊列から。
この世界から。
胸骨の紋様が、微かに熱を帯びる。
アインという知らない名が、どこかで目を開ける気配がした。
――選べ。
夢の中の声が蘇る。
名を失うか。名を背負うか。名を変えるか。
ケイは下を向いた。
自分が誰なのか、急にわからなくなる。
螢。
ケイ。
姫核持ち。
アイン。
予言の少女。
魔都に売れば助かるかもしれない餌。
どれが自分なのか。
風鈴が、そっとケイの手を握った。
「ケイちゃん」
その声は、ミライの声とは違った。
けれど、名前を呼ばれた瞬間、ケイの足元が少しだけ戻ってきた。
「ウチらも、最初はみんな怖かったんよ」
風鈴は、ガンドではなくケイを見て言った。
「自分の中に知らん誰かがおるみたいで。勝手に力が出て、勝手に身体が動いて、周りが怖がって、自分でも自分が怖くなる」
風羅も隣に立った。
「だから名前を呼ぶの。毎朝、毎晩。自分が誰か忘れないように」
風羅は自分の胸を軽く叩いた。
「私は風羅。変化しても風羅。誰かの顔になっても風羅。検問を抜けるためにおばあちゃんになっても風羅」
「最後のは忘れてええと思う」
「忘れないで。大事な経験」
風鈴が小さく笑い、それからケイへ向き直る。
「ケイちゃんも、言ってみ」
ケイは唇を開いた。
声が出なかった。
周囲の視線が痛い。
ガンドの言葉がまだ胸に刺さっている。
それでも、ここで黙ったら、自分の名前まで誰かに決められてしまう気がした。
ケイは息を吸った。
「螢」
声は小さかった。
でも、出た。
「ケイ。私は、ケイ」
胸骨の紋様が強く光った。
ガンドが身構える。
しかし光は暴れなかった。
むしろ、熱が少しずつ引いていく。胸の奥で暴れていた知らない気配が、名前の輪郭に押し返されるように静まっていく。
ケイはもう一度言った。
「私は、ケイ。アインじゃない。姫核とか、予言の少女とか、そういうのも知らない。私は、ケイです」
最後の方は、ほとんど意地だった。
けれど、言い切った。
風鈴が嬉しそうに笑う。
風羅が小さく拍手した。
その時、低い声が割って入った。
「そこまでだ」
颶鳴空だった。
彼女はいつの間にか戻ってきていた。ホーヴヴァルプニルの手綱を引き、ガンドの前に立つ。
「ガンド。隊列内での処遇を決めるのは炎麗夜と私だ。個人判断で餌にするなどと口にするな」
「だが事実だろ。そいつは危険だ」
「危険でない者が、この隊列にいるか?」
颶鳴空の一言に、ガンドは黙った。
「おまえの右腕にある焼痕は、魔都軍時代の記録拘束具の痕だ。ナギの義肢は暴走時に三人を吹き飛ばしたことがある。風鈴は庇うを誤発動すれば死ぬ。風羅は変化に飲まれれば自分の顔へ戻れない。私はホーヴヴァルプニルを制御し損ねれば隊列ごと転倒させる」
颶鳴空は、静かに続けた。
「危険だから捨てるなら、まず私から捨てろ」
ガンドは唇を噛んだ。
そこへ炎麗夜がやってきた。
彼女は、状況を大体察したらしい。怒鳴りはしなかった。ただ、ガンドの前に立つ。
「言いたいことはわかる」
炎麗夜は言った。
「ケイを連れていけば、魔都の追跡は濃くなる。おいらたちは子どもも老人も抱えてる。危険な荷物は捨てたい。そう思うのは、卑怯じゃない」
ケイは顔を上げた。
炎麗夜は続ける。
「でも、それをやったら、あたしたちは魔都と同じになる。価値がある者だけ選ぶ。危険な者は捨てる。弱い者を餌にする。そういうやり方から逃げてきたんだろ、あたしたちは」
ガンドは何も言わない。
炎麗夜はケイを見た。
「ケイ」
「はい」
「守られるだけでいるな」
その言葉は厳しかった。
けれど、冷たくはなかった。
「戦えって意味じゃない。今のあんたに戦えと言っても、荷車の車輪より頼りない」
「そこまで」
「事実だよ」
「はい……」
「でも、選べ。歩くのか、逃げるのか、隠れるのか、泣くのか、助けを呼ぶのか。何もできない時でも、自分で選べ。選ぶのをやめたら、名前ごと持っていかれる」
ケイは、ゆっくり頷いた。
「歩きます」
「よし」
炎麗夜はガンドへ顔を向けた。
「異論は今のうちに言え。あとから陰でぐちぐち言ったら、フレイに尻を突かせる」
フレイがなぜか得意げに鼻を鳴らした。
ガンドは顔を背ける。
「……従う」
「よし。休憩終わり! 全員、荷を持て! 魔都の犬が来る前に距離を稼ぐよ!」
隊列が再び動き出す。
ケイは布袋を握りしめた。
風鈴が隣で笑う。
「よう言えたね」
「心臓、口から出そう」
「出たら押し戻したる」
風羅が言う。
「戻せるの?」
「気合いで」
「この隊列、気合いで解決すること多くない?」
ケイは少しだけ笑った。
胸の紋様は、まだ熱を持っていた。
だが、それは少しだけ、自分の体温に近くなっていた。
*
襲撃は、午後の光が傾き始めた頃に来た。
最初に気づいたのは、ホーヴヴァルプニルだった。
颶鳴空の馬型デーモンが突然足を止め、耳のような感覚器を立てる。蹄の周囲に波紋が広がった。颶鳴空は一瞬で表情を変える。
「全員停止」
低い声だった。
炎麗夜が前方から振り向く。
「魔都か」
「上空。複数」
次の瞬間、空の高いところで鳥の鳴き声が響いた。
一度。
ケイの背筋が凍った。
村長の言葉が蘇る。
鳥の声が一度だけ聞こえたら伏せろ。
颶鳴空が叫ぶ。
「伏せろ!」
隊列が崩れるように低くなる。荷車の下に子どもが潜り、老人が引き倒される。風鈴がとっさにケイの肩を押した。
空から赤い羽根が降ってきた。
羽根ではない。
矢だ。
赤い金属の矢が、雨のように街道へ突き刺さる。地面が弾け、荷車の車輪が砕け、古い標識が真っ二つになる。
ケイのすぐ横に矢が刺さった。
土が頬に飛ぶ。
「マッハ!」
炎麗夜の怒号が響いた。
空から、紅い髪の女が降りてくる。
漆黒の翼を広げ、キツツキ型デーモン〈フェザーアロー〉を従えた女戦士。マッハは、昨日よりも多くの部隊を引き連れていた。
魔導装甲兵。
そして、その後ろには、形の揃わないデーモンたち。
犬の胴体に金属の脚を持つもの。
人の顔をした甲虫のようなもの。
車輪と獣の胴体が合成されたもの。
細長い首を持つ鳥型。
どれも、フレイやホーヴヴァルプニルとは違う。
どこか壊れていた。命令だけで動いているような、目の奥に何もないデーモンたち。
「凡庸デーモン部隊……!」
颶鳴空が歯噛みする。
マッハは空中で笑った。
「昨日は邪魔が入ったからね。今日はちゃんと仕事をしに来たよ」
魔導装甲兵たちが散開する。
彼らの手には、銃だけではなく網があった。金属糸で編まれた網。端には札のようなものが下がっている。札には赤い文字が刻まれていた。
「記録拘束具だ!」
風羅が叫ぶ。
「捕まったら名前を封じられる!」
子どもが泣き出す。
炎麗夜がフレイの額に手を置いた。
「フレイ!」
黄金の猪が吼える。
その身体が光に解け、炎麗夜の両腕と両脚を装甲化する。さらに、彼女が一歩踏み込むと、背後に巨大な猪の幻影が浮かび上がった。
「ヴァナディース、隊列を崩すな! 中央を守れ!」
炎麗夜が飛び出した。
マッハの矢を、黄金の腕で弾き飛ばす。
火花が散る。
「炎麗夜姐さん、左!」
風羅の声。
左側から犬型デーモンが突進してくる。風羅の身体が一瞬揺らぎ、彼女の姿が三つに分かれたように見えた。犬型デーモンが幻影に食いつく。風羅本人は身を滑らせ、デーモンの首元へ小さな札を貼り付けた。
デーモンが一瞬だけ動きを鈍らせる。
「今!」
颶鳴空がホーヴヴァルプニルを駆る。
馬型デーモンは地面を蹴ったと思った瞬間、空中へ跳んだ。翼が開く。いや、翼ではない。風の膜だった。ホーヴヴァルプニルは空を蹴り、犬型デーモンの背後へ回り込む。颶鳴空の槍が、命令核らしき首輪を砕いた。
犬型デーモンが崩れ落ちる。
一方、別の魔導装甲兵が荷車へ迫っていた。
網が投げられる。
その先には、額に布を巻いた少年がいた。
ケイは叫んだ。
「危ない!」
風鈴が駆ける。
だが、距離がある。
網が少年へかかる寸前、風鈴の身体が光った。
ムゲン〈庇う〉。
空間が歪んだように見えた。
少年へ向かっていた網が、軌道を変える。まるで見えない手に引っ張られたように、風鈴の方へ吸い寄せられた。
網が風鈴に絡みつく。
「風鈴!」
風羅の声が裂ける。
札が発光する。風鈴の身体から、淡い光の粒が弾けた。
彼女の名前を封じる札が起動しかけている。
風鈴は歯を食いしばる。
「大丈夫、まだ……!」
だが、魔導装甲兵がさらに近づく。
別の網が準備されている。
ケイは動いた。
考えるより先だった。
荷車の陰から飛び出し、風鈴の方へ走る。
「ケイ、出るな!」
颶鳴空の声が聞こえた。
でも、止まれなかった。
風鈴が自分を助けてくれた。
名前を呼んでくれた。
自分が誰か忘れないようにと言ってくれた。
その子が、今、名前を奪われかけている。
ケイは、刃物を抜こうとした。
抜けない。
鞘に引っかかる。
「何やってるの、私!」
自分で叫ぶ。
魔導装甲兵がケイへ銃口を向けた。
背後でマッハが気づく。
「おっと、本命が出てきた」
フェザーアローの翼から、一本の赤い矢が放たれる。
それはケイではなく、彼女の背後にいた額に布を巻いた少年を狙っていた。
ケイは振り返る。
少年は動けない。
矢が迫る。
間に合わない。
ケイの胸骨が、焼けるように熱くなった。
怖い。
でも。
自分で選べ。
炎麗夜の声が頭の中で響いた。
ケイは叫んだ。
「やめて!」
足元の影が、赤く燃えた。
炎ではない。
影そのものが、火を帯びた。
それはケイの足元から飛び出し、低く地面を駆けた。狼の形。まだ不完全で、輪郭は揺らいでいる。けれど、確かに赤い狼だった。
狼の影が、少年の前に飛び出す。
フェザーアローの矢が軌道を逸らされた。
矢は荷車の横を掠め、遠くの廃車に突き刺さって爆ぜた。
マッハの顔色が変わる。
「アインじゃない」
彼女は空中で目を細めた。
「これは……闇の子側の記録?」
ケイは膝をついた。
何をしたのかわからない。
けれど、少年は無事だった。
風鈴は網の中で、目を丸くしている。
「ケイちゃん……」
赤い狼の影は、ケイの足元へ戻るように消えた。
胸が痛む。
熱い。
冷たい。
怖い。
けれど、さっきまでのようにただ怯えるだけではなかった。
自分が誰かを守ろうとした。
それだけは、わかった。
炎麗夜が吼えた。
「ケイに触るな!」
黄金の装甲が膨れ上がる。
フレイが一瞬だけ大型化し、炎麗夜の背後で巨大な猪の姿を取った。彼女は地面を蹴り、魔導装甲兵の一団へ突っ込む。
衝撃で兵士たちが吹き飛ぶ。
颶鳴空が上空から網持ちを落とす。
風羅が風鈴の網を偽装解除し、札を引き剥がす。
ヴァナディースは反撃した。
だが、守るべき者が多すぎる。
子ども。老人。怪我人。半デーモンの者。荷車。食料。水。
戦える者は、戦えない者を背負っている。
その重さが、確実に彼らを追い詰めていた。
マッハはそれを見抜いていた。
「いいねえ、逃亡者の軍隊ごっこ。守るものが多いほど、矢はよく刺さる」
彼女が翼を広げる。
フェザーアローの羽根が、一斉に赤く光った。
その時。
紅い花弁が、空から降った。
誰も、最初はそれが何かわからなかった。
夕日の中に、紅い影が舞い降りる。
花魁のような衣装。高下駄。紅い唇。美しすぎる顔。けれど、その声は低く、男のもの。
「相も変わらず騒々しい女だな、マッハ」
アカツキ。
紅い月。
その姿を見た瞬間、ケイの身体が凍った。
ミライ。
葬儀の煙。
消えかけた名前。
全部が一気に蘇る。
炎麗夜の顔が怒りに染まった。
「またおまえか、紅い月!」
アカツキは扇のように袖を広げた。
「俺様を呼んだ覚えはないか、炎麗夜」
「誰が呼ぶか!」
炎麗夜が突進する。
しかし、アカツキは彼女とぶつかる前に横へ滑った。舞うような動きで魔導装甲兵の背後へ回り、刀を抜く。
一閃。
兵士の銃が切断される。
二閃。
記録拘束具の網がばらばらに裂ける。
三閃。
犬型デーモンの首輪が断たれ、命令核が砕けた。
アカツキはマッハの部隊を斬った。
だが、それはヴァナディースを助けるためではない。
彼の視線は、隊列中央にいる姫核持ちたちを探していた。
風鈴。
額に布を巻いた少年。
義肢の少女ナギ。
そして、ケイ。
アカツキは刀を下げたまま、静かに言った。
「バベルに喰われるより、俺様の接吻で眠る方がましだ」
その声に、風鈴が震えた。
炎麗夜が怒鳴る。
「ふざけるな! あんたに救われたい子なんか、ここには一人もいない!」
「救われたいかどうかは、死の前では些末な問題だ」
「それを決めるのは、あんたじゃない!」
炎麗夜とアカツキが向かい合う。
そこへマッハが空から笑った。
「いいねえ。紅い月と逃亡女神が潰し合ってくれるなら、アタイは楽でいい」
「黙っていろ、凶鳥」
「だからキツツキだっての!」
マッハの矢がアカツキへ向かう。
アカツキは振り向きもせずに斬り払った。
その隙に、彼は一歩進む。
狙いは風鈴だった。
風鈴は網から抜け出したばかりで、まだ立てない。
アカツキの刀ではなく、彼の唇が恐ろしいのだとケイは知っていた。
口づけで姫核を抜く。
名前ごと奪う。
ケイの身体が動いた。
彼女は風鈴の前に立った。
手には、ようやく鞘から抜けた短い刃物。握り方は不格好で、刃先は震えている。
アカツキが足を止めた。
「どけ」
ケイは震えながら言った。
「嫌です」
「その娘は姫核持ちだ。いずれ魔都に喰われる」
「だからって、あなたが奪っていい理由にはならない」
「奪うのではない。眠らせる」
「同じです」
ケイの声が強くなる。
「ミライは、眠ったんじゃない。死んだ。みんなが顔を忘れかけた。声を忘れかけた。村長さんが、何度も名前を呼んでた」
アカツキの表情が、わずかに動いた。
ケイは刃物を握り直す。
「救うって言うなら、ちゃんと相手の名前を聞いてからにして」
その瞬間、戦場の音が少しだけ遠のいた。
アカツキは動かなかった。
紅い唇が、微かに開く。
「名前を……」
彼の目の奥に、何かが揺れた。
紅華。
その名を、彼が口にする前に、ケイは直感した。
彼にも、呼び続けている名前がある。
失いたくない誰かがいる。
だからこそ、許せなかった。
その一瞬の停止を、颶鳴空は逃さなかった。
「撤退!」
彼女の声が響く。
ホーヴヴァルプニルが風を巻き起こす。風羅が隊列全体の輪郭を揺らし、荷車が二重三重に見える幻影を作る。風鈴はまだ立てないまま、近くの少年を抱え込む。
炎麗夜がフレイを大型化させ、地面を叩いた。
土煙が爆ぜる。
「全員、走れ! 荷を捨てても命は持っていけ!」
ヴァナディースが動く。
子どもたちが泣きながら荷車へ押し込まれ、老人が半デーモンの男に背負われる。ガンドが舌打ちしながらもナギの荷車を押す。風羅が幻影を維持し、颶鳴空が道を開く。
ケイは風鈴を支えようとした。
風鈴が笑う。
「ありがと。でも、ウチは大丈夫」
「でも」
「ケイちゃん、前見て。自分の足で走るんやろ」
その言葉に、ケイは頷いた。
炎麗夜がアカツキへ最後の一撃を放つ。
黄金の牙と紅い刀がぶつかる。
火花が散る。
「アカツキ!」
炎麗夜が叫ぶ。
「次にうちの子に手ぇ出したら、紅華の名前ごと叩き潰す!」
アカツキの目が冷えた。
「貴様がその名を呼ぶな」
「だったら、あんたも他人の名前を奪うな!」
炎麗夜は身を翻し、撤退する隊列の殿へ戻る。
マッハは追おうとしたが、アカツキが彼女の進路を塞いだ。
「どきな、紅い月!」
「邪魔だ、凶鳥」
「だからキツツキ!」
二人がぶつかる。
その隙に、ヴァナディースは崩れた街道の向こうへ走り抜けた。
*
ケイは走った。
息が切れる。
足が痛い。
布袋が肩に食い込む。
胸が熱い。
それでも走った。
守られるだけでいるな。
炎麗夜の言葉が、何度も頭の中で響く。
自分はまだ戦えない。刃物もまともに振れない。魔導も知らない。デーモンのことも、この世界のことも、何も知らない。
けれど、さっき風鈴の前に立った。
少年を守ろうとして、赤い狼の影を出した。
怖かった。
今も怖い。
でも、怖いまま動けた。
それだけで、昨日の自分とは少し違う気がした。
背後で爆音が響く。
振り返りたかったが、颶鳴空が叫んだ。
「振り返るな! 走れ!」
ケイは前を向いた。
名前を呼ぶ。
声には出せない。
でも、胸の中で。
螢。
ケイ。
ミライ。
風鈴。
風羅。
炎麗夜。
颶鳴空。
呼べる名前が増えている。
それがなぜか、少しだけ力になった。
*
街道に土煙だけが残った。
マッハは空中に浮いたまま、舌打ちした。
「逃げ足だけは一人前だね、ヴァナディース」
フェザーアローの翼が焦げている。アカツキに斬られた羽根が数本、地面に落ちていた。
アカツキは刀についた血を振る。
彼の周囲には、斬り伏せられた魔導装甲兵と凡庸デーモンが転がっている。殺してはいない。だが、しばらく動けないだろう。
「追わないのかい?」
マッハが問う。
アカツキは答えなかった。
彼の視線は、ケイが消えた道の先に向けられている。
マッハは目を細める。
「気になるのかい、あの子が」
「黙れ」
「アインの匂いがするんだっけ? でも、アタイには違って見えたよ。さっきの赤い影、あれは光の子側じゃない。もっと暗い。もっと深い。タルタロスの底みたいな――」
マッハの言葉が終わる前に、アカツキの刀が彼女の喉元へ突きつけられていた。
「それ以上言うな」
マッハは笑った。
「怖い顔」
「貴様の首を刎ねるくらいなら、今でもできる」
「やってみる?」
空気が張り詰める。
だが、アカツキは刀を引いた。
彼は袖を翻す。
紅い衣装の奥で、何かが微かに光った。女の影。紅華のデーモン。ケイを見た時と同じように、その影が揺れている。
アカツキは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「貴様は、なぜ俺様を止める」
紅い唇が歪む。
「紅華でもないくせに」
風が吹く。
紅い花弁のような火の粉が、荒れた街道に散った。
アカツキの姿は、その中に溶けるように消えた。
マッハはしばらくその場に残り、ケイたちが逃げた方角を見た。
「アインじゃない。闇の子側の記録でもない。じゃあ、何なんだい、あの子は」
フェザーアローが低く鳴く。
マッハは笑った。
「まあいいさ。追えばわかる」
空には、夕暮れの赤が滲んでいた。
紅い月が昇るには、まだ少し早かった。




